守衛
☆正義とは何か?
子供の頃には疑う事が無かった正義と言う言葉の定義に関して、最近は悩む事が多い。
正義とは何か?
子供の頃の僕なら剣聖の様に生きる事だと答えただろう。
正義とは何か?
今の僕は正義に対する明確な定義を保持出来ていない。
正義とは何か?
ここ最近で最も正義を曖昧にした事件は中央広場で老人が刃物を振り回した事件だろう。
死者はいない。
負傷者は多数。
老人は衛兵に取り押さえられた。
そこまでは普遍的な正義の行使だ。
だが、その後の経緯が正義からはかけ離れて行く。
老人は気が狂っていた。
老人は気が狂っていたが貴族に連なる者だった。それも、王族に繋がる貴族の末席だった。
老人には輝かしい実績があった。
老人は駐ミルヘルム経験もある元防衛隊員だった。
干殻と王国との間で散発する戦闘において、何度もミルヘルム防衛に貢献した優秀な防衛隊員だった、らしい。
優秀な男が狂ってしまったのは四十年前に発生した戦闘の最中だったらしい。
優秀な男が率いる小隊は十四名が所属していたが、帰還したのは正気を失った一人の男だけだったらしい。
正義とは何か?
正義とは、無差別に刃物を振り回した老人を断ずる事では無かったのか?
老人がどの様な経歴を持っていたとしても、どの様な出自を持っていたとしても、正義は執行されるべきでは無いのか?
剣聖が魔王を斬った様に、正義は断行されなければならないのではないのか?
僕はそんな疑問を胸の内に押し殺して、老人が収容されている牢の前に立つ。
「収監者一番、移動だ」
先輩の守衛が無機質な声でそう言った。
牢の中にはぶつぶつと独り言を呟く老人が一人。
真っ白でぼさぼさの髪の奥で、隈の目立つ目がぎょろぎょろと動く。
右頬が不規則に痙攣し、両手は神経質に空を撫で回している。
僕は無言で牢を開錠する。
ごりごりと金属と金属が擦れる音がして、老人を閉じ込める錠前が解かれた。
後輩の守衛が警棒を構えて中に入り、気の狂った老人の腰に縄を結わえる。
老人はぶつぶつと独り言を呟きながら抵抗しなかった。
腰に結わえられた縄の端が僕に渡される。
僕が縄を引き、後輩が警棒で急き立てる事で老人はようやく牢から出た。
老人と同様に、他の収監者も牢を追い出されている。
盗みを働いた者も、人を殺した者も、物を壊した者も、誰もが労を追い出されている。
それは王都から指示が出されたからだ。
王都からの指示は簡潔で意味不明だった。
剣聖が現れた場合拘留せよ。その際、守衛であっても、収監者であっても、剣聖を視界に収める者が存在してはならない。
アンウェイの様なそれほど大きく無い街でそれを実行しようとすれば、牢の中に居る者達を全て追い出す他に方法が無いのだ。
剣聖なんて……馬鹿らしい。実在する訳が無いのだ。
そんな事の為に、この狂った老人は、何人かの犯罪者達は、解き放たれるのか?
当面は守衛の詰所が簡易収監室として用いられるらしい。
「きりきり歩け」
後輩が狂った老人を小突く。
老人は振り返り、ぎょろりとした目で後輩と僕を見た。
ぞわり。
背中に冷たい線が走る。
直視した老人の目は、冷静な色を垂れ流していた。
この老人は本当に狂っているのだろうか?
僕は今、とんでもない化け物を解放しようといるのではないだろうか?
老人の背後には外へと続く階段があり、その先から陽光が降り注いでいた。
逆光で良く見えない筈の、老人の目が妙に――
「前を向け!」
後輩が警棒を振るう。
警棒は老人の頭を強かに打ち付け、鈍い音がした。
同時に老人の視線が僕から逸れて僕は息を吸った。
知らず呼吸を止めていた様だ。
助かった。理由も無くそう感じていた。
「へえ……剣聖は剣聖って事ですなあ」
光の中から声がした。
なんだか投げ遣りな感じの、適当に話を合わせている様な言葉。
「一番奥が剣聖殿の牢です」
守衛長の声がした。
守衛長自ら案内するなんて、どうせ偽物ぎぎぎ剣聖が守衛長に案内されて階段を下りて来た。
赤く染められた革鎧と光を反射しない金属製の小手。
帯剣はしておらず、守衛長が簡素な鞘に納められた長短二振りの剣を抱えていた。
逆光の中で表情をこちらから伺う事は出来ないが、きっと感情の読めない投げ遣りな笑みなのだろう。
正に絵本から飛び出て来たような、剣聖らしい剣聖だった。
「あああああああああああ」
不意に大きな声が響く。
狂った老人が、剣聖を見て叫んでいた。
「げふぅ」
空気の漏れる様な音が聞こえ、先輩が崩れ落ちる様に倒れた。
……倒れた?
「ひゅ」
ぐるりと独楽の様に回転した後輩と目が合った。
目は極限まで見開かれていて、口は魚の様にぱくぱくと開閉して、やはり崩れる様に倒れた。
びちゃりと、何かが僕の顔に掛かった。
手で拭って手の平を見る。赤い。血だ。後輩の血だ。
そこでようやく、老人がその両手に短刀を持っている事に気が付いた。
赤く濡れた短刀が二振り、光を反射してぎらぎらと輝いていた。
それは守衛が持つ護身用の短刀だ。
収監者に奪われる可能性を下げる為に、少し変わった引き抜き方をしないと抜けない鞘に納められている筈の短刀を、老人は逆手に構えていた。
ああ、そう言えば老人は元防衛隊だった。
ならば守衛の経験もあるだろう。
「うわあああ!」
僕の口から悲鳴が撒き散らされた。
短刀が上手く抜けない。
僕ががちゃがちゃと短刀を揺さぶっている間に、老人は何人かの収監者と何人もの守衛を斬り倒しながら突進していった。
鮮やかな突進だった。
最小限の動きで的確に人を斬り、相対した守衛長すら瞬殺し、丸腰の剣聖へと二振りの短刀を刺し込んだ。
「お気持ちはありがたいのですが……恐らく全滅しているかと……」
次の瞬間、倒れていたのは老人の方だった。
剣聖は二振りの短刀を片手に、獣の様な笑みで老人を見下ろしていた。
「……貴様は剣聖じゃぎぎぎ剣聖ぎぎぎけぎぎぎ仇を、折れた剣ぎぎぎ」
意味の無い呟きを繰り返して、老人は力尽きた。
じわりと、血の匂いが濃密になっていく。
「……小隊長、ここは何かがおかしい」
剣聖は私に向かって神妙にそう言うと、踵を返して去って行った。
★アレに関する予想は外れてばかりだが、今回は比較的ましな外れ方だと言える。
アレの弟子は始末した。
この指示は比較的容易に達成された。
アレが干殻の正規軍を弟子にしていたのは幸いであった。
私の指示と並列して我々の誰かが飛ばしていたアレを拘留する指示は失敗した。
アレがアンウェイで守衛を十八名殺して行方をくらましたのだ。
だが、これは吉報でもあった。
アンウェイが抜かれているとの見方が優勢であったのにも関わらず、アレはジュタやエルダでは無くアンウェイでその痕跡を残していた。
これは間違いなく吉報であるが、同時に不気味でもある。
どう考えてもアレはアンウェイに居る筈がないのだ。
即ちそれは、アンウェイにアレを誘引する何かが存在している、或いは存在していたと言う事だ。
絵本はアレと特定の地域を関連付けさせない様に設計されている。
唯一関連付けされる可能性があるのは王国と言う広く曖昧な地域だけだ。
そこには干殻も含まれる。
かつてアレが干上がらせたとされる、旧帝国と王国の間に広がっていた海峡が、アレを惑わす筈だ。
だから、アレがアンウェイに留まっている筈は無かったのだ。
結果的にアレはアンウェイに誘引された。
その理由が不明確であると言う点が、脅威干渉室にとって重大な不確定要素となりはしないか……。
いずれにせよ、脅威干渉室は手を止めない。
アレに対して二の手三の手を、次の手を打ち続けなくてはならない。
それが脅威干渉室の存在理由なのだから。