05 伯爵家に嫁ぐはずだった元聖女
王太子の手には猫じゃらしが握られている。左右にそれを振るのだが、中身が人間の私は、それに飛びつくことはない。
キャリーバッグに入っていた時は自分も猫の本能に近づいてしまったのかと思ったけど、あれは単に私が狭い場所が好きなだけだったらしい。
なので、猫じゃらしに反射的に飛びついたりはしないのだけど、多少は相手をしないとまずいようだ。サミエル王太子の顔が明らかに寂しそうだから……。
仕方なく猫脚でちょいちょいと構ってあげたら、それだけでサミエル王太子はとてもいい笑顔になった。
「おまえはおとなしい猫なんだな。おとなしいと言うよりも聖女様の猫らしく優雅で品があるのか」
「にゃあ?」
優雅? 品? まさしく私が目指しているものだ。私でも猫ならいけるのか? いや、でもそれじゃあ、聖女としてダメだろう。
「やっぱり話が分かるみたいだな。――そうだ、私のことはどう思う。好きか?」
「にゃ?」
会ってからまだそれほど時間もたっていない。そんなことも聞かれても困るんだけど。私が首を傾げていると、それを見て王太子は声を出して笑った。
「そうだよな。まだたいして遊んであげていないからな。では聖女様のことはどうだ?」
「にゃーん。にゃ、にゃ、にゃうーん」
ルル様のことなら大好き。いいところがいっぱいだから、それを伝えたくて私は饒舌になる。
「そんなに好きなのか。こんなに美しくて賢い猫に好かれているなんて、聖女様はうらやましいな」
猫と遊んでいるだけだけど、私にはこのサミエル王太子はまともな人間に思えた。
ダンダリア王国のエラン王太子と比べるからいけないんだけど、こんな人でも、色恋沙汰がかかわると変わってしまうんだろうか。
その後その日は、猫じゃらしにちょっこっとだけじゃれたり、サミエル王太子の言葉に返事をしながら、様子を見て過ごしたけど、ルル様に報告できるような特別なことは起こらなかった。
ところが、次の日、事態は大きく動くことになる。
「サミエル様、ゼ・ムルブ聖国の聖女がこちらにいらしたんですってね」
サミエル王太子を元聖女のクロエが訪ねて来たのだ。
クロエはすでに伯爵家から出ており、現在はサミエル王太子が紹介した、王妃の実家である侯爵家でとりあえず暮らしているようだ。
「ああ、挨拶をしただけだ」
「わたしのことを何か言っていましたか?」
「いや、クロエの話は何も出なかったぞ」
それは、サミエル王太子は猫に夢中だったから。そうでなくても、いきなりルル様がクロエの話を出すわけにもいかなかっただろうし。
「だったらいいんです」
クロエはソファーでサミエル王太子の真横にぴったりとくっついて座っていた。そして自分の手をサミエル王太子の膝の上に置いている。その瞳はサミエル王太子の顔を下から覗き込んだ状態で見つめていた。
クロエは十八歳。
たれ目で可愛らしい感じの女性。従順そうで、優しい雰囲気を醸し出しているクロエは、貴族子息にモテる女性の典型だ。その上、聖女だったのだ。これは引く手あまただろう。
だから、伯爵家では飽き足らず王太子にまで手をだしたのか?
ルル様も言っていたけど、サミエル王太子はヴィクトリアという婚約者がいるため、聖女にたいして媚びることはしなかったはず。
だから、クロエの方からも、近づくことは難しかったと思われる。ところが、ふたりは夜会で出会ってしまい、恋に堕ちたということなのだろうか。
でも、それではヴィクトリアと伯爵家のゲイルにたいしてあまりにも不誠実すぎる。
やっぱり、このサミエル王太子も碌な人間じゃないんだろうな。