未完の大作
【お題:絵描きの寒空】
制限時間:30分(超過時間:1時間)
ジャンル:欧州民話風(?)
※少し血の表現があるためご注意下さい
油絵の具の香りが鼻腔をくすぐる。
チューブ側面の凸線を確認しながら、パレットにいくつか出してパレットナイフで切り混ぜる。
絵筆をその中腹に浸して、彼女は1度キャンパスに手を触れた。透き通る白皙の細い指が、手のひらが、確認するようにゆっくりと端から端へとなぞる。
薄い色の金髪をかき揚げると、彼女は意を決したように絵筆を持ち直した。
夕暮れ時の光が差し込むアトリエで、彼女は一人絵描きに浸っていた。
沢のような金髪は腰まで流れ、瞼を閉じた横顔はどこか神聖さすら漂わせている。華奢な体にゆったりしたワンピースを纏い、彼女は只管目の前のキャンパスにのめり込む。
そこに描かれているのは、遠く広がる海原であった。水は燃える赤色を写している。夕時の色と同じそれは、しかし夜の風景であった。夜空の漆と対照的に、目に焼き付くほど鮮やかな赤。
不意に頬を撫でた風に、彼女はふいと玄関口を見る。
「ただいま、イサナ。調子どう?」
入ってきたのはそばかすが眩しい好青年。人懐っこい笑みが茶髪に映えていた。シャツから覗く健康的な腕には、パンのはみ出た紙袋。
イサナは微笑んで、近づく影を茶化した。
「ふふ、上々? それより、いつあなたのお家になったんですかっと」
「いいじゃん、実質同棲してるって言っても過言じゃないじゃない」
「私婚約すらしてないんですけど」
歩み寄った青年は、イサナの描く絵を見てわあっと声を上げた。
「すごいね、目に焼き付くみたいだ……なんで、赤色にしたの?」
「青は海の色って言うでしょ。ありきたりじゃつまらないし、この方が、海のエネルギーを表現できるかなって」
なるほど、彼女らしい意見だと青年は思った。
彼女は盲目だ。目が見えないその分、彼女は独特の感性を持っているように度々感じさせられた。専ら聞かされるのは、自然の「エネルギー」について。
スピリチュアリストではないが、普通の枠に収まらない彼女の奇抜な色使いは、どこか無意識に惹かれるものがあった。
青年は商人業の端くれで、彼女の描いた絵を度々売りに出すことがあった。そんな中で彼もまた、彼女の絵に惚れ込んだ一人となっていた。そうでなければ、わざわざ彼女のアトリエに毎日押し掛けたりしないだろう。
「この絵、今回は僕に売ってよ」
受け取った食材で料理していたイサナが、ぱっと顔を赤らめたのが見えた。
「言い値で買う」
「そんな、あなたにあげるならお金なんていらないよ」
「本当に!?」
「ただ、まだ未完成だからあと1日待ってほしいの」
彼は興奮ぎみに立ち上がり、ありがとう、ありがとうと繰り返した。
できた料理を一緒に食べ、明日の同じ時間に来る約束をとりつけ青年はアトリエを後にした。
翌日、青年はイサナのアトリエに寄る前に港町のバザーに寄った。ただで譲り受けるとはいえお礼がないのも無粋だ。花の1つでも買おうと思い、連なる軒先に足を踏み入れたその時だった。
鉄臭い香りが浜風に乗ってやってくる。見ると、遠方の漁港にその元があった。
この港は度々来る大物で有名だった。俗に言う鯨と呼ばれるものだが、この地域ではまた別の呼称で呼ばれている。
別に捕鯨自体は珍しいことではなかったし、鯨肉が入った時には街はちょっとしたお祭り気分に浮かれるのだが、今日は少しばかり違った。
雪のように真白な鯨だ。その艶やかな表皮に食い込んだ針から、鮮やかな赤が流れ出している。
宝石のようだ、と青年は思った。彼の弱い頭で例えるならば、そんな美しさを秘めていた。海原は紅玉の色に赤々と染まっていく。
やがて専用の車がやってきて、鯨は解体所に運ばれていくのだろう。しかし、彼はふと、ぐったりと地に引き上げられた鯨の瞳に悲哀を見いだした。見いだしてしまった。
何度も言うようだが、これまで捕鯨の場面は幾度となく見てきたし、可哀想だが仕方のない自然の摂理として受け入れてきた。無視していた訳ではないが、供養の心をもって食べてきた。
それがどうしたろうか、今はあの鯨を見るだけで胸が締め付けられる。
しかし商人の端くれでしかない彼にはどうすることもできず、荷台にくくりつけられ運ばれていく鯨をただ見送ることしかできなかった。
やるせなく目を背けた先、海原は真っ赤に染まっていた。それがなんだか彼女の描いた絵の様のようで、彼は急いで花を買いその場を後にした。
夕時アトリエを尋ねると、イサナの姿はなかった。
また茶目っ気強い彼女がどこかに隠れたかと思い探したが、どこにも見当たらない。周囲の森や畑を探して回ったが、結局日が暮れてもイサナは見つからなかった。
途方にくれてアトリエに戻り、椅子にどっかりと腰を下ろした。
もしかして盗賊にでも襲われたろうか。しかし、アトリエ内は荒らされた様子もなく、画材を見るにまるでちょっと一休憩を入れたそのまま、時が止まってしまったかのように見えた。
床には描くときに使ったであろう赤や橙の絵の具が垂れていて、いつも絵の具を垂らす彼女の癖の跡に重なっている。
青年の視線が画材を追い、自然な流れでキャンパスを映し、窓へ移る。
ハッと息を飲む音が、屋外まで聞こえそうなほどに青年は驚嘆した。
黒漆に紅の海原。月明かりに照らされ露になった入り江の、窓の外とキャンパスの中が、ぴたりと重なった。
青年は思わず立ち上がる。呼吸絶え絶えに、窓へ覚束なく歩み寄ると一気に開け放った。
静かな波を湛える真っ赤な入り江。その鮮やかな赤が、冷涼な秋風に乗って香る鉄と一緒になって五感に焼き付く。燃え盛る炎よりも、もっともっと深い赤。
あの真白な鯨と同じ目の色をしていた。
全てを悟った青年は、昂る感情のままに泣き叫んで床へ崩れた。
彼女との日々、真っ赤なキャンパス、鯨の瞳、溢れる感傷、痛々しいほどまでの赤。全てで以て彼の奥底へと焼き付いていく。恐ろしいほどのエネルギーで。
激しく咽びながら、青年は赤子のように這ってなんとかキャンパスにたどり着いた。 右下には彼女のサイン。彼女が筆を置いた、完成させた印だった。
まだ生乾きのそれに、彼はまっさらな裏面へすがりついた。
離してなるものか、これは誰にも渡せない。彼が唯一彼女から譲り受けた、彼女の全てを賭した最初で最後の絵画。これ以上のないエネルギー。
もはやそれは、青年にとってイサナそのものであった。
夜が明け、彼は画材を幾らか拝借して彼女のアトリエを焼いた。
惜しくも思ったが、何となく彼女の礼儀に返すとすればこれが一番のような気がしたのだ。未練がましくここで暮らす気にもなれないし、彼女の居場所が盗賊の巣くつになるのも許しがたい。
自然のエネルギーで以て自然に返すのが、一番の弔いであろう。
燃え朽ちた塔屋に花を添え、彼はその街を後にした。きっと鯨がとれたので肉が住人全員に配られるだろう。それを受け取るところを想像しただけでも胃がひっくり返りそうになる。
どこか遠く、出来るだけ海から離れた場所へ。
道中、彼は不意にどうしようもなく絵が描きたくなって絵を描いた。いい風景を見つけると、何処であろうと腰を下ろしキャンパスに筆を走らせた。
これまでに絵を描いたことなどない青年だったが、何処からともなくエネルギーが沸き起こって止まらなかった。活力と言っていいかもしれない。算盤を弾く手は絵筆を握る機会が増え、彼の描く絵は次第に評判になっていった。
やがて彼は内陸部に腰を落ち着けた。彼の描く絵は町の名物にもなったが、それ以上に彼持つイサナの絵は万人の心を惹き付けた。しかし何度交渉を持ち掛けても、彼は頑なにその絵を売ろうとしなかった。
そのうち彼の趣味をよく理解してくれる女性が一緒に住むようになり、程なくして愛らしい一人娘を授かった。
その頃になるといいアイデアがぱったり浮かばなくなり、安定しない絵描きで稼ぎをするのをやめ、彼はペンだこのできた手に再び算盤を握ったのだった。
しかし趣味としては細々と絵描きを続け、物心つく娘もそれに影響されてか幼児なりによく絵を描いた。
事が起こったのは、娘が5歳になったとき。
「な、何してるんだ****!!」
名前を呼ぶと、娘はきょとんと此方を振り向いた。その前では、父親になった青年が大切に額縁にしまっていた絵があり、娘の手には絵筆がある。
「ちょっと待って、ああ……。これは僕のとても大切な絵だって言わなかっ……」
そして目にした絵に、彼は屋外まで聞こえそうなほどにハッと息を飲む。
「ごめんなさい」
いつも間違えたことは素直に謝る娘が、悪びれもせずに続けた。
「だって未完成だったから」
赤い水面には、生き生きとした白鯨が顔を出していた。
「ねえ、あの子もそろそろこの土地の厄よけの風習が外れる年だったよね。僕の勝手で悪いんだけど、名付け親とかを探すんじゃなく、僕に決めさせてほしいんだ」
9月。秋の香漂う、あの日からちょうど10年が経つ娘の誕生日のことだった。
「イサナにしよう」
未完の大作は、ようやく。