九
日が暮れた後の宮殿の中では、一定の距離を置いて立っている柱の松明だけが歩を進める唯一の手段だ。ヒミコへの食事を盆に載せ終えたハスカは、ヒミコのいる儀式の間に続く長い廊下を歩いていた。
ほのかに揺れる炎の中に、女王の夕餉が照らし出される。鮎の塩焼きに、赤米と塩、ハマグリと大豆の煮物、そしてワカメのひしお和えだ。米や穀物といった、庶民の普段の食事からは考えられない豪華さに、ハスカは胸の奥底で湧き上がる欲を抑えて、正面を向き直った。すると、廊下の正面から、ハスカの元へ近づいて来る人影が見えた。
「おう、ハスカではないか」
ハスカは、声の主に対し小さく頭を下げる。そう畏まらずともよい、ナタノオオヒコは微笑を浮かべながら目の前の少年の顔を見つめた。三年前より、自身の姉であるヒミコの給仕に就いた少年の瞳には、いつしか幼さが消え、大人の雰囲気を出していた。そして、それが同時にナタノオオヒコの心にちくりと突き刺さる。顔中に広がる皺を伸ばしながら、女王の弟は口角を精一杯持ち上げた。
「そなたには、いつも苦労をかけるな。あのような姉上で、さぞ嫌気も差しておろうに」
ナタノオオヒコの一言に、ハスカは頭を下げたまま、ヒミコの食事に唾がかからないよう、自身の胸に口を向ける。
「とんでもありません。私はただ、毎日神に祈りを捧げておられるヒミコさまを尊敬しています。ヒミコさま、そしてナタノオオヒコさまの苦労に比べれば、私のことなど瑣末なものです」
ハスカの返した言葉には、子ども独特の純粋さは感じられず、むしろ感情のこもっていない冷たささえ感じられた。そうか。ナタノオオヒコは一言口にして、ハスカに向き直る。
「引き止めてすまなかったな。姉上もそなたを待っておろう。ではな」
ナタノオオヒコは、少年の横を素通りする。その間も、ハスカはナタノオオヒコに対して頭を下げ続けていた。数歩ほど歩き、宮殿の柱に差し掛かったところで、ナタノオオヒコは後ろに顔を向ける。そこにいた少年は、両手に盆を持ったままゆっくりと、儀式の間を目指して歩を進めていた。
そんな彼の後ろ姿を見て、ナタノオオヒコは右手を額に強く押しあてた。三十以上の小国が集まってできたこの邪馬台国。このクニができた時、姉のヒミコは鬼道を操りながら、自然と民衆の調和を図る女王として、対して弟の自分は女王の補佐として、邪馬台国の外側のクニ、果ては大陸にある魏との外交を通してクニの権益の確保を図る使命を帯びていた。かつて倭国の中で起こった大乱を治めて以来、そこから二人で数十年もの間この邪馬台国を支えてきたが、もう限界だ――ナタノオオヒコは心の中で溜息を吐く。
老齢になった姉の余命に不安を感じる長官が増えていくのに比例して、弟の自分を次の王に立てようとする声が増えつつあるのを、ナタノオオヒコは実感しつつあった。確かに、今の姉上のやり方は少々無理がある。神託を無理に得ようとして、心身に負担を与え、さらにそれが長官たちの不信を招く。これでは、いくら長年神の代行者としてクニ中に名を馳せた女王でも、いずれ民に目を背けられるのは必至だろう。
実際にナタノオオヒコ自身も、鬼道そのものを深く理解しているわけではない。実際に神の声を聞いたこともないが、だからこそ民がヒミコへの信仰心を高めていることに不安を抱いていた。一昨年から続く凶作、いつ起こるかも知れない災いや、クニ同士の戦に怯えるあまり、それらの解決策を大いなる自然に得ようとする民が、もしある時、突如女王に反旗を翻したら――? ナタノオオヒコの顔色がみるみる青くなる。
「神のクニ、か……」
ナタノオオヒコがひとり呟く。以前魏の使者と面会した時に、この邪馬台国を表す特徴として挙げられたものだ。だが、今はどうだろう。
女王は神託を得づらくなり、代わりに死がゆっくりと迫ってくる。外交面では、ここより南の狗奴国の動向も気にかかる。そして――にわかに噂に聞く程度だが、ナシメが度々魏の使者と密会を重ねているとの噂もある。外交長官である彼のこの行動を極端に疑問視するつもりはないが、えも言わぬ不気味さがそこにはあるように、ナタノオオヒコには感じられた。
ナタノオオヒコは、目線をちらりと儀式の間へ移す。先ほど話した少年の姿は、既にその部屋へと消えていた。すまない、ハスカよ。心の中で己の無力さを噛みしめながら、ナタノオオヒコはその場を後にした。