其の肆
勿論、妙齢の女性の全裸を見慣れていない訳ではない。
だが、生まれたての赤子を抱いた全裸の女性を眺めるのは初めてであった、龍也は唖然とし、
「お、おい。貴様何故、入ってくる? 俺はまだ、入っている、のだぞ」
シェンメイはこれが普通の日常生活の一部のような振る舞いで、
「ロンは器用だからな。上手に洗うんだぞ」
そう言って羊を差し出す。龍也はボディーソープのついた手を慌ててシャワーで洗い流し、恐る恐る羊を引き取る。
「そうだ。手を滑らせたら、殺す」
ヒッと呻き、龍也は羊を保持することに集中する。すると、
しゃーーーー
満足げな顔で羊が龍也に抱かれたまま放尿する。
生温かい尿を呆然と手で受け止めていると。
「ほらな。羊も嬉しがっているぞ。良かったな」
と言って大爆笑するシェンメイだった。
羊を抱えたまま風呂桶の端に腰掛け、シャワーを浴び身体を清めているシェンメイの真っ白な背中を見つめる。
龍也もそうであるが、シェンメイの身体のあちこちに様々な傷痕が見られる。鋭利な刃物によるもの、銃弾の掠った痕。中でも背中の肩甲骨を左右に縦断する傷は見るからに痛々しい。
そのプロポーションは、流行りの言葉で言う「細マッチョ」だ。これは女性に使用すべき用語かどうか龍也にはよく分からないのだが、腕、ウエスト、足は細い。細いのだが、固い筋肉できつく覆われており、人間凶器と噂される『聶隠娘』の一員に相応しい体付きだ。
戦闘に必要のないバストは一応存在はしている。男を喜ばすには今一つだが、娘を育てていくのには全く問題はなかろう。
六つに割れた腹筋の下にあるべき体毛が無いのも龍也的には納得である。何故なら自分がそうであるから。初めてこれを見た拓海はさぞや驚いたであろう、そう思うと口角が歪んだ。
「ロン。羊の身体、洗いなさい」
流石にこんな小さい乳幼児を洗った経験は無く、思わず首を振る。
「自分の姪だろう。何を恥ずかしがっているんだ」
そう言う問題じゃねえよ…
「よし、私が教えてやる。まず、ゆっくりとお湯をこうやって…」
シェンメイの厳しい指導の元、龍也はおっかなびっくり、何とか洗い終えるとどっと疲れた。ホッと一息つき、羊を両手で抱き抱えた瞬間。
ぶりぶりぶり
あああああ… その幼い異臭といい表せない感触に、龍也の切ない悲鳴が浴室に響き渡る。
「ロン。洗い直し、だな。きゃははは!」
大爆笑するシェンメイを恨めしげに睨みつける。おい羊、なんの恨みが俺にあるんだよ…
先に一人浴室を出、冷蔵庫から良く冷えたビールを取り出し、ソファーに座りながら半分程一気に喉に流し込む。これまで受けてきたどんな厳しい訓練後よりも疲労感が甚だしい。
しばらくして、シェンメイが全裸のままで羊を抱えて上がってきた。少しアルコールが入ったせいか、その姿にゴクリと喉を鳴らしてしまう。
「なあロン。育児って大変だろ。疲れるだろ。しんどいだろ?」
シェンメイは龍也の隣に座り、全裸のまま湯上りの母乳を羊に飲ませながら呟く。
「ああ。ホントな。それな」
返事は上の空だ。これぞ究極のエロティズムなのではないか、龍也は全裸で授乳するシェンメイから目が離せなくなっていた。浴室ではなんともなかった龍也自身が、徐々に大きくなっていくのを感じ、慌てて頭を振りながら、
「一つ聞いていいか?」
「何だ?」
「这是中国风俗吗?(これって中国の習慣なのか?)」
「来吧,我知道的不多(さあ。よく知らねえわ)」
「我认为这不是很正常(あんまフツーじゃないぜ、これ)」
「这是一个大便的故事吗?(うんこの話のことか?)」
「停止。 如果它成为一种习惯呢?(黙れ、癖になったらどうしてくれる?)」
二人は笑い声をあげた。発情を抑制するには古今東西ウンコ話が一番である。龍也の興奮が静まっていった。
「シェンメイ。これだけは言っておく。」
たっぷりと母乳を飲み、スースー寝ている羊を起こさないように龍也は囁く。
「何だ?」
「さっき一緒に風呂に入ったこと。拓海には言うなよ」
「何故?」
「…フツー、ダメだろ…」
「そうか? フツーだろ。弟が姪を風呂に入れる。問題あるか?」
「… いや、無い」
「だろ?」
「だがな。そこに嫂子(義理姉)が入って来ちゃダメだろ!」
シェンメイはプッと吹き出しながら、
「やっぱりそうか?」
「オマエ… 拓海が知ったら、マジで泣くぞアイツ…」
「良いじゃないか。姉と弟だぞ」
そう言うものなのだろうか。施設で育ち、普通の家庭を知らない龍也が間違っているのだろうか。仲の良い兄弟姉妹はいい歳になっても普通に共に入浴するのだろうか。
「中国では、姉と弟は幾つになっても一緒に風呂に入るのか?」
「知らん。殆ど一人っ子だからな」
「あ、そうか」
「日本はどうなんだ?」
「知らん。俺は一人っ子だったし、施設で育ったからな」
「そうだった。まあいいんじゃないか。私とロンの仲だし」
「そう、なるのか…」
段々わからなくなってくる。正直、こんな綺麗な姉と風呂に一緒に入るのは恥ずかしい反面嬉しい。だが、倫理上、道義上、兄と慕う友人の妻と入浴するのはどうかと… 今度拓海に聞いてみるか。
「それより。シェンメイ」
「何だ?」
「いい加減、服を着ろ!」
ぶつぶつ言いながら寝巻に着替えるシェンメイに、
「枕と掛け布団、持ってきてくれ」
「何処に? 何故?」
「ここに。ソファーで寝るから」
「それはダメだ。一緒に三人で寝るぞ」
「ハア?」
「川の字で寝るのだぞ。三人で」
良く知っているな、そんな言葉。最近は日本語のイントネーションもほぼ完璧で、彼女が日本人と言っても誰も疑わないだろう。
だが、
「それは流石におかしいだろ。姉と一緒に同じ部屋で寝れるかよ」
「ロンは一々面倒くさいヤツだな。いいから姉の言う事はちゃんと聞け!」
二缶目のビールを飲み干し、間違っているのは俺の方なのかどうか、全く自信がなくなってきた龍也は渋々寝室に入って行った。
寝室は乳の匂いがした。かつて過ごした施設で嗅いだことのある匂いだ。先程高まりかけた龍也の性欲は完全に鎮静化し、彼自身が羊の本物の父親になった気分になってきた。
入り口に近い方の布団に横たわると、シェンメイが龍也の横にウトウトしている羊をそっと、そっと寝かせる。布団に置いた時に少し嫌がってぐずるのだが、優しくシェンメイが撫でるとやがて羊はスースーと寝息をたて始めた。
部屋は暗いのだが、夜間視力が発達している龍也には全てが良く見えていた。
羊の寝顔。
羊の紅葉。
そっと指を伸ばし、羊の頬に触れる。
羊の柔らかさ。
ゆっくりと鼻を羊の頭に近付ける。
羊の匂い。
目を閉じてその全てを脳に刻み込んでいると、不意に違う匂いを感じた。ゆっくりと目を開けると、シェンメイの目が間近にあった。
(どうだ。可愛いだろ?)
(ああ。堪らないよ)
二人は暗闇の中で互いに視線で会話する。
(お前が守るんだぞ。頼んだよ)
(分かっている)
暖かい手が龍也の頭を優しく撫で始める。龍也は静かに目を閉じる。
やがて龍也は、かつてない深い眠りに落ちていった。
* * * * * *
百葉はシャワーを浴びた。養護施設のとは違い、使い方がイマイチよく分からず恐る恐るあれこれいじっているうちに何とか使えるようになる。シャワーヘッドをいじると霧状になったり直噴になったりするのに心底驚く、
ビクビクとシャワーを浴びながら浴室の行き届いた綺麗さに感心していた。髪の毛一本、カビの菌糸一本落ちていたり生えていない。
浴室だけでない、この家は信じられないくらい全てが整理整頓され掃除が隅々まで行き届き、まるで(泊まった事はないが)一流ホテルの客室のようだと思った。
買ってきたシャンプーで髪を洗い、ボディーソープで身体を洗った。浴室から出て買ってきたバスタオルで体を拭き、こればかりは借りたドライヤーで髪を乾かす。
綺麗に磨き上げられた高級そうな鏡の中の自分を見て、施設を出たことを実感した。
見たこともない豪華で高級な浴室、洗面所。これがこれからの私の生活。
リビングに戻ると龍也はソファーに座りテレビを眺めている。
「羊の隣に布団敷いてあるからそこで寝なさい。」
「ありがとうございます… 千葉さんはお布団…」
「ここで寝るから大丈夫。」
「そんな…」
「仕方ない。布団が二組しかないから。ま、明日になれば君の布団が届くから、今夜だけ我慢すれば問題ない」
「は、はあ」
「今日は色々あったから疲れただろう。君の明日の予定は? 俺は会社があるから七時には起きて八時には家を出るけれど」
大学の入学式は四月一二日だ。あと二週間近く、特に予定は無い。
「明日から家事は私が全部やります。羊ちゃんの面倒も私が見ます」
龍也はニッコリと笑い、
「それは助かるよ。保育園が終わって、正直羊の面倒をどうしようか悩んでいたんだ」
「あの子に色々教わりながら、私が全部やっておきます」
「君、料理とか、は?」
「出来ます」
「じゃあ、こっち来て」
龍也は立ち上がり、キッチンに入っていく。そして食器や調理器具の収納場所を教えるながら、
「そっか、全部二人分しかないわ。明日、君の分の食器類を羊と買いに行ってくれるかな?」
どうせ長ったらしい買い物になるのだろう。龍也はその買い物に付き合うのを全力で遠慮したい反面、その二人の買い物振りを遠くから眺めていたい気持ちもあった。
「わかりました。あ、でも私あまりお金が…」
「ちなみに君の全財産は幾らなんだ?」
「三万円くらい、です」
「収入は?」
「国や都、市からの援助が月に五万円くらい、です」
「そうか。学費は払えるのか?」
「四年間で二百五十万円くらいです。その殆どを奨学金で賄いますので学費の心配はありません。それより今後、教科書、参考書、あとノートパソコンなどが必要です」
「なるほど。大体分かった」
龍也はそう言うと立ち上がり、財布を取ってきて一枚のカードを百葉に手渡した。
「取り敢えずこれで必要な買い物をしてくれ、あと君の身の回りで必要な日用品も。暗証番号は羊が知っているので聞いておくように」
百葉は目を見開き、
「それは… ダメです。申し訳ないです…」
「君にはこの家の家事をしてもらう。羊の面倒を見てもらう。だから当然の対価と考えているが。それとも月に幾らか金額を決めた方がいいか?」
「いえ。余りに過分なお申し出に… 混乱しています」
「過分? とんでもない。フツーじゃない小学一年生の面倒見るんだぜ。大変だよ」
施設育ちの百葉には大変でもなんでもなく、むしろこれ程賢い羊とこれから過ごせるかと思うと楽しみでしかない。
「なので。早速そのカードで明日君の分の食器類、あと必要な食材などを買っておいてくれ」
「はい。わかりました… あの。本当に良いの…」
「しつこいな」
「は、はい」
「さ。もう寝なさい」
「はい。では… おやすみなさい」
やはり、ちょっと怖い。でも言っていることは自分を労ってくれているのを十分に感じていたので、これから慣れていくしかない。そう思いながら百葉は頭を下げた。
寝室に入ると羊が並べられた布団を大の字で一人で占拠している。百葉は微笑みながらそっと羊を一方の布団に寄せ、空いた布団に身を滑り込ませた。
嗅いだことのない、野性的な匂いがした。しまった、こちらは千葉さんの使っていた布団だった… これから布団を移ろうにも、羊はもうピクリとも動きそうにないし、一度横たわった百葉は心身ともに疲れ切っており布団を取り換える気力もない。
甘い幼児の匂いと野性的な男の匂いに包まれ、百葉は今日一日の出来事を思い浮かべようとしたが、あっという間に落ちていった。
「…さん、ももはさん、あさですよ。あさごはんですよお!」
目を開ける。ここは何処だ?
「もうしちじですよ。あさごはんをたべなければなりません」
自分を見下ろす少女を見る。誰だこの子は? 莉奈? 優梨?
「ぱじゃまをきがえねばなりません。ようはもうきがえましたよ」
そうだ。この子は羊だ。そうだ。ここは羊のマンションだ。
百葉はゆっくりと起き上がりおはようと言う。そして昨日買った普段着に着替え、羊とダイニングルームに行くと、既に三人分の食事が出来上がっている。
「おはようございます、あの、すみません朝ご飯作って貰っちゃって…」
既にワイシャツ姿の精悍な男がコーヒーを挽いている。百葉に目をやると、一瞬ハッとした表情になる。それからぶっきら棒に
「ああ、おはよう。俺はこれ食べたら仕事に出るから、あとはよろしくな」
「きょうはいそがしいですよももはさん。まずはふたりでおそうじとおせんたくをします。そのあとおかいものにいかねばなりません、ももはさんのしょっきをかいにいくのです。それからくやくしょにいってももはさんのじゅうみんひょうをかえなければなりません」
そうだ、住民票。転入届を出さなければならない。それにしても、この子は…
百葉は食卓につき、手を合わせていただきますをして、
「羊ちゃん、区役所か出張所の場所わかる?」
「はい。しゅっちょうじょはちかいのであんないしましょう」
「ありがと。あ、千葉さん、一つお願いが…」
「何?」
「椅子を、一脚購入してもよろしいですか?」
「そうか、椅子。うん。そうだな。買っておいてくれ」
「わかりました。ありがとう、ございます」
おおおおお、と羊が唸る。
「これで、さんにんでしょくじができます。さんにんです」
「そうだね。羊ちゃん、椅子選んでね」
「おとうさん、よさんはいくらとかんがえれば…」
「あの、中古で、古道具屋で買ってきます、なるべく安いのを」
「は? なにをいっているのですか。よそのひとがつかったものはそのひとのじょうねんがこもっているのでよくないのです。ちゃんとしんぴんをかわねばなりません」
「そんなことないよ。大事に使ったというその人の思いがあればそれはいい家具なんだよ。大事に使われた家具はいい運気を持っているかもだよ」
「でもだいじにされたかどうかなどどうしてわかりますでしょうか。ひょっとしたらぎゃくたいをうけてたかもわかりませんよ。いすにきいてもわかりませんし。ですから…」
「でも勿体ないよ、新品を買うなんて。まだ使えるなら使ってあげなきゃ。これは環境問題にとっても大事なことだよ。まだ使えるなら使うという意識を持って一人一人が行動すれば、地球の環境問題もあっという間に解決するよ!」
「ももはさん」
「なあに?」
「けっこうめんどくさいひとですね」
「は? え? なにそれ!」
コーヒーを挽き終えた龍也が、
「こら羊。論破されたからって感情論に走るなって言ってるだろが」
「ですがももはさんはまじめんどーでして、」
「羊。その話し方」
百葉は口に含んでいたコーヒーを吹き出しそうになる。
* * * * * *
昨夜は百葉の寝息を確認した後、龍也自身もソファーの上ですぐに落ちてしまった。夢を見ることもなくハッと目覚めると朝の七時ちょうどだった。
朝食を作っていると羊が起きてくる。百葉を起こして来いと言う。しばらくして、ダイニングに二人が顔を出す。
寝起きでメガネを外した百葉を一目見て、龍也は凍り付く
シェンメイだ。どう見ても、シェンメイが眠そうに立っている!
持っていたコーヒーポットを危うく落としそうになる。慌ててポットを握り直し、改めて百葉と羊の二人を眺める。母と娘、と言うよりは姉と妹の方がしっくりする。でもそれは羊の大人びた話し方がそうさせているのかも知れない。
じっくり見てみると、百葉はシェンメイほど表情が豊かではない。まだ緊張しているのだろうか。だが、声はそっくりである。顔が似ると声帯も似るのだろうか。龍也はシェンメイの怪しい日本語が懐かしくなってきた。
食事を終え、後のことを二人に任せ龍也は家を出る。今日はJ R日暮里駅から秋葉原まで行き、総武線に乗り換えて市ヶ谷に行く事にする。通勤経路は当然毎日変えている。電車だけでなくバスやタクシーを利用する日もある。
電車に乗りながらスマホを見たり外の景色を漫然と見たりする事はない。常にマインドモードはイエローだ。周囲の通勤客を見定め、駅での乗り降りでの入れ替わりにも気を遣う。情報科の職員なら当然の事である。だが今日の龍也はそうでなかった−気が付くと市ヶ谷駅に到着していたのだ。
駅から防衛省までの道も殆ど無意識のうちに歩いていた。こんな事はこの数年で初めてのことである、それ程朝の光景が龍也にとって衝撃的なのであった。
オフィスに入り自分の席に着く。P Cを立ち上げて、竹岡百葉について調べ始める。
竹岡百葉 国籍日本
平成十二年五月十六日 東京都小金井市にて父 竹岡透 母 竹岡真知の長女として出生
平成十七年三月二十二日 立川市青梅街道上の交通事故により竹岡透、真知死亡
その後三鷹市の児童養護施設『若葉園』に入所
平成十九年四月 三鷹市立三鷹第七小学校入学
平成二十五年四月 三鷹市立三鷹東中学校入学
平成二十八年四月 東京都立多摩第一高等学校入学
平成三十一年四月 東京大学入学見込み
主な賞罰歴 特に無し
龍也は百葉の両親の交通事故について詳しく調べてみたが特に怪しい点はなく、不幸な事故に過ぎなかったようだ。また養護施設の『若葉園』についても調べてみた。創立四十年を過ぎ地域では評判の養護施設であった。H Pの園の行事コーナーのクリスマス会の写真に、まるでアイドル姿の百葉が載っていた。
父親、母親の戸籍を辿ってみたが、特に不審な点は見つからず−二人とも一人っ子であり、二人の両親も鬼籍に入っているので、百葉は正真正銘の天涯孤独である事が確認された。
「天涯孤独、か…」
昼休み。中庭のベンチで一人軽い食事をしながら呟く。
「あれあれあれ−千葉さん、またボッチ飯ですかぁ−」
龍也は軽く舌打ちをする。同じ課の船橋絵梨花三尉がいつものようにヘラヘラしながら歩いてくる。ピンクの小さな手提げには弁当箱でも入っているようだ。ペタっと龍也の横に座り、
「誘ってくださればぁ、ご一緒しましたのにぃー」
頭の悪いO Lのような喋り方に彼女が配属された当初は業務上以外のことで口をきかなかったものだった。何故こんな女がうちの課に? 課長の香取三佐に何度か苦情を入れたのだが、彼女はI T関係のエキスパートであり、東京理科大学卒業の俗に言う『リケジョ』であった。学生時代は第五世代のインターネット通信の研究をしていたとかで、彼女のI T関係の知識は今やこの課の、いやこの省にとってなくてはならない存在となっている。
高校二年生の時にとある企業へのハッキングで書類送検の前科があり、就職活動は全敗、大学の教授の勧めで防衛省に入った経緯がある。
インターネットの裏社会にも精通しており、一時期は伝説のハッカーとしてその道では大変有名な存在だったらしい。
「たまにはぁーお昼ご飯どっか連れて行ってくださいよぉー」
いつもなら完無視なのだが、
「船橋。後でちょっと調べて欲しい事があるんだ」
「わーー、なんですかぁー」
「ある個人のメールとかS N Sの履歴を洗って欲しいんだが。あと出来れば交友関係も」
「お安い御用ですよおー で誰のですかぁ? 矢部総理? トリンプ大統領?」
「…オマエならホントにやっちまいそうだな… いやいや。ただの女子大生だ」
「なーんだつまんなーい。千葉さんもヤキがまわりましたねぇー」
「は? なんでだよ?」
「去年やった中国大使館とかー32069部隊とかー そーゆーのじゃないと絵梨花燃えないんですよぉー」
「燃えなくていい。フツーに洗ってくれればいいから」
「それって、業務上の調査ですかあ? 千葉さんの個人的なのですかあ?」
「…こ…個人的、かも知れない…」
船橋が体を寄せ龍也の耳元で
「どーしよーかなぁー」
龍也は十五センチ平行移動し、そっと囁く。
「来週、ランチ、奢る…」
船橋は十六センチ平行移動し、龍也の肩に手を乗せ
「ぜったいですよおー いっつもドタキャンばっかり。ホントにぃ千葉さん絵梨花のこと好きなのかなぁー」
ある分野で突出した異能を発揮するものは、それ以外の分野ではダメな人間である事が多い。この船橋絵梨花も頭のネジをどう巻き違えたのか知らないが、龍也が自分に気があると信じ込んでいるのだ。この件も何度も香取課長に苦情を申し立てたのだが、いつも一言。
「我慢しろ」
上官の命令はこの世界では絶対である。故に龍也は我慢している。これがもし少しでも容姿が整っていて少しでも常識的な女性ならば、特殊部隊で鍛え抜かれた龍也なら容易に我慢出来るだろう。だが−彼女の容姿は、恐らく基となる元素には問題はない。だが時代離れした化粧、現実逃避としか思えないファッションセンス、そして永遠の厨二病患者である彼女は龍也にとっては忌避すべき『脅威』でしかない。
「それでー、対象の情報くれますかあー」
「後で、渡す。」
「じゃあ、そろそろ戻りましょぉー」
龍也が立ち上がり部屋に歩き出すとそのすぐ後ろを船橋が続く。すれ違う人々が例外なく龍也に同情の視線を投げかけた。
「こんなもんかなぁ。はい千葉さんっ」
部屋に戻り一時間後。船橋は千葉の机に五枚ほどの書類を滑らせる。
「ぜーんぜん面白くないっこの子。一体なに調べてんですかぁ?」
百葉が所有するメールアドレスは一つのみ。S N S関係はラインだけ。交友関係は養護施設の関係者、学校の教師、学校の友人が数名。よく連絡を取る教師、都立多摩第一高等学校の野田珠代、四十二歳。思想信条に問題なし。よく連絡を取る友人は三名、全員女子。連絡内容は他愛もないごく普通の女子生徒の会話。百葉は最近スマホを入手したらしく、それを喜ぶ友人とのやりとりが数週間続いている。
昨日の出来事も既に簡単に友人たちに報告しており、友人たちは大変心配しているようだ。
インターネットの履歴も特筆すべき不審なものは見られず。今日は中古家具、谷中、をキーワードに検索をした形跡がある。
以上の情報より百葉が意図して龍也と羊に接近したのではない、と判断した。
龍也は履歴その他を全て消去または削除し、プリントアウトされた報告書をスレッダーに放り込み、直属の上司である香取課長を誘って近所の喫茶店に向かった。
龍也が小さな声で概略を話終えると、
「そんな小説やドラマみたいな事あるかよ。もっとちゃんと調べてみろ… ってお前に言う言葉じゃねえわな」
「はあ、まあ」
「市原神美そっくりの女子大生が現れ、同居することになった… 怪しい。怪しすぎるぞ」
元は陸幕情報部の香取三佐が声を潜めて首を振りながら呟いた。龍也のいるこの情報課の創設に携わった陸自きっての情報員だ。
「俺の方でも竹岡について調べてみる。偶然にしては余りに、だからな」
「お願いします」
「それにしても羊ちゃん、もう小学校かよ… 早えなあ年月が流れるのが」
「今年で七歳ですよ」
「こないだまでオムツしてたのに、なあ」
龍也と香取は黙り込み、大きな窓の外の景色をぼんやりと眺めた。
* * * * * *
二〇一六年 夏。
「市原拓海の監視体制に何か問題は?」
龍也の上司である香取三佐が事務的に尋ねる。
「特にありません」
「最近、『聶隠娘』を入籍したらしいな?」
「北京も合意の上です。市原の母親はブチ切れた様ですが」
この年に行われたアメリカ大統領選挙の結果、予想外の共和党トリンプ大統領が誕生し、米中関係は一気に緊迫した。
魚釣島事変後、日中関係は表面上は激しく対立している風だったが、裏では北京の周体制と日本の矢部内閣は緊密な関係を保ち、市原拓海はその重要な鎹であった。
それが米中関係の緊迫化に伴い、日本の立ち位置にも微妙な影響が出てくる。即ち米国の同盟国として米国と共に中国と対立するのか、それとも米中の間を取り持ちこれ以上の関係悪化を防ぐのか。矢部内閣の方向性は世界の注目の的であった。
一方共産党内の争いは北京の周派が大勢を占める状況となり、党内の権力争いは新たな局面を見せ始めていた。即ち超大国アメリカと真っ向勝負を挑もうとする周派と、それを阻まんとする反周派の闘争の激化であった。
「ただ一つ、不穏な動きが報告されています」
「千葉。言ってみろ」
「アメリカが広州と関係を強化する動きがポツポツ見られます」
「なる程。アメリカ得意の「切り崩し」作戦か。広州が、動くかもしれないな、日本で」
「ええ。相当数の『工作員』が日本に入り込んでいるようです」
「アメリカの支援、協力の下で周派を潰していく。それも本土外で。市原が狙われるのは自明か」
「まあ… そうですね」
「でも市原には『聶隠娘』が付きっきりなんだろ? かなりの手練れじゃない限り心配ないだろうが?」
「いや。もうすぐ四歳になるの娘がいますので。そこが弱点ですね」
「市原羊ちゃん。母親似の、スッゲー美人になりそうだなオイ。お前ちゃんと守ってやれよ」
「言われなくても…」
* * * * * *
「おい。写真見せてみろよ。羊ちゃんの!」
龍也はスマホの画像を何枚か香取に見せると、
「ほらな、俺の言った通りだろうが! メチャクチャ美人ちゃんじゃあねえかよ。ああ、俺が引き取ればよかった… って… 嘘だよウソ。そんな睨むなや。それと? その竹岡百葉の写真は? 本当にそんなにそっくりなのか?」
昨日何枚か隠し撮りした写真を香取に見せながらコーヒーを一口啜る。
「? 似てるかー? 雰囲気は、まあ何となく似てるけど…」
「実物見たら驚きますよ。瓜二つです」
「そうか。よし、じゃあ今度谷中まで拝みに行くかな」
「そうしてください。紹介しますよ」
「王神美と生写しか。ちょっと楽しみだな」
香取が龍也のスマホを放り投げて返した。
課に戻り時計を見ると五時だった。片付けを済ませ龍也は席を立ち、帰宅のシミュレーションをしながら省を出た。だがいつの間にか思考は過去の思い出にすり替わり、気が付くと龍也は皇居の内堀の辺りを歩いていた。
そう。初めて二人きりでシェンメイと出会ったあの場所で、龍也は立ち尽くしていたのだった。
王神美。
龍也にとって最愛の姉
そして、最愛の女
そのシェンメイと生写しの女が家に居る
羊と一緒に俺の帰りを待っている
俺はこの先彼女とどう接していけば良いのだろうか
消えた筈の淡い炎が小さく心に灯り始めた
なあシェンメイ、拓海
俺はどうすればいいんだよ
俺たちはこの先どうすればいいんだよ
龍也は仄暗い千鳥ヶ淵に向かい、心の中で絶叫していた。
* * * * * *
掃除と洗濯を済ませ、百葉と羊は買い物に出た。マンションの部屋の掃除は初めての経験であり、養護施設には無かった諸設備に百葉は多いに戸惑った。
「ももはさんがでぃすぽーざーをしらなかったのにはきょうがくしましたよ。うけるー。」
「知らないよーあんな便利な設備があるなんてー」
ある程度の生ゴミはキッチンのシンクに付属のディスポーザーに放り込んで処分出来ることを百葉は全く知らなかった。朝食の片付けの際に出た生ゴミを普通ゴミとして処分しようとして羊と激しい言い争いとなったのだった。
最終的に羊がスマホでディスポーザーの存在と利用法を百葉に提示し、百葉は羊に大きな借りを作ったのだった。
他にも、存在は知っていたのだがロボット掃除機には心底驚かされた。その動きと実務能力に見惚れて羊に散々バカにされた。
浴室乾燥に至っては最早感動しかなかった−これならこの春雨や梅雨の時期の洗濯も問題無いし、かつ浴室のカビの防止にもなる。
リビングの床暖房の存在は夜を待たねばならなかったのだが。
掃除を終え二人は買い出しに出る。
「でもさ、こんな高級マンションに住むなんて。お父さんは若いのにお金持ちなんだね。そういえばさ、お父さんお仕事はなにをしているんだっけ?」
高校時代の友人に昨日からの騒動を簡単に報告すると、三人が三人とも『その人、何者?』と聞いてきたものだった。
「それはちょくせつほんにんにきいてください。ようのくちからははなせません」
「は?」
「ようにはしゅひぎむがあるのです。したがっておとうさんにももはさんがちょくせつきいてください」
「わ、わかったよ。じゃあそうする」
百葉は一気に不安になってきた。年の頃は三〇歳前後か。実子では無い娘と谷中の高級マンションで暮らしている。部屋の中は限りなく質素だし着ている服とかもそれ程高級なものではなさそうだ。
だが娘に自分の職業を口封じするとは。絶対に堅気では無い。まともな職業では無い。に違いない。うん。絶対そうだ。
自覚はないのだが思い込みが激しい百葉は、羊の父親の正体を勝手に妄想し、一人不安の坩堝に飛び込もうとしていた。
「ただ。ひとついえることはおとうさんはこのくにをまもるためにまいにちがんばっているのです。とてもとてもたいへんなおしごとなんです。なのでももはさん、おとうさんがしごとからかえってきたらやさしくおかえりなさいませごしゅじんさまといってあげてくださいね。きっとよろこぶとおもいます」
国を守るお仕事? なんじゃそれ? 国を守るって、政治家? 官僚? そんな風には見えなかったな。一体どんなお仕事をしているのだろう、クェスチョンマークが幾つも百葉の脳裏に浮かんでくるのであった。まあいいや、今夜にでも聞いてみよう。そう決めた時、羊がスマホで調べてくれた中古家具屋が見えてきた。
「ここですよ。ももはさんのだいすきなちゅうこかぐやさんです」
べ、別に好きなわけじゃないし。百葉は羊にベーと舌を出した。
ところが意に反して羊がこの店にハマってしまったものだ。
「ももはさんももはさんももはさん… な、なんということでしょうか… こ、こんなりっぱなべんきょうづくえが7000えんですよ… ありえません、ああ、このあいだおとうさんにかってもらったつくえが50000えんでした… 7ぶんの1ですよ! しんじられません。まだこんなにあたらしいのに…」
ちょっと待って。今更驚きはしないけれど、今この子サラッと割り算したよね?
「じゃあさ。この机のこのお値段。税込だとしたら、本体価格はいくらかな?」
羊は目をキラリと輝かせる。
「なかなかいいしつもんですね。えーとしょうひぜい10ぱーせんと、7000わる1.1だからーーーーーえーとーーー6300えんくらいですかね」
「いいね。じゃあさ、羊ちゃんこんなの知ってる?」
百葉はスマホの電卓アプリをタップする。7000÷1.1を計算してみせる。
「見て。6363、636363…だよね」
「ああ、6363えんでしたか。」
「8000円だとね。こうなるんだよ」
「ほう。7272、72727272…」
「では。6000円だと−」
「おおおおお! 5454、54545454545… こ、これはももはさん、もしや10000えんですと、9090、909090…になるのでは?」
「大正解! ほらね」
「んぐぐぐぐ す、すごいほうそくです… ようはちっともしりませんでした… さすがとうだいにゅうがくよていのももはさんです!」
「よ、予定言うな!」
凄い。やはり、この子はズバ抜けている。自分の六歳の頃よりも遥かに。
百葉は改めて羊の恐るべき能力に感服すると同時に、羊と自分を重ねてみる。自分はこの子と同じ歳ぐらいに両親を失くした。しかし施設の保護司や年長者を始めとする周りの暖かい手助けにより今を迎えることが出来た。それに引き換え、この子はどうであろう−
確かに地頭の良さは素晴らしい。こんな頭の良い子は見たことがない。そこら辺の高校生よりも確かな知識を持っている。周りも物凄くよく見えている。だが。この子の周りには『環境』が無い。父親は仕事で常時不在。間もなく始まるであろう小学校もこの子の旺盛な知識欲を満たすことは出来ないであろう。
百葉の周りには常に自分よりも遥かに年上の中学生、高校生のお兄さんお姉さんが存在し、知りたいことは何でも教えてくれたし、必要ならば本、参考書なども与えてくれた。
羊の今の環境では、住環境は申し分ないが、彼女の本当に欲するものが何もない。家の中には絵本どころか小説一冊置かれていない。せいぜい最近手にしたスマホぐらいなものであろう。これではあと数年もしたら周りに流され凡庸な大人とならざるを得まい。
自分に何が出来るだろう。
自分ならば、何を彼女に与えられるだろう。
スマホの電卓機能に集中している羊を見つめながら、百葉はじっと考え込んでいた。
結局。税抜き12000円の椅子を店主と交渉を重ね、税込10000円で購入する。しかも今日の夕方、家まで届けてくれると言う。
「いやあ、今時珍しい子だよアンタ。イケアだのニトリじゃなくってさ、こんな下町の古道具屋で良いものを少しでも安く欲しいなんてさ。この椅子はね、イタリア製の本当なら何万円もする極上品なんだぜ」
「いたりやのいすはそんなによいのですか。にほんせいよりもよいのですか?」
「おじょうちゃん。この皮の部分が違うんだよ。触ってみ。な、このしっとり感が全然違うだろ?」
「おおお。たしかにしっとりしています、わがやのリビングのソファーとはおおちがいです」
「それによ、木が違う。なんとも優しい手触りだろう?」
「おおおおお。なめらかなてざわりです。それにこころなしかあたたかみをかんじます」
「わかってんじゃねーか。まだ幼稚園かい? お嬢ちゃん」
「もうすぐしょうがくいちねんせいですがなにか?」
「お、おお。そうか。そんなら覚えとけよ。椅子ならイタリア製。わかったかい?」
「わかりました。おとうさんにもおしえてあげます。いすをかうならイタリアせい」
「おう、それがいいや。また来てくれよ、待ってるぜ、別嬪ちゃん」
羊は興奮しつつも顔を傾け
「べっぴんとはなんですか?」
「可愛こちゃん、ってことさ」
「おおお。おせじがじょうずなおじさんにはきをつけねばなりません…」
「ぶはっ こいつは一本取られたわ。じゃあ四時くらいに持ってくからな!」
そうなんだ、イタリアの家具は良いのか。百葉も初めて知った。
昼ご飯は羊のリクエストで中華料理となった。これも谷中で昔からの店で、昭和感溢れる古いながらも懐かしさを覚える雰囲気である。
「あら羊ちゃん、いらっしゃい。あれ、お姉ちゃんいたっけ?」
「おばさんこんにちは。このひとはきのうからいっしょにすむことになったたけおかももはさんなのです」
「へー。そうなんだ。さ、こっちにお座り。いつもの炒飯にするかい?」
「はい。ももはさんはなににしますか」
あまり外食をしたことのない百葉は二日続けての外食に少しワクワクしている。中華料理はチェーン店しか入ったことはなく、メニューを開きその品数の多さに目が回りそうだ。よくわからないのでランチ定食を頼むことにする。
「羊ちゃんはよく外食するんだ?」
「そうですね、おとうさんのしごとがおそかったときやしゅうまつはよくがいしょくとなりますかね。でもふだんはおとうさんがおりょうりをつくってくれます。まああじはそこそこですかね。こんやはももはさんのおりょうりたのしみですよ」
「そこそこって… 羊ちゃん、何が食べたい? 好き嫌いはあるの?」
「からいものはにがてです。でもきほんてきにすききらいはありません、ただ…」
「ただ?」
「なぜかときどきむしょうにからいまーぼーどうふがたべたくなるんです。まーぼーどうふだけはからくてもたべられます。でも…」
「でも?」
「いろいろたべてみたのですが… ようのたべたいあじとはちがうんです、ぜんぶ」
「そうなんだ。ねえ、どうして麻婆豆腐なんだろうね?」
「わかりません。おとうさんにきいてもちゃんときいてくれないのです。おとうさんはそこそこりょうりはつくるのですが、」
そこそこって…
「なぜかちゅうかりょうりだけはなにもつくれないのです」
そんな馬鹿な。
「なのでちゃーはんやぎょうざがたべたくなったらここにくるのです」
「何でだろう。チャーハンなんて簡単に作れるのに。餃子はちょっと面倒くさいかな。麻婆豆腐だって、簡単に作れるんだけどな… でも。羊ちゃんの食べたい麻婆豆腐って、どんな感じなんだろうね?」
「んーーーーわかりません… ここのおみせのもちがうんですよ…」
百葉はサッと周りを見回すと、二つ隣のテーブルの職人達の一人が麻婆豆腐を食べていた。百葉は立ち上がり、そのテーブルに近付き、
「あの、申し訳ありませんが、その麻婆豆腐を一口分けていただけませんか?」
顔を上げた職人が口をポカンと開けて固まった。羊が百葉の洋服を引っ張りながら、
「ももはさん、なんというしつれいなことを… おにいさんもうしわけありません、このひとはこのまちにきのうきたばかりでして、たにんのごはんをもらってはならないというこのまちのしきたりをりかいしていないのです。どうかおゆるしを」
四人連れの職人が硬直後に大爆笑し、
「まあ良いじゃねえか。ほら一口だけだぜ」
「こら松。この街のしきたりを破るんじゃねえよ」
「そうだぞ松。お前はもうこの街にはいられねえ」
羊が真っ青になって、
「ほらいったじゃないですかももはさん! このおにいさんはやなかはずれになってしまいました!」
店内が大爆笑に包まれる。
百葉はしかし狼狽えもせずに職人に礼を言い、小皿に分けてもらった麻婆豆腐を自分のテーブルに持ち帰って、
「さ、羊ちゃん。ちょっと食べてみて。それで何が足りないのか言ってみて」
羊は半分呆れ半分尊敬の眼差しで、
「も、ももはさんは、すごいひとですね…」
「へ? なんで?」
「このじょうきょうでもぜんぜんへいきなたいぷのひとなんですね」
羊はやや引き気味で百葉を繁々と眺める。
「でもだって、羊ちゃんの食べたい味を見つけなきゃ。だから色々な麻婆豆腐を味わってもらわないと私作れないじゃん」
「へ? ももはさんが、つくる?」
「そうだよ。羊ちゃんが何故か食べたいと思う麻婆豆腐、作ってあげるよ」
羊はポカンと口を開けて百葉をしばらく見つめる。そして意を決したかのように小皿の麻婆豆腐を一口食べた。
* * * * * *
結局龍也は靖国通りを神田まで歩き、そこから京浜東北線で日暮里に着いた。羊から何時に帰宅するかとラインが入り、もうすぐ家に着くと返信し、坂道をゆっくりと登り始めた。
既に昼間の喧騒はすっかりと影を潜め、都会とは思ぬ静けさが龍也を覆う。街灯に照らされたソメイヨシノは既に五分咲き程、羊と百葉の入学式の頃には満開となっているに違いない。
マンションのエントランスをくぐり、郵便受けをチェックするも何も入っていなかった、羊と百葉が気を利かせて取り込んでくれていたに違いない。
エレベーターを降りると中華料理の香辛料の匂いが漂ってきた−匂いを辿るとどうやら自分の部屋からのようだ。すると百葉は今夜中華料理を準備しているのか。電車の中でリセットした切ない想いが瞬く間に龍也に襲いかかってくる。
龍也は回れ右をしエレベーターに乗る。マンションを出た頃に、急用が入ったので夕食は要らないとラインをする。すぐに既読が付き返信が入ったがそれを無視してスマホを上着のポケットに放り込み、龍也は駅に向かって歩き出した。
そうなのだ。龍也は拓海とシェンメイが亡くなって以来、所謂本格的な中華料理が食べられなくなっているのだ。街の中華料理なら大丈夫、何故ならシェンメイが使っていたような本格的な香辛料が入っていないから。
八角、花椒、草果… シェンメイが自在に使いこなしていた香辛料の匂いを嗅ぐと、龍也はどうしても二人のことを思い出してしまう。拓海の部屋で食べた火鍋。回鍋肉。水煮牛肉。口水鶏。そして−麻婆豆腐。
羊が離乳した頃、何とシェンメイは大人でも辛く感じる麻婆豆腐を羊の口に入れていた−ビックリして止めようとすると、
「これでいいんだよ、小さい頃から慣れさせるんだよ」
と言って泣き叫ぶ羊の口に躊躇わず放り込んでいたものだった。拓海曰く、
「これが普通らしいよ。向こうでは」
信じられない、と首を振りながらも龍也は麻婆豆腐を汗を流しながら口に運んでいた。
その光景がどうしても龍也の脳裏に浮かんでしまうのだ。だから龍也は本格的な中華料理、特に四川料理は一切口にしなくなっていた。
シェンメイは北京育ちの筈、何故四川料理を得意とするのか聞くと、
「私の母が四川から来たんだよ。成都で生まれ育ったのさ」
父と共に北京の公安(警察)で働いていたシェンメイの母親は、自分のルーツをしっかりと娘に伝えていたのだ。故に、いつかは羊にもそれを伝えるべきだとは思うのだが、龍也自身がまだ吹っ切れておらず、羊の祖母、母親と受け継がれてきたものを羊に伝えることを先延ばしにしているのである。
定食屋で夕食を済ませ、八時過ぎにマンションに戻ると龍也の部屋のフロアは未だに香辛料の匂いがした。かつてシェンメイに禁じられた溜息を軽くつき、部屋の扉を開ける。
その瞬間。軽い目眩を感じる−ここは何処だ? 半蔵門の拓海のマンションなのか…
部屋の匂いはそう、あの頃と全く同じ匂いがする。早足でリビングに入ると、そこには−
エプロン姿の、シェンメイがいた−百葉が、いた。
食卓には見慣れない椅子がある。イタリア製なのか、この家のシンプルなダイニングテーブルには相応しくない立派なものだ。テーブルには何皿も、あの麻婆豆腐が盛られている。全てが現実とは思えない−
龍也が呆然と立ち尽くしていると、
「おとうさん! おとうさん! たいへんです、たいへんなのです!」
羊がスプーンを片手に嬉しそうな顔で捲し立てる。
「このあじです、このあじなんです! ようがたべたかったまーぼーどうふなのです!」
定食屋で腹を満たした筈なのに、龍也の腹がキュウと鳴る。着替えもせずに龍也はフラフラと食卓に近寄り、椅子に座る。
「ああ、そこはももはさんの…」
羊の悲痛な叫びも耳に入らず、龍也は目の前の三種類の麻婆豆腐を食い入る様に眺める。ああこの匂い。間違いなくシェンメイの麻婆豆腐がある。
百葉が小皿とスプーンを龍也に渡すと、龍也は何も言わず手前の皿から一掬いし小皿に盛る。そしてゆっくりと口に運ぶ。
これは違う。豊かな風味と香ばしさは更なる食欲を啜るのだが、味噌の風味がする所謂日本式の麻婆豆腐だ。それでも小皿は瞬く間に空になる。
右隣の皿から一掬いする。一見して広東風だ。オイスターソースがよく効いており、ご飯が欲しくなる。これもあっという間に平らげてしまう。
そして最後の一皿。これは、見た目からして四川風だ。小皿に取り寄せ、鼻を近づける。不意に鼻の奥が鳴る。視界が少しぼやける。シェンメイの麻婆豆腐に、違いない。
口に運ぶスプーンが震える。口に入れる瞬間、懐かしい花椒の香りが鼻腔を擽る。ゆっくりと龍也は目を閉じる。舌の上から徐々に痺れにも似た辛さが伝わってくる。
「これです、これなんですおとうさん! ようがずっとたべたかったあじなんです!」
そうなんだ。この味なんだよ。お前が知るべき味なんだよ。
すまん、羊。本当はもっと早くこの味を味わせなければならなかった。
でも俺には出来なかった。だってこの味はさ、
お前の母さんの味なんだから
俺の姉貴の味なんだから
そして、この世で最も愛していた女の味なのだから
龍也の両眼から涙が零れ落ちる。鼻を啜る音がダイニングに鳴り響く。羊と百葉は仰天して凍りついている。龍也は嗚咽が止まらない。それでも皿にスプーンを伸ばし小皿に盛り付けては口に運ぶ。シェンメイの味。愛した女の味。呆然とする二人が見守る中、四川風麻婆豆腐は龍也が完食したのだった。