Lesson2 とんでもない筋書き
※この物語はフィクションです。実在する人物・団体などとは一切関係ありません。また、この作品は非常に現実離れした超次元要素を含みます。純粋な、あるいは正統なサッカー小説が読みたい方は、気分を害する可能性がありますのであらかじめご注意下さい。※
なんだか知らないが、こいつにだけは関わらない方がいい。二人は本能的に察知した。ボールを受け取った10番は、すぐさま後方の味方にパスした。
その直後、なぜか右耳にビョウッと風がなるのを聞こえた。真横を何かが物凄い速さで通り過ぎた時に似た、うなるような音。まるで走行中の車が横切ったみたいに。突然の突風に驚き、つい瞬きをした。コンマ数秒すらない、ほんの一瞬間だ。なのに、パスを出した直後は皆立っていたのに、再び目を開いたら、なんですでに味方二人が倒れている? 誰かにぶつかってもいない、倒れている最中でもない。もう、芝の上に体を横たわらせていた。倒れ終わっていた。あのひるんだ刹那、一体何が起きたのかわからない。理解不能の超常現象に遭遇した気分だった。だが、また前方を見やれば、今度はボランチの選手が赤と灰色のフォワードに接触し倒れた。
今度は理解できた。あいつがぶつかってきたおかげで、味方選手らが倒れたんだ。決定的瞬間の場面を目撃したから間違いない。でもこれってファウルじゃないのか? 三人も倒されている時点で危ないプレーだ。水色の選手達は揃って主審に注目した。真っ黒のレフェリーウェアを着た人は笛を吹かず、突進する129番を追うように走りながら、両腕両手を足元へ広げた。これはプレーオン、つまりノーファウルを意味する。腕で払ったりしていないのか、正当なショルダーチャージなのか真意は不明だが、わざわざプレーを止める必要はないと判断した模様。
なら、することはただ一つ。あの129番のドリブルを阻止すること。今のところ、129番以外に前線へ上がっている選手は誰一人いない。その意図はよくわからないが、味方はフォローのしようができないはずだ。単身突っ込んできただけなら、それ以上警戒する必要はない。人数をかけて奪えばいい。そう考えたDFは進路を閉ざさんばかりに、中央へ絞る。二人のセンターバックは129番めがけて詰め寄る。二人がかりなら、突破なんてできやしない! そう思うのが自然、いや必然だろう。
ズドドンッ!!
鈍い音が二つ連続で聞こえた。それからDF達が同時に倒れた。そう、すなわち。それはゲームにおいて、最も犯してはいけないシチュエーションの幕開けを示唆する。ボールを保持して向かってくる129番と、広いゴールを守るキーパーとの1対1。どちらが有利かなんて聞くまでもない。129番が足元のボールを大きく蹴り出せば、ことは動くからだ。だがキーパーだって、行方によっては防げる余地がある。シュート直後に動くはめとなるが、自分の反射神経を信じれば、きっとできるはず。どこに打ってこようが、絶対に止めてやる。キーパーはさらに前傾姿勢をとり、両手を広げ構える。
ピピーッ。
突如、なぜか笛が吹かれた。主審に目を向けると、ゴールとは反対側の、明後日の方向に手腕で指した。あのように表すのは、おそらくファウルをされた側の攻撃方向と推測するだろう。しかし、今は一切の接触もなかった。ましてや、DFをなぎ倒した、直前のプレーを理由にするなら、なぜ今更ファウルをとるのか? それならもっと早くプレーを止めるべきなのに。あるいは、また別の理由があるのか? それ以外に、そんな特殊な規定なんてあったか? キーパーは思考停止寸前ながらも、必死に該当するルールを思い出そうとした。
だが、また主審を見ると、今度はこちらから遠ざかるように走り去っていった。するとそれに続いて、副審を務めている補欠選手も旗を上げずに、ピッチの横を同じ方向に走っていく。この二人の動きを見て、いたってシンプルで一般的な事態だと気づく。この審判達は共に、グラウンドの中央にあるセンターサークルへ直線上に移動している。この動きは、今あるプレーを全てリセットし、 また試合開始時と同様にピッチの真ん中から試合を再開する、その準備……。そこまでは分かる、分かったんだけど、ちょっと待て。なんで再度キックオフしなきゃいけないのか? そんなの、「ゴール」しなきゃ始まらないだろ。それにボールはどこなんだよ。
えっ、今なんて言った? ゴール……あ。
キーパーはおもむろに振り向き、背後を確認した。ゴールキーパーというものはフォーメーション上一番後ろに位置し、いつも背を向けているのはゴールマウスただ一つしかない。 ピッチで様子が確認されないとすると、ゴールマウスの中で何かが起きているはずだ。まずはじめに見えたのは、大きく触れ動く六角形の網目ネット。風も吹いていないのに不自然だ。だが、足元に転がる何かを反射的に見て捉えた。白黒の球体と認識した途端、残酷なほどに思い知らされた。西春大和高校のゴールが決まった。
サッカーボールは、キーパーの気持ちなんて露知らず、悠然とペナルティエリアへと転がる。そこに、あの129番がボールを拾い上げ、主審達を追うようにそのままセンターサークルへ、「えっさ、ほいさ」と小走りで帰って行った。
1点返された形となった園ヶ丘高校は、寝耳に水の状態で、しばしの沈黙が続いた。今回は、本当に何が起きたのか分からなかったからだ。しかし、考えるだけ無駄と察したのか……。「どんまい、どんまい」「気にしないで。切り換えていこう」「次は注意しろよ」と、お互いに言い聞かせ合う声がぽつりぽつりと漏れた。彼らはこの一連の出来事を、偶然の産物と捉えるほかなかった。たった一人によって、あっさり失点してしまった、この瞬間を「事故」だと思いたかった。ただ気の毒なことに、「事故」だと期待したものが、明らかな「事件」だと気づくのに、そんなに時間を要さなかった。
またしても129番が相手のキックオフからボールを奪い、味方のフォローを待たずにゴールへ直進する。こんな単調な攻め方にも驚くが、一点返した前のプレーと何ら変わらないことにも驚きだった。こいつ、学習してないのか? 何考えているか分からないが、タネが明かされた以上、全力で潰すのみだ。10番は体重をかけてタックルを強行してみた。反則紛いに感じるかもしれないが、短時間で点を取る選手がいる限り、否が応にも元凶を、悪い芽を摘まなければならない。しかしタックルをくらった129番は、それをものともせずに受けた側の肩や腕で弾きかえした。それなら二人で挟み込んでやろう、としても突破される。だがここまでは予習済み。一人や二人でだめなら、三人で奪えばいい! いくら強いドリブルを持ったとしても、三人に囲まれたら一人で打破することはできない。ディフェンダー達は129番を中心とし、それに向かって三方向からボールを奪うために足を伸ばした。
ゴッ、ゴッ、ゴッ。ダダダン! 宙を舞った、三人が。ディフェンダーらは確かにボールに触れた。だがそれを、ボール越しで、左足一本のみで弾き返した。男子高生三人分の、ゆうに150kgを越える全体重を、華奢な脚で一蹴した。またしてもゴールキーパーとの一対一の場面が再来。すると今度は、キーパーは129番に向かって飛びつくように走りだした。直前の失点のように、また素早いシュートがくるかもしれない。ならばできるだけ早く詰め寄って打つ余地を奪えばいい。その思考だけが体中を駆け巡り、突き動かす。
あっというまにキーパーと129番の間が、旅人算方式で急速に狭まった。詰め寄られたおかげでシュートコースはほとんど阻まれ、投げだされたキーパーの体を当てる他なかった。そしてシュートされることなく、ボールはキーパーの胸と腕に収まろうとしていた。よし、あとはこの接触を過ぎればマイボールにできる。ただ突っ込むだけの脳筋ドリブルもこれで終わりだ。この勢いのままボールを奪ってカウンターを狙う、はずだった。
ググググググググググググッ!!
ボールに接してる129番の左足が、うなるように震えた。その震えかたは、自転車のギアチェンジのように、力を何段階も上乗せしているようにも感じた。盛り上がった筋肉はどんな壁があろうとも、前へ前へと進む衝動を、推進力を失っていなかった。そう、まだドリブルは続いている! その力の一つひとつは小さいながらも、時計仕掛けみたいに、それぞれが相互しあい、掛け合わされる。やがて、それは一時の針を動かすほどの爆発力を生み、そして……。
ピピーーーーーーッ!!
西春大和高校の2点目を知らせる笛が高らかに鳴る。得点者はまたもや129番、大和一新。彼は1点目と同様に、ゴールに入っているボールを拾い上げ、「うんしょ、よいしょ」と言いながら同じ場所へ戻る。その間は、喜んで飛び上がることも吠えて誇示することもなく、黙々と次のキックオフの準備を進める。スコアは4-2と点差を縮まされたが、まだリードをとっているのは園ヶ丘高校。しかし、この2点は後半開始からわずか5分足らずで生まれた。あまりにも早すぎる展開に、園ヶ丘イレブンは困惑や状況把握が解けない。特にゴールキーパーは、まるで記憶喪失になったみたいに、二つ目の失点を期した場面を思い出すことができないでいる。ただ、自分の意思に関係なく、大きなグローブをはめた両手が小刻みに震えていた。直前の出来事を忘却させてしまうほどのショックを与えられたかのように……。
確かにボールの行方はキーパーの体によって覆い被さるように阻止できた。いずれはドリブルした選手の足下からボールを奪取するのが普通だ。でも、あの接触の瞬間こそ何が起きたんだ? 猪突猛進ドリブルのファウルでもない。いつの間にかゴールされたわけでもない。いやそれ以上に、この試合で史上最大級に信じられないことが起こった。
あの129番のキックによって、キーパーをボールごと吹っ飛ばした!!
最後にボールについていた左足一本だけで、それをひと振りしただけで、キーパーもろとも蹴りあげた。ボールは失速することなくゴールネットを突き刺した。
ストライカーは点を獲ることが宿命だとよく言われる。たとえ決めて当たり前のペナルティキック、いわゆるPKだけでも成功すれば、その試合を左右する得点者として称えられる。逆にシュートを外したり、なにもゴールを生まなければ、どうしようもない精神論を持ち出されて闘志を感じないと言われたり、日頃から見てもいないくせに練習が足りないなどと罵られ、チームの欠点として取り上げられる。それが続けば戦犯どころか疫病神のような扱いをされることだって珍しくない。期待されるのと同じくらいにそのようなプレッシャーを向けられるポジションでもある。だがプレッシャーをはねのけ見事得点した瞬間は、爆発するくらいに感情が込み上げてくることもある。ゴールがあってこそ生きる価値がある存在だから。それが、ストライカーだ。
しかし、あの129番はどうだっただろうか? 貪欲に狙い、時に情熱的に己を晒けだすストライカー像とはかけ離れた印象だ。ゴールを決めることが宿命、決めて当たり前なら決めなければならないだろう? 当たり前のことをこなしているだけで何がすごいのか? そんな風に言っている姿に見えた。そしてなにより彼の行動から、ストライカーの宿命や使命として動くというより、仕事として遂行しているようにも感じた。ゴールした事実とその喜びを「ご褒美」としてではなく、明日への活力のための「食事」のために働いている。生きて当たり前の世界に生まれた限り、どんな小さな獲物も必ず捕獲するための狩猟をしなければ生きていけない。あの129番の背中が、厳しい環境下で生き抜いてきた、冷静で研ぎ澄まされた肉食動物のそれに見えた。
そして後半が始まってから三回目のキックオフを迎えた後、西春大和高校イレブンに変化が起きた。また129番が当たり前のように敵からボールを奪取すると、今度は後ろへバックパス。驚くことに、試合が始まって以来、彼が出した初めてのパスになる。パスする前に2点も取るなんて馬鹿げた話があるのかと疑いたいが、事実これがファーストパスなのだ。6番のキャプテンがこれを受ける。すると、あろうことか、彼はそのままドリブルを始めた。129番がパスを出すことにも驚きだが、キャプテンのドリブルにはさすがに虚をつかれた。ボールを持つ度にすぐさまパスした彼が、一秒でも長くボールキープしている姿を、相手はもちろんチームメイトも初めて見たからだ。
「上がれぇ!!」
ムサシが後方の味方達に向かって吠えた。それから翼を広げるように、両腕を高く振りかざす。この発言と仕草は……。攻撃陣に加えて、守備陣とゴールキーパーもろとも相手陣地へ攻め入れろ。全員攻撃でいくぞ、という合図に他ならない。西春大和イレブンはキャプテンの指示に従い、園ヶ丘サイドに次々と侵入した。両端のサイドバック二人も揃って上がり、その後を追うようにセンターバックたちがピッチ中央へ歩き出す。これに伴い、キーパーもペナルティエリアの外へ出るはめになった。
オフサイドラインが押し上げられ、試合を繰り広げられる「有効な」エリアが、元のピッチの広さの3分の2以下までに縮小された。競技人数は変わらず、結果的に人口密度が濃くなった。どういうことかというと、選手間のスペースが狭くなったのだ。明らかに前半とは違う狭さを各々が感じるだろう。守る側からしたら窮屈に思う一方、攻める側としては味方の顔がはっきり見えるほど近くなり、むしろ安心した。この時点で、点差に関係なく、はたしてどちらが多少のストレスに触発され、無用な焦燥に駆り出されてしまうのか。遠くない未来、それは必ず結果として表れる。
全く玉離れしないムサシ。パスをする気も毛頭に感じない。このままゴール前まで侵入しそうだ。その時だった。ディフェンダーがたまらず足を伸ばした時。ムサシの足と絡み合い、ムサシは体を投げ出されたように倒れたのだ。その様子を目撃した審判はせわしく、何度も小刻みに笛を吹き、ファウルを認めた。次に、ファウルを犯したディフェンダーに対して指をさし、迷いなく胸ポケットをまさぐらせる。ディフェンダーはその行為の意味を察知し、愕然とした。高々と掲げられた黄色い紙片が、時折太陽の光で乱反射する。イエローカードの提示だった。それは悪質なファウルを戒めるための警告の札。同試合でもう一枚貰えば退場になってしまう、選手にとっては呪いの札でもある。それが自分に向けられた。なんで? さっきまであの129番があんなにたくさんの人を倒しても笛すら吹かれなかったのに、どうしてたった一人しか倒していない自分にカードを出される? 理不尽、意味不明、理解不能!! ディフェンダーはなんとか訴えようとするも、早くその場から離れろと審判は指示し、踵をかえす。釈然としないが、仕方ないと考えるほかなかった。
ペナルティエリアの左角から約2メートル離れた場所にボールを置く。ゴールの前で構えるキーパーから見ると、右側に位置する。両チームの選手たちは自ら壁となったり、その奥でお互いの位置取りを争っていた。そして、そのどちらにも加わらず、ボールを足下に堂々と立っているムサシ。片目しか開いてない瞳で、じっとゴールだけを見つめていた。一度だけ深呼吸をし、深く長いため息を吐く。吐き終わった瞬間、自然と息がポンッとみぞおちに落ちる。吐ききった反動で横隔膜が動き、意図せずに息が入る。上半身が緩み、代わりに下半身にどっしりと体重がのる。地に足が着き、頭から糸を張るように背筋が伸びる。どこへでも動き出せそうだ。
足の赴くままにボールを蹴り出した。ボールの行方なんて、わざわざ見送るほどでもない。ピッチにいる選手全員はおろか、見晴らしのよい客席から見下ろしている観戦者たちも見届けているのだから。蹴った勢いそのまま、ゴールを背にするように翻り、小走りで自陣へ帰る。次のプレーの準備をするために。その間、背中から打ち上げ花火のような大きな嘆声がひとつだけワッと咲いた。その直後にはまばらな拍手が聞こえ、突然後ろから仲間に抱きつかれた。仲間の声は高揚していた。
ああ、この感覚で間違いなかったんだ。これで正しかったんだ。今までで一番に気持ちいい。ムサシは仲間たちに応えるように親指を立て、掲げた。長い笛が一回だけ吹かれたのはそれからだった。
129番:大和一新の2ゴールと、6番:ロナウド・ムサシの1ゴールで動いたこの試合。スコアは1点差にまで縮められたが、すぐにまた更新しそうな勢いがみられた。もはや通例行事のように、キックオフ後のバックパスもお構いなしに奪いに行く129番。すぐに付近にいる三人の選手が囲むように集まる。一人の選手に何人もかけるなんて馬鹿げている、そんなことは分かりきっていた。しかし、こうでもしないと止められない。三人は躊躇なくボールに向かって足を伸ばそうとした。その瞬間に129番が「二回目」のパスを送る。送り先は、また6番のムサシだった。直前の得点を演出した、この連携。早く潰さねば。正面からセンターバック一人が、さらにムサシの後ろからもう一人の選手が詰める。シュートモーションすらとれていない今、刈り取るしかない! 迷いなく挟み込もうとする。
パンッ。軽く右足をボールに当て、振るった音。地を這うボールは宙に浮いた。走った勢いそのまま、空へ方向転換した。なんの前触れもない、突然の進路変更に思わず反応し、目でボールを追う。その間に足が止まる。センターバックの頭上を通過し、反対側のサイドへ飛ぶ。ボールが落下し始めたが、その行き先には誰もいない。否、たった今そこへ走り込んでくる者が一人いた。赤とグレーのツートンカラーのシャツが、10番の白い文字が揺らぐ。一つと一人はそれぞれ示し会わせたかのように接近する。頭、胸、腰よりもさらに下へとボールは落ちる。10番の右足の甲にボールが乗ったように見えた。このまま上手くトラップできれば、見事キーパーと一対一になる。みたびこの展開が起きてしまうが、今度は相手が違う。また異なるタイミングでシュートを打たれるかもしれない。しかし誰がシューターだろうが、絶対に止めてみせる! キーパーは体勢を整え、いつシュートが来てもいいように備えた。
ザシュッ!
早かった。違う、むしろ準備が遅かった。
音がした方へ「振り返る」。キーパーの左側のサイドネットに、ボールが突き刺さっていた。ボールを包むように受けたネットは、その反動で弾き出す。キーパーの足下に転がったボールは、まるで同情するかのように静止した。すぐに、今日で何度目かの長い笛が鳴る。4点目を知らせる、高らかな音が。同時に、これはただの得点ではなくなった。前半で0-4と大差をつけたはずが、後半始まって20分足らずで4-4の同点。129番の強引な中央突破の2得点に、6番の精度の高い直接フリーキック。そして10番の、ダイレクトボレーシュート? 前半で見なかったこの攻撃によって、いとも容易くゴールを許した。
水色ユニフォームのイレブンは、ついに誰一人も声をかけなくなった。前半を終え、誰もが勝ちを確信し、余裕で試合を終わらせようとしたら、後半戦に入って同点にされるどころか、まだ一本もシュートを打てていない。そんな状態でどんな言葉をかけろというんだ? 選手それぞれに、背中に不安や焦燥を含んでいた。それが足枷となったか、思うように走れない、連携やパスが噛み合わない。同点に追いついた西春大和イレブンの、高いディフェンスライン統率によって、ほぼ全員満遍なくパスを回して危機を回避する。水色の選手たちはボールを求めてさまよう。けれど警戒心の高い小動物のように、ボールは近づく選手から遠ざかる。ボールの支配率は歴然。競技に疎い者が観ても、どちらが優位にゲームを進めているか認識できるだろう。そしてどちらのチームに、かわいそうと思い、哀れに感じて、同情のまなざしを向けられるのか。前代未聞の展開の中に漂う、もしかしたらこれはイケるかもしれないという熱情と、どうしてこうなったんだという落胆。全く違う「におい」が入り混じり、それによって生成されたなんとも言えない雰囲気がグラウンドを包む。
水色の5番が慌ててボールに向かって足を出した。しかし倒れながらに触ったボールは、無情にもゴールラインを割った。声をかけあって連携すればそうならずにすんだのに、無用なミスを誘発してしまった。赤灰色のイレブンにとっては、これが初めてのコーナーキック。前半で散々やられたこの形式、だが今回はこちらの攻撃になる。右端のコーナーフラッグに向かうのは、見事なフリーキックで得点した、6番のムサシだった。あの精度の高いキックで、今度はどのようにゲームを演出するのか。誰に合わせるか。それとも自分で直接決めるのか。水色イレブンは、お互いの位置やマーク対象を再三確認する。初めて見るプレーでことごとく失点しまったのだから、なおさら気をつけなければならない。
ボールをセットし、そこから数歩後退り、密集地帯を見上げるムサシ。それから一秒もたたないうちに、右腕を挙げ、前傾姿勢から助走をとり、左足を振り抜く。ボールはゴールの高さほどまで、真っ直ぐ飛ぶ。ギュンッ! という擬音が似合うほど、速い球が空を切る。これは低い、ニアか。いや、まだボールがのびる! 中央の深い位置に。限りなくゴールラインに近づく。これはキーパーの守備範囲、パンチングで弾き出せる。しかし、キーパーの前を、下から不意に影が飛び出す。もぐら叩きのもぐらみたいに、現れた瞬間は存在を認識できなかったが、瞬間を過ぎた時、ようやくそれを確認できたのであった。坊主頭、あの129番だ! キーパーは我先にボールに手を伸ばそうとした。坊主頭も、負けじと迫る。もはやどちらが先にボールに触れるかは、誰も予想できなくなった。
ドッシャアアアアアア!!!
目の前で、何かが爆発したような音が響いた。キーパーはたまらず後ろへ倒れこんだ。予期せぬ事態に、思わず背中を打ってしまう形になってしまった。その痛みで、しばしその場で悶え倒れたが、何とか両腕で上体を起こそうとした。起き上がった頃には、自分はゴールの中にいるんだと把握できた。本来は背後にあるはずのゴールラインが前方にあり、肩や頭にネットが掛かっていることが感じられたから。それだけじゃない、こんな憐れな姿は放っておけないと言いたげに……。
同じくネットに覆い被さったボールが、隣で見守っていた。
ピピーーーーーーーーッ!!! もうこの30分間だけで飽きるほど聞いた、あの高らかな笛の音が鳴る。それを追うように、こちらも今日一番の歓声が爆発した。決勝点を挙げた129番は、拍手に呼応するが如く、誇張ぎみに腕を振ってピッチ中を駆けた。すぐ背後を、チームメイト達が満面の笑みで、声をあげながら追いかける。やがて赤灰色の波が翻し、自陣まで戻った引き潮から、水色の貝殻達が砂浜に取り残された。あと残り時間は僅かと認識しているが、動く気配すら感じられなかった。今、何が起きて、どのように状況が動いたか、まったく、全然、わからない。腫れ物に触れたかのような、感覚が麻痺して、さっぱり思考が働かない。ただ一つ、唯一はっきりしているのは、自分達が負け越した事実をまざまざと突きつけられたことだ。
さらに、キーパーも、恐ろしい事態が起きたことをようやく思い出した。記録上では、さっきのゴールはヘディングシュートと思われるが。違う、確かに頭でボールを受けたようにも見えるが、違う。129番がボールに触れた瞬間の、前代未聞な現象を目撃してしまったから。あいつ、眉間周辺にあてる時。目が……光った……?
この後、園ヶ丘イレブンは空虚をさまようように、何もできずに試合終了を迎えたのだった。終わりを告げる最後の笛が鳴り、ピッチ中央に整列し、選手達それぞれ握手を交わし、ベンチ前に戻るまで。一体何人が上の空だったのだろうか。今自分が何を聞き、考え、行動したのか、覚えていたのだろうか。
5-4。西春大和高校の逆転勝利。発足一ヶ月の新チームの初試合は、なんともセンセーショナルなシナリオを生んだ。前半と後半だけで、まるで別のチームのようだった。いや、一人だけ違った。チームの全得点にほぼ絡み、圧倒的な突進力でハットトリックを得た選手は、前半にいなかった! 背番号129番、大和一新。その飽くなきゴールへの執念が、この試合をひっくり返したのだ。
西春大和イレブンもベンチに戻り、水分補給をとったり、クールダウンをしたりなど、各々の片付けにとりかかった。しかしどの選手もみんな笑顔だった。声も話も弾んでいた。ハーフタイムのあの沈黙も嘘のよう。もうここまできてしまうと、お互いがお互いに、果たして本当に同一人物なのかと錯覚しているのではないだろうか。
試合はもうすでに終わったのだが、観客席から眺めた観戦者や、グラウンドを囲う網の外側にいつの間にか集まった学生の群衆が、彼らを見守り、惜しみ無く拍手を送る。波乱の展開を巻き起こしたことへの、賛辞の意味を含んでいた。そんな拍手の中に、カシャカシャと、すべからく人体からは絶対に発せられない音も混じる。いわゆる機械音。一眼レフカメラのシャッター音が湧き出るように鳴り、周辺の空気を支配する。
言の葉で綴ることができない、得も言われぬこの一時間の空気の移り変わりを、確かにカメラはその空間を写し、その時を刻んでいた。それを終始ファインダー越しに、カメラとメガネのそれぞれのレンズを通して、少女はただシャッターを押しながら見届けた。そして、やがて気づいたのだ。ピッチ上に残っている熱気がそのまま、自分の胸の内に宿していることを。運動すらしていない私が、汗をかきたくなるほど熱く、興奮している。
ふとカメラを下げ、見上げるように背筋を伸ばし、もう誰もいなくなったグラウンドを見渡す。あの破天荒な試合は終わった。しかし、なぜかありもしない「これから」を期待している自分がいた。もっとおもしろくなりそう、そんな無責任な熱望がとめどなく湧き出る。決めた、熱の冷めぬうちに動くことを。ただちに行動、その場から歩きだし、グラウンドを後にした。別に夕陽や海に向かって走るつもりなんて毛頭ない。ただ、帰路につく生徒達の間を縫うように、川の流れに逆らうように歩き続けた。
わけが分からなくなったでしょ? 僕もわけが分かりません。