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「さっサニア!?」
相手が人族の王子様だろうと何だろうと飛竜には関係ないらしい。
シェリンは、キリム王子の手を振りほどいて飛竜の子供を押さえようとした。
かじられた王子の手首も心配だが、かじり付く発達途中の飛竜の牙もまた、折れたり変形したりしないかと心配であった。
それくらい容赦なく、がっぷりと噛みついているのだ。
しかし噛みつかれた王子は、少しばかり眉をひそめただけで平然としている。
どうやら飛竜に乗るために身に着けていた革製の丈夫なリストバンドのおかげで、牙が皮膚まで到達せずに済んだようだった。
飛竜の子供を一瞥し、ソレをくっつけたまま。彼はシェリンの手を逃さず、むしろいっそう強く握り込む。
噛みつかれた王子より、王子にただ手を握られたシェリンのほうがよほど驚いた顔をしていただろう。
「王子、あの、手―――」
「シェリン。わたしを認めてくれないか」
「は? いえ、その前に王子の手が」
「君がわたしを認めてくれれば、ヴァフスジルサニアもわたしに従うと思うのだ」
「ぐるううううぅ」
ヴァフスジルサニアが唸る。まるで王子に抗議するように。
「そ、そうでしょうか」
「ああ。この牙からも解放されるだろう」
「ぐうるるるるぅ」
「………」
シェリンは頭を抱えたくなった。片方の手を王子に取られ、もう片方は飛竜の子供を押さえつけているので、実際そんな手の余裕はなかったのだが。
彼女には、彼の言う方法で飛竜の子供が大人しくなるとは到底思えない。
そもそも、恐れ多くも王子を“認める”とは、いったいどういう事だ。
王子を“認めた”として、果たして飛竜の子供は従順になるのだろうか。
どんなにシェリンが翼を引っ張っても、名前を呼んでも、牙は王子のリストバンドに食い込んだままだというのに。
彼女の疑問に答えるように、あるいは焦れたように王子は言った。
「シェリン・グリンデール。どうか、わたしの妃になると返事を」
「へ………っ?」
きさき。
その言葉にシェリンは目を見開き、ヴァフスジルサニアは一層ぎりりと牙に力を込めたらしかった
「ほ、本気だったんですか!?」
「もちろん。飛竜の乙女である君以上にわたしに相応しい女性などいない」
「飛竜の乙女……?」
「ぐるるあううぅ」
飛竜の唸り声と、ぎりぎりとリストバンドと牙が擦れる物騒な音が響く。
そんな中でシェリンを見つめ、少し首をかしげて微笑む王子は強者なのか。あるいは単に意地になっているだけか。
王子様に求婚された。そんなおとぎ話のような展開だというのに、うっとりと浸るどころか血の気が引いていくばかりだ。
しかしこれは大団円のおとぎ話ではない。
シルヴァリ家のセレーナ姫あたりなら何も考えず即座に頷くのだろうが。
「すいません王子、急にそんなことを言われましても―――」
「何も難しいことはない。ただ是と、そう言って欲しい」
末端貴族でシルヴァリ家の使用人でもあるシェリンにとっては、王子が言うほど簡単で単純な作業ではない。
かといって、拒否できる雰囲気でもない。拒否されるとも思っていないようだ。
「さあ。シェリン?」
どうか、応えを。
圧力を強める甘い声で再三促された、そのときだった。
「サニア」
別の声が、飛竜の子供を呼ぶ。
シェリンも聞き慣れた、深い響きを持った穏やかな声である。
それから、スッポンのごとく王子に噛みついて離さなかった飛竜の子供が、かぱっとあっけなく口を開いた。
かと思えばすぐに身を翻し、ぱたたっとぎこちなく後方へ飛んで行く。あれほど唸っていたのが嘘のようだ。
一瞬にして興味を失ったかのような様子に、さすがに噛みつかれていた王子も呆然とその小さな後ろ姿を見つめている。
「ぐぁうあああうー」
シェリンには分かる。あれは威嚇ではなく甘えた声だ。
ついでに言えば、何か訴えているようでもある。
後ろを振り返れば、果たしてそこに飼育係のロギがいた。飛竜の子供は、彼に向けて真っ直ぐに飛んで行ったのだ。
頼れる竜族の青年の姿に、ほっとシェリンも肩を落とす。
「ろ、ロギさん……」
「ごめんねシェリン。キリム王子が来るって聞いたから急いだんだけど」
飛竜の子供の背中を撫でてやりながら、彼は言う。
急いだという言葉の通り、彼の髪や衣服が少し乱れている。どうやら、彼はシルヴァリ邸の外から来たらしかった。
そして。彼の側には見知らぬ人、いや竜族の男性がいる。
シェリンに声をかけながらも、ロギはまるで彼に付き従うように斜め後ろに控えていた。
竜族の見知らぬ男性は、ヴァフスジルサニアと同じ琥珀色の瞳をしていた。
長身痩躯は変わらないが、彼よりもわずかに背が高く、少しばかり肩幅が大きい。竜族は人族よりも年齢が分かりづらいのだが、まとう雰囲気から年齢も上なのではないかと思われた。
竜族の男は、穏やかな目で飛竜の子供を見下ろしている。
「お前がサニアか」
「ぐあうう」
ロギの声にも似ているからだろうか。おそらくは初対面だというのに、飛竜の子供は機嫌よく返事をする。同じ初対面でもキリム王子とはまるで違う。
竜族の男性は、足元のクリーム色の飛竜をじっくりと眺め、そして面白そうにアーモンド形の瞳を細めた。
「うわあ、こりゃまた別嬪になったなあ」
「くあっくあぁー」
「おおすまん。男前、だな」
「ぐぁうー」
そおだ、と言いたげなヴァフスジルサニアと、そんな飛竜の子供の様子をからりと笑う竜族の男性。
キリム王子がぽつりと呟いた。
「イルナン……殿?」
「よう、三番目の王子」
イルナンと呼ばれた竜人が口の端を持ち上げる。
そして、見せつけるように飛竜の子供を腕に抱え上げた。
「半年前の会合以来か。なかなか面白い事をやってるみたいだなあ」
「……」
ぐぐ、とキリム王子は口元をゆがめる。
先ほどまでなかなか傍若無人に振る舞っていた王子様が、いやに大人しい。
じりじりと距離を取りながら内心で首をかしげていれば、近寄ってシェリンに手を貸したロギが彼女に耳打ちした。
「あれ。竜族の王、イルナン様」
「お………っ王様?」
彼は、思わず声を上げた彼女の背中を宥めるようにぽんぽんと叩いた。
なるほど。飛竜の扱いに慣れているはずだ。
「そう。ああでも人族の王みたいに畏まる必要はないよ。けっこう普通にその辺ほっつき歩いているから。偉そうに見えないでしょ」
人族の王相手であれば不敬だと注意されるような物言いだが、イルナンは苦笑するだけだ。
シェリンが人族の王の御前に出たことはないので比べようもないのだが、気安い口調のせいか、確かに竜族の王だというその人は尊大な感じがしない。
王というよりむしろ下町の頼れるアニキという感じだ。服装だってロギと並べてもあまり変わらない、ごく一般的な普段着だった。
ただし、それとなく威圧感と独特の雰囲気はにじむ。その辺をほっつき歩けば、正体はばれないまでも確実に悪目立ちするだろう。
ロギが、シェリンを匿うように竜族の王の背後へと導いた。
それはそれで落ち着かなかったが、隣にはロギが寄り添っていてくれるし、王に抱かれた飛竜の子供がこちらを向いては甘えたように喉を鳴らすしで、まあいいかと自分を納得させる。
少なくとも、キリム王子の傍よりは楽に息ができそうだった。
「もう、人なんて噛んじゃだめだよサニア」
「ぐあうー」
調子よく返事をする飛竜の子供にため息をつくと、飛竜の王がくつくつと笑う。
「懐かれたなあ、お嬢さん。あー、シェリン、だったかな」
「は、はい。シェリン・グリンデールと申します」
「はいよろしく。おれはイルナンだ」
至近距離で、長身の王から見下ろされる。
しかし意外に人懐こい笑顔のせいか、ロギに言われたからか、あまり怖くはなかった。
竜族の王には早々関わることもないと思うのだが、シェリンはにこりと笑い返す。
竜族の王は、「うむ、いいお嬢さんだな」と満足げに頷いた。
そしてキリム王子に向かって、穏やかに、あくまで穏やかに言う。
「それで。三番目の王子。これはいったいどういう事なんだろうな」
「……そ、れは」
まあ、この飛竜の子供を見れば大体わかるが。
そう言えば、王子は整った顔をさっと強張らせる。
「サニアは、こっちで引き取らせてもらうからな」
「な……っ馬鹿な!」
「馬鹿はどっちだ」
声を荒げるキリム王子に、竜族の王はため息を吐く。
王子のお妃選びなど、古の伝説を少し取り入れただけの単なるお祭り騒ぎだと思っていた。
実際、途中までは単なるお祭り騒ぎだったのだ。
しかしシェリンが現れてから――いや、飛竜の子供がシェリンを見つけてしまってから、事態はどうにもおかしな方向に転んでしまう。
もちろんお祭り騒ぎの原因である王子も、彼女と飛竜の子供に関心を示し出した。
嫌な予感はしたが、まさかほんとうに黄金色になってしまうとは。
「よりによって王族に生まれた者が、中途半端な知識で黄金色の飛竜を欲しがるとは。はっきりと断言しておくが、シェリンを妻にしたところで、サニアは王子の言う事なんか聞かないぞ」
というか、すでに人族の手には負えない。
だから引き取るって言ってんだ。
竜族の王は、人族の王子を冷ややかに見据えた。