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谷中ものがたり  作者: 悠鬼由宇
3/6

其の参

「どうしたのロン、もう仕事は終わったのか?」

シェンメイはジョギング若しくはウォーキングの格好でタンクトップにスパッツ姿だ。いつもの明るい笑顔で龍也に話しかけた。

「シェンメイこそ、一人でウォーキングかい? 拓海は?」

「仕事だよ。最近は遅くまで、ずっと」

日は完全に落ち、遠く丸の内のビル群の夜景が千鳥ヶ淵の水面に綺麗に揺れて美しい。都心では奇跡的な濃い緑の匂いが立ち込めている。生暖かい風が二人の頬を撫でた時、龍也はシェンメイの隣に腰掛けた。そして囁く様に、

「クイロン」

シェンメイが一瞬目を見開く。

「こないだ君は俺をそう呼んだよね」

龍也がシェンメイの瞳を覗き込む。彼女の瞳の奥が微かに震える。

「你是谁?(君は誰なんだい)」

「你的发音很漂亮(発音がきれいね)」

没关系そんなのどうでもいい 比起那个来说それより

「ロンは知っている、私が誰か。そうでしょ?」

龍也はゴクリと唾を飲み込んでから、

「美蛇。」

シェンメイの瞳が鈍く光る。未だかつて見たことのない、見たものを一瞬で凍らせる程の冷たい、いや冷徹な視線。

「日本のインテリジェンス、なかなかやるね」

シェンメイが悪戯っ子の様にニヤリと笑う。顔は笑っているがその視線は変わらぬ冷酷な光を湛えたままである。

「你来日本是为了什么?(君は何をしに日本に来たんだ?)」

シェンメイの顔から完全に表情が消える、無機質なロボットの様に。

「それは日本の情報人の質問か? ロンの個人の質問か?」

龍也は暫く考え、

「这是我个人的问题(僕の個人的な質問だ)」

わかった


シェンメイが立ち上がり、ゆっくりと丸の内方面に歩き出す。龍也はシェンメイの右隣やや後方を音も無く歩く。

「流石だね、クイロン」

「什么是?(何が?)」

「その歩き方も、その中国語も、『特戦群』で学んだか。流石、『魚釣的鬼龍』だな」

「没关系 你为什么(どうでもいい。それより君は何故…)」

千鳥ヶ淵沿いの緑道を進んで行き、シェンメイは交番のある千鳥ヶ淵交差点を左に曲がり、薄暗い代官町通りの緩い坂道をゆっくりと登って行く。緑の匂いが更に濃くなってくる。

歩道よりも一段高い舗装されていない道に登り、首都高速を眼下に更に進んでいく。やがて前方に深く暗い森が現れ、シェンメイはスタスタと暗がりに溶け込んでいく。車の音が小さくなり、圧倒的な濃い緑の匂いに押し潰されそうになった時、シェンメイの歩は緩み、そしてポツリポツリと語り出す。まるで深き森に佇む精霊に問いかける様に…


「私は北京で生まれた。父と母は公安(警察官)だった」

是这样吗そうなのか

「私が小学生の時、新疆ウイグル人のテロで死んだ」

「真?(本当か?)」

「私はテロを憎んだ。父と母を殺したテロリストを憎んだ。高校を卒業した後、人民武装警察に入った」

「……」

「頭をハゲにした。厳しい訓練を済ませた。人殺しの訓練を済ませた。座薬(座学か?)もいっぱいした。仲間はどんどんいなくなった。二年間の訓練で私は最後まで残った。それからテロリストをいっぱい殺した。その度に出世した。そのうちにテロリストだけでなくて、党にとって良くない奴を殺した。そう言えば日本人も一人殺した。拓海の先輩か。私は小隊の隊長になった。知ってるだろう、私の部隊」

「聶隠娘。」

「だが去年、上司に呼ばれた。話によると、日本に潜入しろと。誰を殺すかと聞くと、殺すはしない、守れと。将来党と日本政府が上手くやるのに必要な若い外交官。それがー」

「市原拓海。您保护什么?(市原拓海を何から守るんだ?)」

シェンメイは北の丸公園の深く暗い森を更にゆっくりと進んでいく。龍也は一つ深呼吸をする。鼻腔からの黒く深い緑が肺の気泡を満たす。シェンメイが振り向き龍也を眺める。

「没感叹(溜息じゃ無いぞ)」

「你是否记得(ちゃんと覚えてたんだな)」

不意にシェンメイが龍也の腕をとり体を密着させる。緑の匂いにシェンメイの香りが混ざり合う。前方から二人組の警察官がやって来る。龍也は腕を振り解き、左手でシェンメイの左腕を握る。細いながらよく鍛えられた筋肉質の腕だ。左手を腰に回し更に身体を密着させる。

仕事帰りのサラリーマン姿とウォーキング姿のカップルに警官は一瞬ギョッとした視線を送ってきたが、やがて視線を外し後方に歩み去っていった。

それを確認した後、シェンメイは呟く様に

「広州から、だ」


昏き深い森を歩きながら、龍也はシェンメイと拓海の立ち位置を完全に把握した。

シェンメイを日本に送ったのは国家主席、周金兵一派であった。

現在広州のある広東省の共産党のトップは反周金兵派の楊仙明であり、北京から遠い広東省は反周派勢力が優勢であった。北京の周派はそれを良く思わず、様々な切り崩し工作とそれへのカウンターメジャーで実の所現在の広州は両派閥の権力争いで混沌としているのだった。

昨年まで広州日本領事館に在籍していた拓海はその人柄、その能力によって周派、反周派両陣営から引く手あまただったらしい。

「拓海非常受欢迎(拓海は人気者だったんだな)」

「そうよ。王一平も拓海にゾッコンだったよ」

龍也は軽く吹き出し、

「ゾッコンって。你知道的这样的短(よく知ってるね、そんな言い回し)」

両陣営共に、近い将来拓海が中国と日本の国交の鍵になると評価し、悪く言うと『支配下』に拓海を置こうとしていた。

「広州は焦ったのよ。中々自分達のモノにならないから。そしてもし拓海が北京派になったら彼らにとってそれは大変な恐怖になる。だから拓海が北京派になったらー」

広州の反周派は拓海を消すつもりらしい。

「そこで私が選ばれたの。北京は拓海と王一平が仲良いの知ってたから、まず私を王一平の娘にした。王神美という名前になった。一平は党幹部になった。勿論、北京派だ。そして更に拓海に接近した。超仲良しになった。私は広州で二度拓海と会った。私は高校生と言って、来年日本に留学したいと言った。面倒見るよ、約束した。私と一平に」

任期を終え帰国した拓海に広州の反周派は接触を続ける。同時に周派である王一平に接触し、反周派に寝返る様脅迫した。曰く、娘の留学中の安全を保証しない、と。

「おかしいよね。広州も一平も、私が本当は誰だか知らないのだから」

養子である娘がまさか世界的な暗殺者とは知らない王一平は簡単に落ち、今は反周派として広州の利益となるべく世界を飛び回っているのだった。

「你和王一平有关系吗?(キミは王一平と、関係を持っていたのか?)」

「男に近付く。男は私と関係したくなる。関係すれば後は私の思い通りになる。それが私の部隊のやり方だよ。知っているだろう? 王は私に夢中。私が危険になれば王は辛い。簡単に広州の手に落ちたんだよ」


龍也は立ち止まり、暗がりの中でシェンメイを睨みつける。

「拓海も、その手で落としたのか?」

シェンメイは変わらぬ冷徹な無表情で、

「初めはな」

そう呟いた。そして、その表情が徐々に動きを取り戻し、やがて嘗て見たことのない哀しげな表情で、

「初めはな、この身体で落とした。それが私の仕事だったから。だけどな、私は失敗した。間違った。拓海を愛し始めた。何故? 何故だと思う、鬼龍!」

視線を外さずに首を振る。

「拓海はな。私の正体を全て知ってたんだ。途中から、な」

「なん、だと…」

「それでも… 拓海は、変わらず、いやそれまで以上に私を愛し始めた。こんな私を。人を何十人も殺してきた、この私を」

想定外の話に、龍也は疑いを持つ。当然だ、諜報員として。

「そうしたら、こんな事になると思う?」

呻く様に呟きながら下腹をそっと摩った。

ああ… 確かに、工作員が対象の子を妊娠したなんて話、聞いたことがない。ましてや世界的暗殺集団の一員が、だ。

「この先、君はどうなる? 拓海はどうなる?」

「日本は拓海をどうするの? 私をどうするの?」

「どうもしないさ。君の存在もごく一部の情報機関の人間しか知らない」

「そう。ならば、広州の出方次第だよ。奴らが拓海を消そうとするなら、私は拓海を守る。この子も守る。それだけだ」

明白了わかった


二人は再び歩き出す。森の切れ目から煌々と輝く武道館が見えてくる。今夜も誰かのコンサートがあるのだろうか、スタッフらしき人々がテント周辺を行ったり来たりしている。

「予定日はいつなんだ?」

「予定日?」

「その子が生まれる日」

「ああ。十二月だよ。クリスマスの頃だよ」

「そうなのか」

「ロン。我的弟弟。私に何かあったとき、この子の事は、ロンが守ってね。約束だぞ」

「シェンメイ。我的姐姐。わかった」

シェンメイが龍也にそっと抱きついた。その感覚は昔香世と交わしたものにとても似ていた。

「ところでシェンメイ。君が本当は二八歳ということも、拓海は知っているのかい?」

「クイロン。私は七種類の即死できる毒を日本で見つけているよ。試してみるか今…」

二人は顔を見合わせ、大爆笑した。


「ウッヒョー この子めちゃ可愛くね?」

「ソープ行くのやめて、この子にお願いしちゃいません、リョーさん?」

「それナイスゥー いやー、今日は超ラッキーじゃん、チケット完売だし、こんな可愛い子とヤれちゃうし。」

「でしょ、でしょ、ラッキーー」

コンサートのチケットのダフ屋と手下の三人組か。手下の金髪にピアスと坊主頭の二人の若者は目をギラギラさせてシェンメイに近づく。

龍也とシェンメイはさっと三人を一瞥し、フッと軽く鼻で笑う。

「ハア? 何ニヤけてんだよおっさん。俺らこの子に用があるから、さっさと消えてくんね?」

龍也はシェンメイの前にサッと入り込む。チッと舌打ちをしながら若手の二人が龍也に、

「耳聞こえねえのかコラ。さっさと消えろや。マジ人の恋路を邪魔するヤツはぶっ殺すよ!」

「はいはい、怪我したくないだろおっさん。邪魔するなら会社行けなくなるくらい怪我しちゃうよ。退いて退いて」

人の恋路? 龍也は思わず吹き出す。

この野郎、と言うと同時に金髪ピアスが龍也に殴り掛かる。

その0.5秒後に彼は森の中の歩道に叩きつけられ、んぐっと息を漏らし動かなくなる。

坊主頭が龍也の脚を狙いローキックを入れようと前に一歩踏み込んだ瞬間、シェンメイのハイキックが坊主頭の顎を直撃し、ズルズルとその場に沈んで行く。

「おいおい。お腹の子供がビックリするだろ。ダメじゃないか」

「殺すよりマシだろ?」

「そりゃそうだ」

二人は一人呆然と立ち尽くすダフ屋に向き直る。


「折角儲けたのに、コイツらの治療費でパーかよ。あーあ、コイツの顎砕けただろ、グチャっていったよな…」

と呟きながらダフ屋は龍也とシェンメイを交互にじっくりと睥睨する。しばらくして、

「姐ちゃん。孕んでんのか? そんなら妊婦らしくしろや。それと堅気の人間には手加減しなきゃダメじゃねえか」

とボソボソと呟く。シェンメイは愛おしそうにお腹をさすりながら、

「堅気、って何?」

「俺らみたいなフツーの人間のこと。頼むよマジで… それと俺みたいな年寄りにはもっと優しくしろよ。わかったか?」

「ねえロン、なんでこの人私らに説教しているのか?」

「さあ。よくわからんが。おい、救急車呼んでおくか?」

「平気、平気。その内意識戻ったら歩いて病院行かすから。はーとんだ災難だよ、ったく…」

ダフ屋は本当に迷惑そうに眉を顰める。

「おじさん。この子たちが起きたらな、命が残っている喜びをちゃんと教えてやるんだよ」

「ああ、二度と妊婦連れには手を出すなってか? それとよーーく言っとくよ。綺麗な花には、」

「毒がある。ってな」

「それそれ。兄さんたち、面倒かけたね。悪かったよ」

軽く手をあげてその場を立ち去りながら、

「それにしても、『聶隠娘』を襲うとは本当についてない奴らだったな」

「何言ってるよ。『特戦群』に喧嘩売って、生きてるだけ幸運な子たちだよ」

二人は顔を見合わせ、今夜二度目の大爆笑をした。


     *     *     *     *     *     *


「おとうさん。げんじつてきにかんがえて、ももはさんをわがやにひきとるというのがさいぜんさくとおもうのですがいかがでしょうか」

「羊ちゃん、そんな…」

「ももはさん。ぱじゃまありますか?」

「ない、かも」

「ぱじゃまがなければこんやねれないじゃないですか。そうですよねおとうさん」

この子にしては珍しい論理の破綻。百葉は大人気もなく、

「羊ちゃん。パジャマを着ていないからといって寝れらないわけじゃないよね。別に普段着で寝ている人も大勢いる訳だし」

「いいえ。ねるときにはかならずぱじゃまをきなければなりません!」

「それは法的な根拠があるのかな? 若しくは条例でもいいけれど」

「んぐっ それはいたいところをつきますね… ももはさん、おとなげないとひとによくいわれませんか?」

龍也はコーヒーを飲みながら二人のやりとりを目尻を垂らして眺めている。先週とは別のカップルが隣の席で笑いを堪えながらこちらの話に耳をすませている。

見れば見るほど、百葉はシェンメイに似ている。やや明るさに欠けるしコミュニケーション能力は相当落ちるが、顔立ちや体付きは本当にそっくりだ。

「でもだいがくはもうすぐはじまるのでしょう、すむところはどうするのですか?」

百葉は深く溜息をつきながら、

「何とか探してみるよ、これから」

「しききんれいきんははらえるのですか? かぐは? おふとんは? れいぞうこは? これからぜんぶそろえるじかんとおかねはあるのですか?」

「うーーーー ねえ、よく知ってるねそんな事。本当に幼稚園児なの?」

「ひまわりほいくえんをそつぎょうしましてらいげつやなかだいしょうがっこうににゅうがくしますがなにか?」

「そ、そうなんだ…」

「で。どうしますかももはさん。じかんとおかねによゆうはあるのですかないのですか?」

「…無いよ …特に、お金が…」

「ですよね。ですからげんじつてきにこうりょすれば、わがやなかひるとっぷてらす四〇一ごうしつにくるのがさいてきかいではないでしょうか!」


どうして一度しか会ったことのない赤の他人に、しかもこんな小さい子に私は同情されるのだろう。しかも一緒に住もうなどと、どうして考えられるのだろう。隣に座る父親を見ると、別に肯定も否定もしない。これが下町の流儀なのだろうか。困った人を見捨てることのできない、独特な風習なのだろうか。

「ありがと羊ちゃん。でも、お母さんが何ていうかしら。私が…」

「おかあさんはいませんよ。おとうさんとようとふたりぐらしですから。だからえんりょなく」

百葉は思わず龍也の顔を見る。龍也は軽く頷く。

「コイツが四歳の時に… 二年前に亡くなった」

百葉は羊をじっと見つめる。まさか母親が他界していたとは思いもしなかった。百葉の施設にも母を亡くした子が多数いたが、こんなに屈託なく伸び伸びとしている幼児はあまりいない気がする。

「もっというと。ようのじつのおとうさんもそのときになくなっています」

すると、この横にいる父は、実の父親ではない…

言葉を喪った… 同時に頭が真っ白になった。


唐突に、長らく忘れていた記憶、両親が交通事故で亡くなった時のことを思い出した。


「竹岡さんのお宅ですか?」

「はいそうですが」

「こちら立川東警察署の者ですが、竹岡透さんと真知さんは…」

「ちちとははは、くるまでかいものにいってますがなにか?」

「えっと、君は?」

「むすめのももはですがなにか?」

「今、何歳かな?」

「ごさいとじっかげつになりますがなにか?」

「うーーん、そうかー、あの、おじいさんかおばあさんと連絡取れるかな?」

「どちらもいませんが」

「んーーー、じゃあおじさんかおばさんは?」

「どちらもいませんが」

「マジか… ちょ、ちょっと待っててね……… えっと、何ちゃんだったっけ?」

「ももはです」

「ももはちゃん。これから警察のお姉さんがパトカーで君を迎えに行くから。お出かけの用意、できるかな?」

「りゆうはなんですか。もうすぐちちとははがきたくするのですが…」

「うん、パトカーの中でゆっくり話すから」


初めて乗るパトカーの中を興味深くキョロキョロと眺めていると、

「ももはちゃん。落ち着いて聞いてね。あなたのお父さんとお母さんが、交通事故で亡くなったの」

「…うそです。もうすぐかえってくるのです…」


暗い霊安室に横たわる二体の亡骸。婦警に付き添われ近づく百葉。

「百葉ちゃんの、お父さん、かな?」

「どうして… うそです… まだねているのです… すぐにおきるのです!」

「…お母さん、かな?」

「いやーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」


保護観察士が、優しく百葉を抱きしめながら、

「これからはここが百葉ちゃんのお家だよ。それから、ここにいるみんなが、家族なんだよ。百葉ちゃんは一人じゃない。みんなで楽しく暮らして行こうね。嬉しいことも、悲しいことも、大勢のみんなで分け合うんだよ。そうすれば寂しくないから。何度でも言うよ。一人じゃないから。みんないるから」


そして唐突に悟った。この子は、私に同情しているのではない。


「ももはさん ももはさん? おーい、きいてますかあー」

ハッと顔を上げると、あの頃の自分が大きな目を開けて自分を見ている。

「あの、羊ちゃん、の… お父さん…」

龍也が視線を向ける。

「取り敢えず… 新しい下宿先が見つかるまで、お邪魔してもよろしいでしょうか?」

羊が真剣な眼差しで父親の顔を見つめる。


やはりそうなんだ。二人きりの家族、よりも三人家族。この子は新しい家族が欲しいんだ!


龍也はサラリと一言、

「いいんじゃないかな」

羊が大声で喜ぶ。その声がレトロな喫茶店の店内に響き渡る。

「わかったから。さ、二人とも卵サンド食っちまえよ。色々買い出し行かなきゃ、ならないだろ?」

羊と百葉が同時に卵サンドに手を伸ばし、口に頬張る。


会計を済ませ外に出ると、羊と百葉が真剣な表情で話し合っている。どうやら何を買うのかを決めている様だ。

「ですから、まずぱじゃまをかいにいかねばなりません」

「うん。それと下着、部屋着、とかかな… あ、あとお布団とかは…」

「ようのおふとんがありますのでだいじょうぶです」

「そ、それは…」

困り顔の百葉に、

「布団セット、追加だな」

「あ、ありがとうございます、それと、えーと、羊ちゃんのおとう…」

「千葉。千葉龍也。」

「千葉さん。ちょっとご相談とお願いが…」

「金か?」

「…ハイ」

「貸してあげるから気にしなくていい。後日返してくれればそれでいい。それより、結構色々買わなきゃだな… よし。御徒町に行くか」

「たきやさん、ですね! あそこならすべてがそろいますね わあーーい!」

羊は今日一番の大声で歓喜し、かつ不思議な踊りを披露する。

その様子を見て、百葉はニッコリと微笑み、龍也は不思議そうな顔をする。


上野動物園と不忍池の間を通る動物園通りを抜けると上野駅に出る。龍也と羊にとっては歩き慣れた散歩道なのだが、百葉にとっては初めての道だ。谷中の下町風情とは一変し、自分が生まれ育った武蔵野の緑とはまた違う都会の緑に、百葉は目を奪われている。

そんな百葉に一々羊があれは何、これは何、と解説している様を見て龍也は唖然としてしまう。こんな生き生きとした羊は見たことがない。歩き方からしていつもよりピョンピョン飛び跳ねている様に見える。いや実際に路傍の縁石などに飛び乗っては歩いてみせている。時々聞いたことのない甲高い雄叫びの様な笑い声を上げる、動物園の猿の霊が乗り移ったかの様に。

対する百葉は羊の辿々しい案内に真剣に首を傾ける反面、突如走り出そうとすれば危ないと注意喚起し、奇声を発すれば静かにしなさいと口に人差し指を当てる。施設育ちらしい幼子への面倒の良さに、龍也は遠い昔の自分を思い出す。

三人は上野広小路を抜けJ R御徒町駅を通り過ぎ、昭和通りを横断して『多喜屋』という格安百貨店に入る。


女性と買い物をするのは、しかもここに来るのは、あの時以来か… 龍也は百葉と羊を見比べながら思い出す。


     *     *     *     *     *     *


「悪いな、タツ。付き合って貰っちゃってさ。ホント助かるよ、僕だけじゃイマイチよくわからなくってさ…」

歯切れ悪くも嬉しさを隠せない様子で拓海が龍也の肩を叩いた。龍也は別にたいしたことじゃない、と言いながら同じく目をキラキラさせて物色するシェンメイを眺めた。

胎児は順調に育ち、予定日まであと一月となった十一月。龍也は拓海に請われて新生児の衣服や育児に必要なグッズを買いに御徒町にある格安百貨店に来ていた。


あのシェンメイの激白の夏から三ヶ月ほど経ったが、拓海を取り巻く情勢に大きな変化はなく、広州の反周派も接近してくる様子はない。シェンメイの義父の王一平は変わらず精力的に世界中を動き回っており、先月も来日して拓海と会食をしている。

拓海はつい先月、王一平との会食の場でシェンメイを妊娠させたことを土下座して許しを乞うと、『大人』を装う王一平は快くそれを受け入れ、すぐには無理だが近い将来娘を貰って欲しいと拓海に話した。

シェンメイは代々木にある周派の息のかかった産婦人科に通い、胎児の健やかな成長にかつて感じたことのない幸せを噛み締めていた。

北京の周派はシェンメイの妊娠に当初驚愕した様だったが、しばらくした後、引き続き市原拓海の監視と保護をシェンメイに命じたらしい。

警察庁や外務省の監視は龍也や陸幕の成田三佐の根回しにより、少しずつ緩やかになってきている。そして未だにシェンメイの正体は知られていない。


拓海もシェンメイも、新生児の育児に必要な物をまるで理解していなかった。見兼ねた龍也は自分が育った習志野にある養護施設「青葉園」に赴き、かつて世話になった保育士に色々とアドバイスを貰った。

そして本屋へ行き、卵や雛系の雑誌を買いシェンメイと拓海に渡し、よく読んでおく様言い渡すと暫くして連絡があり、いっしょに買い出しに付き合って欲しいと言われて今日になった。

あれから二人は良く勉強した様で、今では龍也よりも遥かにその知識に長けている感じだ。

シェンメイは元々細身の身体つきなのだが、臨月が近づいているにも関わらず、その体型はよく見ないと腹の膨らみに誰も気づかない様子であり、今月いっぱいは普通に大学にも通うと言う。

大学では経済を学んでいると言うが、龍也の調べでは成績はトップレベルで非常に優秀な生徒らしい。拓海が居ない時に、

「あの『聶隠娘』が真面目に経済を学ぶなんてな」

「子供が出来るんだから、真面目に金儲けしなければ、だよ」

「いやいやいや、大学の授業受ければ金儲けが出来るとは…」

「それを確かめに行っているのよ」

「それで、もし全く意味がなかったら?」

「クイロンに雇ってもらおうかね。乳飲み子抱えた暗殺工作員。中々居ないよ」

「你疯了(頭おかしいよ君は)」


マスクに伊達メガネ姿のシェンメイは、どう見ても芸能人のお忍びの姿にしか見えない。他の買い物客がしきりに彼女をチラチラと見る中で、龍也は別の意味で彼女を見つめる視線がないかを窺っている。

彼女の妊娠の話は王一平を通じて既に広州の反周派には知れ渡っているはずである。恐らく彼らが何らかのアクションを起こすのは彼女の出産後であろうと龍也は推測する。一人より二人、守るべきものが多い程彼らにとっては選択肢が増え、有利になるであろう。

嬉しそうな笑顔を隠さない二人を見守りながら、束の間の平和を満喫して欲しい、龍也は心からそう祈っていた。


     *     *     *     *     *     *


敷布団セットは夜に配送してくれるので、帰り道の荷物はそれ程多くなかった。その代わり買い物に想定外に時間がかかり−思い出すだけでウンザリなのだが、パジャマ一つを選ぶのに羊と百葉は三十分かけたものだった。羊は主に機能性を、百葉は全面的にコストパフォーマンスを主張して譲らず、最後は龍也による「鶴」ならぬ「龍の一声」で決まった。

同様な事が寝具売り場でも発生し、やはり最後は龍の一声が必要であった。取り敢えず普通の女子大学生が一月程不自由しないで暮らせる買い物が終わったのは、入店してから何と三時間もかかっていた。龍也は心底疲れ切り、帰宅後に夕食を作る気力はとうになくなっていた。

それでも微笑ましかったのは、どのフロアでも店員は二人を姉妹、と認識して接客していたため、最後の方は羊も一々反論するのが面倒になり、姉に合う枕はありますか、などと口にしていた事だった。

御徒町駅からさすがに山手線を使って日暮里駅で降りる。時計は既に八時を指している。龍也と羊の行きつけの洋食屋は二回転目が丁度終わった頃合いだったので、四人がけのテーブルに座れた。

「あれー、羊ちゃん、お姉ちゃんがいたんだね、そっくりじゃない」

「おばちゃんこんばんは。もうほんっとめんどくさいので、ようのあねのももはです」

「ちょ、面倒臭いって何よ。酷いじゃない、ちゃんと紹介してよ」

「あーそうですねはいはいおばちゃんきょうからいっしょにすむことになりましたたけおかももはさんです」

百葉はクスリと笑いながら、

「もー何よその口上は。あの、初めまして、今夜から千葉さんのお宅でお世話になることになりました、竹岡百葉と申します。以後お見知り置きを」

「あらあら、これはご丁寧にありがとうね、何でも好きなもの食べて頂戴ね、百葉ちゃん」

龍也は疲れ切った顔でおばちゃんに、

「何勝手なことを」

「あはは、いいじゃないの。ゆっくりしてってねーって… 羊ちゃん寝ちゃったかい?」

羊は龍也の膝で軽く鼾をかき始めた。龍也は上着をそっと羊にかけてやった。


「ここは何が美味しいのですか? お勧めはありますか?」

「ナポリタンは中々旨いよ」

「では、それで」

「ああ」

それにしても、百葉にとって激動の一日であった。

養護施設の皆に見送られた事が、とても今朝のこととは思えなかった。本当なら今頃は昭和な日本家屋の自室で勉強の道具を開いている頃だっただろう。

「あの、千葉さん…」

実は百葉がじっくりと龍也を眺めたのはこれが初めてだった−これまでは少し距離があったため、度がイマイチ合っていない眼鏡越しで見ていたため、龍也の顔は何となく、ぼんやりと認識していたのだ。

改めて龍也の顔を見る。度が合っていない為ハッキリとした顔立ちはよくわからない。百葉の今までの龍也のイメージは、冷徹。この一言に尽きた。初めて会った時も、今日火事場で腕を掴まれた時も、全てを見透かされてしまう様な鋭い目付きであったからだ。

今改めて龍也の顔を見る。膝で寝ている羊に優しく笑いかけているその表情に、冷たいものは全くない。年の頃は三十歳前後であろうか。若いと言えば若いのだが、どこかこの顔からは大変な苦労を乗り越えてきた雰囲気が出ている気がする、と百葉は感じる。

「千葉さんと百葉ちゃん、元々はどんな関係だったですか?」

龍也は百葉を見、そして膝の上の羊を見、訥々と話し始めた−


     *     *     *     *     *     *


拓海の立場上、シェンメイの出産に立ち会うことは出来なかった。籍を入れていない女性の出産に仕事を休んで立ち会うことを許す程、日本の文化は成熟していないという事だ。従って、平日の昼間でも比較的自由のきく情報科の諜報員という立場の龍也がシェンメイに付き添う事は拓海と龍也の二人にとって暗黙の了解であった。

師走も押し迫る十二月十九日の夜。シェンメイが産気づき自力で代々木の病院に行ったと拓海から連絡が入った。ほぼ予定通り、流石二人の子供だ、なんて思いながら龍也は慌ててタクシーを拾い、病院へ向かった。

初産だからちょっと時間かかりますよ、と看護師に言われる。そんなものなのか、今夜は帰れそうにないな、と龍也は長期戦を覚悟した。

病室のシェンメイは看護師の指導の下、しきりに深呼吸を繰り返している。顔面は蒼白で額からしきりに汗が流れ出し、ああこれが所謂産みの苦しみと言うやつなんだと一人納得した。

「ロン、お願いがある…」

「何だ?」

「立ち会ってくれ…」

立ち会う、の意味がわからず看護師に視線を向けると、

「お産を看取る事ですよ」

と衝撃の答えが返ってくる。

「ど…な…ハア? ちょ… ええ?」

「アハハー、流石のクイロンもおっかないのか?」

「おっかないどころか、恐ろしいわ… いや、看取るって、生まれてくるところを見るって事なのか?」

「そうだ。拓海の代わりに、この子が生まれてくるところをしっかりその目に焼き入れるんだぞ」

失明する。真剣にそう思った。

「なんだクイロン。你害怕杀死很多人吗?(あんだけ人殺したのに怖いのか?)」

看護師は席を外していた。

「我怕看到你的阴道(お前のアソコを見るのが怖え)」

「我没看过 只为你(誰にも見せた事ないのよ、貴方だけよ)」

「愚蠢的人(嘘つけバーカ)」

二人は爆笑した。

病室から出てあたりを見廻し、拓海に電話をかける。

『シェンメイがこんなアホなこと言ってんだけど。勘弁してよ…』

『いや、僕からも頼むよ。立ち会ってくれないか。』

エリート外交官と諜報員。どちらもやや現実離れの感覚である。普通の常識と感覚を持っていれば、親友に妻のお産に立ち合わせたりしない。百歩譲って、万が一頼まれてもそれとなく断るのが『普通』であろう。

だがこの三人は思いっきり『普通』でない。従って妻は夫の親友に立ち合いさせ、夫は親友に立ち会う様求め、親友はそれを絶対的な服従すべき命令と捉えたのだった。


     *     *     *     *     *     *


「ないないない… 私もまだ成人していない程の世間知らずですが、それは余りに非常識なのでは?」

この洋食屋自慢のナポリタンを口にするのも忘れ、百葉は龍也の語る羊の出産秘話に頭が混乱していた。

「でしょ、俺も今でもさ、何であの時軽々しく引き受けちまったのか、よくわからないんだ。」

「一番あり得ないのが、千葉さんの親友の奥さんですよ! あり得ません、自分の出産を他人に見せるなんて…」

「だよね。ホント変わった人だったんだ、羊のお袋さんは。」

龍也がこれまで見せた事がない哀愁の表情でポツリと呟く。百葉はナポリタンを一口、口に放り込んだ。


     *     *     *     *     *     *


陣痛が始まって約十時間、十二月二十日の朝八時ころ。遂にシェンメイは手術室に入った。即ち、龍也も手術室に入った。

拓海は家で一睡も出来なかった様で、夜通し三十分毎に連絡を入れてきたものだった。今も手術室に入ると伝えると、

『生まれる瞬間を動画で撮っておいてくれよ! 頼むよタツ!』

と言う、龍也的にも道義的にも有り得ない注文を送ってくるので、シェンメイに冗談混じりに話すと、真顔で

「それ大事だよ。スマホ充電しておけ、ロン! ちゃんと頼むぞ、この子の一生がかかっているのだからな!」

と食いつかれてしまい、彼女に話した事を死ぬ程後悔した。


     *     *     *     *     *     *


「あはははは そこまで突き抜けていると、かえって面白いですよ…」

「じゃあ、君の出産時も動画に撮って欲しいかい?」

「絶対、ムリです。有り得ません。手術室から通報し出産後は法廷で対決します」

「その場合、証拠物件としてその動画が法廷で流されるのかな?」

「いやーーーーーーーーーーー」


     *     *     *     *     *     *


消毒していないから、と言って断るも、主治医が

「没問題、没問題いいよーいいよー

と言うので、本当に龍也はシェンメイの出産の記録を撮ることとなってしまった。

これまで地獄の訓練、試練を乗り越え、漆黒の戦場で銃火をかいくぐり数多の敵を倒した龍也なのだが、かつてない程の緊張感でスマホを持つ手の震えが止まらなかった。

それは、半分は出産が無事に終わるだろうかという不安、半分は拓海とシェンメイに託された二人の子供が生誕する瞬間をしっかりと捉えられるか、という不安。

だが、その瞬間は割とあっけなく迎える。

始まったと思ったら、間も無く

「出来了、出来了! (出てきたよ、出てきたよ!)」

と医師が叫ぶのを聞いて、龍也は慌てて医師の後ろから肩越しにスマホを構えた。そして、思ったよりも自然にシェンメイの産道を目にする事が出来た。そこには何の官能的な様子は見られず、ただ一つの命がまさに産まれんとする、神々しさだけがあるのみだった。


これまで自分はどれだけ人の命を奪ってきたのだろう。自分が手にかけた彼らもこうして産まれてきたのだ。母の命の道を通り抜け、こうして産まれてきたのだ−

そして、自分も…


シェンメイの産道から、とんがった頭が見えてきた。

シェンメイが聞いたことのない呻き声を上げる。

少しずつ小さな頭がこちらの世界に向かってくる。

頑張れ 頑張れ 二人とも!

頭が白っぽい液体に包まれ完全に体外に出てくる。

シェンメイの絶叫が室内に響き渡る。

やがて肩が、胸が、腰が出てくる そして

一気に両足が見えてきた シェンメイの絶叫は突如途絶え、

か細いながらもしっかりとした泣き声が病室に響き渡る。


不意に龍也の視界が滲んだ。

泣く、なんていつ以来だろう、

幼き香世の胸の中で号泣して以来か?

何十年ぶりだろう。

そしてこの胸にこみ上がる暖かさ、

生まれて初めて感じる この温もり。


医師が丁寧に取り上げ、すぐに看護師がタオルで身体を拭う。

「这个孩子是个好女孩(元気な女の子ですよ)」

と言いながら生まれたての幼子をシェンメイに抱かせる。

慈愛。その一言に尽きる。慈愛に満ちた女性の顔を、さながら仏の様な女性を、龍也は涙を流しながら見つめ続けた。


     *     *     *     *     *     *


鼻を啜る音に百葉はやや引いていた。大の男が目に涙を浮かべて『出産』を十代の女子に熱く語るのだ、百葉でなくてもかなり痛い。

それでも龍也の羊への思いは百葉に有り余るほど伝わった。単に親友の忘れ形見であるだけでなく、その生誕をしっかりと見守ったのだ。この世に生まれ出た瞬間を見守ったのだ。

百葉は半分程のすっかり冷たくなったナポリタンを一気に掻き込んだ。食後のコーヒーを一口飲んだ後、

「そういえば、この子の『羊』って言う名前はどちらが付けたのですか?」


     *     *     *     *     *     *


夕方。目の下に黒い隈ながら悦びに溢れた表情で拓海が病院に駆けつけた。産まれた子を一眼見て、硬直する。やがて肩を震わせ、ポロポロと大粒の涙が頬を伝った。

「タツ、僕は、僕は親になったんだよな。ああ実感が湧かないよ、でも、ああ僕はこの子のパパになったんだ、そうだろタツ?」

「間違いない。それと、シェンメイも同時に『ママ』になったんだからな」

「ははは、違いない。全くもってその通りだ」

「さ、シェンメイのとこに行こうぜ」

二人はゆっくりとシェンメイの病室に向かった。

「タツ。ありがとな。お前がいてくれて、助かった。本当にありがとう。ああ、それとさ、動画の撮影ボタン押し忘れたことは気にするなよ」


     *     *     *     *     *     *


「却ってよかったです。もし私の親が動画残していても、絶対見る気しませんから…」

「だよな。そろそろ行こうか、会計してくる」

「あの…」

「いいよ、御馳走するよ」

「ありがとうございます、いつか必ずお返しに…」

「いいからそういうの」


     *     *     *     *     *     *


「ホント気にするなって。まあシェンメイが知ったらどうなるか知らないけどな… それよりさ、タツの時には、僕がちゃんと代わりに撮影…」

「いいからそういうの」

「お、おう…」

「それより、あの子名前はなんてつけるんだ?」

「うん、ずっとシェンメイと考えていたんだよ」

「へえ?」

「羊、と書いて、『よう』。どうよ、いい名前だろ?」

拓海は胸を張って笑顔で言うと、龍也も頷きながら、

「よう。市原羊。『シーユアンヤン』。ヤンちゃんか。いいね。シェンメイが考えたの?」

「まあ、二人でね」

「何で、羊?」

「僕ら、広州で出会ったから。タツは知ってるだろ、広州と羊の関係を」

龍也は頷いた。何でも大昔痩せ細った土地であった広東の地に、五人の仙人が羊に乗ってやってきてそれぞれ異なる穀物をもたらし、豊かな土地になったと言う伝説より、広州では羊が街のシンボルとなっているのだ。広州は『羊城』とも言われる。


     *     *     *     *     *     *


「へーーーーー。私、中国の地理と歴史に詳しくないからよくわからないんですが。でも、素敵な名付けじゃないですか!」

龍也の背に揺られている羊を覗き込みながら、百葉は感嘆の声を上げる。

「ところで君の『百葉』は?」

「それがですねえ…」

大きな溜息をつきながら、

「両親が五歳の時に亡くなったので、ちゃんと聞かなかったんですよね。叔父も叔母もいなくて。祖父母もいないんですよ私。なのでもう知りようがないんです」

「そうなのか。母子手帳とかに書いてなかったの?」

「ああ、それは気付きませんでした。でもー」

百葉が空を見上げた。星が幾つか瞬いている。

「火事で焼けちゃいました」

「ああ、そうだったか」

「そうだったです」

しばらく会話が途切れ、二人の靴音だけが狭い路地に響く。


やがて三人は龍也と羊の住む低層マンションのエントランスをくぐる。この街の雰囲気とは違う、築浅の高級マンションだ。百葉はまさかこんな豪華なマンションにこの親子が住んでいたとは思わなかったので、ただ目を見張るだけであった。

エレベーターで四階に上がり、通路の奥の角部屋のタッチキーを解除し、三人は部屋に入っていった。

「あの、凄く高級なマンション、なんですね…」

「そうかな」

龍也は羊の靴を脱がせ、そのまま主寝室のドアを開け、手早く布団を敷き羊を寝かせた。その手際の良さに百葉は感心し、

「千葉さん、子供育てた経験があるのですか?」

「実は、俺も施設出身なんだよ」

百葉は思わず大きく目を見開いて、

「え…… そうだったんですか?」

「そ。だから小さい子供の面倒は何でもない。君もだろう?」

「まあ、ええ…」

百葉をリビングに案内し、少し待つ様言う。龍也は素早く着替えを済ませ、

「そこの部屋を自由に使いなさい。早速着替えるといい」

言われるがままにリビングの脇の部屋に入り、買ってきた部屋着に着替える。リビングに戻ると、龍也はお湯を沸かしている。この部屋の間取りは3L D K、主寝室は七畳ほど、今百葉が着替えに使った部屋は四畳半ほど。段ボールが幾つか隅に積んであったが、それでも荷物の少ない百葉にとっては信じられない境遇である。

キッチンのダイニングテーブルはファミリー向けだが椅子が二脚しか無く、その一脚は羊が使っているであろうチャイルドチェアーである。龍也が座る椅子に腰掛け、百葉は改めて部屋を見回す。びっくりするほどシンプルと言うか、モノの少ない家である。リビングには三人がけのソファーとテレビボード、そして空気清浄機のみ。絵も掛けられてなければサイドボードや飾り棚も無い。


「日本茶でいいかな? ああそれとWi-Fiのパスワードを教えよう、スマホ出しなさい」

備前焼らしい湯呑みを渡され軽く頭を下げ、スマホを取り出し、教えられたパスワールドを入力すると、Wi-Fiが使えるようになった。

スマホの時計を見ると、十時過ぎである。

「あの… 多喜屋さんで買ったお布団、まだですかね…」

「それなんだが… スマン、九時に届けてくれたらしいんだ、再配達は明日になるみたいで…」

不在通知の紙をヒラヒラさせて龍也は苦笑いした。

「あは、仕方ないですね。あの、よろしければ羊ちゃんと一緒に寝てもいいですか? 私、施設でもよく小さい子と一緒に朝まで寝ていたんですよ」

百葉は小さい子の匂いが大好きである。嗅ぐと心がスッと落ち着くのだ。今日も火事の時に真っ白になったのだが、羊の匂いを嗅いだら冷静になれた。

「まあ、いいけど…」

今夜はリビングのソファーで眠るか。龍也は表情に出さずに言った。そう言えば、あの頃もよく拓海の部屋のリビングのソファーで夜を明かしたものだった。いやそれだけでなく…


     *     *     *     *     *     *


『そうなんだよ、急に上海で会議が入っちゃったんだ。何だか先方がどうしても僕を呼べ、って言ったらしく。それでさあタツ。申し訳ないけど明日…』

翌年の二月、羊が二ヶ月の頃。北京の周派のアプローチが徐々に目につくようになってきていた。逆説的に言えば、それは反周派にとって見過ごすことの出来ないものである。最近は警察庁などの拓海とシェンメイの監視もほぼ無くなり、反周派に対して逆に無防備な状況となっていた。

そろそろ何か仕掛けてくる可能性は否めない、そう考えた龍也は二つ返事で、

『わかった。仕事終わったら駆けつけるよ。明日中に戻れるのか?』

『それは無理だと思う。だからさ、ホント申し訳ないけど…』

『ああ。深夜から明け方のオムツ交換とミルク、だろ?』

『その通り。どうかよろしくねー。タツは僕なんかよりもすごく上手なんだもん。毎日シェンメイにさ、『ロンに教わりなさいっ』って叱られてんだよ』

施設育ちの龍也は乳幼児の世話も難なくこなす。

『ごめんな、『魚釣島の英雄』にオムツの世話させちゃって』

拓海が吹き出しながら言うと、龍也は大きく咳払いをし、

『いいんだ。それよりも、あっちの人達と飲みすぎんなよ』

『ごめん、それは保証できないよ』

電話を切った後、そろそろ拓海との電話も盗聴に気をつけねばならない、龍也はそう思い明日にでもI Tに詳しい部下に相談しようと考えた。また、拓海の部屋のセキュリティーももう一度考え直さないとならない事も頭の隅に置くのだった。


翌日の夜。定時に仕事を切り上げ、徒歩で半蔵門の拓海のマンションに向かっている途中、シェンメイから、

『购买帮宝适(帮宝适を買ってきて)』

とラインが入る。彼女は筋金入りの情報機関の人間なので重要な話を携帯電話やラインではしない。あくまでも日常会話のみである。

初め、彼女から送られた文に書かれた『帮宝适』の意味がどうしても分からなかった。龍也は訓練過程で中国語を普通に話せるようになったのだが、この『帮宝适』と言う単語は習ったり使った記憶がなかった。これは何かの暗号か? 歩きながら考えてみたが思い当たることはなく、電話で直接尋ねる事にした。

「人民解放軍が恐れる『鬼龍』が、こんなことも知らんのか!」

あの慎重なシェンメイが興奮して危険ワードを連発している…

「うるさいな。知らねえよ。で、何なんだよ『帮宝适』って?」

「『帮宝适』は『帮宝适』だよ!」

無情にも電話を切られてしまう。シェンメイが電話で逆ギレする程重要なもの。ひょっとして彼女も広州の反周派の動きを察知し、それに備え自分では買うと怪しまれるモノを俺に託したのだろうか。

あれだけ慎重な彼女が取り乱す程重要な品物。小型ナイフ? ピアノ線? 毒薬精製に使う何かの薬品? 固唾を飲みながら龍也がスマホで検索すると−

「パンパース、かよ!」

通りすがりの皇居ランナー達が思わず振り向いたものだった。


半蔵門の駅の近くのドラッグストアで紙オムツを買い、マンションの周りをゆっくりと一周する。特に気になる停車車両や人物は見られない。インターフォンは鳴らさずに、持っている鍵でオートロックを開けてエレベーターに乗る。羊が生まれた後、拓海から部屋の鍵を渡されたのだった。

部屋のドアを開けると、乳児の匂いが龍也の鼻に入ってくる。げっそりとこけたシェンメイが、「ロン、お帰り。お腹すいたろう?」

「まあね、はいオムツ」

「ありがと。ちゃんと手を良く洗えよ」

……最近は弟と言うよりも息子扱いに近い…

苦笑いしながら手を洗い終えた龍也はリビングに入り、ベビーベットですやすや眠る羊を覗き込む。流石に龍也のいた施設でもこんなに小さな乳幼児は見た事がない。ほっぺたにそっと指を置く。指先から何とも言えない暖かさを感じる。

「鬼龍がなんて顔してんだよ。溶けそうだぞ」

「ああ。ホント溶けちまいそうだよ。なんて可愛いんだい、この子は」

「私の娘だからな」

「自分で言うなよ。特に人前で」

「本当のことだろう、いいじゃないか」

拓海とも毎晩こんなやりとりをしているのだろうか、今度拓海を弄ってやろう、そう心に誓い食卓に向かう。


二人きりの食事なのに、用意されたのはいつもの三人前の量。こんなに食えねえよと呟くといいから黙って食え、と叱られる。

八宝菜、蒸し餃子、スズキの清蒸、とびっきり辛い麻婆豆腐。どれもこれもその辺の中華料理店で食べるより遥かに美味い。特にこの麻婆豆腐は龍也の大好物で、自分でも作ってみたい程である。それ程美味いのだが、この量はあまりに無情である。チラリとシェンメイを伺うと、自分は殆ど手を付けず、龍也の食べっぷりを目を細めて嬉しそうに眺めている。

龍也は仕方なくこれも訓練だと思って強引に掻き込み、なんとか完食する。

「〆に焼きそばか? 炒飯か?」

割と本気で聞いてくるシェンメイに、頼むから勘弁してくれと頭を下げ、ようやく夕食を終える。

拓海は毎日こんな地獄を味わっているのか、龍也は兄貴分に激しく同情する。あまりの満腹感にリビングのソファーでウトウトしていると、洗い物を終わらせた彼女が、

「風呂はもうできているぞ、とっとと入れ!」

とせっつかれ、半分ボーッとしながら浴室に向かう。

脱衣所で服を脱いでいると、いきなりドアが開き、

「ワイシャツとズボン、ハンガー使うだろ?」

シェンメイが普通に脱衣所に入ってきてハンガーを二つ突きつける。慌てて受け取り、彼女が出て行ったあとワイシャツとズボンを丁寧にかける。

浴室に入りシャワーで体を洗っていると。

突然、羊を抱えてシェンメイが浴室に入ってきた。

当然、全裸だ。お互いに。


絶句した。色々な意味で。


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