灰色の夏
「あっづぅぅ・・・」
そんな8月の中ごろ、真夏の風景にありがちな愚痴をこぼしながらさんさんと照る太陽の光を受け、これまでも――そしてこれからも――長く長く続くであろう、長時間熱した鉄板のように熱いアスファルトの上をただただ延々と歩き続ける僕、「彩咲 藍兎」は、今現在の状況を完全に予想していなかった。
首都「トシュタウト」――遥か昔は『東京』と呼ばれていたらしいが――そこへの道のりは、予想をかなり上回る、長く、険しいものであった。所々に休憩できるような所も見るが、いかんせん休憩所一つごとの距離が長く、しかもコップ一杯の水に3000アルクという明らかに高すぎる値段設定。こんな熱い以上はどうしても買わなければならないのだが。朝の天気予報は最高気温三十三度程度とか抜かしていたが明らかにオーバーしている、先ほど寄った休憩所で温度計を確認したが、三十八度を軽く超していた。
水筒に残っている少量の水を一気に呷る。カラカラに乾いていたノドはひんやりとした洪水に身を晒され、食道を通り抜け、その道のりを激しく冷やし潤す。直後に一気飲みしたことを後悔しながら、再び歩を進める。
そういえば昔の通貨は『円』と言われていたらしい。定かではないが、その時代は水が無料で出てくる夢のような物があったらしいが、そんな物は無い、仮に存在するなら是非一度お目にかかりたいものである。
背後から、あまり重くもなく、軽くもない車のエンジン音が耳に入る。僕は端に避け、道を空ける。そうだ、車は通るには通るのだ、初めはヒッチハイクで車を拾う案も思いついたが、道を行く車はことごとく僕を無視していく。旅人を拾う車はまったくと言っていいほど無いだろう。だが、僕の場合はそれ以上の理由があると思われる。僕が『旧類』だから、だろう。それだけで待遇がまったく違う。旧類の見分けは容易だ、髪の色が黒っぽい、もしくは完全に真っ黒な者もいる。
正確に言うと、僕は『旧類』と。『新類』のハーフだ。明確ではないが、まあたぶんそうだろう。黒のかかった青髪がそれを物語る。ただ、旧類の血のほうが強いらしいのだが。
僕には両親がいない、というより、知らない、といったほうが正確だろうか。母は僕を産み、死んだ。あっけない一文だがこれが現実だ。そして、母は結婚していなかった、つまり、そういうことなのだろう。あのときの事は、非常に微かではあるが憶えている、もしくは自分の妄想かもしれないが、あの感覚だけは今も忘れていない、寒くて、でも、暖かい。そう、母に包まれる暖かさ。それだけは忘れてはいない。ずっと、ずっと、自分の命さえ投げ打ってまで僕を包んで、静かに息を引き取った母。なぜあの聖母のような人が死ななければならないのか。
思いふけっていると、車が通り過ぎた、と思われた。黒い軽トラックはゆっくりと止まり、助手席の左側のドアが開いた。
僕はというと、唖然として突っ立っていた。僕は今、あの町以外で旧類を相手にする人物を始めて見たのだ。土地特有の方言を都会で偶然耳にする事よりも驚くべき事態である。
何か企んでいるのだろうか。何か目的があるのだろうか。小さい頃から無鉄砲な僕だが、この状況でゴキブリホイホイに突っ込んでいくゴキブリみたいな馬鹿みたいな事はしない。トラックの荷台には、青いシートが被せられ、ロープで縛ってある、明らかにやばいやつだ。
やはり、断ろうと、口を開こうとした瞬間、僕の声は遮られる。
「あんた旅人だろう?乗らないのか?」
男性が僕に話しかけてくる、旧類にこれまで普通に接してくると言うのもかなりおかしいことであるが、その男性の声で僕は安心してしまい、僕は一言、そして車へと乗り込んだ。
「お、お願いします」
車内はクーラーがよくきいていて、外と比べたらオアシス、いや、楽園、いや、天国のようだ。このあと何が起きても問題ないように、今のうちにのこの極楽を堪能しておこう。
男性が車を走らせ、こちらを一瞥する。すぐに前を見たのでこちらも男性の容姿を確認する。軽く跳ねた髪、色は少し濃い赤だ、間違いなく新類。薄茶色の変なサングラスを掛けており、服装は黒いジャケット、中に白地のシャツ、黒いズボン。この真夏に二枚重ねというのも異常だが、何より僕の目を引いたのが両手両足に装着された黒い光沢を放つ鋼の手枷足枷だった。鎖はどこに繫がれているわけでもなく、強い力で千切られたように見える。それが何よりも彼を普通ではないと物語っていた。
手枷を付ける意味は理解できないが、明らかにやばい人と関わってしまった。しかもなんか速い気がする、急いでいるのだろうか。車内は静かだ、何か話題を持ちかけようと、口を開いたが、それよりも早く彼は僕に喋りかけてきた。
「いったい何だってこんな危険な所をうろついてたんだ?」
「え?」
理解できなかった。どこが危険なのだろう、確かに今日の気温はかなり危険だが。きっと僕の頭上にハテナが浮かんでいるだろう。
「ここは第二種危険区域だぞ・・・俺が通らなかったらあんた今頃『非人類』の餌になってたな」
「だ、第二種って・・・うっそ・・・」
窓から外を見る。「二」と危険色で描かれたぼろぼろの標識らしきものが見えた。おそらくあまりの暑さで周囲が見えていなかったのだろう。
「嘘は言ってないぞ、こんなところ通りたくもないさ」
第二種危険区域、簡単に言えば上から二番目にやばい所だ。第六種までランク付けされていて、数が落ちるたび危険度は減っていく。そして『非人類』とは、一口で言えば人類の天敵、人を好んで捕食するのだ、しかも空腹の時に遭遇した場合は獲物を逃させはしないと、より一層凶暴化するので本当に性質が悪い。
しかし、あそこで彼に拾われるまでに、実際僕は一度たりとも非人類に遭遇していない。ここが危険区域なんて、微塵も信じることができない。
「一回も襲われてないって言ったら、信じられますか・・・?」
「信じられんな」
「ですよね・・・」
当たり前だろう、危険区域に、しかも第二種だ、こんな大きいバックパックを背負ったまだ成人してもいない僕なんか、どっからどう見てもウマい餌だ。武器も、あると言えばあるのだが、第二種の非人類が相手になれば話は別だ。
「たしかに傷ひとつ無いが・・・全部無傷で撃退したか、あるいは本当に遭遇してない・・・というのも考えづらいが・・・」
「本当ですよ・・・第二種の非人類なんて僕の手に負えませんから・・・」
それを考えると、あんなところから救ってくれた彼には頭が上がりそうにはない、別に下げてもいないが。
「所でアンタ、行き先はどこだ?」
「えっと、首都です」
「丁度いい、俺も首都に戻ってる途中でな。それよりも、アンタ、どうして首都なんて所に?一人みたいだが、アテはあるのか?」
そんな物はない、これから探すところだ、正直出来るだけ彼とは関わりたくない僕は、平然とした顔で嘘を吐く。
「ええ、家族が手配してくれたので」
「そうか・・・高速が見えてきたぞ」
彼は指を指し、高速道路が見えた事を伝える。町の外にはあまり出たことがないので、高速道路は初めて見るが、話では聞いたことがある。相当な値のつく剛化コンクリート製の橋。完全なる安全が保障されていると聞く。
首都での暮らしは、今から考えると大変だろう、そんなことを考えていた次の、ほんの一瞬、嫌な予感が頭をよぎる。なんともいえない気持ち悪さが襲う。僕は車で酔わないタイプなのに、少しでも気を緩めると、気を失ってしまいそうだ。それはほんの一瞬の出来事だった。意識が現実へと戻され、気づけば高速に入る直前の門で手続きを済ませた後だった。
口頭で表現できないような不安を残しながら、黒塗りのトラックは首都への橋を上っていく。
空は薄暗い灰色であった。