一
西暦 二四七年 初春
倭 狗奴国
夜は、人ではなく神の時間である。なぜなら、人間は昼間のうちに稲作や狩猟採集を行うことで生活の糧を直接得るのに対し、神は夜の闇の中で人知れず天上から降りてきては、自然や生命への干渉を行い、間接的に様々な糧や試練を人間へもたらすからだ。
これは、古より伝わり、またこれからも変わりゆくことのない摂理である――幼い時分に、当時のクニの王に聞いた話をぼんやりと思い返しながら、クコチヒコは、冬の寒さが支配する夜闇の中を足早に歩いていた。ちらと視界に映る満月は既に空の天辺まで上がっており、周囲の住居などを見回しても、起きて作業をしている人間は誰もいない。普段の人々の生活の音が一切聞こえない静寂の中で、自分ひとりだけの世界に言い知れぬ優越感を感じながらも、クコチヒコはそれをどうにか胸の奥深くへ押し留めた。今の自分には、大事な使命があるのだ。今日この日のために、五年もの歳月を要したのだから。
そう自らに言い聞かせているうちに、クコチヒコは目的の場所へと辿り着いた。今もってここ狗奴国を統べる王のいる宮殿だ。周囲の人物と比べて、背が高い方であるクコチヒコの五倍の高さはある古い茅葺の建物は、暗闇の中、階段の両脇に備え付けられた松明の炎に照らされているだけであるにも関わらず、見る者を圧倒するほどの威厳を放っていた。王の威光によるものか、あるいは王が生まれる遥か昔より現存するこの宮殿そのものが醸し出しているのか――頭の片隅でちらと原因を分析していると、クコチヒコの視界に、階段の両脇にある松明の側で棒立ちになっている二人の兵士の姿が映った。自分の背と同じぐらいの槍を持った兵士たちを、クコチヒコは一瞥する。
お前たち、ご苦労。肘まである朱色の着物を身に着けた軍事長官の声を聞いた二人の男は、その場で彼に身体を向け、敬礼を行った。彼らを前にして、クコチヒコは皺の寄り始めた頬に疎らに生えた無精髭を軽く弄りながら、低い声で口にする。
「ヒミココ王様に、お目通り願いたい」
えっ。こんなお時間に。眼前の兵士たちは、瞬時に困惑の色を顔に浮かべた。彼らの様子を目にしたクコチヒコは、小さく溜息を吐く。無理もないだろう。今のこの時間なら、王は食事を終えて、妙な祈祷に神経を注いでいる頃合いだ。
いつの頃からか、この狗奴国の王――ヒミココは、祈祷に精を注ぐようになっていた。長い時間昼夜を問わず神に祈り、そのたびに身体と精神を消耗させては、無理難題を長官たちに命じてきた。そして、その命令を達成できなかった者は残虐な罰を受ける。ついこの前も、王になってからずっと付き従ってきた老齢の長官が、王の命令に意見を出しただけで長官職を解かれたのだ。ヒミココが祈祷に傾倒するきっかけについて、長官たちの間では、遥か北にある邪馬台国の女王――ヒミコの鬼道の影響を受けたためだという噂があるが、今のクコチヒコにとってはどうでもいいことであった。このクニの王が生み出そうとしている悪習を清算するべく、今ここに来たのだから。
「……ヒミココ王様には、事前に話はつけてある。案内しろ」
クコチヒコが冷静な口調でそう言うと、左側に控えていた若い男が、自身の上官から踵を返し、そのままゆっくりと階段に足を踏み下ろす。クコチヒコは、満足げな笑みを浮かべると、彼の二、三歩後ろを進んでいった。
「急に無理を言ってすまなかったな。もう持ち場へ戻れ」
宮殿の奥の一際広い部屋に入ったクコチヒコは、案内をしてもらった兵にそう告げた。兵が一礼し、そのまま静かに部屋から立ち去ると同時に、クコチヒコは部屋の中央に置かれた巨大な祭壇の前でぽつんと正座している男――ヒミココの背を見下ろす。部屋の両脇に設置された松明の炎が照らし出す彼の後ろ姿は、一つのクニを統べる王とは思えない、異様とも言える風格を放っていた。
「何じゃ、クコチヒコか」
二、三歩後ろに控える軍事長官に目を向けないまま、ヒミココはしゃがれた声を部屋中に響かせた。
「こんな時間に、何用じゃ」
ヒミココは、絹でできた赤紫色の衣を纏った、骨と皮だけの小さな身体を微かに震わせながら、合わせた両の手のひらをゆっくりと上下させる。彼の様子を目の当たりにして、クコチヒコは淡々とした口調で答える。
「率直に申し上げます。ヒミココ王様、我らが狗奴国の長官に対する御沙汰の数々、今この時を以て仲断していただきたいと存じます」
「ならぬ」
ヒミココは、ひときわ低い声でクコチヒコの提言を却下する。そんな彼の両手は、まるで手を洗っているかのように忙しなく上下していた。
「神の決められたことだから……ですか」
クコチヒコのさらなる問いかけに、ヒミココは背を向けたまま答えようとはしない。
「だからといって、長い間この狗奴国を支えてきた長官を一方的に処罰するのはあまりに酷でございましょう。今は内輪だからまだいいものの、民にまで同じようにさすれば、王の威厳は地に堕ちますぞ。ヒミココ王様、今一度、お考え直しを――」
そこまでクコチヒコが口にした刹那、部屋中に小柄な男の甲高い絶叫が響いた。クコチヒコは、思わず両耳を自らの手で塞ぐ。やがて、自らが慕ってきた王は、言葉にならない奇声を発しながら、覚束ない足取りで部屋の周りを一周するとクコチヒコの目の前でつと立ち止まった。ヒミココの皺だらけの顔は、軍事長官の顔を見上げており、さらにそこから覗くぎょろりと大きく開かれた黒い瞳に、クコチヒコは思わず身が竦む。ヒミココは、変わらずしゃがれた声で、しかしどこか宥めるかのような口調で告げる。
「吾主はただ、このクニの王たるわしの命令に黙って付き従っておれば良いのだ。なに、わしには神がついておる。あの邪馬台国の女王、ヒミコにも劣らぬ神がな」
そう言って、ヒミココは不敵な笑みを浮かべた。クコチヒコが王の発言に返す前に、そうじゃ、と一言ヒミココが思い出したかのように口にする。
「明日の朝、わしに楯ついたあの老いぼれの首を刎ねよ。たった今、わしに下った神託じゃ。クコチヒコ、吾主があの男の首を切り落とせ。王であるわしの……ぐふっ」
ヒミココが小さく咽せると同時に、彼の唇の端から赤黒い血の筋が垂れた。さらに、腹から強烈な痛みが沸き上がり、ヒミココは思わず自身の腹を目にする。そこには、鉄の剣が深々と突き刺さっており、赤紫色の衣にはうっすらと黒っぽい染みが付着していた。
「ク、クコチヒコ! 吾主、何を……っ」
その場でしゃがみ込みながら、ヒミココは、眼前に立っている軍事長官の名を弱々しく口にする。クコチヒコは、自分の剣が王に致命傷を与えたことを確信すると、無表情のまま淡々と口にする。
「このクニには、いいや、狗奴国には、神の力など必要ない。邪馬台国の真似事をし、独裁を重ねたところで、ただクニの力を弱めるだけだ。このクニを強くさせるためには、仕方のないことなのです」
自身の部下が口にする、とても信じ難い発言を耳にしたヒミココは、両目をいっぱいに開ききったところで、ゆっくりと前のめりに倒れこんだ。ぴくりとも動かない王を目にすると同時に、クコチヒコの額から滝のように汗が流れ出る。このクニに生を受けてから四十四年も経つが、これほどに心が速く高鳴ったのは初めてだ。
だが、いつまでも感情を高ぶらせてはいられない。クニ中の長官たちと秘密裏に会談を進めた上で、今日この瞬間まで至ったとはいえども、これから先クニ中で多少なりとも混乱が起こるだろう。目先に広がる事態の収拾策を、先王の死体を目にしながら、クコチヒコは、新しい狗奴国の王として、広範に思索を巡らせていった。