十
「ヒミコさま、夕餉にございます」
儀式の間に入ったハスカは、その部屋の中にいる女王の姿を探すことなく、広間中に響き渡るほどの声で告げる。ちらと、ハスカは部屋の中央を取り囲むように垂れている、絹製の御簾に目を向けた。黒っぽい人影が小さく動く。
「おお、ハスカか」
御簾の中の人影は、頭を少年の方へ向ける。それに対して、ハスカは深く頭を下げた。
「夕餉にございます。ここ数日、体調も優れないようなので、精がつくものを用意いたしました」
この言葉を聞いた人影は、右手の甲をハスカへと向ける。そのまま、手前に右手を小さく引きながら、人影が口にする。
「ハスカ、近う寄りなさい」
ハスカが、ゆっくりと音を立てないように御簾に近づく。一歩、二歩、三歩。もっと近う。人影がさらに促す。そのまま、ハスカは促されるままに御簾の前で立ち止まった。その瞬間、御簾が勢いよく開き、薄い絹の隙間から人影の実像がはっきりと見て取れた。白と赤の貫頭衣を幾重にも纏い、瑪瑙で作られた紅色の勾玉の首飾りを身に着けた小柄なその巫女は、顔や手に深い皺を刻み、白一色に染まった長い髪を床まで伸ばしていた。ハスカは思わず身を後退させるが、この人物こそ邪馬台国の女王――ヒミコであることを頭の中で言い聞かせ、あらためて姿勢を整える。
「おお、ハスカ、ハスカや……もっと、もっと妾の側に、近う寄るがよい」
そう言って、ヒミコはハスカの右頬に触れる。頬から顔全体に行動範囲を広げてくる張りのない乾いた手、骨ばんだ指に、少年は動じることなく口にする。
「ヒミコさま、お身体に障ります。ご無理をなさっては――」
「ハスカ、そなたは否定せんよな」
ハスカは一瞬息を呑む。……と、言いますと? 穏やかな口調で問いかける。
「妾に神の声を聞く力が無くなりつつあることを、そしてただ老いて死にゆくだけの妾を、そなたは、そなただけは、最後まで否定せんでくれ。妾には、そなたしか、そなたしか」
「何をおっしゃいますか、ヒミコさま。貴方さまがこのクニのために、どれだけの間鬼道を用いて、民の安寧を祈られたか。知らぬ者はいないでしょう。今このクニには、ヒミコさまのお力が必要なのです。今も、これからも、貴方さまの代わりは誰もおらぬのです。どうか、そんな弱気なことをおっしゃらずに――」
ハスカが言い終える前に、ヒミコは少年を床に押し倒す。柔らかい木の感触を背に感じながら、ハスカは自らの首筋に顔を近づける老齢の女王の身体を軽く抑える。
「いけません、ヒミコさま。このようなこと、奴婢の私には――」
「ハスカ、ハスカ……! おお、ハスカよ、もっと妾の側に」
そう言って、ヒミコは幼い少年の内腿に右手を置き、徐々にその手を上の方へと移動させる。やがて、ヒミコの顔がハスカの首筋に荒々しく触れた。つうんとした臭いが、ハスカの鼻腔を刺激する。
やがて、自身の身体に圧し掛かるヒミコの口から、呻き声とも泣き声とも取れない声が洩れてきた。これを黙って聞いていたハスカの瞳は、光をまったく反射していなかった。
そのまま、闇ばかりが広がる邪馬台国の夜は静かに更けていった。