①
大陸南方に広がる、トロデリオ大森林。古くは豊かな自然の幸と資源を人類と原生生物の双方に提供し、外縁部に複数の国を繁栄させ、また滅亡まで見届けた、未だその全容を謎に包むと共に緩やかに拡大を続ける、巨大な樹海である。
その地の湿った土の上に被さった落ち葉を踏み、鬱蒼と生い茂る木々の隙間を、外套を纏った男が駆け抜ける。
「死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬッ!!」
額から滝のように汗を流し、血走らせた目を絶え間なく周囲に巡らせ、荒く息を吐き出す様を見れば、その男が何者かに追われている事は容易に想像できる。
事実彼の背後では、木々が圧し折られ、薙ぎ倒される音が響いていた。
男はその音から十分遠ざかったと判断できる場所まで来ると、自身よりも幅のある手近な木の後ろに回り込み、荒い息を無理やり落ち着ける。
続けて外套の下から、小さな枝葉と紫色の液体の入った試験管を取り出し、開封して中の液体を枝葉へと浴びせる。
すると枝葉が一瞬震えたかと思うと、手元で急成長し、捻れ絡まり合いながら伸びて行く。程なくして男の手には、随所から若葉が顔を覗かせる、長さニメートル程の杖が握られていた。
「ふざけんな、あのクソジジイが! あれのどこがゴーレムだ! 明らかに別物だろうが、適当な憶測口にしやがって!」
口を突いて出て来るのは、彼がその地に足を運ぶ原因となった要請を出した、辺境の村の長を務めている老人に対する愚痴。
協会を経由して伝わって来た話によれば、確認されている魔獣は、はぐれのロックゴーレムないしその亜種だろうという話だった。
さらに実際に要請を出した村に寄り、村長や目撃者の話を念入りに聞き、得られた外見的特徴からもほぼ間違いないだろうと判断した。
ゴーレムは発生地の環境に大きく左右されるが、少なくともその地で発生し得るであろう個体ならば、彼――ディゼリオ=ディクシーズ・ディクシオンと相棒に掛かれば問題なく対処できただろう。彼が単独で行動していたのも、個人での対応も十分可能だと判断し、手分けして探そうと提案した為だった。
仮に他所の地から流入して来た等のイレギュラーであっても、余程の個体でない限り安全に倒せる筈だった。
だがそれは大きな間違いだった。標的は亜種どころか別種、それも推測が正しければ、かなりヤバい種だった。
(確かに所専門家じゃねえ、恐慌状態にあった一般人の証言だ。外見的特徴に大きな違いがあってもおかしくねえけどよぉ……)
それ故に、全く別の種を誤認してしまうのも十分にあり得る。彼もそれぐらいは理解していた。
(さすがに限度ってもんが――)
「……クソっ!!」
頭上から降り注いでいた木漏れ日が突如として遮られ、見るより先に毒づきながらその場から退避し、直後に轟音と共に凄まじい震動に襲われて転がる。
震動と轟音の正体は、上空から落下して来た巨大な球体。
肥満体の人間から頭部を取り去り、全身を隈なく鉱物質の表皮で覆った、全長八メートルにもなるずんぐりとした体型の人型の怪物が、体を丸めた状態で跳躍し、着地した結果だった。
畳んでいた手足が解かれ、両足でその巨人が立ち上がる。
頭部に当たる部位が無い代わりに、人間からすれば胸部に当たる箇所には翡翠のような眼が、腹部には歪な形の口があり、牙を剥き出しにして、強襲を躱した男を睨み付ける。
「神木の果実を守りしヤドリギよ、宝を狙う簒奪者を縛れ!」
その魔獣を目にした瞬間に動き出し、生み出したばかりの杖を掲げ、呪言を口にする。呪言を受けた杖は即座に応え、地中から無数の太い根を突き出し、巨人の全身を雁字搦めに拘束する。
これで少しは時間が稼げる、そう安堵したのも束の間、巨人は自分の身に絡み付く根を鬱陶しそうに一瞥する為に動きを止めただけで、次の瞬間には簡単に根を引き千切り、何事も無かったかのように動き始める。
「嘘だろッ!?」
彼が使ったのは、樹齢六百年を超える神木に寄生した、それ自体も百年を超える樹齢を誇るヤドリギの枝葉だ。
さすがに神木自体と比べれば格は圧倒的に劣るが、それでも百年もの間、神木から養分と魔力を吸って来た代物だ。術具としてもBランクに相当し、それによる魔導術はかなり強力なものだ。破るのは容易では無い。
その容易ではない事を、その巨人は容易くやってのけていた。
「ちくしょう――てえッ!?」
その結果に絶望しそうになりながらも、ならば別の魔導術をと考えたところで、巨人の胸部の眼が怪しく光る。直後に彼の手にあった、ランクBのヤドリギによって生成された杖は木っ端微塵になる。
「やっぱ無理無理無理無理無理ィッ!」
手に入れるのに、それなりの対価を支払った術具の呆気ない結末に、彼のなけなしの戦意は霞となって消え失せ、半泣きになりながら逃走を再開する。
「なんで、こんな辺境の地に、ゴラエスなんて化物が居るんだよォッ!?」
巨人ゴラエス――またの名を【壊眼の巨人】といい、数多存在する魔獣の中でも、十数例しか出現を確認されていない稀少にして、そのうちの多くにおいて大きな被害を生み出した、準災害指定個体の魔獣である。
人間を大きく上回る巨躯に、その巨躯によって生み出される剛力。外殻は刃を通さず、並大抵の魔術を無効化する強靭な鎧であり、その鎧を纏っての突進は、都市の外壁を粉砕したという記録すらある。
何より厄介なのが、その異名の由来ともなった、翡翠の眼の持つ、中位の術具相当以上の魔力を有する物体を見るだけで破壊するという力。幸いにして無生物にしか効力を発揮しないが、ただ一瞥するだけで魔術の行使に必要な術具を破壊され、かと言って破壊されない低位の術具による魔術では、碌なダメージも与えられないという、まさに魔術師――とりわけ魔導術師にとっては天敵に等しい魔獣である。
初めてその存在が確認された際には、三級以上の魔導術師と魔獣術師併せて百人と、都市の衛兵二百人の、計三百人の混成部隊で迎撃に当たったが、百人以上の戦死者と、数百人もの住民の死者を出すほどの被害が発生した。
確かに当時はまだ現在と比べても魔術が発達しておらず、また他にも魔獣が居た上に、ゴラエスへの対処法が確立されていないなどの要因もあったものの、それだけ凶悪な魔獣であるというのも事実である。
所詮はしがない四級魔導術師でしかないディゼリオには、相手にするには荷が重すぎた。
「我は汝に命ずる、桟橋の下に潜む針鼠よ。我を追いし者を貫け!」
せめて足止めになればと、破壊されない程度の魔力を保有した低位の術具を使用し、接近した者に対して無数の針を放つ地雷をばら撒く。
例え低位の術具であると言えど、人が食らえば全身穴だらけになって死ぬ程度の威力はある。だがその地雷が複数同時に爆発し、すべて直撃するも、巨人の持つ分厚い装甲を貫くには至らない。
「やっぱ駄目か……!」
予想していた結果に嘆きつつ、次の術具を外套の下から取り出そうとした瞬間、巨人の翡翠の眼が再び怪しく煌く。
「ゲゲェ!?」
外套の下から無数の物が壊れる音が響き、それを裏付けるように破壊された術具の破片が零れ落ちる。思わず腕で外套を広げたディゼリオが目にしたのは、彼が持ち歩いていた術具の大半が使用不可能となった状況。
彼が荒事に用いる術具は勿論の事、彼の相棒の為に用意した予備の術具も、さらには彼の位階では所持が認められていない高位の術具も、軒並み破壊されていた。
特に、魔術や呪詛による毒や石化や精神支配といったものを完全に無効化する、S+ランクのカルマンのアミュレットが見るも無残な姿に変貌していた事は、彼にとっては実に認めがたい現実だった。
そんなあんまりな光景を目にしたディゼリオは、カエルが潰れたような悲鳴を上げ、動きを止めてしまう。
その一瞬の隙は致命的で、辛うじて均衡を保っていた逃走劇は終わりを告げ、ディゼリオを押し潰さんとゴラエスの巨体が彼へと迫る。
「こ、高峰を仰ぎ見し石華よ、汝の守護を我に分け与えたまえ!」
咄嗟に無事だった術具を用いて、魔術を発動できたのは上出来だった。ディゼリオを覆うように不可視の球体の結界が生み出され、巨人の突進を押し留める。
だが、所詮は魔眼の眼鏡に適わなかった、低位の術具による魔術。突進の衝撃によって大きな亀裂が走り、尚も掛かり続ける圧力に、決壊する寸前だった。
「シャ、シャオ! シャネオリア!? 早く、早く来てくれ! もう限界だぁ!!」
大の大人が半泣きで助けを求める姿は、見るに堪えず、聞くに堪えない。
そんなみっともない姿に引き寄せられた訳では無いだろうが、草木を掻き分ける、新たな影が一つ。
「五秒持ち堪えろ!」
男の耳に、取り立てて美しいと感じる訳でもないが、聞く者に不思議な安心感を齎すような、落ち着き払った声音で紡がれた言葉が届く。同時に乱入者が大きく跳躍し、空中へと身を躍らせる。
「腐竜の鉤爪」
纏っていた外套の下から出て来た、白磁のような傷一つ無い肌理細かな右手が、拳大ほどの大きさに整形された、捻じ曲がった鉤爪を握り込む。
呪言と共に持ち主の魔力が鉤爪の内部へと流れ込んだ瞬間、その形が溶解するかのように崩れて行き、同時にその手の内側へと取り込まれて行く。
併せてその鉤爪を握り込む手にも変化が現れ、白い肌は毒々しい紫色へと変化し、同色の人が持ち得ぬ筈の鱗に覆われて行く。手は一回り肥大し、指はより強靭となり、その先端からは捻れた鉤爪が伸びる。
僅か一秒足らずで完成した竜の腕が振り被られ、結界を粉砕しようと踏ん張るゴラエスの背部を一閃。鉄壁の強度を誇る筈の装甲を易々と切り裂き、痛々しい傷跡が刻まれ血が噴出する。
かと思えば、直後に周囲に嘔吐感を催す臭いが立ち込め、周辺の肉や甲殻が音を立てて溶解して行く。
「シャオ、遅えぞ! 死ぬかと思ったろうが!」
「これでも急いだ方だ。それに、どうせ死なないだろう」
乱入者が着地し、巨人の翡翠の瞳を見上げる。対する巨人も苦悶の声を上げつつも、自身に傷を付けた相手に対する憎悪の炎を燃え上がらせ、標的を変更。拳を握り締め、地面ごと薙ぎ払う。
しかし、乱入者は軽やかな動きで(ディゼリオは悲鳴を上げながら必死に)それを回避。
続く上空からの鉄槌も危なげなく回避し、お返しとばかりに竜の拳を叩き込み、血肉を装甲ごと粉砕する。
「剣竜の尾刃片」
さらに左手に、外套の下から二十センチはある金属片を持ち、左腕全体を一メートルはある巨大で歪な両刃に変形。痛みに怯む巨人の足を容赦なく切断する。
転倒した後も容赦せず、体の上に跳び乗り、鉤爪と刃で体を起こそうとする右腕を切断し、右眼を潰す。
「ディズ」
「分かってる!」
再びバランズを崩して転がった巨人の上から下りるのを見届け、呼ばれたディゼリオが呪言を紡ぐ。
「争いより逃れ、智慧にて繁栄せし種木よ。宿主の血肉を啜り、華咲け!」
地面に倒れる巨人が、一瞬だけ不自然な体勢で動きを止める。直後に、残っていた左手で潰された眼窩を、周りの肉ごと抉ろうとしているかのように強く押さえ、激しく身悶える。
その力が込められた手の下の眼窩の中から、不気味な紫色の若葉が発芽。若葉は瞬く間に成長し、十本以上の蔦を土壌となっている巨人を包むように伸ばして行く。蔦の途中には、螺旋巻く無数の蕾。それらは徐々に弱って行く巨人に反比例して大きさを増して行き、一斉に開花。土壌の血をたっぷりと吸って真っ赤に染まった花が、無数に咲き誇る。
協会からAランク認定されていると共に、第二種禁忌術具に指定されている屍の赤花の齎す残酷な結果が、準災害指定個体の巨人を蹂躙していた。
その種子が土壌として選ぶのは、生きた生物のみ。発芽から開花までに必要な養分は、宿主の血と肉と魔力。一度土壌に埋まった種子は、それら養分を、開花するまで徹底的且つ急速に吸い尽くして行く。
この種子の恐ろしいところは、開花までに必要な養分が定められていない事だった。より正確に言うならば、土壌が決定するのと同時に、それら養分の必要量も定められる。その基準は、土壌の持ち得る全て。
即ち、一度寄生されれば、血肉と魔力の全てを吸い尽くされて死に至り、種子はそれらの量に応じた大きさまで成長して花を咲かせる。一歩間違えれば、使用しようとした魔術師を宿主に選び兼ねない危険性を持つが故に禁忌指定されているが、正しく用いれば確実に魔獣を殺せる、致死性の兵器である。
「いざという時の為に、お前に予備の術具を持たせておいて正解だったな」
「壊されたか?」
乱入者がそう言いながら、頭を覆っていたフードを鬱陶しそうに脱ぎ、取り去らわれたフードの下から白銀の輝きが零れ落ちる。
その輝きと共に現れたのは、誰もが思わず目を奪われるような少女の顔。
後頭部で縛られた、木漏れ日の弱い光を浴びて輝く白銀色の髪に、蒼穹よりも鮮やかで澄み渡った瞳。
女性からすれば高い身長と、外套の隙間から覗くすらりとした手足も相まって、可愛いというよりは綺麗という形容が正しいであろう容貌が、そこにはあった。
しかし、普通ならば十人が十人とも振り向くような容貌だったが、一方で口から零れ出る声に起伏はなく、表情も同様に平坦で、青い瞳を宿す目は眠たそうと言うよりは、どこか虚ろさを感じさせる。
生気をまるで感じさせないとまでは行かないものの、その常識離れした容貌も重なって、どこか作りものめいた印象を拭い切れない。
まるで恐ろしく良くできた精巧な人形のような、あるいは人工的に生み出された生命であるかのような、とにかく見る者に違和感を感じさせる少女だった。
「見ての通りだ」
そんな少女の姿に対してディゼリオは、それが当然であるかのように一切の反応も見せず、代わりに外套の下の惨状を見せる。それを見せられた少女も、微かに――本当に微かにだが、眉を潜める。
「アミュレットまで壊されたのか。かなり痛いな」
「他はともかく、こればっかりは代えは利かないからなぁ」
曲がりなりにも、四級魔導術師の資格を持っている為、Cランクまでの術具ならば協会から自由に取引できる。また彼の相棒である少女――シャネオリカに至っては、二級魔獣術師である為、その恩恵で面倒な手続きさえ踏めば、三級の魔術師から制限が解禁される術具の所持や、二級の魔術師から解禁される術具の一部所持も認められている。
だがS+ランクであるカルマンのアミュレットの所持は認めておらず、本来ならば協会に引き渡さねばならないところを、非合法に所持しているものだった。当然ながら代替品の取引など、望める筈も無い。
「どうする?」
「どうするもこうするも、報告を終えたら一端帰還するしかないだろ。術具の無い魔術師なんざ、クソ程の役にも立たない。それが終わるまでは……」
チラリと、傍に転がる巨人の死骸を見る。
「こいつで少しは補填できれば良いが……」
辺境の地であるが故に、最寄りの協会の支部であっても、片道だけで相当な日数が掛かる距離がある。当然ながらその道中で危険な魔獣に出くわさないなどという保証はどこにもなく、余程の命知らずでない限り、可能な限りの準備を整えるのが普通だ。その為の方法として、現地調達は非常にありふれた手法でもある。
加えて、諸事情により彼らは協会の中でも嫌われ者だ。そんな彼らと取引してくれる相手などそうは居らず、居たとしても足下を見られるのが常だ。それ故に、現地調達は彼らにとっては慣れ切った手法だった。
「なら、今日はここで野営だな」
「それが正解だろうよ」
元々余り日の光の届かない環境だったが、既に太陽が沈み始めている事もあり、周囲には大分濃い闇が掛かり始めている。
仮に今から発ったとしても、依頼人の居る村まで辿り着くのには、暗闇の中を相当な時間彷徨わねばならない。そしてそれがどんなに危険な事かを、彼らは熟知していた。
「俺はこいつをこれから解体する。お前はどうする?」
「ひとまず飲み物でも用意しておく。珈琲で良いか?」
「それで頼む」
互いにやる事を確認し合い、作業に移る。
シャネオリアが薪を集めて火を起こし、湯を沸かし始める傍らで、ディゼリオは大振りのナイフを持ち出し、甲殻の隙間に差し込み、解体を始める。
「メチャクチャ硬えな、クソッ……」
ディゼリオが使用しているナイフは特殊な術具であり、持ち主の魔力を流し込む事で、刃に薄く発光する紋様が浮かびあがり、その紋様によって斬れ味を飛躍的に上げると共に、本体の強度も向上させられる、三級以上の魔術具錬成師に魔獣の部位を術具に加工する際に貸与される代物だったが、事もあろうにディゼリオは、魔獣の解体という行為にそれを使用していた。
「ああクソッ、刃毀れしやがった!」
あくまで加工用の道具の一つに過ぎない為、本来の目的にそぐわぬ使い方をしていればそうなるのは当然だったが、その結果に舌打ちして毒づく。
ディゼリオは四級魔導術師であると同時に、三級の魔術具錬成師でもある為、そのナイフを所持している事自体に問題は無い。
ただしあくまで貸与品である為、当然破損させれば、相応の弁済が必要となって来る。
そして問題なのは、その弁済費が尋常じゃない額であるという事だった。
「確かその術具は、一つ作るのに相当なコストが掛かるんじゃなかったか?」
そのナイフも含めた継続使用を目的に作られたものは、基本使い捨ての術具と違い、とてつもない手間と素材、そして資金を費やして作られている。
あくまで支給されるのではなく、貸与されるだけに過ぎないのもそれが理由で、量産化するなど夢のまた夢とまで言われている代物なのだ。
「……バレなきゃ良いんだよ、バレなきゃ」
「そうか……」
そんな筈が無いのは、ディゼリオの引き攣ったその表情を見れば一目瞭然だったが、シャネオリアの反応は素っ気無いものだった。
その反応が、それ以上の対話を無駄と悟ったが故のものなのか、それともディゼリオの言葉を真に受けたが故のものなのかは、本人にしか分からなかったが。
「そろそろ一休みしたらどうだ?」
それからは互いに無言で作業を続け、沈黙を破ってそんな声が発せられたのは、作業開始から小一時間ほどが経過した頃だった。
ディゼリオの解体業も大分進んでおり、最も重要な眼球を始めとした、術具に加工可能な部位の幾つかを取り分けたところでシャネオリアの作業も完了し、湯気の立つ珈琲の入ったマグカップを差し出す。
濡らしたタオルで手を拭い、血の汚れを落としてからそれを受け取り、息を吹き掛けてから口に含む。
「進捗の具合は?」
「必要最低限な分は、殆ど終わったってところだな。術具に利用できる眼球と、腕と胴体の外殻のいくらかは剝ぎ終えた。これ以上剥いだところで、持ち運びに不便なだけだしな。
あと心臓と骨格も術具に加工できるらしいが、その方法を俺は知らん」
「なら、そっちは余裕があればってところか」
「そういう事だ。まあ心臓はともかく、骨格の相場は外殻と大差無さそうだしな。そもそも、ゴラエス自体が希少種だから、どの部位も相場は高めだろう。それなら、楽に剥ぎ取れる方が良い」
それでも足下は見られるだろうが、とどうでも良さそうに最後に付け加える。
事実ディゼリオにとっては、シャネオリア以上にそういった経験が豊富な為、もはや足下を見られる事が普通という感覚すらあった。
「にしても、ゴラエスなんてものが居たのは、本当に想定外だった。他の比較的確認数の多い災害指定個体とかならともかく、こいつの存在を知ってる奴がどれだけ居るかっつう話だ」
「そんなに珍しいのか?」
ディゼリオの愚痴に近い言葉に興味を惹かれたのか、自分用に珈琲を新しく淹れながら問い返す。
「そりゃ珍しいさ。二百年以上の歴史の中で、たった十数例だぞ? 準災害指定個体の中でも断トツ、下手な災害指定個体よりも珍しいだろうよ。お陰でロックゴレームの類で間違いないとまで判断ミスした訳だしな」
味が気になったのか、角砂糖を投入し、それにと続ける。
「過去にゴラエスが確認された十数例のうち、八割が北方での出現なんだよ。で、残りの二割が西方で、こんな南方の辺境じゃ一切確認されてない。
南方だけに限れば、未知の個体なんかを除けば、ゴラエス以上に珍しい魔獣なんか存在しないって事になる。強いて挙げるとするならば、二十数年前に一度だけ発生した、災害指定個体の【獄門の番狼】くらいだ……」
それまで流暢に喋っていたディゼリオが、言葉尻を不自然に切り、代わりに声にならない荒い息を吐き出し始める。
目は限界まで見開かれ、瞳が小刻みに四方八方を縦横無尽に動き回る。口の端からは血が濃く混じった唾液が流れ出し、顎先まで赤い線を引いて落ち、地面に斑点を作る。
併せて全身も震え始め、手に力が入らなくなり、持っていたマグカップが落下。衝撃で割れて中身が飛び散った直後に、自身の体重も支えられなくなり、転倒する。
「かッ、なん、が……!?」
まともに呂律も回らなくなる中で、思うように動かない目が、直前に落ちて割れたマグカップを捉える。
「シャ、オ……おま、え……!」
何とか視線を動かし、シャネオリアを捉える。
見られたシャネオリアは何かしらの反応を見せる訳でもなく、突然の事態にも動じず、淡々と様子を眺めていた。
その事から、ディゼリオはそれが彼女の仕業であると確信する。
その直後に彼の心臓は動く事を辞め、意識は闇に飲まれて行った。