一
嵐の中で吹き荒ぶ風が、ごうごうとあちこちで咆哮する。風と共に襲い来る強い雨は、宮殿からそう遠くない川を暴れさせる。
土の色に染まった川の水が、水田へ流れ込み、民の生命の源である稲穂を容赦なく押し流す。その度に、民は大いなる自然の力に絶望し、それと同時に、その大自然に超克する力を欲した。自然と生命に感謝し、万事に神を生み出した。
神は決して人間を見捨てはしない。しかし、神の逆鱗に触れれば、人は生きる糧をたちまち見失う。だからこそ、人々は神と対話できる人間を、神と同じように、あるいは神そのものとして崇めてきたのだ。
こうした自然の流れから続いて来た人間の歴史を心の中で噛み締めながら、ウルクサは、宮殿の広間の中心にある祭壇へと再び目を向ける。
「オ、オオオ、カミタチヨ、イマイチド、イマイチド、シズマリタマエ、シズマリタマエ」
祭壇の前で祈りを捧げている老女――ヒミコも、神の代行者として認められた人物だ。ヒミコは、ウルクサの住むクニ――邪馬台国の首長として、数十年の昔からクニを治めてきた女王であり、それと同時に、「鬼道」と呼ばれる神に通じる力を唯一用いることのできる類い稀な才能も持っていた。
天変地異や豊作、政変など、森羅万象を予言してきてはことごとく当ててきた鬼道に異を唱えた者は誰もおらず、老齢になった彼女を根強く信仰する民も数多い。
「オオオオオ、カミヨ、カミヨ……! ううっ」
不意に、ヒミコが喉を押さえてうずくまる。大丈夫ですか。ヒミコの脇に控えていた数人ほどの侍女たちが、すぐさま女王の元へと駆け寄る。
お気を確かに、ヒミコさま。侍女たちが介抱しながら呼びかけるその周りでは、俄にどよめきが巻き起こっていた。
「あのヒミコさまが、またか」
「これで三度目だ。流石のヒミコさまももう御年だし、鬼道も弱まっているのではないか」
「しかしこのままでは、邪馬台国は川に呑まれてしまうぞっ」
ウルクサをはじめ、広間の中をぐるっと囲むように集まったクニの長官たちの間で、不安の声はみるみる広がっていき、やがてウルクサにも伝わった。
「おい、ウルクサよ。そなたはヒミコさまがこの先、あとどれぐらい生きられると思われる」
自分より二回りも年上の長官が、にやにやと歪な笑みを浮かべながら、声をひそめて問いかける。
少なくとも貴殿よりは長いだろう。ウルクサがそう言い返そうとした時、長官の中でも特に大柄な男――スサノオが勢いよく立ち上がり、一喝する。
「ええいっ、静かにせんか、貴様ら! 今まで奇跡を起こされてきたヒミコさまを見捨てるなど、この俺が許さん!」
広間中がしんと静まり返る。侍女たちも一瞬びくりと身を震わせたまま動じず、後にはヒミコの呻き声だけが一定の間隔で広間に小さく響いた。
ウルクサもまた、心の中で息を呑んだまま、スサノオの顔を見上げた。邪馬台国の軍事長官を務めるだけあって、今の場をまとめた彼の一声は、やはり貫禄が違うと実感する。
「スサノオ殿の言う通りだ。ヒミコさまを信じよう。苦しい今だからこそ、ヒミコさまと共に、この大水害を乗り切ろうではないか。みなで奇跡を信じよう」
スサノオの隣に座っていたナシメが、広間の長官たちに目配せしながら告げる。
彼はウルクサの上官にあたり、はるか遠くの大国・魏との外交に長けた人物だ。また、魏よりも遠い異国の事情にも詳しい。ヒミコを妄信する単純さを持ちながら、武力で右に出る者はないスサノオとは対照的に、彼よりも若いナシメは、知識と話術を以て冷静に状況を分析するのに優れている。
この二人がいるからこそ、今の邪馬台国があるのだろう。かつてそう感じた自分の考えを、ウルクサは心の中で再度肯定した。
「ああっ、ヒミコさまが、正気を取り戻されました!」
ふいに、侍女の一人が甲高い声を響かせた。
「何と、これはっ」
「まさしく奇跡じゃ!」
長官たちから次々と、歓喜のどよめきが巻き起こる。
「やはりな、ウルクサよ。ヒミコさまは何度でも、奇跡を起こされるぞ。わしはヒミコさまを信じておった」
ウルクサの隣で、年配の長官がほっと胸を撫で下ろす。さっきは私にあんなことを聞いておいて、都合のいい男だ。ウルクサは心の内で毒づいたが、それよりも、邪馬台国の女王たるヒミコが再び意識を取り戻したことによる安堵の気持ちが勝り、口元には穏やかな笑みが浮かんでいた。
ヒミコが、再び祭壇の前に立つ。束ねた榊の茎を右手で持ち、左右に力強く振り回す。そんな彼女の姿を、祭壇の中心に飾られた三角縁神獣鏡が、真円状にくっきりと映し出す。
「カミヨ、カミヨ、イマイチド、ワタシニチカラヲ、コノヒミコノコエヲ、ドウカ、キキトドケヲ……」
宮殿内の儀式は一晩中続き、邪馬台国を襲った大雨と風が止んだのは、夜明け前のことだった。