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谷中ものがたり  作者: 悠鬼由宇
1/6

其の壱

二〇一九年 三月。


「おとうさん、あめはすっかりやみましたね、はるさめぜんせんがほくじょうしたのがさいわいしたのでしょうか、ほらはれまもみえていますよ、」

「ああ」

「きょうはかさもひつようないしぜっこうのそつえんしきびよりですね、ようはとってもうれしいです。ハレのひにはれるなんてえんぎがいいですしね。そうはおもいませんかおとうさん?」

「そうだな」

「さんかんしおんのこのようきもようはとってもきもちがいいです、ただおとうさんはかふんしょうでつらいかもしれませんね、だいじょうぶですか?」

「ああ、マスクをしいてるし、薬も飲んだから大丈夫だ」


東京 台東区 谷中。

荒川区、文京区と接し、都内有数の広さを持つ谷中霊園がある。寛永寺をはじめとする寺社仏閣が江戸時代より無数にあり従って緑が多く、細い路地が入り組んでいるにも関わらず街の雰囲気は明光に満ちている。独特の下町風情が醸し出す雰囲気に惹かれ外国人観光客も多く訪れる。

谷中ひまわり保育園はそんな下町情緒溢れる谷中銀座のほど近くにあり、今日は千葉龍也の娘である羊の卒園式の日である。

昨日までの雨が嘘のように晴れ上がり、久しぶりに見た青空が目に眩しい。園庭のソメイヨシノがそろそろ開花しそうな陽気である。龍也は繋いでいた羊の右手をそっと外し、着ていたコートを脱ぎ左手に抱える。

手を外された羊が一瞬プッと頬を膨らませるも、すぐに龍也の左腕にぶら下がりつつ、嬉しそうに歩き出す。

側から見たら実に仲の良さそうな父と娘。背はそれほど高くないが、細身ながらガッチリとした体付きで背筋がピンと伸び、姿勢正しく歩く父。

その娘は艶のあるサラサラな髪をポニーテールにし、驚くほど小さな顔に賢そうな大きな目。すれ違う人々は二度見して、子役の役者かモデルでもしているに違いないと目で追ってしまう。


龍也がいつもの習性で周りをじっくりと見渡すと、同じように園に向かう親子連れが増えてくる。父親と母親に挟まれ嬉しそうに歩く園児達。中には龍也と羊のように片親と子供、も垣間見られる。

そう言えば龍也は羊の友人の親と親しく話した記憶がない。保育園の行事には仕事の関係上中々参加するのが叶わなかったせいか。それとも生来の人付き合いの苦手さがそうさせたのか。

もっと積極的に親たちのコミュニティーに参加し、意見情報を交換し合い羊という人間を深く理解してもらうべきだったかも知れない、龍也は人知れず反省する。

だがそんな龍也の慚愧の思いは羊の保育園生活にはそれ程影響を与えなかったらしい。羊は園に着くや否や龍也の元をサッと離れ、友達の輪に加わっていく。そしてその友達の輪は羊を中心にあっと言う間に大きく広がっていく。

龍也は目を細めながらその様子を眺め、口元に笑みを浮かべる。


「卒園、おめでとございます。お天気良くって、いい卒園式です。」

片言の日本語で若い母親が話しかけてくる。汪凛凛の母親、劉玲。二十八歳、I T企業勤務。

「祝贺你的毕业 我很高兴你有一个愉快的一天」

母親は唖然とした顔を見せた後、

「你的中文很好,我很惊讶 你是来中国出差的吗?」

龍也はフッと笑いながら、

「我从来没有去过中国。 我读过一点书。」

おおお、と驚いた後、母親は

「そですか。ああ、小学校でもね羊ちゃんと凛凛、仲良くしてください、お願いします」

その辿々しい日本語に龍也の遠い記憶が呼び戻され、思わず胸が締め付けられる。

「分かりました。こちらこそよろしくお願いいたします。」

そのやりとりを唖然としながら眺めていた母親達が。

「あ。喋った。羊ちゃんパパが、喋った!」

「あれ中国語だよね? ペラペラだったよね? マジかあ…」

「信じられない、話しかけてもムスッとしてた羊ちゃんパパが… 私も中国語習おうかな…」

「それなっ ねえ、凛凛ちゃんママー、今羊ちゃんパパと何話してたのー?」

劉玲の周りに人だかりができるのを苦笑いしながらそっと離れていく龍也であった。


再来月に三十歳の誕生日を迎える龍也がこの谷中の地に越してきたのが丁度二年前。来月地元の公立小学校に入学する羊と生活を共にし始めたのもほぼ同じ頃である。

そう、羊は龍也の実子ではない。

龍也は独身であり、女性と婚姻関係どころか所謂お付き合いの経験も無い。だからと言って女性に興味がない訳でも、結婚や付き合いに興味がない訳でもない。

このことは、この谷中ひまわり保育園の七不思議の一つに数えられ、ママ友の集いでは話題の筆頭となっていることに龍也は気付いていなかったのだが。

そんな話題の人である龍也は、友達と楽しそうに交わりその親達にも可愛がられている羊を眺めながら、彼女の実の父親のことを思い出していた。


     *     *     *     *     *     *


羊の実父である市原拓海に出会ったのは今から八年前の二〇一一年、龍也が二十二歳の年であった。

龍也は二〇〇八年に高卒で陸上自衛隊に入隊し、普通科連隊での教育課程終了後、様々な訓練、教育を受けた後習志野にある部隊に属した。その後市原拓海と出逢う少し前に、市ヶ谷の陸自本部に新設された陸上自衛隊情報科に配属された。

市原は当時外務省の若手外交官として中国の広州の領事館に二年間出向し、日本に帰ったばかりであった。龍也は市ヶ谷の情報本部において対中国担当だったので、その縁で市原と知り合った。

東京大学を卒業し、いわゆるキャリア外交官として広州に派遣されていた市原は、龍也がそれまでに会ったことのない階層の人間だった。

エリート。生まれも裕福であり、超が付く高学歴。流行りの言葉で言えば、『上級国民』。難関と言われる国家公務員試験を難なく突破し、この若さでこの国の外交の桧舞台で活躍している。しかも相手があの中国である。この数年の中国の対外政策は一言で言えば『貪欲』。そんな中国相手に龍也の目前の若い男は飄々と向き合っているのだ。

養護施設で育ち高卒で自衛官となった龍也にはあまりに眩しすぎる経歴。仕事上の付き合いはあっても、決してプライベートで仲良くなることは無い、いや出来まい。龍也は初めそう感じていた。


初対面から三日後の夜、師走の寒風が吹き荒れる市ヶ谷の荒木町。

普段の龍也なら決して入らないであろう、洒落た古民家風の居酒屋に誘われ、龍也は市原と二人きりで杯を交わしていた。

「ココだけの話。千葉さんは十月の『魚釣島事変』で大活躍されたんですよね?」

市原が悪戯をする子供の様な目付きで徐に龍也に囁きかける。龍也は眉を顰めつつ周囲を見廻しながら、

「ええ、まあ。」

「僕はあの時広州にいて、領事館はもう大騒ぎだったんですよ。ただ(共産)党が事変に関して一切報じなかったから、一般の中国人は何があったのか未だに全く知らないんですよ、あ、それは日本も同じか」

「はあ」

市原は更に声を潜め、

「千葉さんを含めたわずか六名の日本の特殊部隊が極秘裏に、尖閣諸島の魚釣島に上陸した三十数名からなる漁民を装った中国人民解放軍広州軍区所属の海上民兵を制圧。こんな話日本人も中国人も誰も知らない。いや、大変ご苦労様でした。と言うか、凄いな、僕の目の前にあの「特戦群」のヒーローがいるなんて! ねえ、その時の話―は口外出来ませんよね?」

あの極秘任務の事は流石に外務省の超エリートには伝わっているらしい。それにしてもそんな特秘の話、出来るはずないだろう、何を言っているのかこの男は。呆れ果てて、

「ですね。」

「そうかー、いやいつか聞きたいなあ。ね、千葉さん、定年後に教えてくださいよ。もうその頃には時効じゃない? ね?」

定年? それは何十年後になると思っているのかこの男は… 更に呆れ果て、

「です、かね。」


それにしてもよく喋る。流石外交官、なんというコミュニケーション能力なのだろう。まあこちらは相槌を打っていればいいだけなので、楽といえば楽なのだが。

「それにしても、去年のやり方はあの国の常套手段ですよね。国際法を無視してまずは既成事実を作ってしまうーもし相手国が武力で対抗するなら裏で金をバラ撒いて国際機関を味方につけ、いつの間にか被害者ヅラをする。もし相手国が武力でなく世界世論で対抗してきたら、世界中のマスコミを買収し、自分たちの行為を正当化しようとする。ねえ千葉さん、あの国はどうしてこんなことすると思います?」

「それは。党の論理ですかね」

「世界中の人はそう思っていますよ。でもね、それは後付けの理論なんですよ」

「後付け?」

「そう。彼らー中国人の中に潜んでいる根本的な考え。その考えを中国共産党が論理化しただけなんですよ。ではその根本的な思想。これ何だかわかります?」

なんだか口頭試問を受けている気分だ。いや実際そうなのかもしれない。俺とこの人は組織が違う。今後共に組織を跨いでうまくやっていけるかどうかを彼は試しているのだろう。

「中華思想、ですかね?」

「その通り」

市原は満面の笑みを浮かべながら頷いた。どうやら一問目はクリア出来たようだ。


中華思想。万来中国は世界の中心であるという考え。

司馬遼太郎はこれを以下のように解説しているー『中華』の『華』とは文明のことであり、『文明の中』すなわち自らを文明の中心的存在と称している。そして中華とは宇宙唯一の文明であると信じられている。全ての非中華は『夷』『蛮』であるーと。

中華思想と呼ばれる中華中心主義には四つの外敵が存在する。『北狄』『西戎』『南蛮』そして『東夷』である。

古く日本は『倭』または『東夷』と彼らに呼ばれていた。『東夷』の『夷』は漢字の「大」と「弓」を掛け合わせた好戦的な野蛮な民族、という意味だ。同様にフィリピン、ベトナム、ラオス、タイなどの今の東南アジア諸国は『南蛮』である。『蛮』とは服を着ない未開民族を意味する。

彼らからすれば中国以外の国は非文明国なので、文明化してやることが彼らの義務であり運命である。自分達の思想こそが世界を統べるに値する。従って周辺諸国はこれに従うのが当然であり、宿命なのである。


「この思想は一見とんでもなくお節介で滑稽に思えるかもしれませんが、実は日本はしっかりとこの恩恵を受けて来たんです。そのことはご存知ですよね?」

第二問目である。龍也は少し頭を走らせ、即座に返答する。

「それは所謂古墳時代から平安時代にかけて。遣唐使が廃止される頃までの?」

「正解。漢字、木造建築、薬学、暦、仏教、稲作、食事。更には法律、政治、官僚制度。今の日本の基本的な文化や制度はその殆どがその時代に中国から伝わったものなんです」

二問目も無事にクリア。市原の話は続く。

「朝鮮半島も同じ。東南アジア諸国も然り。昔から中国は周辺諸国に文明を分け与えてきたのは事実なんですよ。もっと言えば『元』の時代、フビライハンは今の東欧にまで勢力を伸ばしました。ユーラシア大陸の約半分を勢力下においたんですよ」

「漢民族ではないですけどね」

市原の表情は一瞬固まり、そしてメガネ越しの目が大きく開かれる。

「あれ! あれあれ! 千葉さん、ぼそっと核心をつきました! そう、あのモンゴル帝国の西征は中華思想と同意義ではないんですよね。あれはユーラシア大陸に『中華思想』を伝えた訳ではない、単になる、」

「北狄の蹂躙。」

「その通り! モンゴル人は漢民族、即ち中華ではない! 北方騎馬民族、所謂『北狄』だった!従って彼らモンゴル民族は中華思想に基づく文明の伝播が目的ではなく?」

第三問目。少し考え最適解が思い浮かぶ。

「金色の髪の白い肌の女とヤリたかった。」

市原が口に含んだビールを吹き出し、大爆笑する。余りに笑いすぎてメガネを外しお絞りで涙を拭きながら、

「最高の答えですよ。ウチの局長に聞かせてやりたい」

テーブルの下で小さくガッツポーズをとる龍也である。


「元も清も、漢民族の国家ではなかった。でも面白いのは漢民族国家でなかったその時代の方が領土的には広かったんですよね。異民族に統治されていた時の方が領土が広かった。漢民族国家だった『唐』の時代よりも遥かに広く。それも漢民族が東夷、北狄と馬鹿にしていた民族に、です。翻って現在の中華人民共和国。これ、完全に漢民族の国家じゃないですか。今の彼らの中華の夢、追っているのは実は異民族統治時代の領土を彼等漢民族が再獲得するという矛盾を抱えているんですよね」

「漢民族が果たせなかった『中華の夢』を中国共産党が果たす、いや現代中国人が果たす、と?」

「はい。なので彼らには「侵略者」という意識が微塵もない。昔の領土を返して貰う。当時は野蛮な奴らが統治していたから上手くいかなかったけど今度は大丈夫。中華思想をしっかりとお伝えしましょう。だから遠慮しないで受け入れなさいよ、と」

「何なんですかね、この押し付けがましさは…」

「そうそう、知っていますか千葉さん。彼らにとっての外国料理って。例えばね、広州の人達にとっての外国料理っていうのは四川、上海、北京料理なんですよ。広東料理以外の「中華料理」を「外国料理」って言うんですよ」

「えぇ何それ?」

「だから和食、フレンチ、イタリアン、ハンバーガーなんてのは彼らにとって料理『外』なんです。料理は温かくなければならない、刺身や生サラダなんて論外。火が通ってないものを口にしない中国人は大勢いるんですよ、未だに」

「へー。何でだろう…」

「彼らにとって食事ってのは薬と一緒なんですよ。いかに身体に良いものを食べるか。健康を保つには食事が全て。火の通ってないものは身体を冷やす。身体が冷えると体調を崩しやすくする」

「じゃあ彼らはこの刺身の旨さを知らずに…」

真鯛の刺身を摘み上げながら龍也はしげしげとそれを眺める。それにしても市原は何と博学なのだろう。学の無い自分にも分かり易いように色々と教えてくれる。

「僕が広州に居た時、現地の人に散々言われましたよ。アンタらの食生活では健康を保てないぞって。食材にはちゃんと火を通して身体を温めなきゃダメだぞって。ホント笑っちゃいましたよ、だって平均寿命は日本の方が遥かに長いんですから」

「ですよね、ハハハっ」

飲みの場でも滅多に自分を晒さない龍也は思わず笑っていた。

「そのくせね、僕が日本に一時帰国する時には、あのサプリメント買ってこいだのこの食料品手に入れてこいだのー『矛盾』って言葉知ってるアンタ達? って何度言ったことやら」

「え? 言っちゃったんですか?」

吹き出しながら龍也が尋ねると、

「するとね、ペロッと舌を出してね、「良いものは良いんだよ。こうして良いものは素直に受け入れるのが我々の器の大きさなんだ」ってさ。笑えるよね」

「凄いですね、その開き直り方」

「この押し付けがましさと気持ちいいほどの開き直り方。僕ら日本人にはできないよね」

「ホントですね。でもこうして聞いていると、何だか可愛く感じますね」

「そうなんだよ。根はすごく単純で意外に真面目。決して悪い奴らじゃ無いんだよなあ」

遠くを見ながら市原はゆっくりとジョッキに口をつけた。


「千葉さん、あんまお酒飲まないの? 全然進んでないじゃない」

「僕、そんなに飲めないんですよ、体質的に。気にせず飲んでくださいよ」

「いや、僕もそんなに飲めないんだ、元々は」

「元々?」

「うん。せいぜいビールジョッキ一杯でクラクラ、だったんだけどねえ」

「は? それ既に3杯目かと…」

「あっちに居るときにさ、メチャクチャ鍛えられたんだよねー」

「へー。あっちも酒コミュニケーション文化なんですか?」

「あっちに赴任して最初のレセプションでね。まあ聞いてはいたんだけど、飲めないなら初めにそう言え、と。飲めるなら絶対に負けるな、負けたら一生見下されるぞって。でね、「私はあまりお酒が飲めません」って最初の人に言ったら、「あそっ」っていなくなっちゃったんだ。これじゃ意見交換も情報収集も出来ないじゃない? だから別の人に「少しなら飲めます」って言ったらさ、グラスになみなみと白酒を注がれちゃったんだ」

「白酒?」

「うん。中国の酒と言えば『紹興酒』だと思ってたでしょ? 向こうでは『白酒』がメインなんだよ。アルコール度数は色々だけれど、その時には四十%だったかなあー」

「それって… ウイスキーと一緒じゃないですか。え? それをグラスになみなみと?」

「うん。それもニヤリと笑いながらね。もうこれは飲むしかない、と思って一気にグラスを空けたんだ。それがさ、フルーティーで意外に口当たりが良くって、クイって飲めちゃったんだ。後で聞いたら、一本数万円の高級品だったんだけどね」

「ハア? 数万円? でー大丈夫だったんですか?」

「んー結論から言うと、全然ダメだった。途中から記憶なくしちゃったんだけど、その一本数万円の白酒のボトルをその人から奪い取り、手当たり次第に乾杯を繰り返したらしい」

「だって… 市原さん、お酒、強くないと…」

「飲みやすさがいけなかったんだろうね。あと赴任して初めての舞台だったから、舐められたら負けだと気負っていたんだろうね。意外と僕は負けず嫌いなんだよ。その結果、起きたら自分の部屋の玄関で仰向けになっていたんだーどうやって帰ったか全く覚えてないし」

「うわ… やっちまったんですね」

「うん、やっちまった。頭ガンガンする中慌てて先輩に電話するとさ、『お前ホントに覚えてないの? 取り敢えず領事館に来い』と。シャワー浴びて退職願書いて、迎えの車に乗ったんだけどまた吐きそうになって、車止めてもらって道端で吐きまくって」

「退職願って… プッ…」

吹き出しながら龍也が言うと、

「そりゃそうでしょ。記憶ない程酔っ払う外交官って。多分とんでもない粗相しまくってるだろうし。下手したら外交問題に発展してるかも。覚悟決めたよあん時は」

「それより外交官が道端に吐きまくる方がどうかと…」

もはや笑いが止まらなくなった龍也が軽く揶揄うと、

「だよねー。それでさ、なんとか領事館に辿り着いたら上司先輩が僕を溜息つきながら見てるのよ。これは相当まずいな、クビじゃ済まないかな、と思いつつ「昨夜はすいませんでしたっ」って頭下げたんだ。そしたらね、また迫り上がってきちゃって、」

「ええ? ま、まさかー」

「うん、そのまさかで、その場で盛大に吐き散らしちゃったんだー」

「うわーー」

「もう涙目で、「申し訳ありませんでしたっ」って叫んで胸ポケットから退職願出したわ」

「……」

笑い過ぎて腹筋が痛くなってきた。これほど笑ったのはいつ以来だろう。龍也は目に溜まった笑い涙を拭きながらふと思った。


「それで? その退職願は受理されたんですか?」

「それがさ、そんな僕を見ていた領事以下、大爆笑さ」

「え?」

「どうやら僕は前の晩、一本数万円の白酒を十本ほど空けたんだと。まあ半分は相手に飲ませたんだけどね。それも一本空けたら「これから洗手間―トイレで吐いてきます」って言って、吐いたら戻ってきてまた空けて、またトイレに行ってーをずっと繰り返していたんだと」

「你是个白痴吗?(アホですかアンタは)」

「不要说我是白痴。 你在伤害我(アホなんて言うなよ、傷つくじゃないか)」

二人は大爆笑し、グラスを掲げ音を立てて合わせる。

「先輩曰く、「日本政府はターミネーターを我が国に派遣した」と中国側は大喜びだった、とさ。お陰で首は繋がったんだけどね、それ以来僕は彼らに『最終兵器』って渾名付けられて」

「何ですかその渾名は、マジで笑える、あっはっは」

「彼等、ハリウッドアクション映画大好きだからね」

龍也が腕時計を見ると既に三時間経っていた。普段の飲み会ならキッチリ二時間で切り上げて二次会に参加する事など業務命令以外では殆どなかった。だが龍也はもっと市原の話―いや、市原自身の事が知りたくなっていた。

「市原さん、もう一軒いきます?」

「それは是非! あ、僕の住所、教えておくね、くっくっく」

「それ… 玄関先までで勘弁してくださいよ」

二人の爆笑は深夜の荒木町に響き渡る。


     *     *     *     *     *     *


「おとうさん、いよいよらいげつからしょうがっこうですね。ようはとてもたのしみです。はやくいっぱいべんきょうしたいです」

「何の勉強がしたい?」

「こないだしんぶんにでていたちばニアンにきょうみがあります」

「は? 千葉にアン? 誰だそれ?」

「じんぶつではありませぬ。ちじきがぎゃくてんしたときのちそうがちばにあるのです。しょうらいそのじだいを『ちばニアン』とよぶかもしれないそうです。いまから七十まんねんまえなのです」

龍也は若干凹みながら、

「そ、そうなのか?」

「はい。そのじだいはいままでなまえがなかったそうです。しかもですよおとうさん、このじきにほもさぴえんすがうまれたんですよ。ほもさぴえんすというのはいまのじんるいのことなんです。でもおとうさん、このはなしをするとおともだちはみんな「つまんない」といってはなれていくのです。ようはこのおはなしがおともだちとできないので、ちょっとさみしいです」

「それなら俺と話せばいいじゃないか」

「おとうさんもびみょーにつまらなさそうなんですよ」

確かに。地層? 未だかつて興味持ったことないわ。

「んぐっ… でもな羊。残念ながらその勉強は一年生ではやらないな。三年生か四年生にならないとな」

「え…そうなのですか…」

「一年生なら、まず『あいうえお』の書き方とか、足し算とかじゃないかなあ」

「そ、そんな…」

「まあ勉強は期待すんな。それより友達いっぱい作れ」

「はあ…」

「それで、友達といっぱい遊べ」

「はいっ おともだちといっぱいあそびたいです」


卒園式の帰り道。

龍也は羊と話しながら、この子は本当に父親似だと思った。こちらが黙っていても一方的に自分の思ったことを延々と話す。そう言えば何となく口調も似ている気がする。

自分にはない秀逸なコミュニケーション能力は谷中ひまわり保育園でも大いに発揮され、中途で入園したにも関わらず、常にコミュニティーの中心にあったと園長先生は言っていた。

龍也自身も園での羊の言動は園長先生や他のツールで逐一チェックしていて、大体の様子は把握してきたが、自分には皆無であるこのコミュニケーション能力には正直感嘆する他なかったのだ。

流石、拓海の娘だな。

羊を見下ろしながら龍也は微笑する。

まだ見ぬ小学校の友人を思い浮かべつつ鼻歌まじりで歩いている羊の左手を握り締めながら、その小さな命の温かみに自分自身が救われてきた事に龍也は気付いている。

もしこの子がそばに居なかったら龍也はこの二年をどう過ごしていただろう。殺伐とした任務に縛られ常に張り詰めた生活の中で、この春の陽気をのんびりと迎えることもなかったであろう。四季の移ろいなどまるで気が付かない生活を送っていただろう。

周りの人間を怪しみ、疑い、そして自分をも疑う日々に精神はすり減り、絶望の中でもがき苦しんでいたに違いない。

それはまるで、あの緊張の日々をこの子の父親の市原拓海に救われていた頃の様にー


     *     *     *     *     *     *


あの市ヶ谷での飲み以来、二人の中は急速に進展した。

市原は龍也よりも三つ年上で、親兄弟がいない龍也にとっては兄の様な存在であった。一方の市原にとっても自分とは全く異なる出自の龍也をまるで弟の様に可愛がり、週に数回の市ヶ谷での飲みは二人の恒例行事となっていた。

またこの交流の中で龍也は外交について市原から多くのことを学んだ。それは所属する情報科の仕事にどれだけ役に立ったか計り知れない。彼の部署は前年に新設されたばかりであり、それまでの情報の蓄積はあるもその体系的な取りまとめが始まったばかりであった。特に今緊張状態にある東アジアの情報収集に関する陸自独自のノウハウは全く確立されていなかったのだ。

市原は自身の赴任経験を経て培った情報収集に関する方法論を龍也を通じて情報科にフィードバックし、それによって新しい情報収集の体系は少しずつ形になりつつあった。

市原にとっても龍也からの情報は少なからず彼の外交活動に影響を及ぼしていた。膨張する中国の対外政策に対し、時の政府が及び腰だったのが、秋の尖閣諸島における所謂『魚釣島事変』を機に積極的に対抗していく方針に変わり、そのカウンターメジャーを作成する立場の市原にとって、現実に「血を見た」龍也の話は机上論に流れがちな議論を現実論に引き戻す唯一無二なものであった。


「元来ね、中国人は争いを好まない平和主義的な人達なんだよ。僕は二年間広州にいて、街中で乱闘なんて一回しか見たことないんだ」

「本当ですか? もっと好戦的なイメージがあったんですけど」

「実際、銃火を交わしてみて、どうだった?」

龍也の目が細くなり表情に緊張感が滲み出す。

「まあ、あの時は暗闇の中を一人一人処理していったので… ほとんど抵抗はなかったんですよ。白兵戦にはならなかったんです」

拓海の目は爛々と輝き、口からは涎が出そうな勢いで、

「そうか。そうだったんだ。それでは彼らの兵としての本質は分からないね。へー、真夜中に上陸したんだーそれでそれで?」

龍也はハッとした顔となり、次いで気まずそうな顔で、

「ああ、ついうっかり… これ以上は機密事項なんで。ったく、油断も隙もねえし」

残念っ と呟きながら拓海はフィンガースナップをし、

「んーー、もう一息だったな。いや龍也君の壁は万里の長城よりも高くて厚い。うん」

「拓海さんは貂蝉の様に油断も隙もありゃしない。まさに傾城ですな」

「不,我是个男人!(いやいや、僕は男だってば!)」

「我不知道这一点。(それは知らなかったわ)」

今宵も二人の爆笑が市ヶ谷に轟き渡るものだった。


「じゃあ話を変えるけど。龍也くんは彼女とかいるの?」

急に恋バナかよ… 少々呆れつつ、

「今はいません。正直言って彼女作る暇がありません。作っても付き合う暇もありません。それに任務上、色々とアレなんで…」

「ふーん、大変なんだな。でも昔は彼女いたんでしょ? 高校生の頃とかー」

「うーーん… 学校ではいませんでしたけどー」

「うんうん?」

「同じ施設にー養護施設にいた頃に、何となく…」

「そうかそうか。同い年?」

「いえ、二つ上、ですね」

「おおお、年上!」

相変わらず話しづらい話をグイグイと… 誰にも話した記憶がないこの話。思わず口走ってしまったことを龍也は自分に驚きを感じつつ。

「拓海さん、知ってるんでしょ? 俺の、その、昔の話…」

「えーと… それは…」

「知らない筈ないですよね。だって俺は知ってますもん、拓海さんの生まれ育ち」

「ま、まあね、何となくと言うか、アウトラインは、と言うか…」

「それじゃあ、俺の四歳の時の事件も知ってるんですよね?」

市原の顔が急に引き攣る。そう、間違いなく拓海は龍也が四歳の時に起こした事件を知っている。

「拓海さん、怖くないんですか? あんな事件を犯した人間とこうして付き合うのって…」


龍也自身、その前後の記憶は殆ど無い。ただ父親の裸の背中に何度も何度も包丁を突き立てた時の刀身が肉に食い込む感触や骨に当たって嫌な音がした事を今でもハッキリと覚えている。またその時の頭の内側から込み上げてくる真っ赤な衝動をも未だに忘れる事がない。そしてこれは秋の紛争の際、龍也に湧き上がったものでもあったのだ。

何故龍也は父親を刺殺する行為に及んだのか、自身今となっては殆ど覚えていない。

「俺自身、入隊してしばらくして警察関係の人に教えて貰ったんですけど。なんでも父親の俺と母へのD Vが原因だったみたいなんです。失業して仕事もなく酒に溺れていた父親が母と俺に恒常的に暴力を振るっていたらしく。その日父親が母親を無理やり手篭めにしている最中、俺が後ろから背中を包丁で何度も刺したんです。多分父親が母親に酷いことをしていると思ったんでしょうね。親父が動かなくなり、母親が警察に電話したそうです、息子が父親を刺殺し、私も危険だ、と。その後警察が到着するまで母親は俺を殴り続けていたそうです。保護された時の俺は全身アザだらけだったって。俺はその後しばらく入院していたらしく、退院後母は俺の引き取りを拒否していなくなったそうです。そして俺は養護施設に入れられたのです」

拓海は息を呑み、龍也の独白を一言も口を挟まず聞き入っていた。何という運命を背負いこの若者は生きてきたのだろう。どれ程の孤独に苛まされこの青年は這いつくばってきたのだろう。

グラスのビールを一気に飲み干した後、拓海はお代わりを注文する。


「その事件の概要と…、養護施設出身というのは報告されていたけど… まさかそんな… いや、父親はまだしも、お母さんにまで…」

途切れ途切れに拓海が呟く。龍也は視線を拓海の胸元に据え淡々と語り続ける。

「施設に入って初めの頃は手を付けられないほど暴れていたそうですよ。俺の中の闘争本能と母を失った哀しみが抑えきれなくなっていた様です。保育士や周りの子供達に相当乱暴を働いたみたいです」

「四歳でそんな境遇に…」

「でもしばらくして乱暴は収まったんです。それはー」

龍也の表情が一変し、昔を懐かしみつつはにかんだ顔となる。

「その年上の女の子?」

「アハ、そうなんです。その女の子が俺の闘争本能を鎮めてくれたようなんです。ハッキリと覚えていないんですが、何かのきっかけで暴れ始めた俺をずっと抱きしめてくれたら俺は大人しくなったそうなんです。多分親からも抱きしめられた事のなかった俺は、初めて人の温もりを知ったんだと思います。それ以来、俺が暴れ始めると香世がーその二つ上の子が、すっと俺の前にやって来て、ギュッと抱きしめてくれたんです。すると俺は大人しくなり。いつしか俺は意味なく暴れることはなくなったそうです」

「香世ちゃんか。こんな子が側にいてくれて龍也君はラッキーだったんだね。彼女とは施設出るまでずっと?」

「ええ。それからは学校行くのも遊びに行くのもずっと一緒で。思春期までは母親足す姉貴割る二って感じで。それ以降は。まあーその…」

「彼氏彼女?」

「んーーー 何だったんでしょうね、あの関係は。別に付き合っていた訳じゃないけど毎日一緒に中学高校通って、同じ屋根の下で勉強して飯食って。んーー何なんですか、逆に聞くけど?」

「簡単簡単。通学時とかに手を繋いでいた?」

「うーん… 三回ほど?」

「キスはした?」

「えっと… 二回ほど…」

「セックスは?」

「してません!」

「それは、『友達以上恋人未満』って関係だね。間違いないっ」

「なるほど… それって何と呼ぶんです?」

「知らん」

「おい!」

龍也が拓海の頭に軽く手刀を入れると拓海は大袈裟にやられたーと叫ぶ。


「その後、彼女は? 今でも連絡取り合っているの?」

「香世は俺が高二の時に看護学校に入って、今では東北で看護師しています。連絡はー直接はとっていません。施設経由でお互いの所在は何となく知っているだけですね。去年、久しぶりに新橋で飲みましたけど。まあ、それっきりですよ」

「そっか。まだ、会いたい?」

「もうそんな資格ありませんよ。せっかく彼女が鎮めてくれた闘争本能で… 俺の手はすっかり汚れちまいましたから…」

龍也がゆっくりとぐい呑みを口に近づける。その目は遥か遠くを寂しげに眺めている。自分にとって規格外な人生を送ってきたこの目の前の若者を自分だけはしっかりと受け止めてやろう、拓海はそう心にそっと誓った。


「それより拓海さんはいい人いないんですか? こないだ家まで送っていったけど、見事な程の毒身っぷりでしたよ部屋の中」

「そうそうあの時は本当にありがとうね。しかも部屋まで掃除して貰っちゃったみたいで。龍也くんいい奥さんになれるよ」

「そういうのいいですから。一応自衛官なんで。整理整頓は基本中の基本ですから」

「だよねだよね。びっくりしたわ、起きたらチリ一つない部屋に綺麗に畳まれた服。キッチンまで何故かピカピカ。ねえ、来和我一起生活?(一緒に住まない僕と)」

绝对不是イヤです。えっと今拓海さん二十五歳だっけ? そろそろ結婚とか考えないんですか?」

「考えなくは無いんだけどね」

「あれ。って事は相手がー?」

「いやいや、まだ付き合ってもいないんだ。ちょっといいな、って思ってるだけでさ」

「へえ。どんな人なんですか?」

「まあ上手くいったら報告するよ。どうなるか分からないけど。ってキミの機関ならすぐに割り出せるでしょうが。実はもう知ってんじゃないの? なんてね」

「まさか。まあすぐに調べはつきますけどね。相談乗りますよ、幾らでも」

「でもなあ、龍也君の恋愛経験度じゃ… いいアドバイスは望めないなあ」

「…ですよね…」

「ハハハ、ウソウソ。ちゃんと相談するって。その時はよろしくね、先輩」

「今、嫌な予感がしてきた… ねえ拓海さん… まさか今まで女性と付き合ったこと…」

「うん。無いよ」

「マジ? すか?」

「うん。中学からずっと男子校だったし。大学生の時も全くモテなかったし。大学生活四年間で十回はフラれたなあ…」

何故か自慢げに黒縁メガネをずり上げる。

「が、外務省入ってから、は?」

「うん、勉強する事が多すぎてとてもとても。あ、勿論童貞ではないよ、先輩に色々教わったからね、これはキミも一緒か」

「まあ… そうですかね」

「ああ、本当に好きな子としたいよなー」

「ですねー」

ニヤケ顔で遠くを見る拓海を龍也は微笑みながら眺めた。この人が好きになる女性はどんな人なのだろうか。さぞや美しくお淑やかで教養のある深窓の麗女なのだろう。

だがそれは、全くもって見当違いな推測であった。


     *     *     *     *     *     *


この春に晴れて東京大学に合格した竹岡百葉にとって、谷中は初めて訪れる場所である。


五歳の時に交通事故で両親を失い、それ以降東京都三鷹市の養護施設で育ってきた百葉は東京都の東側のエリアに来る事はほぼ無かった。

養護施設は高校卒業時に特別な理由がない限り退所するのが規則であり、百葉もそのつもりでいた。合格発表後、当初は大学の学生寮に入るつもりであったが、高校の恩師の知り合いが東大の学生さんなら、と自宅の二階を無償で貸してくれることになり、そこに世話になることにした。

なんでも幼くして両親を失い養護施設に入りながら勉強に邁進し東大に現役合格した百葉を先方はいたく気に入っているらしい。正直百葉にとっては大学の寮に入った方が気が楽だし好きなだけ勉強ができるだろうと思っていたのだが、

「竹岡さん。あなたは今まで、兄弟姉妹という限られた人間環境しか経験がないの。弁護士を目指すなら、若いうちに色々な人間関係に触れておくべきだと先生は思うわ」

と恩師である野田先生に言われ、それもそうかと思い受け入れることにした。この三年間あれだけお世話になったのだから、紹介を断るのも気が引けた部分もある。


その野田先生の知り合いとは台東区の谷中と言う所に住む、先生が昔お世話になった老夫婦だそうだ。なんでもご主人が去年の年末に足を骨折し、未だに治りきらず奥さんが世話に忙殺され、掃除洗濯炊事といった日常生活に支障をきたしているので、朝晩に幾らかでもそれを手伝ってくれるのが条件との事。

タダほど高いものは無い。これは養護施設で過ごしてきた百葉にとって常識である。一体どれだけの家事を手伝わねばならないのだろう。施設育ち故、一通りの家事は同年代の中でも相当出来る自信はあるものの、三鷹から日暮里までの電車の中で百葉の頭の中は、古今東西のありとあらゆる哀れな召使いの苦労と苦悩話が渦巻いていた。


J R日暮里駅に到着し、その老夫婦への挨拶がわりの和菓子を手に下げ改札を出る。昨日までの雨がウソみたいに晴れ上がり、久々に見た太陽の暖かい光が気持ち良い。大学合格の記念に中古で手に入れたスマホのマップを見ながら歩き出す。街の雰囲気が三鷹や吉祥寺と全く異なることに百葉の先程の憂鬱感が薄れていく。

何故だろう、懐かしい。

それが百葉の谷中という街の第一印象であった。

道が狭い。坂だらけだ。古い建物が多い。道ゆく人の表情が柔らかい。外国人観光客の表情も然り。色々な臭いが押し寄せてくる。でも苦ではない。高い建物が少ない。よって空が広い。故に、街の雰囲気が古いのだが明るい。

一度も来たことがないのに、なんだろうこの感覚は。

百葉は暫し歩くのを忘れ、街並みを漠然と眺めていた。昔ながらの商店、中華料理店、洋食屋、喫茶店に今風のカフェ、レストラン、ショップが渾然となっている。それが全体的に見れば昭和感溢れる実に魅力的な眺めである。

初めて訪れたこの古い街に、百葉は心を奪われている。


ハッと気付いて腕時計を見ると、訪ねると約した時間に近づいている。慌ててスマホを開きマップを見ると、何故かアプリが作動しなかった。マップが無ければとてもこんな狭い道が入り組んだ街で目的地に到達する事は出来まい。幸い、かの住所はメモに記録してあったので、誰か地元の人に聞けば…

そう思い顔を上げると、度数が全く合っていないメガネ越しに、若い父親と幼稚園児らしき娘が目に入った。卒園式の帰りなのだろうか、娘は小さな花束を父親は白い紙袋を携えのんびりと歩いている。地元感が半端ないこの二人に迷う事なく百葉は近付き、

「すいません。この住所にお住まいの市川さんのお宅を探しているのですが」

とスマホを差し出しながら改めて二人を見た。そして後悔した。

父親はゾッとする冷たい視線でスマホではなく百葉を見ている。それはまるで髪の毛一本一本を調べる様なしつこさと重苦しさである。その執拗な視線を除けば色黒で背は高からず低からず、細身の身体で短髪が清潔感溢れる二十代後半と思しき男性である。

「ちょっとはいけんしますよ」

長く柔らかい髪をポニーテールに結んだ娘が、実に微妙なイントネーションでしかも歳に似合わない言い回しで百葉のスマホを覗き込む。ああこの子は母親似なのだ。透けるほどの白い肌、端正な顔立ちーテレビのドラマで子役をしていてもおかしくない。

「はい、このじゅうしょですと、ここからさんぼんめのかど、からあげやさんのかどをみぎにまがり、にふんほどあるいたところにあるたばこやさんのむかいのおうちかとおもわれます、もしわからなければいっしょにいきましょうか?」

百葉は驚愕した。入学前の児童がこんな風に大人に接するとは。それも自分の瞳を真っ直ぐに百葉の瞳に合わせ、決して離そうとしない。とても五、六歳の子供とは思えない。恐るべし、谷中の子供…

「だ、大丈夫です。あ、あの、どうもありがとうございます。た、助かりましたぁ」

吃りながら返答し、慌てて踵を返す。

なんという、谷中なのだろうか。

こんな不思議な親子が徘徊している街。ひょっとしたら癖になるかも知れないな、なんて思いながら唐揚げ屋と称された肉屋を左に曲がり、五分程歩いた所にあった煙草屋の向かいの家の洒落た煉瓦造りの家のインターフォンを押すのだった。


     *     *     *     *     *     *


龍也は呆然としながら若い女性の後ろ姿を見送っている。

余りの衝撃に握っていた羊の手を強く握り締め、幼子の掌を粉々にするところだった。

驚いた。あまりの驚きに思わず舐めるように彼女を眺め入ってしまった。変な髪型、全く顔に似合っていない眼鏡、巣鴨刺抜き地蔵通りでよく見かける服装、などを剥ぎ取れば、あの人に瓜二つだったのだ。それは即ち、いま横で手を痛そうに摩っている娘とそっくりなのである。

羊はその事に気付いたであろうか、ふと視線を下げてみる。

「あいててて… ところでおとうさん。いまのおねいさんはちゃんとイチカワさんのおたくにいけたでしょうか」

「お前はどう思う?」

「ようは、いけなかった、とすいそくします」

「ふーん。その根拠は?」

「あのおねいさん、みぎとひだりをまちがえやすいひとではないかと。だってようが「みぎに」っていったとき、ひだりをむきましたから」

龍也は思わず声を立てて笑ってしまう。

「ひととおはなしするのがにがてなひとだとおもいます。おとうさんをこわがっていたし、ようのめをすぐにそらしたし、きょどりかたがパないかんじでしたし」

「羊。その話し方!」

「あはいはい、そうでした。せっかくとおくからきたのにあのおねいさん… よう、やっぱりちょっとみてこようかな… おとうさん。さきにかえっていてください。どうぞおさきに」

こんな厚かましい程の面倒見の良さは、父親譲りであろう。

「そうか。じゃ先帰るわ。それより羊、どうしてあの子が遠くから来たってわかった?」

羊は龍也にスマホを貸せと言う。そろそろこいつにもスマホ持たせてやろう。そう考えながらホイッと渡すと羊は器用に検索を行い、

「これです、おねいさんがもっていたわがしやさん。きちじょうじにあるしにせのおみせです。このあたりではみないかみぶくろでしたので。でもまさかこんなとおいところからやなかにきたとは…」

吉祥寺駅に羊を連れて行った事はない。恐らく山手線の電車の中のJ R路線図を覚えていたのであろう。彼女の中ではどれ程の距離感なのだろうか。

羊はスマホを龍也に放り投げ、じゃあ行ってきます、お父さんも気をつけて帰ってねと口角を上げて言う。その仕草や物言い、顔の表情は母親譲りである。

片手でスマホをキャッチし、早く帰れよ、墓参り行くんだからな、と言うと羊は駆け出しながら手に持った花束を上げてヒラヒラ振った。


スキップしながら肉屋の角へと向かう羊の後ろ姿を眺めながら、先程の若い女性の面影を思い出す。そして龍也は初めて羊の母親と会った時の事を思い出していた。


     *     *     *     *     *     *


たまには部屋で飲もう、と拓海に誘われたのは翌年のまだ寒い二月だった。鍋でもこさえてやるよ、との事なので龍也は日本酒の一升瓶を買い込んで半蔵門にある拓海のマンションに向かった。

都内でも、いや日本でも超がつく一等地に拓海はマンションを持っていた。なんでも父親が投資用に持っていた物件で、拓海が広州から戻った後貸し与えていたらしい。築十五年くらいのやや古いマンションだがエントランスのセキュリティはしっかりしており、簡単に他人が入る事は出来そうもない。

常駐の管理人に目礼し、拓海の部屋番号をエントランスで押すとすぐに自動扉が開いた。エレベーターで最上階の十階に上がり、その角部屋のインターフォンを押す。二度ほど酔い潰れた拓海を送ってきた事はあるが、そして汚部屋の清掃をこなした事もあったが、客人として迎えられるのは初めてである。

ドアが開く。

目の前に、見た事のない美しい若い女性が立っていた。


龍也の思考は停止し、ただただ呆然と彼女を見つめてしまう。やがて女性がニッコリと笑い、

「ハジメまして。ワンシェンメイです。ワタクシをヨロシクおねがいします」

なんと言うのだろう、このような容姿を持つ女性の事を。美人、可愛い、などの通俗な表現では全く言い表せないのだ。色白のびっくりするほど小さな顔。やや勝気な細からず太からずな眉。気高くそそり立つ品のいい鼻柱。理知と強気を併せ持つ小さな唇。各パーツがそれぞれ素晴らしい出来な上、それらが完璧に融合し一つの完全傑作が出来上がったのだ。

ひょっとしたらミス広州。もしくはニュースキャスター。知性を兼ね備えたその美しさに龍也の思考は中々再開しない。流石、拓海。こんな素晴らしい女性を手に入れるなんて… しかもかなり、若い…

「へへ。そう、先週から正式に付き合い始めたんだ、僕たち。え? 名前? 王様の王、神々の神、美人の美。王神美。中国語読みで、ワンシェンメイ。名は体を表すって言うけれど、彼女ほどその言葉がピッタリの人を僕は知らない。タツもそう思わない?」

喉をゴクリと鳴らしながら、コクコクと首を振る。なんだか口の中がカラカラに乾いてきた。そう言うと、シェンメイが冷蔵庫から缶ビールを持ってきてくれた。お礼もそこそこにそれを一気に飲み干した。

「ロンさん、すごいね。つよいね、キツいね、お酒を」

辿々しい日本語でシェンメイがニッコリ笑いながら褒めてくれた。龍也はだらしない笑顔を返すのがやっとであった。


彼女は拓海が広州にいた頃に懇意にしていた共産党の幹部の娘で、元々日本の文化に興味があり、去年の九月から日本に留学をしていると言う。

「身元引き受け人は別の人がやっているんだけどね。彼女の留学に伴う実務を全部僕が引き継いだんだ。例えば説明会や保護者会の出席、必要な教材の買い出し、それと彼女の生活に必要な物品の買い出しなんかも、ね」

「それって。ただのパシリじゃん、彼氏じゃないじゃん」

頭を掻きながら拓海は苦笑いする。

「今年に入ってすぐ日本の正月を教えたくてあげたくてさ、色々連れて行ったんだ、浅草寺だろ、成田山だろ、あとはー」

「本当のキモチは、ディズニーを行きたかったですよ…」

十八、十九の女の子なら寺よりランドだろうが… 何考えているんだコイツは。呆れ返りながら龍也は二本目のビールを口にする。

「でも、一生懸命にワタクシに日本の伝統を教わるタクミさんに、好きになりました」

思わず頷いたのだが。きっと逆だよな、拓海が教えたんだよな。正月を教えたのは拓海でそれがキッカケで彼女は拓海に惚れたんだよな。

「それがさ、中国の旧正月だったじゃん、先週。旧正月のさ、因んだ色々な料理を彼女が作ってくれてさ。益々惚れちゃったって訳。凄いよこの子の腕捌き。料理の腕。大したもんだよ」

なんだか龍也の頭の中はグジャグジャになってきた。こんな支離滅裂な事を言う拓海は見たことがない。舞い上がっている、一言で言うとこれだ。大丈夫かこいつ。ロクに恋愛をしてこなかった分、変な方向に行かないだろうか。

それでも未だかつて見せた事のない嬉しそうな拓海の表情に、龍也は同じくらい嬉しさが胸を満たしていくのを感じたのだった。


夕食はシェンメイが作った中華鍋、いわゆる『火鍋』であった。中華街で探し出して来たという、専用の二つに仕切られた鍋の片方は白っぽいスープ、もう片方は見るからに辛そうな赤いスープがグツグツと煮え滾っており、用意された野菜や肉、魚介類をシェンメイが次々に入れていく。

「ロンさんは火鍋食べたことがあるのですか? それともないのですか? どちらなのですか?」

「我从来没有吃过火锅。(火鍋は食べたことがありません)」

彼女は口をポカンと開け。その驚きの表情が余りに可笑しく、龍也は思わずビールを吹き出しそうになる。

「ロンさん、中国語、美味しいですねえ、ビックリしましたよ」

拓海が嬉しそうに乗り出して、

「でしょ、でしょ。ロンの中国語は僕より上手かも。ロンは僕の弟みたいなものなんだ。すっごくいい奴なんだぜ」

突如、シェンメイが立ち上がり、

「それは違いますよ! 拓海さんの中国語はロンさんに全然上手ですね。全然上手ですね!」

二度も念を押され一瞬凹みかけるも、拓海を立てようとする彼女に龍也は好感を持ち始める。思ったことをハッキリと言う子だ。日本人には中々いないタイプだ。ああ、拓海にはこんなタイプの女子の方がいいのかも知れないな。

自然と龍也の顔は綻んでいく。


初めての火鍋の塩梅が分からず、そろそろ頃合いかと鍋から具を引き揚げようとすると、

「まだでしょ!」

と激しく叱られる。恐れ慄き、龍也は体を丸くする。

日本で言う、『鍋奉行』と化したシェンメイは真剣な眼差しでスープの表面を見、

「はい、今よ!」

と具材をスープから引き揚げて、次々に龍也の取皿に入れていく。

旨い! 鳥出汁と白いスープは濃厚なコクと旨味が混在し、よく沁みた野菜の甘さが堪らない。赤いスープはむせ返るほどの辛さだったが、これがビールに実によく合う! 龍也は額の汗を拭くのも忘れ、無我夢中で鍋をかきこむ。

「いっぱい食べなさい。それがいいのよ」

お腹が満たされた頃にはシェンメイの「もうちょっと」な日本語にも大分慣れて来た。


「良く食べたね、拓海の弟のくせに。拓海はちっとも食べないから、これくらい痩せているのよね。少しは弟を見習うと良いのにね」

シェンメイは満足そうに呟きながら、後片付けをしている。それを拓海が幸せそうに手伝っている。兄夫婦の部屋に遊びにきた弟。そんな気分にもはや戸惑いは無くなっていた。

家庭の温かみを知らない龍也にとって初めて体験であった。この数ヶ月で急速に仲が良くなったとはいえ、拓海を兄と感じた事はなかった。だが今はこんな兄がいたら自分の人生はどうなっていただろう、こんな年下の義姉がいたら、自分の生き様はどうなっていただろう、そう考えている自分がここにいる。


知らず知らずに心が温もっていく。かつてない落ち着きが龍也を優しく覆ってくる。逆らい難い睡魔に身を委ねながら、ずっとこの温もりを感じ続けたい、龍也は薄れゆく意識の中で祈っていた。


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