第一話 あぁ、存分に感謝しろ。
冬のある晴れた日のことである。珍しく燦々と太陽が輝き肌寒い程度の気温の森の中。一人の男が歩いていた。
剣も弓も持たずに、ただ粗削りの杖を持った男はひたすらに歩き回っていた。彼にとってこの森は長年歩いてきた、もはや箱庭のような場所である。
「ふぅ。休憩にするか」
自分に言い聞かせるように、独り言を呟いた。そして、近くの木にもたれ掛かった。だが、しっかりと杖を握りしめている。気は抜いていないのだろう。
「竜の瞳はただ真実だけを見る。竜の牙は不可能を噛み砕き、可能へと導く。竜の鱗は全ての悪意を受け止め、我をそして友を護る。竜の爪は災いの根源を断ち、我を勝利へと導く。竜の誇りを胸に、か」
彼が昔の頃から父親に言われた言葉を、呟いて感慨深げに笑った。もう長らく会っていない。そもそも、今まだ生きているのかも分からない。
彼の名前は、ヨイヅキ。今、人類ではなく化け物として扱われる種族の男である。
「きゃぁぁぁぁっ!」
遠くで微かに女の叫び声がした。だが、この森はベテランの冒険者もあまり近寄らない区域である。それに、ベテラン冒険者ならあんな悲鳴をあげたりしない。
そんな異常な雰囲気を感じ取った男は、走ってその悲鳴の上がった場所に行くのかと思えばそのまま休憩をしたままである。
彼にとって、同胞以外の人間など敵でしかないのだ。竜人と気付かれれば襲ってくるので、関わらない方が良い。それに、女だろうが男だろうが強い者は、強いのだ。
ガサゴソ、ガサゴソと音が少しずつ大きくなっている。近かづいてきているのだ。
「まじかぁ」
小さく呟いて、最低限自身の身を守れるように杖を掲げた。杖を棍のように扱わずに純粋な魔法のみで仕留めるのが彼の戦闘スタイルだった。
音がより一層大きくなって、その姿が彼の目にも見えた。一人の若い人間と、それを追う巨大猪。
魔力によって変異した獣。通称、魔獣である。何も持たない人間など、彼等にとってはただのエサでしかない。
草食、肉食関係なしに魔獣になればほぼ全ての物を喰らうのだ。
そして、この巨大猪こそ彼の探している獲物だった。肉は上質であり、量も多い。そして、不思議なことに巨大な体をしていると言うのに肉が柔らかい。
「影茨一閃」
魔術名だけによる、魔術の発動。詠唱など無かった。それが、魔術に高い適性を持つ竜人の特徴である。
触れれば自身も溶けてしまいそうな程に真っ黒な茨が巨大猪に向かって飛んでいく。逃げ出している女に当てなかったのは気紛れである。
巨大猪も目の前にいきなり現れた茨に驚いて、急速に方向転換をしようとしていた。だが、それは叶わない。逃げ出すよりも先にその頭を茨が貫いたのだ。
ドサリと支えを失った体が地面へと倒れる。その光景を見ていた女は腰を抜かしてしまったのか座り込んで男を見ていた。
「お前、どうしてここにいる? ここは──」
お前のような人間が来る場所ではない、そう言うよりも先に女が吐き捨てるように言った。
「……たのよ」
「なんだ?」
「捨てられたのよっ!」
「人間というのは同族すらも切り捨てることができるのか?」
驚いた、というように男が言った。男には考えられない。同族を見捨てると言うことが。
「そうか。だが、助けられたのが俺で残念だったな」
嘲るように、男の姿が変わっていく。竜人の能力の一つ、《竜化》である。
男の何倍もの大きさの竜が女の目の前には立っていた。日の光を吸い込むような黒い鱗。暗闇の中に浮かんでいる満月のような澄んだ金色の瞳。
圧倒的力を振るう竜を目の前に、女は驚いた顔をしていた。逆に言えば、驚いた顔をしただけだった。
『どうした? ほら逃げろ。じゃないと、俺はお前を食べてしまうぞ』
「ラヴァ・ソーレイド。お前、なんて名前じゃないわ。それに、あなたは人を襲った事なんて今までで一度もないでしょ? だって、心優しい竜だと思うから。だから、私は恐れない」
女と目があった。彼女の焦げ茶色の瞳に見られ、どうしてか視線をずらしてしまった。
「それに私は他の人間とは、違う」
『違うものか。お前ら人間は、皮を被るのが上手い。信用して殺された同胞を何人も見てきた』
「ねぇ、聞いて。私はもう二度死んでいるの。幼い頃にあなたと同じ漆黒の竜に助けられた、そしてまた、竜に助けてもらった。それに私が捨てられた理由はね──」
『人間の過去など聞きたくもない』
「危険思想の持ち主だったから。異端だっから。私の夢は、人間、獣人、竜人の三種族の共存だったから」
男に話を遮られても、続けて喋り続けていた。ラヴァが話していたのは、夢物語だった。竜人が一度は、もしも、と考えて諦める夢。それを、人間で考える者が居るとは思っても居なかった。
それに、恐らくだが目の前の女を助けたと言う漆黒の竜は男の父親である。一度だけ、こっそりと教えてくれたのだ。人間を助けてやった、と。
その時の誇らしげな父親の顔は鮮明に覚えている。その時、男がなんと返答したのかは忘れてしまったが。
「私はあなたに恩返ししたいの。それに、もう帰る家も無い。助けてくれない?」
──なぁ、ヨイヅキ。もし、困ってる人間達がいれば助けてやれ。父さんのようにな。騙されるかもしれない、裏切られるかも知れない。それでも、俺は信じている。俺達と他の人間達が共存できる世界を。
ふと、思い出した。最後の最後に父親が笑いながら語りかけてくれた言葉だった。今の今まで忘れていたが、確かに言っていた。だからこそ。
『ふんっ。ヨイヅキだ。あなた、という名前ではない。どうせ乗り掛かった船だ、助けてやろう。だが、裏切れば永遠の苦痛を与えるぞ』
最初の言葉は一種の意趣返しだった。先程、ラヴァが言ったことをそのまま返してみたのだ。だが、当のラヴァは、あなたの名前はヨイヅキね。分かったと笑顔である。
「私が弱いのは知っているでしょう? 恩を仇で返すほど落ちぶれてないわ。それと、これからよろしくね。ヨイヅキ」
「あぁ。存分に感謝しろ。ラヴァ・ソーレイド」
《竜化》を解いて伸ばされた手をとった。握った手はほんのりと暖かく、他人の手がこんなに暖かい事に少しだけ驚いた、ヨイヅキだった。
「もちろん。これまでに無いほどの感謝をするわ」
日は高く登り、二人を照らしていた。まるで、新しい歩みを祝福するかのように。