其の弐
「やはりももはさんはみちにまよっていましたよ。わたしのよそうどおりからあげやさんのかどをみぎではなくひだりにまがってしまったそうです。たばこやさんのまえでいまにもなきだしそうなかおでたちすくんでいましたよ。」
あれから一時間程して羊が帰宅し、龍也に捲し立てるように話し出す。あの若い女性は「ももは」という名前らしい。
「ええ、それからようがただしいたばこやさんにつれていってやっとイチカワさんのおたくにつきまして。そこのおばあさんはとてもかんじのよいかたでしたよ。なんでもおじいさんがあしをこっせつしてちゃんとかじができなくてこまっていたようで。ももはさんがそれをおてつだいするのだそうです」
すると彼女は家政婦なのか。見た感じは高校生ぐらいかと思ったのだが。
「いえ、ももはさんはこのはるからとうだいのがくせいさんになるそうです。おばあさんのいえのかじをすみこみでてつだいながら、がっこうにかようそうですよ」
何だって?
龍也は驚いた。東京大学。あいつが、拓海が通っていた大学。
「え? ももはさんはいまみたかの、えーと、しせつ? なんとかしせつにすんでいてこんげつまつにはでなければならないきまりだそうです」
養護施設、か。彼女も両親を失くしたか、親に見放されたのか。暗澹たる気持ちになる。
それにしても養護施設から東京大学に進学するとは。自分が施設に身を寄せていた頃は、大学進学率は確か十二%くらいだったはずだ。龍也は驚きを隠せずにあの少女の身なりを思い浮かべる。
龍也、それに香世も高校の勉強はトップクラスであったのだが、主に金銭的理由で大学進学を諦めたのだった。
とすると、「ももは」は途轍もなく優秀だったに違いない。大学進学、それも東京大学である。少なくとも龍也の知る限りで、施設から東京大学に進学した例はなかった。
まだまだ話し足りなさそうな羊に、
「さ、お墓参りに行くぞ。早く着替えなさい。帰りにはカバヤで卵サンド食べるんだろ?」
「そうでしたそうでした! はやくきがえなければ!」
慌てて寝室に入っていく。龍也もスーツを脱ぎ、ジーンズにハイネックのセーターを合わせ、薄手のジャケットを羽織る。今日の陽気ならこれで十分だろう。
脱いだスーツにスチーム式ハンディアイロンをかけていると、黄色のセーターにジーンズ姿の羊が部屋から出てくる。後少しだから待っていなさいと言うと、リビングのソファーで龍也のスマホを弄りだす。
帰りに携帯ショップに行き、羊にスマホを与えよう。そう決めた。
* * * * * *
それにしても今日はカルチャーショックの連続であった。自分ではコミュニケーション能力にはそこそこ自信があったのだが、羊ちゃんや初めに間違えて訪れた中年夫人、そして市川さんには遥か遠く及ばない事に愕然としていた。
初めに間違えて行った煉瓦造りの家。中々素敵な家じゃない、こんな立派な所に住めるの?野田先生、感謝します。何の疑いもなくインターフォンを押し、やや緊張しながら市川さんを待っていると、どう見ても四十代の女性が現れた。
「あの、多摩第一高校の野田珠代先生に師事していました、竹岡と申します」
キョトンとした顔で百葉を見続ける夫人。
「あの、四月からお世話になる…」
婦人は首を傾げながら、
「ええと… タケオカさん? ちょっと話が見えないのだけど。どちらをお尋ねかしら?」
「あの、市川さん、でいらっしゃいませんか?」
「ウチは市村ですよ。」
慌てて表札を見ると、ローマ字で確かにIchimuraとある。あまりに立派な佇まいな家だったので、ロクに表札を確認せず、Ichiだけ見て確信バイアスが働いてしまったらしい。
百葉はパニックに陥った。あれ、そんな、なんで、どうして、などと譫言を言いながらブルブルと震えだしたのだ。
「ちょ、ちょっと貴女、大丈夫? え? 市川さん? 市川さんね、ちょっと待っててね」
と言い、夫人は向かいの煙草屋に行き、
「この辺に市川さんって住んでましたっけ?」
顔のほっそりとした老人が奥から出てきて、
「イチカワ… ああ、火消しの市川さんかい? それなら肉屋の先の煙草屋のお向かいだよ」
「ありがとう。それよりこの灰皿いつ撤去してくれるの? もう毎日煙たくて困ってんだけど」
「いーんだよ。もう何十年も置いてるんだからよ。それにここにわざわざ吸いに来る人もいんだよ。簡単に退けられねえよ」
「全く。条例違反じゃないの? 区に通報するわよ」
「し、知らねえよ、そんなの。ばーさんに言ってくれよ!」
「じゃあ、百歩譲って、電子タバコだけなら目を瞑るわ。いい? 早く貼り紙してよっ」
「っせーな、ったく。わかったよ。そのうちな。ったく」
百葉そっちのけで言い合う二人を見ているうちに、百葉のパニックは治っていた。
何なのこの二人。かなりセンシティブな事をズケズケと言い合っていた。路上喫煙の問題は来年のオリンピックを見越し、今後都内ではより厳しくなっていくだろう。それを行政レベルでなく庶民レベルでここまで意見を言い合うなんて。
呆然として二人を見ていると、先程の園児の女の子がこちらにてくてく歩いて来た。
「おねいさん。やはりみぎとひだりをまちがえましたね。ようはからあげやさんをみぎにといったはずです。しかしながらひだりにもたばこやさんがあるのをすっかりしつねんしておりまして。かんちがいしてもしかたありませんね」
百葉は女の子にすがり付き、
「お願い。市川さんの家まで、連れて行って!」
「おやすいごようです。はじめからそうしていればまちがいなかったですね。ではいきましょう。おばさんあとはわたしがひきうけます。ごめんどうをおかけしました。では。」
女の子がペコリと頭を下げると、
「あら。しっかりした子じゃない。ん? 何アンタ、この子の妹さん? そっくりねえ。あ、ちょっと待ってて」
夫人は二人を見比べて納得したように家に入って行く。改めて園児を眺めてみると、確かに自分に似ているような気がする。ちょっとビックリするほど、似ている気がする。先程は初めての街で緊張していたせいか全く気付かなかったが、これはちょっとすごい事かもしれない…
「なんだ姉ちゃん。市川さんちに行くのかい。足良くなったら顔見せろよって言っといてくれよな」
「は、はあ…」
百葉が怯えながら応えていると、夫人がキャンディーを一握り持って来て、
「はいこれ。お姉さんをよろしくね」
「これはこれは。えんりょなくいただきます。おねいさんはわたしにおまかせください。ありがとうございました」
とニコニコしながら一握のキャンディーを受け取った。
知らない人から食べ物を貰ってはいけない。百葉がこれまでに叩き込まれた処世訓が一つ崩れ去った。
「おねいさんはやなかははじめてですか?」
「そう。初めて来たの」
「きちじょうじからわざわざごくろうさまです」
百葉は立ち止まり、
「どうして? 何で知ってるの?」
「そのかみぶくろ。きちじょうじのしにせのわがしやさんなんですね」
「ああ、これ。って、どうして老舗って知ってるの?」
「ちちのスマホでしらべましたよ」
「そ、そうなんだ。すごいねあなた。えっと、お名前は?」
「はい。ちばよう、です。ちばけんのちばに、ひつじとかいてよう、とよみます。おねいさんのおなまえは?」
「えっと、竹岡百葉って言うの。竹の岡に百の葉っぱ。ようちゃんって、いい名前だね」
「はい。ははがつけてくれました。とてもきにいっています。ももはさんもとてもいいなまえですね」
「あ、ありがとね。それより、ようちゃん?」
「はい。なんでしょう」
「私とあなた、ちょっと似てない?」
羊はムッとした表情で、
「にていません。ようはひだりとみぎをまちがえたりしません!」
「あー、そうだねー、じゃなくって。顔。顔が私達、そっくりじゃない? ほら」
百葉はスマホのカメラを自撮りモードにして、羊の顔の横にしゃがみ込む。優しい柔らかな幼児の匂いに心が癒される。羊はスマホを覗き込むと、
「むむむむむ… そうでしょうか? それはおねいさんのおもいすごしかとおもわれます。ああそうだ、そのへんなめがねをとっていただけますか、はいどうも。おおおおおおお! こ、これは… めんような… これはなにかののろいなのでは…」
その驚き方が天使のように可愛かったので、百葉は思わず黙ってシャッターを押した。許可なしに他人を撮影した。
また一枚、百葉の常識の葉っぱが剥がれ落ちた。
程なく正しい煙草屋の向かいにある、市川家に到着する。そこは古色蒼然とした昔ながらの昭和家屋であった。まあ百葉が想定していた通りの家屋だった。先程の素敵な煉瓦造りの家の事は忘れよう、百葉は呼び鈴を押した。
出て来た初老の女性は優しそうな笑顔で百葉を迎えてくれた。何故か羊も一緒に玄関を潜った。
「珠代ちゃん、えっと野田先生から聞いてるわよ。市川です。竹岡さん、よろしくね。ささ、どうぞ入って入って。まー可愛らしい妹さんねえ。お姉ちゃんそっくりねえ」
「はじめまして。ちばようです。ももはさんとはしまいではありません。ついさきほどしりあったのです。おじゃまします」
「あらあらそうなの。それはそれは。ようちゃん、どうぞ入ってね」
保護者無しで知らない人の家に上がる。保護者無しの幼子を家に上げる。更に百葉の常識が崩れて行く…
「食事は朝と晩は私が作るわ。百葉ちゃんには二階のお掃除とお買い物をお願いしたいの。もう歳でしょ私、重いもの持つのが辛くて辛くて」
「それだけでいいんですか? 一階も掃除しますし、洗濯も…」
「平気平気。それぐらいしないとボケちゃうでしょ。それでいつここに越してこられるのかしら?」
江戸っ子はせっかちである、と俗説を聞いたことがあるが、まさにその通りだなと思い、百葉はプッと吹き出してしまう。
それにしても百葉は夢を見ているようだった。電車の中で思い浮かべた重労働どころか、施設での生活よりも楽な生活ができるなんて。
「おねいさんはきちじょうじからひっこしてくるんですよね。たいへんですね…」
羊が同情してくれる。のだが、
「荷物はダンボールに二つです。それは施設から宅急便に出す予定です。ですので入居日を決めてしまえば簡単です」
「そうなの。じゃあ、いつから入居出来るかしら?」
「出来れば今月中に… 施設を月末までに退去しなければならないので…」
「おねいさん。しせつってなんですか? おうちとはちがうのですか?」
興味ぶかげに羊が尋ねる。
「うん、私ね、五歳から養護施設で育ったの。だからお家は無いんだよ」
「おうちがない…」
唖然としながら羊が呟く。きっと、両親の愛をたっぷりと受けた育ちの良さそうなこの子には、私のような境遇を想像のしようがないのだろう。
「うん。だから荷物も少ないんだ。市川さん、それでは来週の二十七日は如何ですか?」
「あらそんなに早く来てくれるの! 嬉しいわ」
すると羊が慌てた表情で、
「ダメですおねいさん。二十七にちはぶつめつです。えんぎがわるいのです。」
仏滅って… 何故そんな事まで知っている? 土地柄といい、この子はお寺の子なのかも知れない。そう思いつつ、
「そうなんだ。でもね、その日しか空いていないの。施設の都合もあるしね」
羊は渋い顔をしつつ、
「そうですか。それならしかたありません。ぶじをいのっておきましょう」
「ありがと。羊ちゃん優しいね」
羊の顔が瞬時に真っ赤になる。その照れっぷりに百葉と市川さんは大笑いする。
三人は二階に上がり、百葉の住う部屋に入る。よくドラマや映画に出てくる、六畳の畳に硝子戸のついた昭和な部屋だ。南向きなので日が良く入り部屋は太陽の匂いがする。
「ここでしっかり勉強して、立派な弁護士さんになってね」
「はい。ここならじっくり勉強出来そうです」
「おねいさんはべんごしになるのですか?」
羊がちょっと醒めた顔で呟く。
「うん。これから大学で法律の勉強をいっぱいするの。羊ちゃん、弁護士って知っている?」
「はい。じゃくしゃからカネをまきあげきょうしゃにこびへつらうさいていのしょくぎょうですね。おねいさんがそんなしょくぎょうにつくとは…」
百葉と老夫人は一瞬硬直し、大爆笑する。
「羊ちゃん。アンタはよく社会を知ってるねえ。えらいえらい。でもね。このお姉ちゃんはそんな弁護士にはならないよ。だって東大行くんだから。東大で法律勉強するんだから。だから大丈夫。心配しなくていいよ」
羊は目を見開き、口を大きく開け、
「とうだい、ですか。それはあのにほんをだいひょうするあのとうきょうだいがくですか? おねいさんはにほんいちあたまがいいのですか! わーーーーーーー」
こんな凄い子に褒められ、やや嬉しく思う自分にうっかり微笑んでしまう。日本一って。でもまあ、この子には若干舐められ気味だったので、これで少し立場が変わるかも、と思っていると、
「みぎとひだりがわからなくてもとうだいにはいれるのですね。ようもおおきくなったらとうだいにいきます!」
…やはりこの娘には当分頭が上がらなさそうである。
* * * * * *
まだ新しい墓石には『市原家』と刻まれている。
その墓石に水を掛け、線香に火をつけ、今日卒園式で羊が貰ってきた花束を供える。
龍也は手を合わせ、目を瞑る。
拓海、シェンメイ。羊は保育園を無事に卒園したよ。
いや、結構色んなことが園ではあったけど、他人を傷付けたりいじめたり
そんな事は一切しなかったから、まあいいんじゃないかな。
園長先生が言ってたんだけど、羊は途轍もなく頭が良いんだってさ。
朝顔を育てるのに大事なものはって聞いたら、それは光合成ですって答えたんだってさ。
取り敢えず新学期からは地元の小学校行かせるけど、その先はちょっと考えないとね。
だって二人の残した大事な命だから、なるべく楽しく生きれるように導かないとね。
俺は相変わらず。仕事と羊の面倒で手一杯さ。まあどっちもそこそこ楽しいから、
ちっとも苦には思わないよ。本当だよ。
もうあれから二年経つんだね、今年は二人の三回忌じゃん。
羊はすっかり俺に懐いている様に思うけど、どうかな二人から見て。
最近は夜泣きもおねしょも殆ど無くなったよ。
シェンメイ譲りの面倒見の良さと快活さ、
拓海譲りの長ったらしいお喋り。
羊と一緒に過ごしていると、まるであの頃の続きの様な気がしてくるよ。
未だ二人がここにいる事を受け入れられないのは俺だけかも知れないね。
ああ、羊がシェンメイのお腹に居る事を知ったときの事を思い出すよ…
* * * * * *
「タツ、ここだけの話が、あるんだ…」
「なんだよ改まってこんなところに呼び出して。さてはシェンメイに男が出来たとか?」
二〇一二年 六月。
苦笑いしながら拓海が首を振った。二人は晴海埠頭近くに車を止め、歩いて埠頭に来ていた。昼間の蒸し暑さは身をひそめ、涼しい夜風が対岸の夜景をより美しく感じさせる。目の前の暗い海に対岸のビル群の光が反射し揺れ動いている。
正直、男二人が来るような所ではなかった。よっぽど人に聞かれたくない話なのだろう。拓海の細心の注意がそれを物語っている。
龍也は初めてシェンメイを紹介されて以来、彼女のことを仕事としても注視していた。若手外交官に寄り添う中国共産党幹部の娘。普通に考えてそこに諜報活動がない訳が無い。何らかの使命を携え彼女は拓海に近づいたーそう考えるのが今の龍也の職場なのである。
警察庁ルートの情報では彼女の父親、王一平は広東省広州市の共産党の幹部でありI T企業の社長でもある。若い頃にアメリカに留学した経験を持ち、今でも世界中をビジネスで飛び回っている。当然日本にもよく来ており、拓海をはじめとした日本人の友人、ビジネスパートナーは多い。
だがその裏では、各国のI T企業の先端技術に関わる情報を党に流している疑いがあり、欧米諸国では要注意人物としてリストに挙がっている。最近では日本の企業の買収も目論んでおり、警察庁、外務省もその動向を常にチェックしている存在なのであった。
王神美、シェンメイ自身は飯田橋にある大学の留学生であり、真面目に授業に出席し学業に勤しんでいる事はわかっている。特に諜報活動に携わっている様子は見えなかったのだが、やはり外務省の若手外交官と親密な関係にあるのを龍也は職務として見逃す事は出来なかった。
春が過ぎ梅雨に入ったこの頃。拓海とシェンメイの仲はいよいよ進展していった。最近では彼女は拓海の家に入り浸っており、半同棲をしている状態であることは龍也も把握していた。どうやら拓海は本気で彼女との将来を考えているのではないか、龍也の直感はそう感じていた。
そんな最中に、龍也は拓海に呼び出されたのだった。
「どうやら僕は、父親になった、らしい」
龍也は口にしていた冷たい缶コーヒーにむせ返った。
「彼女と… 一緒に、なろうと思う」
暗い海の遥か向こう側に、東京タワーのイルミネーションが美しい。昼間の蒸し暑さが嘘の様に、涼しい海風が二人の頬を撫でている。
「わかっている。わかっているよタツ。彼女の父親がマークされている事も。そして彼女も監視下にある事も。そして、夫婦になるためにどれだけの犠牲を払わねばならないかって事も。恐らくね、この事が露見したら僕は外務省か彼女かを選べ、と言われるだろう。その時僕は… 多分彼女と子供を選ぶだろう」
まるで独り言の様に拓海は呟く。この数日ずっとこの事を思い悩んでいたのだろう、珍しく拓海の顔に疲労感がありありと垣間見られた。
「拓海さんは… ホントにそれでいいの? 東大出て外務省入って、これまでのキャリアが全てパーになるんだよ。それに辞めた後もずっと監視下に晒されるんだよ。それでもいいの?」
その監視をするのは龍也になるであろう。そしてもし国家や企業の不利益となる様な行動を二人が取った時、それを止める若しくは排除するのも…
「これさ、典型的なハニートラップじゃん。分かるだろ拓海さんなら。これからさ、子供を人質にされて色々やらされるよ、父親にー王一平に。外務機密事項を流せとかさ、世論操作活動に従事しろとか。この国家だけでなく、色々な友人、知人を裏切らなければならなくなるよ、俺さえも…」
手に持っていた缶コーヒーを拓海は面前の海に投げ捨てた。
「わかってる! そんな事ぐらい、全部わかってるよ!」
言葉尻が小さくなっていく。
「それでも僕は… 彼女と、僕らの子供と一緒になりたいんだ。もうどうしょうもないんだ。タツ、分かってくれとは言わない。でも、理解してくれ。生まれて初めて惚れた女なんだ。その女が身篭った。僕の子供を宿してくれた」
「彼女は、シェンメイは何と言ってるんだ?」
「彼女も、万難を排して、僕と一緒になりたいと、言ってくれている」
暫く呆然と揺蕩う海を眺めていた龍也は一つ大きな溜息をついた後、空になったコーヒー缶を海に投げ捨てた。
「わかった。シェンメイに会わせてくれ。直接話が聞きたい」
強張った顔が僅かに綻びた拓海が、
「ありがとうタツ。今からでいいかい?」
「ああ。行こう」
二人は踵を返し、真っ暗な海に背を向け歩き出した。
半蔵門の拓海のマンションに着くと、龍也は少し離れた通りに停車している一台の車に気が付いた。恐らく警察庁の車両だろう。中の二人は龍也が目を向けると下を向いた。
拓海の肩を突き、顔をその車両に向ける。拓海は一瞬目を見張り、龍也に視線を戻し、軽く頷く。エントランスの自動扉を解除するキーを持つ手が少し震えていた。
部屋に入るとシェンメイが満面の笑顔で二人を出迎えた。彼女にとって龍也は、自分より年上ながらも弟の様に感じている様で、なにかと世話を焼きたがる。
「ロン、お腹空いてるね。何か作るよ。何がいい?」
養護施設にいた頃の香世の事を思い出し、表情が緩んでしまう。
「大丈夫、食べてきたから。それより。シェンメイ。君、お腹に赤ちゃんいるんだって?」
シェンメイは顔を赤らめ、実に幸せそうにそっとお腹をさする。
「そう。私はママになるよ。拓海はパパになるんだよ。ロンは叔父さんになるんだよ」
龍也はリビングのソファーに深く腰掛けて大きな溜息をついた。シャツのボタンを一つ外し、また大きく溜息をついた。
「ロン、溜息はダメよ。溜息つくたびに幸せが体から出て行っちゃうよ」
彼女の日本語はこの数ヶ月で飛躍的に上達している。そんな彼女をなにも言わずに龍也はじっと見つめている。
シェンメイも龍也をじっと見つめ返し、やがて表情を曇らせながら、
「わかってるよ。ロンが言いたいこと。こないだ拓海とも話したよ。もし私たちが一緒になったら、一番困るのはロン。辛い思いするのロン。ごめんね。ちゃんとわかってるよ」
不意にシェンメイの瞳から一筋の涙が零れ落ちた。
「でもねロン。もう後戻り出来ないよ。私は拓海を愛してる。お腹の子供も愛してる。何があってもこの二人から離れたくない。離れられないよ」
鼻を大きく啜ってシェンメイは続ける。
「拓海に聞いた。ロンはスパイの仕事。チョングオン(中国)からリーベン(日本)を守るのが仕事。だから私のパパはロンの敵」
「いや、それは違うー」
「ううん、違くない。きっとパパは私と拓海の結婚を許す代わりに拓海に色々させる。拓海にチョングオンの為になるようなことをさせる。そして拓海は私とこの子の為にそれをする。リーベンを裏切ってチョングオンの為になることをする。そうでしょ?」
「シェンメイ…」
「だから。もしそうなった時は。もしリーベンが拓海を消すときには、」
「それは…」
シェンメイは鼻声でお腹をゆっくりと摩りながら、
「クイロン、貴方が拓海と私を消す。いいね。それがロンの大事なお仕事。わかった? でもこれだけは守って。この子は関係ない、だからこの子だけはロンがしっかり守って。いい、わかった?」
クイロン… だと?
ちょっと待て、今この子は間違いなくクイロン、と…?
シェンメイの何気ない一言に、龍也は嘗てない衝撃を受けた。
何故シェンメイが特戦群、特殊作戦群時代の俺のコードネーム『鬼龍』を知っているのか…
一体何故彼女はそれを口走ったのか…
そんな龍也の衝撃に気付かない拓海は、ダイニングテーブルに腰掛けて軽く笑う。
「な、タツ。僕のかみさんは凄いだろ? こんな女性、日本人にはいないぜ中々。」
龍也は大きく溜息をつこうとしてそれを途中で止めた。今後一生、溜息をつくのはよそう。そう決心した。
「ああ、そうだな。よし分かった。俺は… 拓海さんとシェンメイを応援するよ。できる限り力になるさ。約束する」
「タツ! ああ、それでこそタツだよ。僕の大切な弟だ。な、シェンメイ、言っただろ。タツは最高の僕らの弟だって!」
「そうです。ロンは最高の弟です! 愛しています!」
弟って… 俺は君よりずっと年上だぜ。
龍也は苦笑いしながら彼らの抱擁に身を任せる。
そして。シェンメイの身辺調査を再度検めることにした。
* * * * * *
俺は貴女の子供をちゃんと守れていますか?
目の前で大きな口を開けて卵サンドを頬張る羊を眺めながら、龍也は問いかけた。
「んーーーやありこのたまろさんろはぜっぽんでふーーー」
「こら羊。口に物を入れたまま話をしない。御行儀が悪い。そんなんじゃ、給食の時先生に叱られるぞ」
「ほーれひたふみまへん」
「おい。喋るな。飲み込んでから喋れ」
「あい」
「ったく。」
不思議な事に、龍也がどれほど口煩く言っても羊は拗ねた態度を見せたり、逆に媚び諂う態度を見せた事がない。養護施設での自身の体験や周りの子供達の挙動を思い起こしても、大人にこれだけ細かく注意されても全く動じない子供は龍也の記憶に無かった。
少し心配になって、信頼できる人間に相談しようと思い一昨年の夏前に龍也は自分が育った習志野にある養護施設に赴いた。数年ぶりに訪れたのだが、あまりに何も変わっていなかったのが妙に印象的だった。
かつて大変世話になったベテラン保育士の我孫子が龍也を見ると何も言わずにしがみついてきた。ポロポロと涙を流しながら、よく来たよく来たと唱え続ける『泣き虫アビー』の背中をさすりながら、
「毎年年賀状は出してるだろーが。泣くなよ」
「だって、だってたっちゃんが、たっちゃんが… あああああ…ひえーーーん」
龍也は頭を掻きながら、羊に園庭で遊んでいなさいと言うと、呆然と二人を眺めていた羊はカクカクと頷き走っていく。
大泣きを終えた我孫子先生は龍也を職員室に連れて行き、冷たいお茶でもてなす。そして龍也と羊の話を小一時間程じっくりと聞いた後、改めて龍也を眺め、
「たっちゃんがあんな小さな子連れてきたから、本当の子供かと思っちゃったよ。でも、うん。事情はわかった。えらいぞたっちゃん。うん、それでこそたっちゃん」
「まあ、友達との、この子の親との、約束だし」
「うん、うん。約束な。ちゃんと守ってるんだな約束。やっぱりえらいぞたっちゃん」
「わかったから。で、どーなのよコイツ。ちょっと心配になってきてさ。何言ってもニコって笑ってハイハイって。大丈夫かな、コイツ、ストレス溜まってねーかな。俺が細かすぎるかな。もっと何でも許してやればいいのかな?」
遊戯スペースで他の子と普通に仲良く遊んでいる羊を細い目で眺めながら、我孫子は呟くように龍也に話す。
「多分ね、まだちゃんとアンタたちの関係を見てないからハッキリと言えないけどね、あの子アンタのこと正式な『親』と認識してるんじゃないかな。実の親の友人、ではなくって。たった一人の自分の親って思ってるよ。でなければアンタのことを気にもかけずにあんなに一心不乱に遊ばないって。ちょっとでも不信感、不安感があればずっとアンタに張り付いているか、何かする毎にアンタを見るよ。これは実の親子関係でもよくあることなんだけどね」
「そうなんだ…」
「うん。だからさ、いいんじゃない今のままで。ちゃんと躾けられた良い子に育つと思うよ。アンタとは真逆の、ね」
「そういうのいいから。でも、そっか。いいのか。うん。ありがとアビー。なんか肩の力抜けたわ」
「アンタは昔から責任感の塊みたいな子だったから。自分の子供じゃない子にこんだけ心配して。ホントよく育ったわー うん、うん… う、うう…」
「だからー泣くなよこんな事でさあ。ったく、昔から『泣き虫アビー』なんだから」
「うるさいっ こんなババア泣かせてないで、もっと若い子の一人でも泣かせてみろってんだ。どーせ彼女の一人もいないんだろ。香世が今のアンタ見たら何て言うかーー」
「ウッセーな。そう言えば、香代は元気してる?」
「そうね。最近は外人の患者が増えたんで英語の勉強が忙しいってさ。アンタのことも気にしてたよ。ったくどーして直接連絡取らないんだい」
「知らねえよ。アイツが連絡先教えてこねーし。ま、元気そうならいいや。よろしく伝えといてよ、子供と元気に暮らしてるって」
「めちゃくちゃビックリするわね、きっと」
以来、龍也は羊に対して人として大事なことは厳しく嗜め、人としてどうでも良い事にはあまり口を挟まなくなった。
「ごちそうさまでした、やはりここのタマゴサンドはぜっぴんですね」
「そりゃ良かった。それより羊、お前ちゃんとお墓の前でお父さん、お母さんに卒園した事を報告したか? 四月から小学生になるって報告したか?」
「ええちゃんといいましたよだけど…」
珍しく羊が言い淀んでいる。
「ん? なんだよ?」
「しょうじき。おはかのおとうさん、おかあさんのことをようはすっかりわすれてしまいましてなんかちょっちりありてぃーがー」
「バーカ。言わなくていいわ、そんな馬鹿正直に」
龍也は口にしていたコーヒーを吹き出しそうになる。
「ああ! にかいもバカといいましたねおとうさん。ようはP T S Dになりそうですよyo!」
「ああすまんすまん御免なさいもうしません」
「まったくこころがこもっていません。いいですかおとうさんことだまというのがありましてくちからでたことばはーー」
「ハイハイわかったわかった。さ、行くぞ。これからお前のスマホを選びに行くからな」
羊は口をポカンと開け、しばらく硬直していた。そして、
「なん ですっ て! おと うさま、いまな んと…」
「だから、お前にスマホ買ってやるって言ってんの。学校には持っていけるのかな。それは知らんけどな。大事にしろよ」
羊は椅子から立ち上がり、両手を高々と掲げ、
「う れ し い…」
何と目に涙を浮かべ始めた。
「ええ、だいじにしますとも。まいにちおとうさんにラインしてあげます」
「そこは上から目線なのかよ…」
「たくさんスタンプおくります」
「そのスタンプ買うの俺だろうが…」
「百もあればじゅうぶんですから」
「そんなに買うのかよ!」
隣のテーブルの学生カップルが吹き出している。龍也と羊は目線でハイタッチを交わした。
* * * * * *
一週間はあっという間に過ぎ去り、いよいよ百葉が谷中に出発する日がやってきた。
朝から小学生と中学生の子供達が百葉に取り憑き、アレをくれだのこれを頂戴だの言いたい放題言っている。持っていた文房具の殆どを取り上げられ、今夜からの勉強はどうしようか心配になる。
危なく高校生の子ににスマホを取られそうになり、これだけは勘弁して欲しいと何故か土下座をさせられる羽目になった。
代わりに洋服をあげようとしたら、真顔でそれは勘弁してくれと言われ、軽く凹んだ。
ここに来てから十四年が経ったのだ、その思い出の品々を皆に分け与えながら百葉は感慨深い思いでいっぱいになってくる。
この施設に来た日の事を朧げながら百葉は憶えている。父と母を交通事故で亡くし、親戚で百葉を引き取れる余裕のある所がどこにも無く、児童相談所の人の勧めに従いやってきた。
そうあれも桜の花が咲き始めた、丁度今頃だった。
正確には二〇〇五年の三月二十二日。父母を同時に失ったショックを引き摺ったままこの施設に入った四歳の百葉を、大勢の保育士、年長のお兄さんお姉さんが支えてくれた。今思うと百葉には感謝の言葉しかない。
ここには百葉のように父母を亡くした子の他に、親に育児を放棄された子も多数いた。様々な不幸な境遇からここに来た子達に混じり、百葉が一番学んだ事は、「自分より不幸な人は世の中に大勢いる」事だった。
この先どんな辛い事、苦しい事があっても、この施設で過ごして学んだ事を思い出し、明るく元気に乗り越えよう。
そう心に誓い、百葉は施設を後にした。
施設を出る前の簡単なセレモニーの中で、一番可愛がっていた中学三年生の沙羅から入学祝いと出所祝いを兼ねて、Bluetoothのイヤホンを貰った。みんなで少しずつお金を出し合い、沙羅が買いに行ったのだ。
沙羅をはじめとする、中学生から高校生にかけての子達にとって、百葉はもはや伝説の人物である。
この施設始まって以来の天才。中学校、高校の六年間、全て学年一位。朝五時に起きて朝食の時間まで勉強。学校から帰り、夕食の時間まで勉強。夕食後、就寝時間まで、勉強。ついでに言えば、施設と学校の行き帰り途中も勉強。
そう、彼女は地頭の良さも相当だが、実は努力の天才なのであった。施設の子達どころか、一般家庭の子達にも中々真似が出来ない勉強への努力。
そして施設の彼等は知っている。
実は百葉の容姿が類稀である事を。彼女は自分の容姿に全く関心が無く、髪型や化粧に一切興味が無い。まず髪は自分で切る。服は年長者のお古を頂く、それも男女を問わず。靴も自分で買った事がない。眼鏡すら保育士と校医の説得にも関わらず先輩から貰ったモノを使用している。
よってその姿は決して男子から二度見されるようなものではないのだが、去年毎年恒例の施設のクリスマス会の出し物に出演した時。
年上の女子達が髪型、化粧を捏ね繰り返した結果、舞台にはどう見てもボランティアで来てくれた新人アイドルにしか見えない百葉が立っていた。その姿に、施設の男子のみならず女子をまでも魅了されていた。
そんな百葉があっさりと現役で東大に合格した。皆は当然と思いつつも事の重大さに愕然とするのであった。未だに養護施設からの大学進学率が20%を超える事はない。そんな状況下での、東大なのである。
施設の後輩達にとって、百葉は実在する都市伝説なのであった。そんな百葉がいよいよ施設を出ていく。
決して真似は出来ない。でもその後ろ姿を追う事は出来る筈だ。東大は無理だが、もう少し頑張れば、という気持ちが最近彼等に蔓延し、いつか俺も私もあの後ろ姿を後輩達に見せてやろう、そう沙羅たちが心に誓っていた事を百葉は知らない。
そんな重い想いが篭ったイヤホンとはつゆ知らず、歩きながらサッと設定を済ませ、早速お気に入りの音楽を楽しみながら百葉は三鷹駅から電車に乗った。
そう言えば、あの谷中の女の子が二十七日は仏滅だからやめた方がいい、と言っていた。でもどうだろう、この晴れ渡った天気。温かく見送ってくれた施設のみんな。後輩達から貰ったイヤホン。仏滅どころか、大吉ではないか。
正しくは大安なのだが、先週訪れてすっかり気に入ったあの街に住める喜びに舞い上がり、百葉は今日という日に心から感謝していた。お父さんお母さん、ありがとう。施設のみんな、ありがとう。えりな、萌、愛美、ありがとう。学校の先生方、ありがとう。この電車の運転手さん、ありがとう。そしてこれから向かう谷中の皆さん、ありがとう。
思い浮かぶ全てに感謝を捧げた百葉だったのだが、唯一感謝し忘れたのが。
神様、だった。
目の前の光景に百葉は膝の力が抜け、地面にへたり込んだ。
「神様、どうして…」
百葉は電車の中で神様に感謝し忘れた事の重大さに打ちのめされていた。
日暮里の駅を降りた辺りから妙に焦げ臭かった。先週曲がり間違えた肉屋に近づくと、大勢の人だかりと鳴り響くサイレンの音に心がゾワゾワしてきた。すみません、通ります、と人々を押し除けて前に進むと、真っ黒な煙が真っ青な空に登っていくのが目に入った。その黒い煙を降りて行くとーそこには真っ赤に燃え盛る昭和な家屋があった。狭い道なので消防車が入ることが出来ず、ホースを持った消防士が必死で放水している。
ちょっと待って。そこは今日から私が住む処―無意識の内に百葉は仕切られたロープを潜り抜けようとしていた。野次馬達は燃え盛る火に夢中で百葉の動きに誰も気づかなかったーただ一人を除いて。
気が付くと、後ろから腕を掴まれていた。百葉は振り返り、
「あそこに、足の不自由なおじいさんがいるんです、おばあさんもいます、早く助けにー」
「大丈夫だ。もう救助されているか…」
百葉の腕を掴んでいる男性が言いかけ、言葉を止める。
「でも私の荷物が届いているのです、昨日、届いているのです、一昨日、出したんです、」
「残念だけど、それは… 諦めなきゃならない」
動揺している百葉をじっと見ながら低い声がそう言った。
「私、今日から彼処に住う筈だったんです、それなのに… どうして…」
「ああ。知っている」
「へ?」
「右と左をよく間違えるんだってな?」
心に落ち着きが戻り、その鋭い目の男を凝視する。あれ、見た事のある気がする…
「でもとうだいせいなんですから。りっぱなものです」
下から聞こえてきた声。
「羊ちゃん! どうして、え?」
するとこの男性は、あの時この子と一緒にいた、父親だ!
「ももはさんだからようはいいましたよね。きょうはぶつめつだからやめたほうがいいと」
緊張から恐怖、そして安心。僅かな間の心境の目まぐるしい変化について行けず、百葉は思わずしゃがみ込み、羊にしがみ付いて、
「どうしよう、ねえどうしよう、荷物が、燃えちゃった、どうしよう、私どうしよう」
そんな百葉をそっと抱きしめ、
「ももはさんおちついてください。ここはやじうまがうざいしえんしょうのきけんせいもあるので、とりあえずたちのきましょう」
と言って羊は百葉の肩に顎をちょこんと載せて耳元でそう囁いた。
先週感じた優しい柔らかな幼児の匂いが百葉の鼻腔に入ってきた百葉は瞬時に気を取り直す。ああこの匂い。施設の子達とおんなじ匂い。今日まで私はこの匂いに癒され勉強を頑張ってこれたのだ。親のいない寂しさを乗り越えてこれたのだ。
百葉はゆっくりと立ち上がり、羊の手を取る。
「うんそうだね、ここは危ないね。急いで離れましょう」
父親らしき男性が軽く頷き、二人を促して歩き出す。その背を追いながら、百葉は暫しこの先のことを考えるのをやめた。
* * * * * *
羊と百葉が蹲み込んで抱き合っている姿を見た時、龍也の感情が揺れた。この姿はー市原拓海が見る筈だった光景なのだ。
今朝から羊の挙動がおかしかった。朝起きてからずっと自分のスマホで色々探っては小さな溜息をついている。聞くと、先週知り合った竹岡百葉が今日谷中に引っ越してくると言う。今日は仏滅だから何か嫌なことが起きなければいいのに、と落ち着かない様子なのだ。
そんな迷信に惑わされるな、さっさと朝ごはんを食べなさいと言うと、六曜だの陰陽道だの訳のわからないことを捲し立てられ、だったら連絡をとって迎えに行けば良いと言うと、残念ながら連絡先がわからない、一日早くこのスマホを与えてくれていれば、と恨めしげな顔をするので、もう勝手にしろと一人朝食を済ませ、着替えて仕事に出た。
勤め先に電話をしてきたのは先週スマホを買い与えて初めてのことだった。いい加減にしろ、俺はこれから部下と昼食を取るんだ、と低い声で嗜めると更に低い声で近所で火災が発生している、方角的に市川さん宅付近と推測されるので様子を見に行きたい、と言う。
部下に昼食の詫びをしついでに早退する旨を告げ、すぐに帰宅するからそのまま待機せよと羊に伝える。二十分後に帰宅すると真っ青な顔で羊が震えている。こんな様子は滅多に見せない。スーツを脱ぎ普段着に着替え、羊と家を出る。
肉屋の角あたりは野次馬で溢れかえっている。よく見かける顔に状況を聞くと、羊の心配通りの内容だった。煙草屋から出火し、折からの強い風で向かいの市川家にも飛び火し、辺り一帯が火の海となっているらしい。
ただ主人が骨折している事は知れ渡っていた為、即座に周りの人々によって救助され老夫婦は無事らしい。
羊が大学生の女性の無事を尋ねるもそれは知らない、と言われ一層不安げな様子となる。その時龍也は野次馬の群れに入り込んで行く若い女性の後ろ姿を発見する。羊に確認すると間違いなく竹岡百葉だと言う。
野次馬をすり抜け、現場にフラフラと向かおうとするその若い女性の腕を後ろから取る。あの人とは違い、細い腕。その若い女性が振り返る。足の不自由な市川さんの安否を問うてきたので既に救助されている、と言いかけて言葉が止まる。
手を取るほどに近くで見た彼女は、変な髪型やおかしなメガネを意識しなければーやはりあの人―シェンメイに生写しであった。
その後何事かを言い合ったが龍也の思考は不覚にも停止状態であった。
王神美。君の正体を知った時の衝撃は、今でも忘れられない。
* * * * * *
「千葉、ちょっといいか?」
陸上自衛隊幕僚監部、通称陸幕の情報部所属の成田三佐が食堂で龍也を捕まえて小声で呟いた。龍也の所属する情報科とは指揮系統の全く異なる部署であり、言わば陸自の心臓部とも言える組織である。当然扱う情報は龍也たち情報科とは格が違い、主に国家機密レベルの情報を収集している。
「成田さん」
「あの件、わかったから」
龍也は軽く頷き、成田の後を追った。二人は正面玄関を出、防衛省の敷地内の誰も居ない木陰のベンチに腰掛けた。
成田三佐とは龍也が市ヶ谷の陸自本部に配属するまで面識が無かった。だが成田は龍也の魚釣島事変での活躍を熟知しており、初めて会った際に、
「お前が『鬼龍』か」
「……」
「安心しろ。ウチの部で知らない奴はいない。それにお前の科に話すつもりもない。この市ヶ谷で鬼龍を知ってる奴は八名だけだ」
「…九名に、増えたら?」
「お前がやる前に俺が消すさ」
「意外に、物騒ですね」
「お前ほどじゃないよ、鬼龍」
以来、親しくしている。
「結論から言う。王神美は『雪豹突撃隊』所属だ」
思わず龍也はベンチから立ち上がり、
「そんな馬鹿な! 何言ってんですか成田さん!」
成田の耳に届くだけの音量で叫ぶ。
喫煙所からは遠く離れているのだが、構わず成田はiQOSを口に含む。
「ついさっき、北京から連絡が入った。彼女は間違いなく人民武装警察の特殊部隊、そう、あの『雪豹』の構成員だ」
この人は何を言っているのか。あの子が、あのシェンメイが特殊部隊に所属している?
シェンメイの日頃の言動を思い起こす。いや、とても彼女が雪豹の構成員とは考えられない。それに、だ。
「それは有り得ないと思いますよ、だって『雪豹』は対テロでしょ? なんで日本に? おかしいでしょ?」
成田は無表情で小さく呟く。
「彼女は『雪豹』の、『聶隠娘』の一員だからだ」
龍也は凍りつき、声が震えだ出す。
「なん です って?」
「今、言った通り。これは事実だ」
「『聶隠娘』って… 世界最強の女暗殺者集団、じゃないですか…」
情報機関に所属するもので聶隠娘を知らぬ者はいない。主にその美貌で対象に接近し、特殊な武器を使わず素手で対象を即死させる技術に長けた集団だ。実在を疑う組織もあり、その姿を世間に晒したことは、無い。
龍也も特戦群時代にその噂を耳にしたことがあり、美し過ぎる中国娘には絶対近付かない事を仲間内で誓い合ったものだった。
あの陽気でお喋りなシェンメイが、あの聶隠娘だと?
「ああ。報告によると、コードネーム美蛇、こと王神美、本名は不明だ、は台湾の陳将軍、香港の学生活動家の鄭信の暗殺の実行犯らしい、それに上海日本領事館の副領事の自殺案件も実は…」
コードネーム美蛇。信じられない。あれ、陳将軍暗殺? 鄭信自殺案件?
「それは無いでしょう、彼女は今年二十歳ですから、あれは七年前と三年前の事件ですから…」
「美蛇は記録では現在二八歳だ。」
龍也はそれ以上立っていられなくなり、ヨロヨロとベンチに蹲み込んだ。
「ちょっと待ってください… シェンメイが二八歳… 聶隠娘の美蛇… 信じられない、考えられない…」
「ああ。俺も別班から聞いた時は耳を疑ったよ。そんな超大物が日本にいたとはな」
「別班って… じゃあ、このネタは警察庁や外務省は?」
「全く知らんだろう。ウチでも知ってるのは俺と別班の連中だけだ」
別班からの情報となると、幕僚長、防衛大臣、更には総理にも伝わらないだろう。それ程特殊かつ秘匿性の高い情報なのだ。
「今回は俺たちが去年のお前の活躍に敬意を表した、ってトコだ。ま、借りだと思ってくれてればいい」
「それは全然問題ないですが。それより、何故、彼女は日本に… ターゲットが市原拓海、ではないと思うんですが」
「美蛇が日本に来た理由はウチでもわからない。ただ…」
「ただ?」
「北京も、広州も、市原を高く評価しているらしい。それだけに何故彼女が市原に接近したのかは、」
「市原を守る為でしょう。何から? 誰から?」
「それがわからない。市原は向こうに落ちたのか?」
「いえ。ただ…」
「なんだ? 少しはこっちにも寄越せよ。」
まだ知らないのか、逆に少しの驚きを感じながら、龍也は頷く。
「いずれ周知されると思いますが。彼女は市原の子供を妊娠しています」
成田がiQOSを地面に落とし立ち上がる。
「なんだと!」
「これが北京や広州に知られると… それに、父親の王一平が知れば市原はどうなりますかね…」
「王一平はどうでもいい」
「いや、広州の党幹部でしょう?」
「美蛇は北京の命令で王一平の養子、王神美になったんだ」
「え……」
余りの情報の深さに龍也は泥沼に嵌った感覚に陥る。
「そう。彼女を養子にする条件で彼は広州の党幹部に出世したんだ。だから王一平は彼女に頭が上がらない。立場的には神美の方が断然上だ」
「となると、シェンメイの妊娠は北京と広州でどう判断されるか、ですね…」
「ああ。だからな、千葉。市原と王神美から距離を取れ。でないと、巻き込まれるぞ」
「成田さん。可能性としてなんですが…」
「なんだ?」
「ウチが二人を処分することって…」
成田は龍也をじっと眺めた後、iQOSを一服深く吸い込み天に薄い煙を吐き出しながら、
「ああ。可能性としては、無くは無い、だろう」
龍也は言葉を失う。空を見上げると曇天だ。今にも雨が降り出しそうである。
どうせなら激しい雨が降ればいいのに。そしてこの薄汚れた人間社会を綺麗さっぱり洗い流してくれればいいのに。
奥歯を噛み締め天を睨み付け続ける龍也の横で成田は二本目のiQOSを吸い始める。
成田がそれを吸い終わる頃。龍也は自分の立ち位置を心に決め、
「なら、俺は引きませんよ」
訝しげに龍也を眺める成田に、
「どうもありがとうございました。別班にもよろしく伝えてください」
はぁー、と大きく息を吐き出してから成田は
「千葉―」
「はい?」
「生き急ぐなよ」
「覚えておきます。」
龍也はゆっくりとベンチから立ち上がり、成田に一礼して立ち去った。
その日一日、龍也は何故シェンメイが拓海のそばにいる、即ちシェンメイが何から拓海を守っているのかを徹底的に考えた。頭の中でいろいろな組織と拓海、シェンメイの関係図を描いては消す。描いては消す。何度繰り返しても筋の通った説明にはならなかった。
定時に就業を終え防衛省を出た後、気が付くと龍也は靖国通りを靖国神社の辺りまで歩いていた。汗でシャツはベッタリと体に貼りつき、風が全く吹いていない不快な暑さが急に龍也を襲う。
それでも龍也は歩を緩めることなく皇居内堀の千鳥ヶ淵沿いに歩を進める。左手の皇居の森は夕闇に暗く息を潜み、龍也の側を何人ものランナーが過ぎて行く。何度考えても拓海とシェンメイを取り巻く関係が整理出来ず、真夏の夜の蒸し暑さに龍也はこれ以上の思索は無理かな、と思った時。
「ロンっ」
声の方向を見ると、内堀沿いのベンチにシェンメイが一人、座っていた。