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その日。
シェリンは、相も変わらず飽きもせず、飛竜の子供とほのぼの遊んで――いや、観察するというお役目を少々過剰なほどに全うしていた。
「サニアー」
飛竜の子供ヴァフスジルサニアが喜ぶ呼び方で注意を引いて、先端に赤い羽根飾りが付いた玩具を取り出す。
ふよふよと羽飾りを動かせば、琥珀色の眼がきらきらと輝きはじめた。
ぽてぽてと寄ってきて、羽根を掴もうと短い前足を夢中でのばす。
届きそうで、届かない高さ。ぷぎゃううー、と焦れたような声が大きな口から漏れた。
「ぐるうー」
「……うう。そんな顔でこっち見てもだめだよ」
シェリンが下げてくれないと悟ると、ようやくクリーム色の翼をぱたたっとばたつかせ始めた。
ぴょんと跳び上がり、一瞬ふわりと浮く。
が、未だ慣れない翼では飛ぶまで至らず。勢いあまって、どしんと青芝に尻餅をついてしまう。その衝撃に、また琥珀色の瞳がきょとんと瞬いた。
「……うあー、可愛い。本当に可愛い」
シェリンが真っ赤になって悶える。
もっと遊んでーと言いたげに、子竜が「ぐあうー」と甘えた声を出した。
実はこれ、ただ遊んでいるわけではない。飛ぶために必要な訓練なのだ。
王家から預かり受けたシルヴァリ家の飛竜は、翼の形が安定するのを待ってようやく始まったばかりだ。
なのだが、どうにもこの子供、やる気がない。
同時期に生まれた飛竜よりも少々小さく成長も遅いようだが、体はいたって健康で悪いところはどこもないと獣医に太鼓判を押されている。
強いて言うなら甘えん坊で、シェリンから離れようとしない。
飛べない彼女にべったり張り付いているので、飛ぶ練習もしようとしないのだ。
もともと飛べない人族はそれでいいが、むしろ飛ぶほうが得意な飛竜が飛ばないのだ。
飛べるはずなのに、飛ばない。それは大問題である。
しかし甘えん坊は同時にとても強情で、シェリンがどれだけ隠れていてもすぐに見つけ出し、それならばと飼育舎から遠ざかればきゅうきゅうと悲し気な声を上げて不貞腐れ、なお一層飛ぼうとしない。
仕方なく、飼育員たちは女性のシェリンにも手伝ってもらうことにした。
甘やかし過ぎた罪悪感もあり、彼女もアメと鞭を持って育成に協力しているというわけだった。
タイミングを見計らって、赤い羽根飾りをさらに高く持ち上げる。
すると、何度目かで飛竜の子供はばさっといつもより翼を大きく動かし、飛んだ。
正しくは飛んだというよりも緩やかな跳躍、だろうか。どしんと転ぶことなく、ぱさぱさっと上手に翼をはためかせてきれいに着地した飛竜に、シェリンはおおっと目を見開く。
「やった! サニア‼」
次いでぱちぱち、と手を叩いたのは、しかし彼女ではなかった。
お抱えの飼育係のロギさんあたりかな、と思って振り返る。
しかしそこに立っていたのは、知らない顔の青年だ。ついでに言えば、人族だった。
金糸銀糸をふんだんに使用した、形はシンプルでもひと目で高価と分かるベストにジュストコールを違和感なく着こなしているので、使用人や出入り商人でないことは確かだろう。
しかしシルヴァリ家の邸宅の敷地内でもかなり奥まったこの場所に、普通お客様は来ない。
「素晴らしい。見事な黄金色だ」
にこにこと当たり前のように寄ってくるその人に「きゅあああ!」と飛竜が警戒の声を上げたことでシェリンははっと我に返った。
とっさに飛竜の子供を庇うように前に立つ。
「あ、あの。どちら様―――」
「キリム殿下あああ!」
遠くにこの邸の主シルヴァリ卿の声が聞こえた。
続いた複数の「殿下」という言葉に、失礼ながら「え!?」と客人を凝視する。
身に着けた衣服よりもさらに豪奢な濃い色の金髪。涼し気な水色の瞳。軍に身を置いているとは思えぬ柔和で甘い顔だち。肩幅は広いがほっそりすらりとして見える長身。
セレーナ姫が夢中で語り聞かせてくれた“キリム王子”の姿形を、目の前の青年は取っていた。
なんでこんなところに王子様が。
今さらだが腰を折って礼をとりつつ、シェリンは呆然と考える。
王子の婚約者候補であるそのセレーナ姫は、今日も今日とて城へ出向いていたはずだ。目の前にいる、この王子に会うために。
そして、背後に隠した飛竜の子供が王家、しかもこの王子様から預かった卵だったことを思い出す。
このときようやく後続のシルヴァリ卿らが追い付いてきた。
どうやら王子様、飛竜に乗ってシルヴァリ家の正門を素通りし、直接飼育舎の近くへ降り立ったらしい。
後続は、敷地内に王家所有の白い飛竜が降り立ったのを見て仰天し、追いかけてきた者たちである。
「ででで、殿下、本日は一体……っ」
「預けた飛竜の様子と、わが妃を見に来たのだ」
わが妃。その言葉に、シルヴァリ卿の顔つきがぱあっと輝く。
「それはありがとうございます! しかし残念ながら、セレーナは入れ違いで城に赴いておりまして―――」
「そうだろうな」
微笑んで、王子はつかつかとシェリンと飛竜の子供に近づいて行く。
飛竜を見に来たというなら、シェリンは退くべきだろう。しかしなぜか妙に気が立っている子竜を、王子様に近づけていいものなのだろうか。
「くああああっ」
「さっサニア!」
とうとう威嚇するような声を上げ王子に飛びかかろうとしたので、シェリンは慌ててクリーム色の体を捕まえた。結果として許可もなく礼の姿勢をといて目上の人々の前で座り込んでしまったが、無作法を気にしている場合ではない。
落ち着いて、と飛竜の子供を翼ごとぎゅっと抱きしめる。薄灰色の腹に回った手でどうどうと撫でれば「ぐうう」と不満げな、しかし先ほどよりは落ち着いた唸り声が牙の間から漏れた。
いくらアルマ王国の守りの要として大切にされている飛竜でも、王子様に噛みついたら処分されてしまうかもしれない。
どうしてこんなに不機嫌になってしまったのか、と必死で考える彼女は気付かない。
彼女が撫でる毎に、クリーム色をした飛竜の体がきらきらと、さながら金粉をまぶしたように輝いていることに。
そして、シルヴァリ卿らがそれらを食い入るように見つめていたこと。
さらにはキリム王子が満足そうに見下ろしていたことも。
「こ、これはいったい……どういうことですかな」
困惑しきったシルヴァリ卿の声に答えたのは、王子である。
「初代国王の飛竜は金色に輝く飛竜の王であったとされている。それは後に王妃となる清らかな乙女が慈しんだ白き竜であったと。伝承は真実であったのだな。王家の白竜をは黄金色に変わった。彼女、シェリン・グリンデールこそ初代王妃の再来。わたしの妃に相応しい」
卵から孵った当初、飛竜は白色をしていた。それが日増しに黄色味と艶を増してきたのは、飛竜の子供がシェリンに出会ってからだ。飼育係からの証言も得ている。
何か言いたいが、何を言うべきかわからないといった複数の顔に向けて「言ったはずだが」と王子は続ける。
「その手でもっとも優秀な飛竜を育てた者をわたしの妃とする、と。シルヴァリ卿、そなたも聞いていただろうに」
視線が、シルヴァリ家の新米侍女に集中する。そして、その腕の飛竜の子供に。
その侍女シェリンはといえば、飛竜がようやく大人しくなってきたところで、周囲の注目とその理由など考えている暇がない。
大騒ぎしているのでさぞかし不快に思われているんだろうな、と思えば顔を上げる勇気もない。
王子様に名乗ってもいないのに名前と家名までを言い当てられ、しかも妃の指名まで受けたのだが、彼女はぜんぜん耳に入っていなかった。
「し、しかし……この飛竜は当家のセレーナが預かり受けた卵で」
「シルヴァリ卿。あなたの娘セレーナは、ちゃんと自分の手で卵を持ち帰った。その誠実さは評価しよう。落としたとはいえ無事に生まれたのだし」
うう、とシルヴァリ卿が呻く。落としたのがばれている。
実際、彼女と同じように卵を傷つけてしまい、所有している飼育舎の卵や幼体と入れ替えて何食わぬ顔で育てていた家もあったらしい。
何も知らぬような笑顔の裏で、王子は各家の様子を詳細に調べさせていた。
「良家の姫君方に飼育係の真似事をさせるつもりは、わたしとて無かったよ。正直なところ、黄金色の飛竜の伝承も半信半疑だった」
ただ、未来の伴侶となる者の誠意を試したかった。
そう王子は言う。
「しかしセレーナ姫は、いや妃候補の誰もが、飛竜に近寄りもしなかった。わたしが卵の話題を出さないと分かれば、様子を知ることすらおろそかにした。最初のわたしの言葉をすっかり忘れて。あなた方親兄弟も、それを良しとしたのだろう。第三王子とはいえ、わたしも侮られたものだ」
事情はどうであれ、わたしの妃となる用件を満たしたのは彼女だけなのだ。
にっこりと微笑んだ王子に、シルヴァリ卿は「しかし」と食い下がる。
「この者は当家の侍女でして」
「問題ないだろう。グリンデール家は末端とはいえ貴族だ。まあ、黄金竜を育てた女性であれば、平民であっても反対はないだろうが。なにしろ初代王妃以来なかった快挙だからな」
「し、しかし! 王子のおっしゃる通り、飛竜の卵は飼育係に任せておりました。この侍女――グリンデールの娘が深く関わっていたかどうかは……」
「見て、わからないのか」
呆れたように、顎で示すキリム王子。
その先には、シェリンに抱っこされた飛竜の子供がいる。人族の王子にすら警戒し牙をむいた飛竜の子供が、大人しく抱かれているのだ。
ぐるる、と甘えた声まで出して。
「セレーナ姫に、同じことができるだろうか」
さすがにこれ以上の反論はなかった。
◇ ◇ ◇
「シェリン」
優しい声音で呼ばれ、すぐそばに誰かの気配を感じる。
顔を向ければ、思ったよりさらに近い距離。視線を合わせるように膝をついたキリム王子がいた。
腕の中でぐるぅ、とヴァフスジルサニアが唸る。しかしとっさにシェリンがぎゅっと腕の拘束を強めたためか、暴れることはなかった。
思わず見惚れそうな極上の笑顔でもって、王子は彼女をのぞき込んでくる。
が、のぞき込まれている本人はそれどころではない。
「ありがとう。シェリン・グリンデール。君のお陰でこの飛竜は見事に育つことができた」
「……育てたのは飼育係の方たちですが。わたしは少しお手伝いをしただけです」
つい素っ気なくなってしまう言葉はシルヴァリ卿が放ったのと同じような内容だ。
しかし、王子は満足げに微笑む。謙虚だね、と。
実は王子、連日押しかけるお妃候補の姫君たちのいがみ合いと自己主張の激しさに少々うんざりしていたのだ。なので侍女としては普通であるシェリンの簡潔で控えめな物言いは、とても好ましく感じる。
「黄金色の飛竜は、女性の手によってしか育てることができない。少なくとも、君はこの飛竜に認められているのだよ」
「黄金色、ですか」
落ち着け騒ぐなと念じて小さな頭を撫でつつ、改めて飛竜の子供を見下ろしてみる。
認められたというか、まあ、連日べったり甘えられてはいた。
それにヴァフスジルサニアの鱗は、クリーム色だ。白色に黄色を少しだけ混ぜたような落ち着いた色。少なくとも彼女はそう思っていた。そういえば、なんだかいつもよりきらきらしているような気はするが。
それこそ王子の髪のような煌びやかなのを金色というのではないか。
比較対象を見上げれば、シェリンを安心させるようにふわりと笑う。
そして、飛竜の頭を撫でていた手をすいっとすくい取られた。
あっと思わず慌てた声が漏れたが、王子は気にしていない様子だ。
「慎み深く慈愛に満ちた君こそ、わたしが探していた女性なのだ」
「あ、あの……?」
「シェリン。わたしの妃となってくれますか」
「は?」
「あなたをわたしの伴侶として城に迎えたい」
反射的に引っ込めようとした手は、逆に王子の口元へと引き寄せられる。
彼女の手の甲に、王子は恭しく自らの唇を押し付けた。
優しく、しかし音がするほどにしっかりと。
「は、はえええっ!?」
「どうか、是と。シェリン・グリンデール」
シェリンの素っ頓狂な悲鳴は、王子の声によって無かったことにされた。
懇願している体だが、承諾以外は受け付けないと言葉以上に態度が示している。
涼やかで甘やかな水色の瞳が、近づくとともに異様な圧力をかけてくる。
「……そして、黄金竜ヴァフスジルサニアとともに城へ」
その長くも有難い名を王子が優雅に唱えたとき。
「ぐあっくああぁっ」
返事なのか非難なのか。
おそらく絶対に後者であろう飛竜の雄叫びが響き渡った。
育ちざかり元気いっぱいの飛竜の子供は、シェリンの細腕一本で押さえられるものではない。
ぐるりと身をよじったヴァフスジルサニアがそのまま顔を出し首をのばし。
がぶり。
キリム王子の、手首に噛みついた。