国境の南、街道の西
王宮を追い出された僕は、荷物をまとめて南の国境を目指すことにした。
歩くには少し骨の折れる距離だ。まだそこまで暑くはない季節とはいえ、しばらくすると背中に染み出た汗が僕のシャツを濡らし、印象的な染みを浮き出させた。
やがて、国境の門が遠くに見え始めた。近づくと、検問待ちの馬車が列を作っており、古い柱時計のように真面目そうな御者が、横を通り過ぎる僕を見た。
僕以外に、歩いてきた客はいないようだった。
徒歩旅客担当の門番が、僕の姿を見て顔をしかめた。
「目的地は?」
「エストバード」
僕は、適当に思いついた隣国の都市を答えた。実際、行くべき場所はまだ見つかっていないのだ。今の僕がすべきことは、まずこの国から一刻も早く遠ざかることだった。
「エストバード」
門番は、言葉の響きが適切か確かめるように、街の名前を繰り返した。
そして、手ぶりで僕の荷物の中身を見せるよう、指示した。
僕はおとなしく荷物を検台に置き、門番はその中身をひとつひとつ確認した。
「これは?」
門番が、荷物の奥底にあった小さな杖を引っ張り出した。
その杖は、ネズミが僕にくれたものだった。魔法学校に入学したての僕は、貧乏で杖一本も満足に買えなかった。学校では備品の杖を借りていたが、ある日ネズミが、突然その杖を僕に投げてよこしたのだ。
「やるよ」
「でも、これは高いだろ」
「いいよ、こんなのは家に腐るほどあるんだ」
そのやり取りの後、僕たちの間で杖の話は一度も出なかった。
もう小さくて使えないけれど、僕はその杖を家に置いたまま旅に出るわけにはいかなかった。
「その杖は、友達がくれたものです。お土産みたいなものです」
僕の言葉に、門番は鷹揚に頷いた。
「指定魔道具は国外持ち出し禁止だ。登録されていないか調べる」
そう言って、門番は後ろに向かって手招きをした。
現れたのは、二十三、四ほどの歳の女性だった。
美しいネイビーブルーのワンピースに、薄いカーディガンを羽織っている。
彼女は神話めいた笑みを浮かべて、杖を受け取り、再び奥へと消えた。
しばらくして戻ってきた彼女は、杖を門番に返して、にっこりと笑った。
「その杖には何も問題はないわ」
そう言うと、彼女は僕に向かって笑いかけた。
僕はその笑みに、激しい竜巻を見た。
僕は、直感的に理解した。
彼女は、僕に抱かれたがっている。
【吸引力】。
無事に国境の門を抜けた僕は、その国境の街で宿を取ることにした。
小さいが清潔で、レストランもある宿だ。
僕以外に宿泊客はいなかった。
たぶん、みんな馬車を使うから、こんな小さな町は通り過ぎてしまうのだろう。
実際、ここから馬車で一時間も行くと、もっと大きくて豪華な町があった。
その街に泊まるというのは、悪くない選択だった。
しかし、僕は、その小さな町に留まることを決めた。
日が落ちると、僕は部屋のある二階から降りて、レストランで夕食を取った。
ハムとチーズのサンドイッチと、鴨のロースト・赤ワインソースを頼み、ビアーを一杯飲んだ。
僕が鴨のローストの半分へ差し掛かった時に、宿の扉が開いた。
青いワンピースの彼女は、しなやかな猫のような動きで僕の元へ近づいてきた。
「もしよければ、ご飯を一緒に食べない? 友達との約束がなくなっちゃったの」
僕が頷くと、彼女はとびっきり素敵な笑みで、席についた。
「頼んだ料理はこれで全部だ。よければ追加で注文しよう。食べられるならだけど」
彼女はビーフ・ストロガノフとバゲットとオニオン・サラダとアクア・パッツァを頼み、僕は自分のお腹の具合とその後に与える影響を心配したが杞憂だった。
彼女の頼んだ料理は全て、彼女の細いお腹に吸い込まれていった。まるでサーカスか手品でも見ているみたいだった。
「君のお腹の中にはオークでもいるのかな」
僕の冗談に、彼女は声を立てて笑った。
「そうよ、私のお腹はオークの村なの。ちょうどゴブリンの村の襲撃に成功して祝杯を挙げているころね」
僕と彼女はワインを2、3杯飲み、あの門番が休日何をしているのかについて語り合い、そして二階へ上がった。
僕の腕の中で丸くなって眠る彼女の寝息を感じながら、僕は、ネズミのことを考えていた。
ネズミは5年前、僕が魔法学校を飛び級で卒業したのと同時に姿を消した。
授業の態度は絶望的だったし、成績だって褒められたものじゃないけど、ネズミは不思議と同級生に好かれていた。
でも、ネズミの行方を知る者はいなかった。何度かネズミの家を訪ねてみたけど、国境にあるみたいな門が視線を阻んでいたし、僕みたいな素性のわからない人間をフル・コースで出迎えるほど、ネズミの家は世間知らずではなかった。
彼女が身じろぎをした。
顔を見ると、口が半月のように半開きになっていた。
そして、徐々にその口から、白い靄のようなものが溢れ始めた。
驚く僕の前で、その靄は空中に漂い、やがて地図を形作り始めた。
その地図は、あるひとつの街を指示していた。
「エストバード」
僕が向かうべき街は、決まっているようだった。
実際、僕は自分がエストバードに行くことになるなんて、ただの一度も思ったことがなかったのだ。
やれやれ。