『ヘッテルギウス氏とストーカーさん』
硫黄の煙と共に、悪魔のヘッテルギウス氏が魔方陣の中に現れた。
白いスーツ姿に、伊達なシャツ、尖った尻尾と耳、僅かに見える牙の他は、洒落た紳士然とした姿だった。
「まさか……本当に?」
呆然とした顔で、ローブを着てフードをかぶった人間がヘッテルギウス氏を見つめる。まだ若いが、ひどくやつれた顔をした女だった。
召喚儀式が行われたているのは女の部屋のようだった。
壁にはと男性アイドルの写真が貼り詰められ、元の壁紙は隙間も見えない。ポスターやチラシ、雑誌や新聞の切り抜き写真から、隠し撮りをプリントアウトしたものも多い。
「お喚びでしょうか? わたくし、悪魔のヘッテルギウスと申します。対価と引き替えに、それに見合った如何なる願いも叶えましょう」
「それが本当の証拠は! あ、これに答える事が願いなんてごまかしはナシで!」
「ご安心を」
まくしたてるように言う女に、ヘッテルギウス氏は再びお辞儀をする。
「悪魔は契約を重んじます。誤認は契約の最も忌むものです。会話の言葉尻を捉えるような真似は、昨今は致しません」
ヘッテルギウス氏は、魔方陣の中に自分で椅子を召喚し、腰掛ける。
「わたくしが貴方を騙した時の保障につきましては、その魔道書に記載された、魔方陣内の悪魔への暴力的な術式で担保されていると考えますが、いかがでしょう」
「わ、わかった」
女はポケットからメモを出し、確認しながら願いを伝えた。
高級マンションの最上階で男は目覚める。
寝室でパジャマからトレーニングウェアに着替え、軽い水分補給の後、向かいの部屋に作ったジムで、身体を目覚めさせる。
軽く汗ばんだ身体をシャワーで流した後、ダイニングに向かう。
「おはよう、あなた」
朝食のテーブルに、妻は既に着いていた。
家政婦が用意した食事は、簡素に見えるが質の良い素材で丁寧に仕上げられている。
「おはよう。今朝は早いね」
「ええ、ちょっと早く目が覚めて。今日のお茶は、私が淹れたのよ」
「アレクサンドロス!」
地獄の四丁目のバーのカウンター席で、ヘッテルギウス氏は注文を出す。
バーテンダーのニスシチは、シェーカーに材料のブランデーとクレーム・ド・カカオそれに、バジリスクの乳のクリームを入れ、シェークする。
「ご機嫌ですね?」
「七年ばかりね」
ヘッテルギウス氏は、カウンターに置かれた石になっていくカクテルグラスを取り、一息に飲み干す。
「芸能人相手のストーカーの恋の成就でしたか。大天使カマエル組からクレーム入りませんか?」
「運命操作をしている訳じゃあない。接触機会を持たせるよう行動を誘導した後、肉欲を刺激するだけさ。既成事実を有効利用出来たのは、本人の努力だね」
「なるほど。でも、それじゃ、魂の半分が良いところでしょう」
「ふふっ。言葉も交わした事のない相手に、一方的に恋い焦がれていた人間が」
ヘッテルギウス氏は、つまみの炒り甲虫をかみ砕いた。
「悪魔に頼れば結ばれるって事を、知ったんだぜ?」
「――ごちそうさま、変わった香りのお茶だったね」
「あのね?」
「なんだい?」
「離婚して欲しいの。他に好きな人が出来たから」
「そんな、君と別れるなんて、とてもできやしないよ!」
「うん、そう言うとは思ってた」
「――回数を重ねたら流石に本人の魂だけじゃ足りなくなりませんか?」
「ああ、本人だけじゃ、足りなかったね。その意味では、掘り出し物だったな、あの人間は」
【完】