其の陸
龍也が三本目のビールを飲み干す頃、百葉はこの不可思議な親子の概略を理解していた。数少ない親友との約束。愛した女との約束。
初めこの人は単にその約束からの責任感で渋々父親をしていると感じていた。だがそれは違ったのだ。市原拓海、王神美、そして龍也の三人は運命の糸で編まれた、そして男女の枠には収まりきらない何かで結ばれた関係だったのだ。そして羊も…
「千葉さんと羊ちゃんって、死戦を共に潜り抜けた『バディー』みたいな感じですね」
赤ら顔の龍也は不思議そうな顔で
「バディー? うーん、どうだか…」
「そうですよ。絶対そう。きっと普通の家庭の親子の絆よりも、ずっと固く結ばれているんですよ」
「そうかなあ。うん、そうだといいなあ」
龍也は口角を上げた。百葉は龍也の素の笑顔を初めて見た気がした。
普段は冷徹な感じだが、こうして笑うと一変してとても優しそうな人柄に思えてくる。だがその笑顔の奥には数え切れない苦悩が垣間見られる。この若さにして実に深みのある顔立ちなのだ。
龍也が壁時計を見上げ、
「こんな時間か。もう休もうか」
百葉が振り返り見上げると、もう十二時過ぎである。
「あの… 最後に一つ…」
「なに?」
「このマンション、すごく高級ですよね、その、千葉さんのお給料では…」
と言いかけて口を噤む。また余計な事を言ってしまった−思った事は聞かずにはいられないこの性分をなんとかしなければ、と後悔する。
「ああ、ここね。拓海がさ、生命保険をたっぷりとかけていたんだよ、それも引受人を自分の娘にしてね」
「ああ、なるほど−」
「それと、何故この谷中に、と思ってるだろ?」
「ええ、まあ」
「二人の墓が谷中霊園なんだ」
「……そっか。それなら羊ちゃんいつでも両親に会えますもんね」
「そう。明日の墓参り、君も一緒に行くかい?」
「是非!」
「よし。じゃあお休み」
「おやすみなさい」
龍也が寝室に入ると羊の寝息が一瞬止まったが、またすぐに健やかな寝息を立て始めた。蹴飛ばした掛け布団をそっと羊に掛け、龍也は隣の布団に滑り込む。
あの人の匂いがする。
忘れることの出来ない、あの人の匂いが枕から、敷布団から、そして掛け布団から龍也を包み込む。
目を閉じる。ちょっと違うか。この匂いには香辛料の匂いがしない。どちらかといえば娘の匂いに似ているか−娘を大人にした匂い。そこには官能のスパイスは入っておらず、優しさと瑞々しさを感じる。
数秒後には、あの時と同じくらい深く落ちていた。
あり得ないことなのだが、龍也は羊に起こされていた。
「……うさん …とうさん おとうさん!」
目を開くと、風呂上りの匂いのする羊が龍也に覆い被さっている。
「なんじだとおもっているのですかまったく。これだからおさけはいけません。もうとっくにあさごはんのじかんなのですよ。ももはさんがつくったあさごはんのじかんなのです、はやくおきてくださいうざ」
「羊、最後に何て言った?」
「はなにも」
「ウザって言ったろうが。昼飯の卵サンド、無し」
「そ、そんなせっしょうな… なにかのききまちがえかと…」
「謝るならあと五秒以内。ゴー、ヨン、サ…」
「さーせんっ」
「こら、そんな謝罪あるかっ って、まてー」
羊はキッチンへと逃げ戻る。龍也は大きく伸びをしながら布団から這い出て部屋着に着替える。少し頭が痛む、久しぶりに飲んだビールがまだ残っているのだろう。
それにしても、娘に起こされるなんて初めてだ。いつも朝七時には目覚ましの必要もなく目が覚めるし、夜中に羊がトイレに行くときにはいつも付き添っている、もっと言えば、夜中の羊の寝返りや寝言もそれとなく感じている龍也が、羊に起こされるまで寝ていたとは。
これでは諜報員失格だな、と苦笑いしながらダイニングに行く。
「おはようございます、さっき羊ちゃんとお風呂いただきました」
「おはよう。ありがと。そんなにアイツ臭かった?」
「ひ、ひどい… それがむすめにたいしていうことばでしょうか?」
「お尻ちゃんと洗ってもらったか? オマエ時々お尻にウンチついてるからなあ」
「な、なんというぼうげん… ようにおこしてもらったくせに… おんをあだでかえされました、ももはさんこのおんしらずはあさごはんぬきがだとうかと」
「ちょ、羊ちゃん、お父さんになんて事を… さ、食べてください、お口に合うかなあ?」
食卓にはご飯、卵焼き、納豆、ほうれん草炒めが湯気を立てていた。
「ももはさんはおりょうりがじょうずですねとてもおいしいです」
「ホント? ありがと」
「ただ、なっとうにはたまごのきみをまぜたほうがよりびみかと」
「えーー 入れない入れない! 納豆はこの臭みが美味しいんだよ、卵入れたらそれが消えちゃうよ−」
「んぐ… そ、そういうものでしょうか…」
「そーだよ。でも無理しないで。卵の黄身入れようか?」
「甘やかさないでいいぞ。もうすぐ小学生だもんな−」
「そ、そうなのです、ようはもうすぐしょうがくせい… きゅうしょくもはじまります、ぱくっーーー んーー いがっ くさっ このにゃっとうはくしゃってます…」
「食べながら話さないっ」
「アハハ、大豆を腐らせたのが納豆だからね− でも発酵食品は体にいいんだよ。それにこの臭みが病みつきになるかも、だよー」
「んぐんぐ… ごくり。しかたありませんね、これからまいあさしょうぶです」
龍也はそんな二人のやりとりを眺めつつ、
「百葉ちゃん、本当にこれから食事を任せてしまっていいのかい?」
百葉は卵焼きを飲み込みながら、
「勿論です、当然です。朝も、昼も夜も。大学始まったら昼は難しいですが、その時はお弁当を作って置いておきますよ」
「お、お、おべんとう… まじですか?」
百葉は微笑みながら、
「うん、マジマジ。キャラ弁作ってあげるねー」
羊は椅子の上に立ち上がり、口に含んだ米を撒き散らしながら、
「きゃ、きゃらべんですと! このそこそこりょうりじょうずなおとうさんでもなしえなかった、あのきゃらべんをももはさんはつくってくださる、と! ああ、おとうさんおとうさん。わたしたちはなんといいひとをひろったのでしょうか! これはあとでぱぱとままにおれいをいわねばなりませんね」
「食事中は立たない! また口にモノ入れたまま喋ってる!」
羊はそんな注意を無視して喜びの余り椅子から飛び降りてリビングを踊りながら走り回った。
龍也はそんな羊を愛おしげに見ている百葉の横顔を眺める。朝の光を透かしてみる彼女の笑顔はシェンメイの笑顔よりももっと甘く優しい感じがした。
「そっか。今年が三回忌だったんですね」
「ああ。なんだかあっという間だったよ、今日まで」
龍也、百葉、そして羊の三人は朝食を済ませた後簡単に掃除洗濯をこなし、お昼前に拓海とシェンメイの墓がある谷中霊園に向かった。マンションからはほんの目と鼻の先であるが、生花をスーパーマーケットで買うために少し遠回りをしている。
空は生憎の曇り空でかなり肌寒い。咲き始めているソメイヨシノが寒そうに三人を見下ろしている。
「ここが−谷中霊園が市原さんの代々のお墓があるのですか?」
「いや。ここは俺があちこちに頼み込んで立てたんだ。本当はここは都立霊園だから毎年抽選があるんだよ」
「それをけんりょくをかさにごういんにたてたのだからおとうさんもかなりのあくとうなのですよももはさん。ですのでももはさんもじゅうぶんにきをつけてくださいね」
「羊ちゃん、何てことを… それがもし事実であっても千葉さんには情状酌量の余地があると思うよ私は」
「あももはさんさりげなくおとうさんをでぃすりましたね。ウケるー」
「裏の力で抽選を経なかったのは事実。でもそれは亡くなった親友夫婦と羊ちゃんの為に千葉さんがなし得る唯一の手段であったなら、執行猶予は付けてあげれるかも」
「おや。きょうはやけにおとうさんのかたをもつじゃないですかももはさん。さてはーーー」
二人の手を離し、駆け出す。急に立ち止まりこちらにクルリと向いて、
「さーてーはー ももはさんー おとうさんのことーーー」
百葉はサッと顔を赤らめて、
「ちょ、ちょっと羊ちゃん、なによっ」
羊はニヤリと百葉に笑いながら、
「おとうさんのことーーー」
「は、はあ? なによ、なんなのよっ」
「ぱぱかつでげっとぉしたらっきいぱぱとおもっていますねえーーー」
百葉と龍也は五秒ほどかけて羊の言葉を咀嚼し、その意味を認識すると同時に、
「い、いたいっ な、なんでふたりどうじにおしりをたたくのですか! これはめいはくなD Vではないですかっ」
「わ、私パパ活なんてしていないからっ」
「百葉ちゃんに失礼だろうがっ」
「いえ失礼なんてとんでもない。私如きを千葉さんが相手する筈ありませんから!」
「いや…別にそんな事は…」
「え…」
「いや…」
沈黙。
下を向いてその場に立ち尽くす二人を羊はオロオロと交互に見ながら
「ご、ごめんなさい… ようがなまいきいいました…」
龍也と百葉の硬直が解ける。珍しくシュンとなった羊は、
「だから、」
羊が二人に駆け寄って二人の足にしがみつきながら、
「けんかしないで!」
龍也と百葉は互いにしばらく見合った後、声を上げて笑い出した。
拓海、シェンメイ 聞いてくれよ
羊がさ、俺を弄るようになったんだよ
言うこともあんま聞かなくなったし
なんかガキっぽくなっちゃったよ
そう この娘が来てから
拓海、ビックリだろ
シェンメイにそっくりだろ
シェンメイ、笑っちゃうだろ
まさか生き別れした妹じゃないよな
この娘が来てから
羊は変わったよ
今までみたいな背伸びをせずに
子供らしい子供になったみたいだ
今まで見せたことのない笑顔
初めて見るような仕草
きっと羊にとっていい方に
変わったんだよな
これで、いいんだよな
間違ってないよな
え アタシの方が全然キレイ?
拗ねるなよシェンメイ
居てもらっていいよな
この娘に寄り添ってもらっていいよな
勿論俺のためじゃなくってさ
羊のためにさ
そんな訳でさ
よろしく頼むわ
この娘のことも
この先はどうなるかわかんねえけど
暫く見守ってください お願いします
初めまして 竹岡百葉です
この春から大学生です 市原さんの後輩です
昨日写真を見せてもらってビックリしました
私、神美さんとそっくりなんです
あ、勿論神美さんの方が遥かに美しいですけど
不意に線香の煙が百葉に纏わりついてくる
一昨日私が下宿するはずだった家が火事で燃えちゃったんです
偶然千葉さんと羊ちゃんに助けて貰いました
そして、
これから暫くお世話になることになりました
私ができる事はたかが知れてますけど
それでも私を助けてくれた二人に
私のできる事をしていこうと思います
なので
どうぞよろしくお願いします
これから始まる三人の生活を
温かく見守ってください
どうかよろしくお願いします
スーパーで買った生花のものとは思えない何とも言えぬ芳しい匂いが百葉の鼻腔をくすぐった。
「羊。お前に話があるんだ。」
百葉が墓前から立ち上がった後、龍也は羊の頭を撫でながら言った。
「お前の、ママはな、」
羊が不思議そうに首を傾げ、墓石を指差しながら
「いちはらしんび きょうねんさんじゅうさんさい」
龍也は頷きながら、
「うん。実はお前のママ、日本人じゃなかったんだよ」
「はい?」
「日本人じゃなくて、実は…」
「ちゅうごくのひと、なのです」
龍也は口を開けたまま固まる。
「オマエ… どうして…」
「ままがよくうたってくれたうたをほいくえんでうたったらだれもしりませんでした。せんせいもそれはにほんのうたじゃないよといっていました。そしたらちゅうごくからきたりんりんちゃんがそれはちゅうごくごのうただよとおしえてくれたのです。またままはようのことを『やん』とよびました。それにおとうさんのことをぱぱはたつとよびままは『ろん』とよんでいました。やんもろんもにほんごのよみではありません。りんりんちゃんがおしえてくれました、それはちゅうごくごのよみかただよって。となるとみちびきだされるこたえはただひとつ−きょうねんさんじゅうさんさいのままはちゅうごくじんだったのです!」
胸を張って羊はドヤ顔で言ったものだった。
龍也は軽く頭を振りながら、
「そう。その通り。お前のママは中国の北京で育って広州でお前のパパと知り合ったんだ」
「むむむ… ぺきんはちゅうごくのしゅとですからしっていますが… こうしゅうはしりません。どこにあるのでしょうか」
「香港のちょっと上の方だ。香港は知ってるだろ?」
羊は即座にスマホを開き、
「なるほどなるほど。どれどれ〜ふむふむ〜ほうほう。むむむむ…こうしゅうはべつめいようじょう… おとうさん、まさかようのなまえって…」
「そう。広州の愛称、『羊城』の『羊』からとったんだってさ」
羊はスマホを凝視したまま
「ようじょうの、よう…」
と呟いた。
ぱぱ まま
ようははじめてしったよ
ようのなまえがなんなのかを
ぱぱとままがであったまちのなまえなんだね
ごめんね ぱぱ まま
しょうじきふたりのかおは
しゃしんでしかおもいだせないよ
すまほのどうがからながれるこえが
ふたりのこえなんだよね
でもね でもね
ようはちゃんとおぼえているよ
おふとんにはいってめをつむると
ままのにおいと ぱぱのにおい
ままのぬくもりと ぱぱのあせくささ
おもいだしてないちゃうと
ろんまでなきそうになっちゃうから
なるべくおもいださないようにしていたの
だから
いまひさしぶりにおもいだしたよ
ままとぱぱのあたたかさ
ようはしってるんだ
ときどきろんはしゃしんをみながら
すんすんないていることを
だからようはいつもげんきいっぱいで
ろんをなぐさめなくちゃいけないんだよね
いっぱいおしゃべりをして
ろんをげんきにしなきゃいけないよね
でもね
きょうはいいよね
ろんにあまえても
だってままにそっくりの
ももはさんがいるのだから
しっかりもののおねいさんで
いっしょにいるとすっごくうれしいんだ
だからあしたからはしっかりしなきゃ
もうすぐようは
しょうがくせいなんだから
泣きじゃくる羊をきつく抱きしめる龍也の目から一筋の光の水が頬を伝っている−百葉は涙を拭きながら二人をそっと眺めていた。
空を見上げると、雲の隙間から嬉しそうに太陽が顔を出していた。
「百葉ちゃん、頼みがあるんだけれど」
卵サンドを頬張る百葉に照れ臭そうに龍也は問いかける。
「はい、なんでしょう」
「コイツの−入学式、俺と一緒に出てくれないか?」
百葉の隣でスマホに没頭している羊が耳をピクリと動かす。
「あ、全然いいですよ。むしろ参列したいです。ただ−」
龍也が急に不安げな顔をする。この人ってこんなに表情が豊かだったんだ−百葉はちょっと驚きながら、
「その−式に参列出来る服を持っていません…」
スマホを弄りながら羊が、
「かいにいきましょう。あおやまに」
百葉はギョッとして
「いやいや、そんなお洒落な所では高くて買えないよ−」
地図アプリを捌きながら羊は
「ももはさんはふたつかんちがいをしています。『あおやま』はちめいではなくおみせです」
「ああ、そっちの…」
「それとふくをかうのはももはさんではなくおとうさんなのです」
「いやいや、それは申し訳ないって」
「俺が頼んだんだから、勿論俺が買うよ。羊の言う通り、『あおやま』でいいかな…」
百葉は急にオロオロして
「え、ほ、ホントに? え? ええ?」
「なにきょどってんですかももはさん?」
百葉は少し顔を赤くして俯きながら
「私… お洋服を新品で買ったこと… 無いんです」
龍也は軽く頷く。だが羊はガバッとスマホから顔を上げて、
「はあ? なんですって?」
「うん、だから私… 施設で育ったから… そんな贅沢したことないよ…」
羊はうぐっと声を詰まらせ、
「そ、そうゆうものなのですか?」
「う、うん。まあだいたいそんな感じ、かな」
羊は龍也にキリッと向き直り、
「おとうさん。はじめてのおとこになるのです!」
「「ハア?」」
龍也と百葉が声をハモらせる。
「ももはさんのさいしょのおとこになるのです。さいしょにようふくをかってあげたえろひひじじいになるのです!」
龍也が羊の両ほっぺを抓りながら使うのは望まれない言葉を注意していると、
「でも… 何万円もしますよ… ホント申し訳ないから、」
「君、自分の入学式はなにを着て行くの?」
「え… まあ、普通に普段着を…」
「ありえません。ちゃんとしたすーつをちゃくようしなければいけません。てんかのとうだいなんですよ。ちなみにとうだいのにゅうがくしきはいつですか?」
「え、えっと、十二日、かな」
「ようのたいとうくりつやなかだいしょうがっこうのにゅうがくしきはようかなのです」
「そっか、あと十日後なんだ」
「ですからきょうじゅうにあおやまにいってちゅうもんしましょう。ね、おとうさん」
「そうだな。それで、いいかい?」
「良いも悪いも… 本当に甘えてしまって… よろしいんですか?」
龍也と羊はそっくりの笑顔で頷く。本当にお似合いの父娘だ。
百葉は少し顔を赤くしたまま、申し訳なさそうに微笑んだ。
「百葉ちゃん。君の眼鏡のことなんだけど」
『あおやま』への道すがら、龍也は言いにくそうに切り出した。
「度が、合ってないんじゃないか?」
百葉はキョトンとして、
「え… どうしてですか?」
「じゃあさ、あの赤い看板、なんて書いてある?」
百葉は目を細めて看板を眺め、
「焼肉… あれ… 何だろう?」
「ももはさんあれがよめないとは… ほんとうにとうだいせいになるのですか…」
「ち、違うよ! 漢字が読めないのじゃなくって… ああ、『牛王』ですね。」
「多分、その眼鏡は度があってないと思う。一度ちゃんと検査した方がいいな。よし、スーツ買ったら眼鏡屋も寄っていこう」
「ま、またそんな… 大丈夫ですよこれで… 不自由していませんから」
「いやいや、多分それ矯正視力で0.5くらいしか出てないぞ。それじゃ黒板の字読めないだろう?」
事実であった。そもそもこの眼鏡も中学生の頃に先輩から譲り受けたものなのだ。従って高校生活でも予備校でも常に教室の一番前に席を確保していたのだった。
その旨を話すと、
「有り得ねえ… 人の眼鏡をそのまま使ってた… 信じらんねえ…」
龍也が道のど真ん中で笑い出す。
「でも。どうして度が合ってないってわかったんですか?」
「君、時々目を細めるんだよ。眼鏡をしているのに。それに…」
君、他人の顔がよく見えてないだろう? もしちゃんと見えていたら自分と羊がどれだけ似ているかもっと驚くはずだ。
度の合った眼鏡をかけたとき、君はどんな顔をするんだい?
龍也はそれを見てみたかった。
「おおおおお… これぞまごにもいしょう、ですね…」
羊の感嘆の言葉に龍也も頷き、言葉を失う。そして、胸が大きく鼓動する。
百葉が試着で合わせたスーツはリクルートにも使える紺の今風のスーツだ。もう少しすれば町中がこんな姿の若者で溢れかえる。言ってみれば誰が着ても同じように見える−筈なのだ。が…
「お似合いですよ。すっごくスタイルいいから。あと顔も小さいし。そうだ、ちょっと髪の毛を後ろで纏めてみましょう、ほらこんな風に…… わっ…」
女性の店員が百葉の後ろ髪を束ねただけだった。だが。鏡に写ったその姿…
「ちょ、ちょっとその眼鏡外して… はい、とっちゃいましょう… キャっ」
「………え…」
「……………」
戸惑い恥らう顔の百葉に、店員、羊、そして龍也は呆然とするのであった−
「…芸能関係、の方ですよね?」
「ち、違います…」
「その髪型、眼鏡、わざとですよね?」
「は、はあ?」
「妹さんも天使みたいだし… ホントそっくりの美人姉妹ですよ、ええ」
店員は心底そう思っているらしい。他の店員達も遠くからそっとこちらを眺めている。よく見ると周りの客も百葉と羊を見て目を大きくしている。そして龍也を見て、この三人の関係に頭上にはてなマークを浮かべているのだった。
丈の直しの仕上がりは三日後との事で、会計を済ませ店を出る。
「ももはさん。やればできるこじゃないですか。なんといううつくしさでしょう。ようはすこーししっとしてしまいましたよ」
「やれば出来る子って… そこも上から目線なの?」
「みすぼらしいふだんぎのももはさんしかしりませんでしたから。なんならへやぎのほうがよっぽどすてきですよ。おとうさん、これはもはや…」
「普段着も揃えちゃうか、な」
「いやいやいやーーーーーー」
「めがねやさんのあとはあめよこですかねおとうさん」
「そうだな。普通の学生らしい格好を見繕うか」
「いいですいいです、これで…」
「「ないないない」」
「え…」
「ハッキリ言うぞ。そのシャツ、お婆さんが着るやつだぜ」
「へ…」
「そのジーンズ、サイズ合ってないし、形も古過ぎる。昭和かよ」
「……」
「それに。その靴。おばさんが愛用するやつだろ。色も変。以上」
百葉はその場でしゃがみ込みそうになり、羊にもたれかかって、
「い、いいじゃないですか… 服なんて… 着られれば…」
「「だめ!」」
「ヒッ」
「まあとにかく。まずは眼鏡からだな、羊」
「そうです。まずそのへんなめがねをかえましょう」
百葉は嬉々として歩き出す二人の後をヨロヨロとついて行くしかなかった。
え…なにこれ…
矯正レンズをかけた百葉は絶句する。ボヤけた視界が普通だと思っていた百葉の脳に、鮮烈な色や物の形が飛び込んでくる。そして−
私の顔って、こんなんだったんだ… あれ、これって…
羊を見下ろす。鏡に写っている自分を幼くした顔が目に入ってくる。ゴクリと喉を鳴らす、
ウソでしょ、この子と私…
これまでもぼんやりとした羊の顔立ちがなんとなく自分に似ているのかな、とは感じていたのだが。度の合ったレンズ越しに見た羊の顔は、まさしく自分の顔にそっくりであった。そういえば自分の顔もこれだけハッキリと見たのはいつ以来だろう…
そして羊の隣の男性の顔を見る。
心臓が跳ね上がる。
なんて素敵な人…
何となく色黒で精悍な顔つき、としか見えていなかったその男の顔は、意志の強そうな眉毛、力強い光の灯った瞳、優しそうな唇、所謂イケメンではないが非常に整った顔立ちの男性であった。
「じゃあ、フレームがさっき選んだやつで。どれくらいで仕上がりますか?」
「はい、四十五分後にはお渡しできます」
「じゃあ、その間にアメ横行くか」
「では後程、お待ちしております」
「ようもめがねほしいですぅ はやりのめがねじょしになるのですぅ」
「アホか。絶対買ってやらぬ」
「でもめがわるくなるとももはさんみたいにめつきがわるくなるのでしょうか…」
「オマエ、何てことを… なあ百葉ちゃん…?」
「ももはさん、ようのどくぜつできがどうてんしましたか、かおがまっかです…」
「大丈夫か? 熱でもあるのか?」
龍也の手が百葉の額にそっと置かれる。百葉はスッと気が遠くなり……
よろける百葉を龍也は慌てて腕を伸ばし支える。百葉の顔が龍也の胸におさまる−
「おとうさんもかおがあかいですよ、まさか… ももはさんのねつがうつったのでしょうか!」
二人の心拍数は百メートル走直後のそれに近く跳ね上がっていた。
これが世の中の本当の景色。いつ以来だろう、こんなにハッキリと世界を眺めるのは。街の匂いまで見える気がする。夕暮れの上野界隈を歩きながら、百葉は自分の脳にこの新しい視力をじっくりと馴染ませている。
そして時折、隣の男性を見る。自分の心音が街中に響き渡っている気がする。慌てて街の景色に目を移す。そんなことを繰り返している。
擦れ違う人々の表情が良く見える。皆自分たちを仲の良い親子と認識しているようだ。あれ、私は−千葉さんの娘? それとも…
「ももはさんいつまでたってもかおがあかいですねえ、これからクリニックにいったほうが良いかもしれませんね」
「ホントに。大丈夫か?」
百葉は慌ててカクカク首を動かす。
「それにさっきからだまりっぱなしで。そんなにおとうさんがももはさんのふぁっしょんせんすをディスったのがゆるせないんでしょうかねえ」
龍也が立ち止まり、
「え… そうなの? ごめん、気を悪くさせるつもりはなかったんだよ」
「まったくとしごろのじょせいに『きみのふくそうはおばあさんのといっしょだ』はないですよね。ホントしんじられません」
急にオロオロし始める龍也に百葉はプッと吹き出す。慌て方が、可愛い… そう思うとまた百葉は胸がキュンとなってしまう。
「なんだかウマのあわないふたりですねえ。もうすこしたがいにあゆみよってもらえませんかねえ、これからずっといっしょにくらすのですから」
ずっと一緒に?
この言葉で二人は硬直してしまう。
羊は首を振りながら、
「はやくかえらないとしょうてんがはじまってしまいます。ようはさきにいきますよっ」
と言って駆け出す。
その後ろ姿を追いつつ、二人は互いに視線を交わす。どちらともなく笑顔となり、歩みを少し早める。
有りあわせの材料で百葉が夕食を作っている間に龍也は羊を風呂に入れる。風呂から上がると食卓には質素ながら美味しそうな皿が何皿も乗っている。
「すごいね百葉ちゃん。俺、今まで一品料理だったんだ」
「そんなことない… です。お口に合うか…」
「これはいい嫁さんになるよ、ホントに」
「え…」
「え…?」
こんなやり取りを見て、羊は
「やはりディスったのがいけませんでした…」
と頭を振る。
食事を終え、片付けを済ませると羊が大きな欠伸をする。時計は八時過ぎを指している。
「そういえばももはさんのこげたにもつをひらかねばならないのでは?」
「そうだ。すっかり忘れていた、百葉ちゃんどうする?」
「そうですね、開けましょう」
玄関に積まれた焦げたダンボールが二段。この中には洋服類と、ノート、アルバム、書類などが入っている。
上の箱には洋服が入っていた。どれも高熱による変色や溶解などはなく、洗えば着ることに問題はないだろう。が、
「どれもおばさんのきるふくみたいですねえ。とてもとうだいのがくせいさんがきるのにふさわしいとはおもえません」
さっき父親を嗜めていたくせに! 百葉は吹き出しながら、
「そ、そうかな… じゃ、教会に寄付しようかな」
「「すてようよ!」」
「そんな… まだ着れるのに勿体ない。私、学校始まるまで暇なので、どこかに寄付してきますよ。捨てるなんて、勿体ない…」
龍也と羊は目を合わせて首を左右に軽く振る。
ダンボールを畳み、二つ目を開ける。同じく中身に損傷などは無さそうだ。流石、元火消しの市川さん、と龍也は軽く尊敬の念を抱く。
アルバムは四冊ある。そのうちの二冊は亡くなった両親の作ったものだと言う。アルバムを食卓に持ち込み、百葉が最初の一冊目を開く。羊が百葉の膝の上で目をキラキラさせながら覗き込む。そこには…
「あれー、なんでようがうつっているのですかー おとうさん、このこはようですよね…」
満面の笑みを浮かべている両親−父親は眼鏡をかけた優しそうな顔立ちでクシャクシャの笑顔だ。母親は色白で長い黒髪の目の大きな女性。二人の良いところを娘が一身に受けたのが良くわかる。
その真ん中で、羊がいる… これ程までに似ているとは…
まさか実子ではないのでは、龍也は一瞬思ったが、先ほどの段ボールに母子手帳が入っていたので百葉は間違いなくこの夫婦の子供である。
羊が自分のアルバムを持ち出してきて百葉の膝の上で開く。
「うわ… おんなじですーおんなじ。きゃは!」
アルバムには竹岡家三人の思い出が濃縮されている−ディズニーランド、ジブリの森、多摩川河川敷、奥多摩湖、読売ランド、ドイツ村。北海道の雪まつり。沖縄の美ら海水族館。大阪U S J。グアムマンダリンホテルのプール。ワイキキビーチ。
一部上場企業の技術者だった父親は惜しみもなく家族に金を注ぎ込んだようだ。龍也が百葉を見る−今風のちょっとおしゃれ眼鏡が良く似合う。百葉は懐かしさに頬を緩めながら、羊に写真の説明をしている。
「なんか… いいですね… ようはこんなにいろいろなところにつれていってもらえませんでしたから… いいなあおきなわ ほっかいどう いってみたいなおおさか…」
「そうだよね、千葉さん仕事忙しいし大変だから、ね…」
「ようはひこうきにのってみたいです。あとしんかんせんも!」
百葉が龍也を見上げる。
「あの… 夏休みとか… 三人で何処か行きませんか?」
正直、今まで龍也は羊と二人で旅行を考えられる程、心に余裕がなかった。忙しい日常に居れば二人を思い出すこともない−もしのんびりと旅行に行ってしまえばどうしても思い出してしまう−怖かったのだ。二人を思い出す事が。怖かったのだ、羊が両親を思い出し悲しみに暮れる姿を見るのが。
今ならどうだろう。あれから二年経ち、羊との生活にも慣れてきた。父親としての自覚も相応についてきたと思える。羊ももうすぐ小学生だ。変な部分では自分よりも大人だ。深夜に布団の中で嗚咽する事もこの一年は無い。
そして、百葉がいる−シェンメイに生写しの百葉がいる−
彼女は両親が亡くなり施設に入った後、家族旅行は無くなった。施設の皆との旅行、修学旅行はあっただろうが、友人と旅行した事も無いのではないか。
運命の悪戯でしばらく生活を共にすることになったこの娘は、本当に三人での旅行を望んでいるのだろうか。龍也は透察力を駆使するがイマイチ答えが出てこない。
「本当に、いいの、三人で…?」
羊の目が今まで見たことのないほど輝く。百葉の顔がパッと明るくなる。
「行きましょう! 三人で!」
「きゃーーーやったあーやったあーーー」
「ただし。オマエの言葉遣いがちゃんとしたら、な」
「は、なにをおっしゃいますおとうさま。わたしのなにがまちがっているのかさっぱり…」
「よかったね羊ちゃん。夏休みまでにどこに行こうか考えようねー」
「ええ、ええ、じゅくこうせずにはいられません。ひこうき、しんかんせん、どっちがいいかなあー、ふぇりーというてもありますね、いやーまよいますねえー」
思い返せば龍也にも家族旅行の経験はない。旅行−考えてみれば、学生時代の修学旅行まで遡ることになる−
明日、家族持ちの誰かにそれとなく聞いてみるか。龍也はそう決めた。
その後、互いのアルバムを見比べながら百葉と羊がキャッキャしているのを眺めていた龍也は不意に、
「そういえばさ、君の名前の由来、」
「はい?」
「そのアルバムにはなにも書いてなかったかな?」
「ああ、そう言えばありませんでしたね…」
「母子手帳。さっきあったよな?」
「あ、はい、ありました。」
「ちょっと見てごらんよ」
「前、言ってましたね。持ってきますね」
百葉が玄関の焦げたダンボールから母子手帳を持ってくる。
「へー、私、生まれた時3400gだったんだー」
そう言えば百葉は自分の母子手帳をキチンと見た事がなかった。まあこの年頃の子が内容を熟知している筈もないか。龍也自身、自分の母子手帳の存在を知らない。
頁をめくっているうちに、百葉の手が止まる。
百葉の目は見開かれ、口が半分開いたままとなる。
百の葉が 降りかかる災難から あなたを守ってくれますように
百の葉が 優しく強い心を 育んでくれますように
百の葉が 困っている友人を 優しく覆ってあげられますように
百の葉が 世の中の為になる 肥やしになりますように
そんな想いであなたの名前を決めました
お父さん、お母さんの下に
生まれてきてくれて
ありがとう
度が合っている筈の眼鏡なのに、文字が滲んで見える。知らなかったよ、お父さんお母さん。自分でも大好きなこの名前にそんな二人の想いが込められていたなんて。
うん、大丈夫。私ちゃんとやって来たから。そしてこれからもちゃんとやって行くから。これまではさ、施設のみんなや学校の友達がいっぱい私を助けて支えてくれた。だからこれからはこの羊ちゃんと千葉さんを支えていくね。
不思議なご縁で知り合い、お世話になることになったこの二人に、私が出来る精一杯の事を注ごうと思うんだ。
それとね… お母さん、
千葉さんって、素敵だと思わない? 男らしく逞しくて、ぶっきら棒だけど優しくて、人の情けを大事にしてそして、ちょっとカッコいいよねー
どうかなお父さん、
私、男の人を好きになった事ないからさ、よく分からないんだけど。お父さんから見てさ、千葉さんってどうかな。いつか答えを聞かせてね
久しぶりに二人のことを思い出しちゃったよ。
もうすぐ大学生だよ。それも、東京大学だよ。入学式、来て欲しかったな−私の晴れ姿、見て欲し… かった… よ…
母子手帳を胸に抱いて泣きじゃくる百葉を羊がきつく抱きしめる。
温かいよ。すっごく温かい。大丈夫、お父さんお母さん。これからも百葉は一人じゃないから。支えてくれる人がすぐ近くにいるから。
だから安心して。
だけど見守って。
私と、この子と、
この人を
* * * * * *
「家族… 旅行… だと… あの鬼龍が…」
そう言えば龍也の周りでまともな家庭を築いているのは直属上司の香取三佐くらいしかいなかった。習志野や江田島の仲間は忙しすぎて家族旅行どころではないだろう。基礎課程の同期達とはこの数年連絡を絶っている。陸幕の成田三佐は独身だし、あの事件以来交友のある公安管理官の茂原は去年離婚している。
「羊ちゃんと、こないだから一緒に住んでいる女子大生と、なのか?」
「はあ。そうですが」
「オマエなに考えているんだよ、花の女子大生、しかも東大生だろ、そんな娘連れて家族旅行だと? その娘が可哀想すぎて何も言えねえよ」
「です、かね…」
「考えてみろよ。別に好きでもない男とその娘と、旅行なんて行きたいと思うか普通。なあ船橋、絶対ないよな?」
「と言うか… 私知りませんでしたよお、千葉さんが女子大生と同棲するなんて話― こないだ調べさせたあの子とまさか同棲するなんてえー」
「お、おい船橋、よせよ、やめろよ、変な事するなよ、こないだみたいに戸籍情報を削除とかやめろよ… 流石にこれ以上は庇いきれんぞオマエの事…」
「だってえ… 千葉さんが同棲する… ダメ…絶対…」
「だ、だから…ってオマエ何東大のホストコンピューターにアクセスしてんだ… ちょ、ちょっと待って、それはマズいって、おいーーー」
「こ、こんな女、この世から消してやるーーーー」
「ホントに消すからなコイツ。わかったわかった、今日のランチ、『阿づ満や』ならどうだ?」
「……男に二言はありませぬな?」
「ねえよ。だからーその画面、閉じようか」
「あ、じゃ俺も一緒な! オマエに家族旅行とは何かを徹底的に教えてやる。どうだ?」
「あ、頼みます。助かります。おい船橋。阿づ満や、ヒトフタマルマル、三名で予約実行。」
「りょうーかい、ヒトフタマルマルウー」
「確かにこうして見ると、生写しじゃねえか。これホントに血が繋がってんじゃねえか?」
前に写真を見せた時はそれ程似てないと呟いた香取三佐は、龍也から見せられた昨日撮ったスマホの画像を見て、唖然としている。
「繋がってませんよおー 産婦人科の記録にもバッチリのってましたからあー」
船橋は旨そうにウナギを口に頬張りながら、
「何なら遺伝子テストしちゃいますう?」
「しねーし。いいからオマエは食ってろ。それより香取さん。俺、これからどうしたらいいすかねえ、この娘に対して…」
「もぐもぐーって、なにオマエ、この子に惚れちゃったか?」
「えーーーーーーーそんなあーーーーー」
「オマエ黙ってろ。いや、それは… ちょっとよくわからないんっすけど… 確かにシェンメイに生写しで外見はアレなんですけど…」
「性格は? 性質は?」
「まあ明るく社交的ですかね。ただ女子大生らしくないって言うか、ダサいと言うか…」
「そーだな、何だこのシャツ。刺抜き地蔵産か?」
「きゃははー それウケるーー ダッサーこの子っ」
「オマエ煩い。この眼鏡なんて、先輩からの貰い物だったんですよ」
「…ある意味、凄い子、だな…」
「ええ。だけど… その…」
「そっかそっか。やっぱ惚れちゃったか、え?」
「いやーーーーー だめえーーーーーー 千葉っちはあ、あたしとけっこんするのぉーー」
「オマエウザい。いやー、なんだか。ただ、たまにドキッとするんですよ、特に羊と絡んでる時とかに」
「羊ちゃんと上手くやってってるのか? あの子難しい子じゃねーか?」
「それが上手くやってるみたいで。よっぽどウマが合うみたいです」
「現役東大生ですもんねえ。高校の成績も予備校のテストもズバ抜けてましたしいー」
「…そっか。じゃあそっちの心配はあんまないんだな。まあ慌てねえでさ、じっくり自分の気持ちを考えていきな」
香取三佐がゆっくりとお茶を啜りながら、
「そしたらその内オマエの本当の気持ちがハッキリすると思うぞ」
龍也は少し心のつかえが取れた気がする。
「そうします。ありがとうございます。って船橋、人のウナギ取るなよ馬鹿!」
「東大の入学式って何時でしたっけ?」
「……喰え。」
「いっただきまあーすー」
* * * * * *
度の合った眼鏡で眺める谷中の風景は、百葉にとって新鮮なものだった。これまでは雰囲気でしか捉えていなかった街の景色が、今はなだらかな坂道に敷き詰められたタイルの一枚一枚を視認できる。肉屋の揚げたての唐揚げから立ち昇る白い湯気が見える。今日も大勢の外国人がー彼らは中国人、あの人達はアメリカ人、あの女性はきっとフランス人―街を徘徊しているのを感じる事ができる。
生花を抱えたあの老婦人はきっと谷中霊園に行くのだろう。あのおばさんの買い物袋から春キャベツが顔を覗かせている。新学期を待つ小学生達がお寺の境内で猫に餌をあげている。通りのベンチに座ったお爺さんはのんびりと明日家に遊びにくる孫の顔を思い浮かべている。
そして。自分の左手の先に、自分とよく似た女の子が嬉しそうに自分を見上げている−
「百葉さん、羊はいまからなつやすみのりょこうがとてもたのしみですよ。百葉さんはどこに行きたいですか?」
「えーー、羊ちゃんは何処に行きたい?」
「中国の広州に行ってみたいです」
「…羊ちゃんのお父さんとお母さんが出会った街、だね」
「ええ。でもそこはいつか、でいいです」
「うん。何時か一緒に行こうね。で、他には?」
「それがきのうのよるからかんがえているのですが、なかなかよいかんがえが… 百葉さんのオススメはありますか?」
「オススメかあ、そうだなー、何処か海を見に行きたいかなー」
「うみ! いいですね、うみ! 羊はかいすいよくをしてみたいです」
「え、羊ちゃん海で泳いだこと、ないんだ?」
「ありませんねえ。くみんプールにはよく行きますけれど」
「決まり、だね! 海に行こう、泳ぎに行こう! 実はさ、私もね、海で泳いだ事憶えてないんだー小さい頃に行ったんだけどさー」
「それはそれは。ではぜひきおくのうわがきをしなければ、ですね」
「上書きって… 相変わらず恐ろしい子ね… で、どこの海に連れて行ってもらおうかー」
「ワイキキビーチ、ですかね…」
「…相変わらず恐ろしい子ね」
「羊はパスポートをとらねばなりませんね。」
「え、マジでハワイなの…」
「大マジですがそれがなにか?」
「本当に、恐ろしい子ね…」
百葉は立ち止まり、蹲み込んで羊と視線を合わせると、羊の両ほっぺを摘んで引っ張る。羊は拗ねた顔をして百葉に抱きつく。
擦れ違う老夫婦が優しい笑顔を二人にくれた。




