六
少年の先導に従い、クルルは右足を少し浮かすような体勢で森の中を歩いていた。目の前の少年の足取りには迷いがなく、少しでも気を緩めたらはぐれてしまいそうになる不安を感じながらも、クルルは声を振り絞って尋ねる。
「あ、あのさ」
少年は、振り返らずに一言、なんだ、と返す。
「俺の名前は、クルルっていうんだ。良かったら、名前を教えてくれないかな」
「侵入者に名前を教える道理はない。黙ってついて来い、もうすぐだ」
少年の感情のこもっていない返答に、クルルは心の中でちぇっ、と呟く。すると、彼の視界の隅に、巨大な社が見えた。あの社は、まさか――クルルの心臓の鼓動が速くなる。
森を抜けて、広大な広場に出たクルルはつと立ち止まる。あらためてそこに立っている社を目にした彼は、ほうっと感嘆の溜息を漏らした。茅葺に覆われた入母屋状の屋根をすっぽりと被った高床式の建物は、長方形の形をした巨大なものであり、クルルの住む竪穴式の住居が三個あっても余裕で隙間ができそうなほどだ。さらに、その建物から漂う清潔感は、小さな汚れから心の闇に至るまで、不浄なものを一切寄せ付けないと言わんばかりの荘厳さを際立たせ、クルルを圧倒させた。
「どうした、ついて来い」
少年が二、三歩ほど離れた場所から呼びかける。はっと我に返ったクルルは、急いで少年の元へ合流した。その時、社の階段前に立っていた見回りの兵と思しき男と目があった。クルルに気づいた細い体躯の男が、ゆっくりと彼の元へ近づいてくる。クルルの頬に、一筋の冷たい汗が流れた。すると、少年が不意にクルルの左耳に顔を近づけ、ぼそぼそと小声で話す。
「私が代わりに話す。いいか、あいつから何か聞かれても、絶対声を出すなよ。やり過ごすまで一言も喋るな。分かったか」
少年の厳しい視線を間近に受け、クルルは獲物にこれから喰われようとする小動物のように、こくんこくんと震えるように頷いた。よし、一言呟いて少年はクルルから離れ、やって来る兵に向き直る。
「ん? おお、ハスカさまもご一緒でしたか」
兵が右手を肩まで挙げる。お疲れ様です――少年も、彼と同様に右手を肩まで挙げて応じる。
「お疲れ様です。ところで、こちらの少年は……? あっ、まさか、森に勝手に入って来た侵入者ですか」
男の単刀直入な問いかけに、クルルは一瞬ぎくりと身体を震わせた。そんな兵の問いかけに、少年は臆することなく返す。
「いえ、彼はヒミコさまの新しい給仕候補の一人なんですよ。事前にヒミコさまの宮殿を案内しておこうと思いまして、私が連れて参りました」
少年の言葉を受け、兵がむむむ、と小さく唸り声を上げる。そのまま、男が恐る恐る尋ねる。
「あの、失礼ながら、この子はヒミコさまの給仕に与えられる朱の貫頭衣を身に着けてはおりませんが。私めには、どこからどう見ても庶民のそれとしか……」
クルルは、外見では無表情を保ちながらも、心の内は激しく動揺していた。なんでこんなに勘が鋭いんだ、この男は。もしかしたら、自分の父よりも直感に優れているのかもしれない。まずい――そう思いながら、クルルは少年に不安げな目を向ける。自分と背格好の変わらない少年の視線を尻目に、薄い朱の貫頭衣を着た少年は、淡々と返答する。
「申し訳ありません。彼、それを着てくるのを忘れてしまったみたいなんです。ヒミコさまの宮殿の中に入るのに、身分の高い服装で臨む必要があることを知らなかったみたいで。後できつく言い聞かせますので、ここはどうか、この私に免じて、見逃してやってもらえませんか」
少年はそう言って、兵に頭を下げた。クルルも、彼に倣って深く頭を下げる。男は、長い手足をわたわたと動かしながら応答する。
「とんでもございません。頭をお上げ下さい、二人とも。事情は分かりました。こちらこそ、お引き留めして申し訳ありませんでした。では、私はこれより森へ見回りに向かいますので、ここで失礼いたします」
男は、何度も頭をぺこぺこ下げてから、二人から離れ、森の中へ見回りに入っていった。兵の姿が完全に見えなくなったと同時に、クルルが深く息を吐く。
「ばれるかと思った……ありがとう、『ハスカ』」
クルルは、そう言って少年――ハスカを笑顔で見上げる。先ほど兵と話をしていた時に、少年に対して口走った名前だ。ハスカが、クルルに向けて右手を差し出した。クルルがその手を掴む。ハスカはそのまま、こっちだ、と一言口にして、社――ヒミコの宮殿の裏口を目指して歩いて行った。