其の伍
百葉は龍也がシャワーを浴びている間に羊と共に食事の片付けをする。
「千葉さ… おとうさん、どうしちゃったんだろ?」
「ええまったく。ようはあんなおとうさんをはじめてみました。ないているおとうさんをはじめてみました。びっくりしました」
「そ、そうなんだ…(昨日の晩も目に涙を浮かべていたような…)」
「ももはさんがなかせたのです。どうせきにんをとってくれるのですか!」
「え、ええ? し、知らないよ、私のせい? ええ?」
「それはじょうだんですが。でもようはとてもうれしかったです。やっとたべたかったまーぼーどうふをたべられました。ももはさんはとうだいにいくのをやめてりょうりにんをめざすべきだとおもいます」
「あ、ありがとね。東大は行くけど。でも、羊ちゃんとお父さん、四川料理に何か因縁があるのかな?」
「さあどうなんでしょう。ようにはさっぱりわかりましぇーん」
「そ、そっか。あ、実は羊ちゃんのお母さんがさ、中国の人だったとか。なーんてね」
「それならようはかれーもだいすきなので、いんどじんのかのうせいもいなめませんね」
「あははは!」
「はんばーぐもだいすきです、あめりかじんもありですかね」
「ハンバーグはドイツが発祥だよ。だからドイツ人とかね。ヨウデルバッハちゃん、あ、なんか可愛い…」
「ももはさん。まじめにしごとしてくださいな。ちっともかたづきません」
龍也がシャワーから出て、百葉と羊は二人で風呂に入る。そういえば昨夜は入浴せずに寝てしまったので、念入りに身体を洗ってやる。それにしてもなんて綺麗な肌なんだろう。まるで透き通った真珠のような肌だ。施設でもよく小さい子を風呂に入れてやったが、これ程綺麗な肌は見た事がない。
「ももはさん。ひとつきいてもよいでしょうか?」
「なあに」
「どうしてももはさんにはいんけいがついてないのですか?」
百葉の髪を洗う手が急停止する。
「は? 何?」
「どうしていんけいがないのですかといいました」
シャンプーの泡が目に入りそうになるが、構わず、
「い、陰茎? おちんちんのこと?」
「ぞくごではそういいますかね」
「つ、ついてるわけないじゃん! 私、これでも女の子だよっ」
「ふむ。おんなのこだとついていないのですか。それならばようにもついていないのはひつぜんなのですね。ちゅうがくせいくらいになるとようにもはえてくるときたいしていたのですが。それはざんねんです」
「ないないない! おちんちんは男の子だけ」
「なるほどべんきょうになりました。それではもうひとつしつもんが…」
そうか。この子は千葉さんとしか風呂に入った事がないのだ。だから…
「どうしてももはさんのちぶさはおおきくないのですか? それもとしをへればおおきくせいちょうするものなのですか?」
シャンプーを洗い流していたシャワーを羊の顔にかけてやるとキャーと叫ぶ。これから少しずつ色々なことを教えていってあげよう。この子にはそういう存在が必要なんだ。改めて百葉はそう感じた。
珍しく龍也は湯上りにビールを飲んでいる。家で酒を飲むことはほぼ無い。たまに家に習志野時代の同僚や陸幕の成田三佐が遊びに来たときに一緒に飲む程度だ。羊と二人の時に飲んだ事はない。
羊は風呂から上がると龍也におやすみを言って百葉と寝室に入っていった。小一時間ほどで百葉が目をしばしばさせながら戻ってきた。今夜からは百葉は、龍也が与えたリビング脇の四畳半の部屋で寝起きをする。
「君も飲むか?」
「まだ未成年ですし、私お酒飲んだことありません」
「そっか。さっきはビックリしたろ。すまなかったな」
「あ、全然。大丈夫です。それより、」
百葉は冷蔵庫から麦茶を取り出しグラスに注いでテーブルに持ってくる。
「千葉さん、お仕事は何をなさっているのですか。羊ちゃんに聞いたら直接聞けって言われて」
龍也は立ち上がり、ビジネスバッグから名刺入れを取り出し、一枚を百葉に渡す。
「防衛省… 陸上自衛隊… 情報科二等陸尉 千葉龍也… 千葉さん、自衛官だったんだ…」
羊は国を守る仕事、などと言っていたが、まさか自衛官とは。羊の言はあながち間違っていた訳ではなかったのだ。百葉の居た施設からも毎年何人か自衛官になっていたので、さほど縁遠い職業ではなかった。
「自衛官の千葉さんと、羊ちゃん。不思議な取り合わせに見えます」
「そうだよな」
千葉が缶ビールを飲み干し、冷蔵庫からもう一本取り出す。明日は土曜日だからどれほど飲んでも構わないのだろう。それとも料理がよっぽど辛かったから、喉が乾くのだろうか?
そんな百葉の思いとは裏腹に、龍也は羊と自分とのことをこの娘にしっかりと話さなければならない、そう思い重たい口を開くのだった、言葉を一つ一つ丁寧に選びながら。
「そうだったんだ… 本当に羊ちゃんのお母さんは中国人だったんだ…」
百葉は心底びっくりする。つい先程冗談で言っていた事が事実だったとは。そしてその事を羊は知っているのだろうか、いや知っていたら先程教えてくれていた筈だ。とするとその事はこの家族内では秘密の話に…
「いや。明日にでも話す。ちょうどあの子の両親の墓が近くにあるんで、墓参りついでに。ちゃんと話そうと思う」
「…そうですか。それにしても、お父さんが東大卒のエリート外交官、お母さんが金持ちの留学生。どおりであの子、出来が良すぎる訳ですね」
百葉にはシェンメイの全てを語るわけにはいかない。情報部でも全てを知っている者は数名といない極秘事項である。
「それで… あの子のお父さんとお母さんは、どうして亡くなったのですか?」
* * * * * *
二〇一七年二月。
羊は四歳となり、四月からは幼稚園だ。その準備にシェンメイが奔走していた頃−東アジア情勢は複雑化の一途を辿っていた。
広州の市長であり反周派の楊仙明が失脚し、後釜に周派の趙民が就任すると、反周派の首謀である梁国綺首相は昂然と周金兵国家主席に反旗を翻しはじめた。アメリカは梁首相に様々な情報、技術、カネを惜しみなく与え、中国共産党の内紛は混沌としてきたのだった。
そんな反周派にとっていよいよ親周政権である日本の一部の政治家、官僚の活動が看過出来なくなってきた。北京の日本大使館に就任予定の大使が自宅付近の路上で不審死を遂げる事件が起き、日本に於いても中国共産党の勢力争いは激化していった。
当然周派の外交官である拓海にも警察庁、防衛省、そして外務省の厳重な監視が付き、龍也もその一端を担っていた。
そんなある日。陸幕情報部の成田三佐から呼び出され、重大な情報を告げられる−
「アメリカが、市原を消そうとしている」
龍也はついに来るべき時が来てしまったと思い、心を整えつつ務めて冷静に話を聞いている。
「今年の経団連の中国訪問を市原が仕切っているだろ。それが気に食わないらしい」
「やはり、トリンプは経済絡みですか?」
「ああ。これ以上日本企業が中国に投資するのを見逃せない、ってとこだろう」
「市原を消して、経団連の関心を中国から遠ざける。梁首相に恩を売る。それプラス、矢部総理に圧力をかけるってとこですか?」
「そうだ。今度は本気で来るぞ、市原を消すまで。どうする?」
龍也は無表情のまま、
「ウチは、どう対処するんですか?」
「表向きは要警護だ。だが、アメリカ絡みとなると裏では見過ごすことになるだろうな」
「…ですよね」
「残念だけど。こないだの大使の事件と同じ結末となるだろうな」
先月、駐米予定の大使が自宅近くでジョギング姿のまま死体で発見された。報道ではジョギング中の心臓発作と発表されたが……
無表情のまま、シェンメイに禁じられた溜め息がつい出てしまった。
「実行部隊は、どっちですかね?」
「パンダ(中国)だ。明日明後日にも日本に入国するらしい」
急にやるせない怒りが込み上げてくる。
「くそっ どうする事も出来ない、のか…」
成田は努めて無表情で、
「ウチの中でこんな話がある」
「何ですか?」
「市原の処分をウチでする。そしてトリンプと梁に貸を作る。官房長官の発案だ」
「あと矢部総理の顔に泥を塗る。か… いい加減にして欲しいですよ。俺たちは政治の道具じゃねえんだよ!」
龍也は拳を壁に叩きつけた。冷たい壁の冷気が拳を通して伝わってくる。
「俺はあん時、何の為に戦ったんですか!」
滅多に感情を外に出さない龍也の悲壮な怒りを眺めつつ、成田三佐は二本目のiQOSを不味そうに吸いはじめた。
龍也は暗澹たる思いで靖国通りを歩いていた。仕事を定時で切り上げ、拓海の部屋へ向かうべく市ヶ谷を出た龍也はタクシーも使わずバスも使わず、徒歩で半蔵門に向かった。自分の吐く白い息とのんびり歩くサラリーマン達を追い越しながら、自分の置かれた境遇、そして拓海とシェンメイの運命をひたすら呪っていた。
確かに拓海は周派に深入りしすぎた。周派が手配した女を娶り子供まで作った。一昨年から去年にかけては中国人旅行者のビザ緩和にも大いに関わった。そして現在も日中の経済発展のために身を粉にして働いているのだ。
明日か明後日、拓海を襲撃する部隊を撃退するのは容易い。その自信は大いにある。だが、相手は続々と後続部隊を送り込み、果てのない無益な戦いを強いられていくだろう。そして味方はどこからも来ないのだ。逆に日本人工作員の襲撃も想定せねばなるまい。
施設育ちの龍也にとって、習志野時代の同期を除いて一番の親友であり、かつ兄とも慕う拓海をどうにも救えない事がわかってしまった事が辛過ぎる。そして−王神美、シェンメイもまた確実に失うであろう事も−
拓海のマンションの前の通りに二台の車が停車している。中の人物に目配せをすると相手も軽く頷く。一見厳重な警護体制に見えるが、特殊部隊に所属していた龍也には今思うだけで七通りの侵入方法が頭に浮かぶ。
エレベータで昇り拓海の部屋に入る。
「おきゃえりー ろん」
龍也はビジネスバッグを放り出し、羊を抱きしめ抱え上げる。
「ろん、きょうはおとみゃりしていくんだろお?」
「そうだな。今夜は泊まっていくかな」
「きゃあーーーー ままー、ままあー ろんはおとみゃりだよお」
「そう、よかったね。ロン、手洗ったか? インフルエンザ流行ってんだぞ、うがいと手洗い、すぐにする!」
龍也は羊にペロリと舌を出すと羊も同じように舌を出す。
この子だけは、絶対に守る。
そう誓い、龍也は洗面所に入っていった。
夕食は麻婆豆腐だ。最近は羊もこの辛さに慣れ、いつも目の色を変えてガツガツ食べている。
「どうしたロン、さっきから浮かない顔をして。言ってみろ」
「今夜は拓海は遅いのか?」
「そうだな。経団連のお偉いさん達と呑んでくるってよ。最近拓海は酒浸りだよ」
「そっか。肝臓には気をつけないとな」
「それより。どうした、何かあったのか?」
「後でゆっくり話すよ」
そう言ってシェンメイを見つめる。育児太りなど全く無く、むしろかつての筋肉が落ちた分女性らしさを最近感じさせている。化粧っ気は全く無いのに白い透き通った肌が眩しい。これは娘の羊にもしっかりと受け継がれている。
「よし、じゃあ三人で一緒にお風呂に入るか、ロン?」
「…ああ、そうするか…」
「羊―、ロンと一緒にお風呂入るよー」
リビングでテレビを観ていた羊が歓喜の声を上げる。三人で入浴するのは何年ぶりだろうか−少なくとも羊の物心がついてからは三人で入った事はない。
どうやら… シェンメイは龍也から何かを感じ取ったようだ。自分に迫る危険に関する勘は錆び付いてないな。さすが『聶隠娘』だ。思わず口角を上げると、
「ああロン、今エッチな事を考えていただろう?」
「ハア?」
「最近大きくなった私のオッパイを見るのが楽しみなんだろ? この猥亵的弟弟(スケベな弟)!」
「うるせーな。この猥褻的姉姉(スケベな姉さん)!」
「わーーい、うえいしだ、うえいしだあーー」
「「羊、黙りなさい」」
シェンメイの言う通り、羊への授乳が功を奏したのだろうか、確かにシェンメイのバストは以前よりも大きくなっている。それをしげしげと眺めていると、
「どうよ。いいオッパイだろ?」
「別に、何とも思わねえよ」
「それにしても龍也のチンチンはいつ見ても大きいねえ。拓海よりもずっと大きいよ」
「…それ、絶対拓海に言うなよ…」
「へ? もう言ってるけど。ずっと前からな」
「マジか… あいつ落ち込むだろ?」
「全然。さすが俺の弟って喜んでたよ」
「ホントかよ…」
「わーい、ろんのおちんちん、おっきなおちんちん!」
「や、やめなさい…」
「ねえねえ、ぱぱはおひげがあるのに、どしてままとろんはおひげがないの?」
「「……」」
* * * * * *
「……相当 …変わった方だったんですね… シェンメイさん…」
百葉は唖然としながら龍也の話を聞いている。
「そうだな。初めは中国では義理弟と姉は裸で付き合うのが普通かと思っていたよ」
「まさか… でも中国ならありそうですね?」
龍也は苦笑いしながらビールを口に運ぶ。
「でも、そんなに私とシェンメイさんは似ていたのですか?」
話の流れで、百葉とシェンメイが似ていることを告げている。
「ああ。ちょっと写真見てみるか?」
「み、見たいです、見たいです!」
龍也は寝室に入っていき、しばらくしてポケットアルバムを手にダイニングに戻ると百葉に手渡した。そしてシェンメイの写真を見て、声を失った。暫くしてようやく口を開く。
「…確かに …メチャ似てますね… ウソみたい…」
市原拓海、と思しき男性と幸せそうに写っている写真。まるで本物の姉弟かのように写っている龍也とシェンメイ。そして…
「キャー。羊ちゃん、可愛い!」
生まれたばかりの羊。やっと首が座りはじめた羊。初めて外に出かけた羊。ハイハイしている羊。つかまり立ちを頑張っている羊。よちよち歩き中の羊。父と母に挟まれて嬉しそうに歩いている羊。父親に肩車されている羊。叔父に肩車されている羊。この叔父、顔をクシャクシャにして百葉が見たことのない幸せそうな顔付きだ。
「千葉さん。なんだかんだで、ちゃんとずっと父親してきてたんですね」
「まあ、拓海が… 羊の父親が忙しくてさ。土日なんか、殆ど俺が父親していたよ」
「そうかー。だから羊ちゃんにとって、千葉さんはフツーに父親なんですね、今でも」
「ああ。下手したら拓海よりも俺といた方が長かったかもしれない」
と言って軽く微笑む。百葉の胸の鼓動が何故か少し早くなる。ふと百葉は一つの疑念が頭に浮かぶ−
「千葉さん、変なこと聞いてもいいですか?」
龍也は少し赤くなった頬で軽く頷く。
「千葉さんって、実はシェンメイさんの事、好きだったんじゃないですか?」
龍也の顔がサッと青褪める。しまった、余計な事を聞いてしまった。百葉の悪い癖で疑問に思うと何でもすぐに口にしてしまう。これまでもこの悪癖で何度か友人や施設の上の子達と諍いになった事がある。自分でもわかっているのだが、どうしても確かめずにいられない事があるとつい口が出てしまう−
「あ、あの、すいません変な事聞いちゃって。忘れてください…」
「いや、その通り。俺は、シェンメイのことを… 愛していた」
百葉は自分の心音が暫し停止した、気がした。
* * * * * *
川の字の真ん中の羊はシェンメイの子守唄の二番の途中で寝息を立て始め、三番が終わる頃にはすっかり寝入った様だった。それを確かめると、シェンメイが羊を自分の方にそっと動かし、空いたスペースに転がり込んできた。そして龍也の肩に頭をつけて囁いた。
「誰が拓海を狙っているんだ?」
龍也はシェンメイの髪に顔を埋める様にして、
「梁首相一派。それとトリンプ」
シェンメイが軽く舌打ちをし、
「いつ?」
「多分、明日、明後日」
「别傻了(ふざけんな!)」
思わず龍也は溜息をついてしまった。
「ロン、溜息はダメと言っただろ。次溜息したら罰を与えるぞ」
「ああ。すまん」
近い。あまりに近過ぎる。シェンメイの少し香辛料のかかった吐息が龍也の鼻をくすぐる。突然、シェンメイの体臭が脳を刺激し始める、ちょ、ちょっと待て。それはマズい…
龍也は反対向きに寝返りをうった。すると龍也の背中に柔らかな二つの膨らみがそっと当たった。龍也の首筋にシェンメイの吐息が当たった。
「どう思うロン。奴らはどんな手を使って来るか。こんな住宅地だ、まず銃は使わないだろうな」
額にうっすらと汗をかき始め、風呂でシェンメイが褒めてくれた龍也のモノが徐々に硬くなり始めた。
「あ、ああ。銃は使わないだろう。恐らくナイフ…」
「そうだな。何人で来るか?」
「あ、ああ。恐らく、四人…」
突然シェンメイが龍也にのし掛かり、首を押さえ付けマウントを取りながら、
「どうしたロン。怖いのか? 特戦群の鬼龍だろ、何震えているんだよ!」
目の前にシェンメイの顔がある。暗闇だが龍也にはその顔がハッキリと認識できる。シェンメイの目は怒りに燃え上がっている−
「ち、ちげーよ。別に何が来たって、怖かねーよ。そーじゃなくってさ…」
「じゃあ何だよ。何で心臓数(心拍数か)が早くなってる…… あれ…?」
最早、龍也のモノは制御不能状態の最硬強度に達していた。それがシェンメイの下腹部に当たっている…
「おいクイロン。これは何のつもりだ?」
シェンメイの目は怒りから困惑に色変わりした。
「そ、それは… だから…」
「何だ。ハッキリ言え。男ならちゃんと言え」
龍也はゴクリと唾を飲み込んだ。
「シェンメイに、感じちゃったんだ」
シェンメイの目がはてなマークに変わった。
「意味がわからん。わかりやすく言え」
龍也は思わず大きな溜息をついてしまった…
「ロン。また溜息ついたな、こんだけ言ってもわからないか。今から罰を与えてやる。おいロン、覚悟しろ!」
一瞬殺気を感じた龍也は身構えようとしたが、シェンメイに首をホールドされているので身動きが取れなかった。
次の瞬間。
龍也の唇に、シェンメイの唇が重ねられた。
シェンメイのキスは龍也が今まで経験したキスと全く違うものであった。初めは優しく唇を舌でなぞられた。そのうちにその舌が龍也の口腔に侵入し龍也の舌に絡まった。龍也の脳に徐々にピンク色の電流が流れ始めた。
「どうだ。もう二度と溜息をつかないか? 約束するか?」
「ああ。二度とつかない」
「よし。約束だ」
「約束。だ」
「私と拓海が死んでもだ」
「……」
「わかったか?」
「……努力、する…」
「よし。ロンは二度と溜息つかない。約束だ。その代わりに、私のお願いを聞いて欲しい」
「は? 俺はシェンメイとの約束を守るって言ったんだぞ。何でお前のお願いを聞かなきゃいけねえんだよ!」
「うるさい。姉の言う事は聞け」
思わず龍也は吹き出す。
「何だよそれ、メチャクチャじゃん」
「いいんだよそれで」
「で。何?」
シェンメイの顔が赤らんだ。シェンメイの目の色が妖しく光った。
「龍也の。コレが欲しいんだ」
龍也はゴクリと喉を鳴らした。
暗闇の中でじっとシェンメイの瞳を覗き込む。そして瞬時に龍也はシェンメイの気持ちを読み取った−
もうすぐお別れだ。二度と会うことも話すこともできなくなる。
それは構わない。人間いつかは死ぬんだ。
だがロンには羊を守ってもらわなければならない
この先ずっと守ってもらわねばならない
だから。私の愛をロンに預けたい
ああ
私はロンの愛を感じたい
死しても尚忘れることのない程の
貴方の愛を感じたい
三度目の愛を放った後、不覚にも龍也は意識を失う様に寝入ってしまった。
* * * * * *
「あの… 千葉さん? 大丈夫ですか…」
ハッとして顔を上げる。どれくらい黙り込んでしまったのか。シェンメイとの目眩く重なりを百葉に話せる筈もなく、しばらく話を止めてしまったのだ。
「ごめん… まあ、そんな感じでさ。うん、確かに俺はシェンメイのことを愛していたんだ」
「そう、だったんですね。その事は… 市原さんはご存知だったんですか?」
「わからん。知っていたとも思えるし、知らなかったかも知れない」
「そうです、か…」
その時。百葉はこれまでに感じた事のない感情に囚われていた−怒りの様な、悲しみの様な、切ない様な、苦しい様な。もし百葉がこれまでに恋愛小説を何冊か読破していたなら、この感情が『嫉妬』であることに気付いていただろう。
悲しい哉、百葉がこれまでに嗜んだ恋愛小説は、学校の友人に勧められて読んだ『愛の流刑地』だけであった−読後、勧めてくれた友人に何でエロ小説を読ませたのかと食ってかかったものだ。従って、今胸が苦しくなっている理由がさっぱりわからないまま、龍也に話の先を促すことしか百葉には出来なかった。
話が進むにつれ、テーブルに置かれたアルバムのシェンメイの写真を見る事が辛くなってきた。話が進むにつれ、昨夜寝る前に嗅いだ龍也の野性的な匂いのする布団を思い出していた。すると百葉の心臓の脈動が早まり、脳にピンク色の電流が流れるのを感じた。
『愛の流刑地』を読破している百葉にはこの感情がすぐに理解できた−『発情』である、と。
感情よりも思考で生きてきた百葉はここで考え込む−何故私は今目の前の男性に発情しているのだろう−どうして私はまだ会って二日しか経っていないこの男性に濡れているのだろう。世の中の女性は何故男性に発情するのだろう。
子孫を残す為? 否。そんな世の中であるならば婚姻制度が意味を為さなくなる。
相手が自分を好きになってくれたから? 否。中学、高校時代、四人の男子に告られたが一度たりともその子に発情した事はない、むしろ吐き気を覚えたほどであった。
その逆で、自分がその相手を好きになったから?
私が、千葉さんを好きになったから?
目の前で訥々と話す龍也を見つめる。相変わらず度の合っていない眼鏡故、ざっくりとしたイメージでしか龍也を捉えることができないのだが。色黒の精悍そうな顔が素敵に思える。短く刈り上げた髪が素敵に思える。広い肩幅が、意外に太い腕が素敵に思える。
そして何より−自分の実の娘ではない、自分の愛した女の娘に全身全霊で愛を注ぎ込んでいる龍也が−最高に素敵に思える。何と誠実で何と真面目で、そして何と鈍臭い男なのだろう。
唐突に、夕食の時に龍也が流した涙の意味を理解した。龍也は本当にシェンメイを愛していたのだ。彼女の全てを愛していたのだ。だから忘れようとしていたのだ。大好きだった彼女の手料理の味から遠ざかる事で、傷付いた心を癒していたんだ。なのに私はよりによって…
百葉は急に息苦しくなった。私が千葉さんの忘れかけていた悲しみを想起させてしまった−
「すみません。ちょっとコンビニに行って冷たいものを買ってきます」
と言って席を立ち、百葉は龍也の部屋を飛び出して行った。唖然とする龍也を残したまま…
どこをどう歩いたのだろう。百葉は気付くと昨日からお世話になる筈だった市川さんの家の亡骸を見ていた。昨日の火事で前の煙草屋、両隣の家屋を含め、すっかりと景色が変わってしまった。剥き出しの真っ黒に変色した大黒柱が月に照らされて妖しく光っている。
スマホも、財布も龍也の家に置いてきてしまった。預かっていたカードキーもスマホの中に入れているので今は持っていない。
すっかり焼け落ちた市川さんの家を見ながら、百葉の頬に一筋の涙が流れた。もしこんな火事がなければ今頃ここの二階で寝転んでいただろう。先に送っておいた段ボールの中からアルバムを引っ張り出して昔を懐かしんでいただろう。
そして−こんな辛い気持ちに−初めて好きになりかけた男性を傷つけることには−ならなかったであろう。
これまで施設での生活と勉強に邁進していた百葉は男性に好意を持った事がない。男に惚れた事がない。従って、この状況で自分はどうすれば良いか、全く見当もつかない。
涙が止まらない。どうしていいかわからない。
誰か教えて どうすればいいか教えて
私この先どうすればいいの
あの人に何と言えばいいの
苦しいよ 辛いよ 切ないよ
後ろから足音がした。ハッとして振り返ると、龍也が立っていた。百葉は慌てて涙を服の袖で拭いた。龍也は何も言わず、焼け跡をじっと見ている。百葉はこの沈黙がありがたかった。
不意に龍也が焼け跡に入って行く。慌てて百葉も後を追う。
「ちょっとまずいのでは… それに危ないですし」
殆ど真っ暗で懐中電灯も無いのに龍也はスタスタと焼け跡を歩き回る。百葉は立ち止まり、龍也を眺めることしかできなかった。
突如龍也がしゃがみ込む。瓦礫を退かしている様子だ。そしてしばらくして、
「百葉、ちゃん。ちょっとこっちに来られるか?」
「あの… 暗くてさっぱり…」
「よしちょっと待っていろ」
暗闇から龍也が現れ、左手を百葉に差し出す。
「俺の手を握り、ゆっくりでいいからこっちに来るんだ。足元に気を付けろ」
どうもこの人の口調は命令口調が多い。そんな事が気になったが龍也の差し出した手を握った瞬間、先程の胸の動悸がぶり返してきた。暗闇に入り込む怖さは微塵も湧いてこず、それよりも高鳴る動悸に我を忘れそうになる。
「これ、ひょっとして君の荷物じゃないか?」
そう言って龍也はスマホの懐中電灯機能を起動する。目が眩むような明るさに百葉は思わず目を閉じた。そしてゆっくりと目を開けると−
「ウソ… これ… 私の荷物… え、何で? どうして? あんな火事だったのに… どうして?」
そこには焦げた段ボールが二つ並んでいた。
「きっと市川さんが逃げ出す前にこうして布をかけた後に水を撒いて、その上に不燃性のモノを積み上げてくれたんだと思う。高温で周りは焦げたみたいだけど、中はどうだろう」
百葉が食らいつくように段ボールに近付き、黒焦げた蓋を両手で開く。
「信じられない… 全部大丈夫です! ああ、アルバムも、ノートも…」
「消防の現場検証はまだだったのかな。でも良かった。よし。持って帰るぞ」
「え… それって、正に火事場泥棒なのでは…」
「黙ってりゃわからねえよ。それに今持って帰らないと、消防に持ってかれていつ戻ってくるかわからないぞ」
「で、でも段ボール二つ分ですよ、重くて持てませんよ」
「だって一つは洋服だろ。いいから。まず俺がこっちの重い方を持つから、その上に軽い方を乗っけるんだ、いいな?」
何をやっているのだろう私達は。誰がどう見ても、完全な火事場泥棒だし… それにしても、
「あの… どうして、私があそこにいることを…」
軽々と段ボール二つを運ぶ龍也は呟くように、
「まあ、何となく、な」
龍也にとってコンビニに行ったはずの彼女が三十分経っても帰ってこないのは、コンビニに行ったのではなく、何か考えがあって部屋から抜け出したと想定するのは容易い事だった。そして昨日今日この街に越してきた彼女が向かう先は只一つ−本来自分が住うはずだった場所、すなわち昨日焼け出された市川さんの家である−そう確信して現地に向かうと、一人さめざめと涙を流す百葉の背中を見つけたのだ。
その後ろ姿はシェンメイに重なり、龍也は言葉を失った。だが自慢の夜間視力を凝らしてよく見てみると、シェンメイよりもほっそりとしていてどこか頼りない雰囲気だ。この小さな背中でこの子は今までどれ程の苦労を背負ってきたのだろう。そしてこの先この背中に自分の娘、そして自分を背負わせてよいのだろうか。
二人は互いに異なる思いを抱きながら、寝静まった谷中の街をひたひたと歩き続けた。
玄関先に煤けた段ボールを置き、
「中身は明日確認するといい」
「ホントにありがとうございました。ああ、すっかり服が汚れてしまって…」
百葉が龍也に近寄り服についた煤を払おうとする−
昨日と同じ、野性的な男の匂いに百葉は硬直する。
シェンメイと羊と同じ、昔懐かしい女の匂いに龍也は身動きが出来なくなる。
百葉が龍也を見上げる。胸の鼓動が嘗てないほど激しく心を揺さぶる。
龍也が百葉を見下ろす。かつて失ったものが目の前で自分を見つめている。
手を伸ばせば触れられる。でも…
この人は昔愛した女性を忘れられないのだろう。
この子に俺と羊を背負わせていいのだろうか。
二人の伸ばしかけた手は力を喪いやがてゆっくりと下がってゆく。
龍也が二度目のシャワーを浴び終えダイニングに戻ると、
「ビール、飲まれますか?」
「もういいや。麦茶をくれないか」
「はい。」
百葉はグラスに麦茶を注ぎ、龍也に差し出す。
「なんか… 色々すみませんでした… こんな夜遅くに」
渡されたグラスを一口飲んで、
「いいんだ。それより、話は−シェンメイと拓海の話は、もういいか?」
本心はもうこれ以上聞きたくない。この人の愛した女性の話なんてもう聞きたくない、だけど……
「教えてください。羊ちゃんのご両親、どうして亡くなったか、最後まで」
龍也は頷き、目をゆっくりと瞑りゆっくりと語り出す。
* * * * * *
マンションの屋上に四つの影が音もなく舞い降りた。しばらく身動きをせずあたりの様子を伺い、やがて一つの影になる。
時計を見る。あと五分でミッション開始だ。その時、隊長のイヤホンに緊急通信が入る。
(対象の部屋に男がいる。陸自情報科の魚釣島の鬼龍だ 送れ)
(何だって? どうして… 少し待ってくれ)
骨伝導式のマイクロフォンに隊長は驚きを隠せずに吐き捨てる。
「今連絡が入った。タツが… 陸自の鬼龍が…いるらしい」
三人は目を見開く。その内の一人の目には明かな動揺が見られる。
かく言う隊長の声も微かな震えが隠せない。
「なして奴がこがいな所におるのか分からん」
三人は無言のまま下を向く。
「なぁんか変な命令じゃたぁ思うとったんじゃ。何なんじゃ畜生」
隊長が吐き捨てる。
「命令通りこのままコンティニュー(作戦続行)するか? それとも引き上げるか?」
隊員の一人が思わず漏らす。
「タツを始末するなんて… ありえへんて…」
他の一人が怯えながら呟く。
「始末どころか… 返り討ちされますね」
隊長は苦々しげに、
「女工作員一人でも厄介なのに、タツまで加わるとなるとこれは…」
隊長が三人を見渡すと、彼らは目を見て首を振る。
隊長はマイクロフォンに囁く
(計画に支障あり、続行不能と判断。今後の指示を求む 送れ)
(…了解)
どんなに深く眠っていても、味方に向けられた殺気を見逃す事はない。龍也は深い眠りから一瞬にして目を覚まし、気配を窺う。シェンメイは既に服を着て戦闘モードだ。
目でシェンメイと会話をする−
玄関だな
そうだ。四人。
俺が処分する
否。オマエはここにいろ。羊を守れ
わかった
頼んだ
音もなくシェンメイは寝室を抜け出す。音もなく龍也は服を着る。羊の可愛い寝息が部屋に響く。ガチャガチャと喧しい鍵をこじ開ける音が玄関から響く。間も無く戦闘開始だ。羊を掛け布団で包み部屋の端にそっと寄せる。
玄関ドアが開く音がする。三人の足音がゆっくりとこちらに向かってくる。一人は見張りの為玄関に留まるであろう。龍也は寝室のドアの横に移動する。
暗闇の中、肉が叩かれる音と骨が折れる音が同時に聞こえる。戦闘開始。
龍也の五感が最大感度になる。ナイフの風切音の後、顔面がひしゃげる音がする。あと一人。いや、玄関から見張り役が救援に入るべくこちらに向かっている。特有の金属音がする。銃を持っている。
シェンメイは敵を寝室から離れるべく誘導している。それにつられ残りの二人はリビングの奥にシェンメイを追い詰めようとしている。
三人目は中々の手練れだ。シェンメイも苦戦を強いられている。見張り役の火器を制圧しなければならない。龍也は音もなく寝室のドアを開けシェンメイに気を取られている見張り役の背後に回る。
無心。殺気を放つこともなく龍也は右手を見張り役の首に回し、一瞬で頸の骨を折る。見張り役は無言で崩れ去る。すかさず拳銃を取り上げる。
三人目が攻撃を止める。状況を把握したらしい−自分を残して味方は全滅。前面と背後から挟まれた。逃れる術はなし−次の瞬間。何の躊躇いもなく腰から手榴弾を取り出し安全ピンを引き抜きこちらに投げようとする。
龍也がその男に辿り着く前にシェンメイが一撃を加え男はその場に崩れ落ちる−手榴弾はあと五秒で爆発する−シェンメイとその刹那、目が合う−
羊を頼む
…わかった
おい、クイロン。
なんだシェンメイ
大好きだったぞ
ああ。俺もだ
龍也は寝室のドアを閉め、自分も布団を被りながら布団虫状態の羊に覆い被さる。羊の寝息が龍也の耳に木霊する。目をきつく閉じる。シェンメイとの思い出が走馬灯のように龍也の脳裏を駆け巡る−
初めてこの部屋で会った時。
初めて手作り料理を食べた時。
初めて怒鳴り合いの喧嘩をした時。
初めて頭を撫でられた時。
初めて二人きりで歩いた時。
初めて中国語で会話した時。
初めて互いの素性を確認した時。
初めて共に戦った時。
初めて股間を覗いた時。
初めて母親となった時。
初めて我が子を抱いた時。
初めて風呂に入った時。
初めて一緒に寝た時。
初めて唇を重ねた時。
初めて身体を……
衝撃音がマンションを揺らす。リビングルームと、転がっている男達と、そしてシェンメイが炸裂する音が街中に響き渡った。
「何じゃこの爆発音は?」
「見てください、対象の部屋です、これは一体…」
「よし。作戦変更。これより対象の部屋の捜索に切り替える。死傷者がいるけえ、事後処理班の出動要請!」
「了解」
「それにしても… 何じゃこれ。アイツの仕業たぁ思えん…」
「ええ。アイツはこんな派手なこと絶対しませんよ。これはパンダの仕業ですかね?」
「ああ、有り得る。って事は別の奴らが… どーなってんだよ上は」
「ダダ漏れやないか。ったくやってられへんわ」
「まさかタツの奴、くたばってんじゃねえだろうな…
「よし。行ってみるぞ。油断しんさんな。マインドチェック!」
四つの影がリビングの吹き飛んだ窓から部屋に入るとそこは正に地獄絵図そのものであった。あたり一面に肉片が飛び散り、原型をとどめた死体が三体転がっていた。
「間違いなくパンダの仕業ですね。酷えなこれは…」
「一応各部屋をチェック。わしが奥の寝室。ジョーは洗面所、ブッチは玄関、ワダーはここで待機」
「「「ラジャ」」」
隊長は転がっている死体を跨ぎ越え、寝室に音もなく近付きドアに耳をつける。微かに寝息が聞こえる−生存者が、いる!
その瞬間隊長の首に腕が巻きつき一瞬で気を失った。他の三人はすぐに異変に気づき即座に警戒態勢に入る−が、すぐに解除する。
「おい、タツ。生きとんか?」
龍也は今し方落とした男の顔を覗き込む−嘗て共同訓練を通じて、そしてあの魚釣島の作戦でよく知った顔だった−
「なんで… 江田島がいるんだ?」
リビングから聞き覚えのある声が返事をする
「命令や。オマエがおる事は直前に聞かされた」
龍也は落とした男の背中に活を入れ、男は息を吹き返した。
「ったく、手荒いのう相変わらず。危なく頸の骨逝っちまうとこじゃったわい」
悪かった、の意を込めて肩を二度叩き、龍也はリビングに向かう。
そこは絶望の光景が広がっていた−バラバラの肉片から、シェンメイの匂いがした…
「対象か? 市原神美なのか?」
「そうです」
「コイツらは?」
「パンダですよ、詳しくはわかりません」
「他に生存者は?」
「娘の、市原羊。無傷です。鼾かいて寝てます」
「そうか… こっちで保護するか?」
「いや。俺が保護します」
「分かった。もうすぐ事後処理班が来る。わしらは戻る」
そう言って親指を上に上げる。どうやらこの精鋭達は屋上から侵入したらしい。
「わかった。気をつけて戻ってくれ」
「タツ。今度呑むで。そん時に詳しく聞かせろや」
「了解です」
四人の海上自衛隊特別警備隊のメンバーは音もなく部屋から立ち去っていった。残された龍也は一人バラバラになった肉片の処理を始めるのだった−何かをしていないと気が狂いそうなのだった−
* * * * * *
「嘘でしょ… ガス爆発に巻き込まれて、お母さんが死んでしまったなんて… 信じられない、千葉さん、本当なんですか?」
百葉は愕然としていた− あの写真の中の自分にそっくりな女性が、千葉さんが嘗て愛した女性が、ガス爆発事故で命を失ったなんて…
「この事は、羊ちゃんは知っているんですか?」
龍也は首を縦に振る。
「その時に、俺も寝室で羊と一緒に寝ていたから」
虚な表情で龍也が呟く。
「アイツは本当に大物なんだ、あんな爆発があったと言うのに、ずっとイビキかいて寝ていたのだからな」
百葉がゆっくりと首を振る。なんと言う…
「そして。ほぼ同じ時刻に。父親の拓海も、交通事故で…」
百葉は呼吸をするのを忘れる。
二人の間に沈黙が通る。
百葉はキツく拳を握り過ぎて、掌に爪痕がクッキリと残ってしまった。
龍也の瞳は、まるで氷のように冷たく、話しかけることを許さない冷たい負のオーラを漂わせていた。
百葉は龍也が話し始めるのをひたすらに待っていた。
* * * * * *
「アンタが居たというのに… なんだい、この有り様は…」
海自の特警隊が撤収してその十分後。路上の車で監視していた筈の公安警察が室内にワラワラと雪崩れ込んできた。龍也は顔見知りである公安外事二課管理官茂原警視に掴みかかり、
「お前たち一体何見てたんだ。パンダ四匹、目に入らなかったのか!」
茂原警視はやや青褪め、
「引越し業者を装ってたんだよ。職質かけたよ下で。そしたらある住人の夜逃げを内密に取り扱うって言うから…」
「お前らの目は節穴か。そんなのすぐに見抜けるだろうがっ」
「まあ落ち着けよ。それより−パンダ四匹は全滅か。流石だな。市原神美は… バラバラか。で、市原羊は無事なのか?」
「ああ。寝室で寝てるよ。イビキかいて」
「大物だな。それで? どうする。施設にでも預けるのか? 紹介するぞ」
「いや。俺が、引き取る」
「は…… アンタ確か独身だよな…」
「そんな事より。市原拓海は?」
茂原は言いにくそうに、
「さっき、首都高走行中の、タクシーが、横転、炎上した」
「そうか……」
拓海もほぼ同じ頃、この世を去っていた……
公安警察が黙々と現場検証をし、それぞれの遺体を片付けている間、龍也は寝室で未だにスヤスヤ寝ている羊の横に寝転んだ。そして目を瞑り、つい一時間前の事を思い返してみる−
ちょっとスパイシーな吐息
白く透き通りやや汗ばんだ肌
口に含むと甘い汁が迸った乳房
ビックリする程熱く汗を滴らせていた産道
何度も何度も、何度も昇り詰めた二人
そして。最後に交わしたアイコンタクト。
なあシェンメイ。天国ではさっきの事、絶対に拓海に言うなよ。間違いなく拓海は泣き出すぞ。そんで成仏できないぞ。いつまでもアホヅラで羊の写真に写るぞ。あっちでは二人でのんびりしろよ。羊は俺がしっかり育てる。
拓海みたいにお人好しで物知りで
お前みたいにしっかりもんの面倒見のいい子に
育ててみせるよ だから
二人で俺たちをずっと見守っていてくれ
部屋の外の作業者たちに聞こえないように、龍也は嗚咽を布団に染み込ませるのであった。
* * * * * *
長い長い沈黙の後、そう言えば君もご両親を同時に亡くしたのだよね、と龍也は呟く。百葉は軽く頷き、
「羊ちゃんは… その… 相当ショックを受けたんでしょうね…」
「ああ。君もわかるんじゃないか、四歳児が親を亡くした時、大抵の子は『死』の概念が理解出来ず、何故親が自分から離れていったかと考えてしまう−そしてひたすら自分を責める−自分が悪い子だから親がいなくなったとか。普通は、な」
「そうですね。私は既に五歳でしたから、何とか理解出来ていたのかな…」
「羊は知っての通り、驚異的な頭脳を持っている。四歳の当時に彼女は両親の『死』をはっきりと認識していたんだ」
「本当ですか…」
「ああ、幸か不幸か、な」
百葉はゴクリと唾を飲み込んでから、
「それで… キチンと受け入れたのですか? 両親の死を?」
「信じがたい事だが、その通りなんだ」
龍也はゆっくりと頷いて、また沈黙する。
* * * * * *
「羊。話があるんだ」
パパ、ママ、と譫言のように言いながらボロボロ涙を流す羊を抱きしめながら龍也は言った。
「今日からさ、俺が羊のお父さんに… なろうかな…」
羊が急に泣き止んだ。そして龍也の瞳をじっと見つめた。
「ヒック ろんが、ようの、おとうしゃん?」
羊の頭を優しく撫でながら、
「そう。死んだパパとママの代わりに。俺が今日から羊のお父さんになる。どうかな?」
羊の涙がピタリと止まる。
「じゃあ、ようとろんはずっといっしょ? いっしょにくらしゅの?」
「そう。ずーーっと一緒」
「ろん、やくしょくして」
「なに?」
「ろんはじぇったい、しなないで」
「……」
「ようをひとりぼっちにじぇったいしないで」
「約束する。俺は絶対死なない。羊を一人ぼっちに絶対しない」
羊がきつく龍也にしがみついた。
「なに、オマエホントにあの子引き取ったの!」
「ホンマか… あの鬼龍が… 人の親に… しかも、聶隠娘の落とし子を…」
龍也は苦い顔で、
「落とし子って、なんですかそれ。違うし」
一ヶ月後。江田島からあの時のメンバーがわざわざ龍也を訪ねて来た。
「しかし市原神美があの聶隠娘だったとは、な… 知ってたら、絶対命令拒否してたわ」
「あのパンダの内二人は神美がやったんやろ? 首が直角に曲がってたのと顔面が凹んでたのと」
龍也はビールを口に運びながらその時の様子を思い浮かべている。
「素手じゃ俺たちじゃ太刀打ち出来へんな、マジで。オマエでも無理やろ?」
「そうですね。全く歯が立ちませんよ」
小隊長の保田一佐が豪快に缶ビールを空けながら、
「いやいや。この鬼龍も中々じゃったよ、この俺を一瞬でシメ落としたけえのう」
副官であるジョーこと城島三佐がコクコクと首を振りながら、
「俺だけやね、タツの鬼の姿見たことあんの。」
城島三佐とは魚釣島事変の時に共に行動した過去がある。龍也はあの死戦を共に潜り抜けた城島とは定期的に盃を交わす仲なのだ。
「ブルブル震えながら「殺さんといてー」と泣き叫ぶ海パンダ(中国海警)を顔色変えへんで喉をボキッやで。そんな鬼龍が人の親やで。信じられへんわ」
「ジョーさん、勘弁してよ… それに泣き叫んでねぇし。その前にやったし」
「それな… ホンマ殺人マシーンやったわ、コイツは。おお怖」
「でもホンマ勿体ないわ。あのままエス(陸自特殊作戦群)におれば、また一緒にバチバチやれたのに」
和田三佐が懐かしげに呟く。
「ホントだよ。未だに千倉さん、お前の事話してるよ」
龍也の所属していた小隊の副隊長、千倉一佐。目の前で五杯目の缶ビールを豪快に飲み干している保田一佐とツーカーの仲である。
「それより、小畑小隊長、退職して田舎帰ったって、ホンマか? お前、市ヶ谷でも一緒だったやろ?」
「ええ。信太さん、結局トミさんの事忘れられなかったみたいで。残念です」
「お前ら仲良かったもんな、ホンマの兄弟みたいだったよな」
「田舎って、どこやったっけ?」
「三浦半島の城ヶ島の方です。実家の畑を耕してますよ」
「小畑だけに畑、てか。さすが防大出は違うよな」
「なんすかそれ? それより山瀬さんのお嬢さん、国立受かったってマジですか? 凄いじゃないですか…」
「そうじゃろ、そうじゃろ。あれなあ、……」
宴たけなわとなった頃。真っ赤な顔の保田一佐が龍也に、
「それよりのう。げに(本当に)オマエ育児出来るのか?」
「大丈夫ですよ、俺、施設育ちだし。それに来月から保育園入れるし。今日もお試し保育で預かってもらってんですよ」
「そっか、そやからこの新築マンションで昼呑み、なんやな」
「ええ、まあ」
「いいマンションじゃないか。市ヶ谷ではいい給料もらってんなあ、おい」
「違うって。拓海の生命保険とか機密費とか色々あったんで。それ使わせてもらったんですよ」
田淵一尉がニヤニヤしながら揶揄う。
「それにしても、なんでこんなド下町なんや。もっと青山とか広尾とかに住めばええねん」
龍也は遠い目でリビングから見渡せる谷中墓地を眺めながら、
「そこにさ。眠ってんですよ。あの二人が」
四人が納得顔で頷く。
こうして龍也は二十七歳の春、四歳になった羊の父親となったのだった。花粉症が発症したのもちょうどこの頃からであった。