乾いた心に水を差す
普段通りの日常の中に一つでも、異質、または特異なモノが混じっていれば、人は違和感を覚える。
それは、時に不快感に変わり、恐怖と呼ばれる。
でも、本当に怖いことは、恐怖に出会うことではなく...恐怖を忘れる事なのかもしれない。
神凪家の門を潜った縷々は非現実を目の前に状況を分析、または飲み込もうとした。
それは、彼が恐怖を忘れていないことを意味している。
ーーーーー
「奈緒さーん?
何処ですかー?」
俺が探している女性は神凪 奈緒。
彩花さんの母親だ。
彩花さんと違い天然ボケで一切の計算が無い故に周囲を絶句させたりすることもある。
ただ、純粋に真っ直ぐな良い人間だ。
俺の理想の母親ランキング一位を連続で保守している 美しく優しい女性。
奈緒さんを探しながら歩くと、神凪家 自慢の庭に出てきた。真ん中には大きなしだれ桜が一本立っている。
「今年も咲かなかったのか...」
此の桜の木は立派だ。しかし、俺は此の桜が咲いた所を見たことがない。
咲かないのか咲けないのかは別として、一度は満開の状態を見たいと思っている。
「って...奈緒さん!!」
桜を真横から眺めていると、縁側に棒立ちになっている女性を見つけた。奈緒さんだ。
桜を正面から眺めることが出来る縁側で、何故か俺の居る場所と反対側を凝視して固まっていた。
一陣の風が吹く...
「なんだ、この臭い...」
Ⅹ Ⅹ Ⅹ
風が鼻に運んできたのは、春の花の香りではなく、入り口で嗅いだあの腐乱臭。
俺は咄嗟に動き出していた。
妖力がある者の宿命なのか、俺の勘は正しかったらしく、俺と同じ方向...つまり、奈緒さんの元へ同じタイミングで何者かが走り出した。
横一列に並んで居るのに隣は見ない。
それは、見てしまったら最後、俺の足は止まってしまいそうだから...
本当の恐怖は俺と並走する何者かの正体ではなく、奈緒さんが傷付くこと。
ならば、今すべきことは一つだ。
「逃げて下さい!!奈緒さんっ!」
「えっと、誰ですか!?」
五年の歳月は短い様で長かった。
昔の奈緒さんなら俺の言葉を何の疑いもなく信じてくれていただろう...
でも、小学六年で此処を去ってから五年間 会っていなかった俺は他人も同然、気づかれなくても仕方がない
だから、強行手段を取る。
「早く、退け!!」
右足を軸に奈緒さんに飛び付く。
奈緒を強く抱き締めると、体を位置を入れ替えて来るべき衝撃に備える。
バァン...と畳が悲鳴を上げる。だが、痛がって喚く暇はない、自分のすぐ後ろに居るであろう何者かの行動に対応する為に、痛めた背中を無視して立ち上がる。
「って...居ない?」
縁側から庭を眺めると、先ほどまで自分と並走していたはずの何者かは姿を消していた。
「あの...一体なんなんですか...」
その事実に呆然と立ち尽くしていると、背後から声が掛かる。
振り返ると、キョトンとした様子の奈緒さんがこちらを不思議そうに見ていた。
奈緒さんの目の前には、勝手に家に入ってきて、人妻を押し倒した男が一人...
それって俺のことじゃん。
どう言い訳...もとい、説明しようかを模索していると、不意に視線を感じた。
振り返ると桜の木が一本。
滑稽な俺を嘲笑うかの様に枯れていた。
Ⅹ Ⅹ Ⅹ
それから30分間、俺の人生の限られた時間を消費して、奈緒さんに俺が誰かと伝えることに成功した。ただ、何故か人として大切な『何か』を失った気がする。
説明を終えた後、俺は縁側でお茶を頂きながら世間話に華を咲かせていた。
「連絡をくれたら迎えに行ったのに...」
奈緒さんが少し膨れながら言う。
「実は携帯を持ってなくて...
それに、俺の転校も急に決まったんで...」
俺は申し訳なさそうに言う。
「えぇ?縷々君 もう高二よね?」
奈緒さんが驚きながら言う。
「実はおじさんが急に倒れて...
裕福ってわけでもなかったし、仕方ないですよ」
「苦労したのね...偉い偉い!」
満面の笑みを浮かべながら俺の頭を撫でる奈緒さん。こんなことは言われ慣れてる。
幼い頃から両親を知らずに育った俺は、血の繋がりも何もない人に育てられた。
通称 おっさん。
本名は憂月 秋兎
かなり変わった人で、人間を恐ろしい程嫌ってた。そんなおっさんも俺が高一年の夏に倒れてから謎のオバサンに引き取られていった。
ちなみに、オバサンが何者かは俺も知らない。
が、引き取られる際に、彼の地元である逢魔ヶ市 黄昏町の家を貸してくれることになり、遠路はるばる都内から戻ってきた。
それが俺の里帰りの経緯だ。
この話をした時、担任は可哀想な目で俺を見た。
猫に殺された鼠を見る様な目でだ。
俺はそんな人の表情が苦手で、そういう目で見られた時は決まって、かなり曖昧な笑みを浮かべてしまう。
なのに、奈緒さんが俺に向けた表情は、今までの誰もしたことがない様な目。
その目を覗き込んだ時、親知らずの俺はこれが母親の表情ってやつじゃないんだろうか?と思ってしまった。
四月一日、晴れ。
再び出会った知り合いは相変わらず変わっていて、相変わらず優しかった。
あの何者かを奈緒さんは見ていないと言うし、俺も奴の足取りを掴むことは出来ない。
おまけに大破していたはずの門や入り口も、何もなかったかのようにそこにあった。
「化かされたみたいだな」
ポツリ呟いた声は春の夕暮れに吸い込まれていった。俺は相変わらず人と変わっていて、縁側から眺める桜は相変わらず咲く気配もない。
でも、今はこれで良い。
奈緒さんの笑顔を見ると不思議とそう思ってしまった。
...人妻が好みとかではないです。
一話ごとに作者変わってんじゃね?ってぐらい書く時のテンションが変わるのはどうにかしたい。
それ含め、俺ですけどね。