春の病
この季節が一番嫌いなの、と彼女が言ったとき、僕は、そうだろうね、と頷いてその理由は尋ねなかった。彼女の真っ赤に充血した目が、あの国民病の症状であることは、とっくの前から知っていたからだ。
木の本数よりもビルの数の方がよほど多そうなこの都会で生まれ育った彼女が幼少の頃からその病に悩まされてきたというのに、その原因となっている花粉の一大産地であろう山の中の小さな集落で生まれた僕は、今日までその恐ろしさを味わうことなく生きてきた。
それは幸運というべきなのだろうか。でも、そんなかけ離れた場所で生まれた二人がこの街で出会い、こうして並んで歩いていることのほうがよほど幸運だという気もした。
暖かくなったのはいいことだよね、と僕が言うと、彼女は忌々しそうに首を振る。暖かくなったからだめなのよ。こんな思いをするくらいなら、ずっと冬で構わない。
それは本当の冬の寒さを知らない人の言うことだな、と僕は思ったが、そんなことを言っても彼女の気分を害すだけだし、それに僕のその考えだって彼女に言わせれば、花粉症の苦しさを知らない人間の呑気な意見だということになるのかもしれない。
結局僕は、もうアレルギーの薬は飲み始めたの、などと彼女を慰めるように尋ね、彼女の語る薬の名前や毎朝の対処法を真剣に聞き、自分には今のところ関係のない知識を溜めこんだ。
私は秋が一番好き、と彼女は言った。どうして、と尋ねると、だって暑くも寒くもないじゃない、と答える。それは春でも同じじゃないか、と僕が言うと、彼女は無言で首を振る。そうでした。彼女にとって、春は花粉の季節。それ以外の何物でもなかった。
それに、と彼女は言った。夏、暑くて毎日辛かったのが、どんどん過ごしやすくなって身体が楽になるでしょ。それがいいの。
僕の田舎は冬が長いから秋はなんだか寂しい気持ちになる、と言うと、彼女は首をかしげる。私、冬は冬で好きだけどな。
春が一番好きなんだ、と僕は彼女の機嫌を損ねないように恐る恐る言った。いいよね、あなたは花粉症がないからね、と彼女が言う。うん、確かにそれもある。でもね。
僕は桜の花越しに、真っ青な空を見上げる。冬の晴れた朝って、ものすごく寒いじゃないか。
ああ、そうだね、と彼女は頷く。晴れた日ほど、朝は寒いよね。
春の朝は暖かいだろ、と言うと、彼女は少し眉をひそめ、何を当たり前のことを、という顔で、それでも一応、うん、と頷く。
また言葉が足りなかった。僕は反省する。
彼女は頷いてくれたけれど、僕の思い出している冬の朝の寒さは、彼女の想像しているものよりもきっと遥かに強烈だ。身を切るような寒さ、とはうまい表現だと思う。寒さはあるところを過ぎると、痛い、というほうが適切になる。その寒さが、ある日の朝、緩んでいることに気付く。数字の上では、それよりも前から少しずつ暖かくなっているのかもしれないけれど、僕の身体は突然気付くのだ。あ、冬が緩んだ、と。春が近付いているんだ、と。
それは、かけがえのない感覚だった。
彼女が一つ、くしゃみをした。マスクの中で鼻をすすり、不機嫌にうなる。
今日は花粉が多いよ。彼女は言った。僕は頷く。やっぱりお花見はやめて、家でおとなしくしていようか。
あのね。彼女が言う。私、冬は嫌いじゃないから。そう言って僕を見た。
だから冬が長くても平気だよ。
ありがとう。思いがけない言葉に、僕は思わず微笑んだ。
でも、僕は向こうには帰らないよ。
どうして、と彼女が尋ねる。
田舎で何もないし。僕は答えた。
それに僕の大事な人が花粉症だから。そう言おうか迷って、僕はまた空を見上げた。