星の詠手
☆無様だ。
息も切れて意識が徐々に零れ落ちて行く中、不明瞭で合理的ではない私の思考はそんな事を考え始めた。
そんな事を考えている場合では無い。
逃げて、生き延びなければならないのだから。
街道で襲われた時鬱蒼と茂る森林地帯に逃げる事は当初から検討していた。
干殻国正規軍は森林地帯を天然の防壁として利用しておきながら、その内部での戦闘を弱点としている。
ナクニ王国の軍部からその様に軽んじられている事は知っていたが、その知識を生かす機会に恵まれるとは思いもしなかった。
干殻国の貴族が我々星詠を快く思っていない事は十分理解していた積りだったのだが、少々程認識が甘かったらしい。
ああ、この期に及んで合理的では無い思考が止まらない。
もう何度も木の根に足を取られそうになって、低木や背の高い草に何度も引っ掛かった儀式装束はボロボロになっている。
きっと追って来る干殻正規軍は甲冑に護られて平然としているのだろう。
その甲冑の重みが無ければ追い付かれ殺されているのだろうから、儀式装束には感謝しなくてはいけないのかも知れない。
ああ、合理的では無い思考だ。
今は逃げ延びる為の思考を成さなければ。
周囲には木と草があるだけだ。
否、実際には他にも色々とあるのだろうけれども、私に知覚出来るのはそんな情報だけだ。
それも激しく揺れて、白く霞んで、はっきりとは見えない。
揺れているのは私だ。白く霞むのは私の体力が限界に近いからだ。
ああっ! 痛い、視界が回る、転がっている? 私は転んだのか。
背中が痛い。頭を何かにぶつけた。指に激痛、骨が折れたのかも知れない。膝を打った、肘をぶつけた。体中が痛い。
背中に一番強い衝撃。同時に回る景色がある程度安定した。
ここはどこだ?
周囲を見ようとしたが首に激痛が走る。
見える範囲では森林だ。先程から何も変わらない。
否、先程までとは違う点が一つあった。
目の前の木々の後ろから甲冑が近づいて来る。
おっかなびっくり降りてくる干殻国正規軍は随分と高い場所に居る。
否、私が低い場所にいるのだ。
今の内に逃げられるか?
体を起こそうとして右手を地面に着いた途端、激痛が走った。
「ぐあ」
右手を見ると、指が四本あらぬ方向を向いていた。
「……ここまでか」
観念した私は改めて自身と周囲に視線を巡らせた。
儀式装束はぼろぼろだ。
白と青で染め抜かれた薄手の布は破れて穴が開き、全体的に草色と泥色で染め直されていた。
片足がいつの間にか裸足になっていて、どこで切ったのかも分からない泥塗れの傷からじくじくと血が滲んでいる。
ここは少し開けた場所の様だ。影から察するに岩の影の様な場所なのだろう。
地面はじめじめと湿っている。肺一杯に入り込む濃い土の匂いと鉄の匂い。
鉄の匂いは口の中からか。
右手の痛みで足も口も特別痛いとは感じていない。
「手間掛けさせやがって」
声が聞こえた。少し遠くからだ。
干殻国正規軍が甲冑の一人が、ぜえぜえと息をしながら毒づいたのだ。
「誰だって死にたくは無い」
私の声は掠れていた。声が出ただけましなのだろうが。
「そりゃそうか。でも残念だがあんたは死ぬんだぜ?」
直ぐに殺されるのかと思いきや、意外とゆったりとした時間が流れていた。
もう逃げられる状態では無い私を前に、干殻国正規軍の連中はゆっくりと息を整える積もりなのだろうか?
目の前には十数体の甲冑。
半分程が膝に手を付いてがちゃがちゃと荒い息をしている。
残りの半分は平静を装っているが、それなりに疲弊している様だ。
私を追って森林を走り続けたのだ。真ん中に居る剣聖の様に疲れていない方がおかしい。
……?
剣聖? 誰だそれぎぎぎ剣聖は居る。
だから誰だそれは? ぎぎぎ?
ぼんやりとした闇色の霧が人の形の剣聖はぎぎぎ聖はまるで疲れた様子も無い。希望が見えた。剣聖が間に合ったのだ!
「誰だって死にたくは無い」
剣聖が優しく私に声を掛けた。
剣聖が喋った事によって、初めてその存在に気が付いた干殻国正規軍の甲冑達が一斉に剣聖を見る。
剣聖は暗くぎらつく眼光で甲冑達をねめつけた。
枯れ草色に染め上げられた東域の民族衣装に身を包み、手には一振りの長剣を携えていた。
盾や鎧と言った防具の類は身に着けていない。何故なら剣聖は剣聖だからだ。
「貴様は誰だぎぎぎは剣聖!?」
甲冑の一人が驚きの声を上げると、剣聖を中心とした動揺がざわざわと広がった。
「その程度も斬れんのかキクリよ」
剣聖は嘲る様にそう言うと手にした大剣をぶんと振るい、両手で中段に構えた。
構えると同時に、灰銀色の甲冑の下から剣聖の殺気が溢れだす。
「ぬあああ!!」
一人の甲冑が大声で自らを奮い立たせ、剣聖へと斬りかかった。
「無駄だキクリ、そいつはもう助からない」
剣聖は快活にそう啖呵を切ると斬りかかって来た甲冑を横凪に斬り飛ばし、その勢いのまま踏み込むと更に四人を斬り伏せた。
「良く見ろキクリ、それは斬れる」
剣聖は残りの甲冑に対して諭す様にそう言ったが、残念ながら甲冑達は撤退を選び損ねた様だ。
「全員で斬りかかれ!」
甲冑の一人が及び腰の甲冑達にそう命令すると、五人の甲冑が剣聖を取り囲んだ。
その動きはなかなかに機敏だったが、剣聖には通用しなかった様だ。
「キクリ、こいつ魔王の癖に岩人形より脆いぞ」
剣聖が真横に飛び、甲冑の一人に体当たりを食らわせる――かに見せかけて一刀の元に両断した。
大剣を振るっているとは思えない程小さくまとまった鈍色の軌跡が地面をも切り裂き、そのまま土と石を跳ね上げながらぐるりと回転したかと思うと、更に二人が切り伏せられていた。
「そりゃそうか。でも残念だがあんたは死ぬんだぜ?」
歌う様に剣聖が言葉を紡ぎ、更に二人が切り伏せられた。
残る甲冑は一人。
「お前は……剣聖?」
何故かその甲冑は訝しげな声で剣聖を見詰めた。
「……ここまでか」
剣聖は涼しげな顔でそう答えると、切っ先を甲冑に向けた。
金細工の施された儀礼用の細剣と伸ばされた腕がぴたりと静止するその様は美しくもあった。
「何だ……け剣聖ぎぎぎ剣聖? ぎぎぎ剣ぎぎぎけぎぎぎけぎぎぎけぎぎぎ剣聖、剣聖!」
覚悟を決めた甲冑が剣聖に斬りかかる。
平剣の切っ先が地面を這う様に振られ、剣聖の正面で突如跳ね上がる。
必殺の剣筋はしかし、剣聖が構える一見して華奢な細剣によっていとも容易くいなされた。
剣聖を狙った切っ先はあらぬ方向に逸れて振り抜かれ、大きく開いた甲冑の上体に剣聖の細剣がぬるりと突き刺さった。
私でも曲げられそうな細剣が分厚い甲冑の隙間を的確に刺し抜き、次の瞬間には引き抜かれていた。
剣聖は円を描く様に血払いをした細身の剣を鞘に納める。
私なら誤って自身の脚を切ってしまいそうな長剣を優雅に鞘に納めた剣聖は、甲冑に背を向けて私に歩み寄った。
枯れ草色の民族衣装が風に吹かれてふわりと膨らみ、最後の甲冑がどうと地面に倒れ伏す。
甲冑の隙間から大量血が流れ落ち、湿った大地へと吸い込まれて行った。
圧倒的だ。
剣聖とは、噂でしか知らなかったが剣聖とは、これ程までに圧倒的な存在だったのか。
剣聖はたった今十数人を斬り伏せたとは思えない自然体で、私に視線を向けて笑った。
「その斬られ方じゃ死なないな」
笑いながら、剣聖は私に手を差し伸べる。
凶暴な獣を連想させるその笑みに若干気圧されながらも、私はその手を取る事が出来た。
剣聖は荒々しい力で私を引き起こすと、視線を森の中へと向けた。
恐らくそっちは、私と甲冑が来た道だ。
「もう少し斬って来るか?」
とても頼もしい言葉だ。だが。
「お気持ちはありがたいのですが……恐らく全滅しているかと……」
武装神子達が生き残っているとは思えない。
……?
剣聖は私を追って来たのだから武装神子達は生き残っていて? でも私は何故剣聖が居た車両団から逃げてぎぎぎが偶然ここを通り掛かっただけでも幸運だ。神子達には申し訳ないが、今はこの幸運を星に感謝すべきだろう。
「あっちは涼しそうだ」
「……そうですね、剣聖がいて下されば非常に頼もしい」
剣聖が私の護衛をして下さることになった。
一先ずは車両まで戻って神子達に生き残りがいれば手当をしなければならない。
「……そうですね、剣聖がいて下されば非常に頼もしい」
剣聖に促されるまま私は痛む身体で歩き始めた。
数分前には死を覚悟したが、剣聖が護衛して下さるのであればナクニ王国まで逃げ延びる事が叶いそうだ。
★ついにこの日が訪れてしまった。
ロザリオが黒化しているのを今朝確認した。
我々に出来るのはこの日の為の準備が無駄にならない事を祈る事だ。
大丈夫だ、絵本の普及は十分な水準に達している。
大丈夫だ、脅威干渉室は閉塞性を保っている。
何とか出来る筈だ。
大丈夫か?