いちご模様
「きゃああああああっ──────っ」
住宅街を木魂するものすごい悲鳴に驚いた俺は、バイクを手入れしていた手を止めて、声のする坂の上へと顔を上げた。
「ブッブッブッ、ブレーキ!」
そして、目の前に迫る光景をみた俺は目を瞠った。頭が一瞬白くなる。どうすればいいのか。
何しろ、一人の女の子が、自転車に乗ったまま、こっちに向かって突進してくるのだ。
黒いショートヘアは、デコ丸出しでオールバック。足で俺を止めるように前に突っ張らせ、スカートの裾を旗のようにハタハタと翻らせ、その奥には白い何か……お?
いかん、そんなものに見惚れている場合じゃない。
「おじさん!ぶつかるぅ──────っ」
キキキキキッ──────ものすごい甲高い、それこそ女の悲鳴のようなブレーキの摩擦音が静かな住宅街に響く。
ダメだ、こうしてはいられない。
俺は、今まで手入れをしていたバイクの前に立ち塞がった。
大学に入ってから4年、バイトにバイトを重ねてようやく買った、届いたばかりの、YAMAHA SR──────。
「おじさん、どいてってばー」
命と同じくらい大事なバイクの前に立ち塞がる俺に、女の子はギュッと目を瞑りながら悲痛な叫びをあげたと思うと、目の前で自転車のバランスを崩した。
ガシャン──────…。
その金属の悲鳴のような音は、閑静な住宅街に広がるコトの終末。
幸いにして、身体を張ってでも守りたかったバイクは無事だったが、突っ込んできた女の子の自転車は倒れた上に家の塀まで横向にスライドしていき、女の子の方はその場にうつ伏せに倒れた。
やっぱりはためくスカート。そこから覗く白地の赤い水玉パンツ。
「大丈夫?」
俺は、倒れたままで動かない女の子の傍へと向かった。
すると、傍で見るパンツは、赤い水玉ではなく、いちごだった。
あ、別にそれはどうでもいいけど。
「……うう…だいじょばない」
うつ伏せになったままで女の子は俺の声に弱々しい声で答えた。派手な転倒だったが、意識はあるようだ。
「とりあえず起き上がろうぜ」
こういう時、女の子に手を貸していいのかどうか、迷う。下手に触って痴漢まがいに睨まれたくはないし、かといって寝転ばせたままでは薄情すぎる。
「うう…なんでブレーキ利かないのぉ?」
声は辛そうだったが、女の子はゆっくりと四肢を動かし始めた。大丈夫、骨に異常はないようだ。それにパンツもスカートの中に隠れた。
一先ず安堵した俺は、女の子が起き上がる間に自転車を拾いに向かった。
タイヤのフレームも曲がってはいない。みたところこっちも大丈夫そうだ。
「ブレーキ利かなかった?」
俺は、自転車を逆さにして、バイクの隣に置くと、ブレーキのワイヤーに手を触れた。
少し緩んでいる。それにゴムも減っている。恐らくは買ってから一度も手入れをしていないのだろう。利かないはずだ。
「坂の上でぇ…マンホールの蓋で滑って、バランス崩して、それで…」
「ああ、なるほど」
俺は自転車をいじる手を止めて坂の上を見た。このけっこう急な坂道は、何年かに一度ぐらいは、コントロールの利かなくなった自転車がひっくり返っている。ゆえに付近の家の塀は頑丈だ。
「自転車、壊れちゃった?」
自転車を心配する女の子の声は自分が転んだ時よりも痛そうだった。
「いや、ブレーキ交換すれば大丈夫じゃないかな。パンクもしてないし」
パッと見た感じはそんなところだ。
「よかったぁ…」
安堵の息を吐く女の子へ俺は振り向いた。
「そっちの方が手当てがいるんじゃないの?」
「え?」
ショートヘアの女の子が目を丸くして俺の顔を見返した。丸い目と丸い鼻。盛り上がった頬はまだ幼さを残していた。飾っていない自然なままのまつ毛は風が吹けば揺れるのではないか、と思える程長い。
「…顎と足と…気づいてないの?」
俺に言われて、ようやく女の子は自分の顎と足に擦り傷を負ったことに気が付いたようだ。手についた血にひどく驚く様は、見ていて痛々しいを通り越して、微笑ましくある。
「……いてててててて」
自分の傷に気が付いた女の子は、急に足を抱えて痛がり始めた。
嘘つけッ、と言いたくなるが、痛みというものはそういうものかも知れない。
「とりあえず、洗ってあげるよ」
俺はそこでようやく手を差し伸べた。でも、強引はしない。こっちは親切のつもりでも何を言われるかわからない世の中だ。
「ありがとう」
しかし、こっちの気遣いなどは杞憂だったようで、女の子はあっさりと俺の手と取った。立ち上がらせてみれば、可愛さの残る服装は、高校生の出で立ちではなさそうだ。
「俺んち、そこだけど」
そういって、俺は駐車場の向こうにある垣根を指さした。家はその奥だ。
「うん」
女の子は、不審も何も感じることなくケンケンをしながら俺のあとに付いて来た。
おいおい、無防備すぎないか?いちごパンツ。別に下心もないけど。
が、こっちは用心に越したことはない。とりあえず、縁側に座らせると靴下を脱いでおくように言いつけて救急箱を取りに奥へと向かった。
それから急いでペットボトルの水と救急箱を持って、縁側へと戻ると、女の子は痛みなど忘れたかのようにのんびりと俺んちの庭を見渡していた。
「おじさん、地元の人なんだね」
俺が住んでるこの街は、全国的には『都会』という部類に入るだろうが、元々の地元民とあとから来た人との溝がある街でもある。こういうもののいい方をする、ということは、付近のマンションのどこかに住んでいるのだろう。
「まぁね」
この街で生まれて、ずっとこの街に居続けている俺はうなづく。しかし、気になることはある。
「おじさん…ってやめて」
よく聞け、いちごパンツ。こう見えても、まだ22歳になったばかりの大学生だ。
おじさんと呼ばれる筋合いはねぇ。
すると、怒られたのかと思ったのか、いちごパンツは、俺の顔を少し怯えた目で見つめた。
そして、頭を下げた。
「あ、ごめんなさい。私、早川佐和子といいます。助けてくれてありがとう…ございます」
その姿は、まるで塩を掛けられたナメクジのようだ。
うん、中々素直でよろしい。
「別にいいよ。足、出して。俺は斉藤 優」
「斉藤、さん」
「そう早川さん」
女の子恐怖を取り除くようにニッコリ笑ってやれば、相手も答えてニコリと笑った。
その顔には明らかに安堵の表情が見て取れる。そんなに怖かったかな、俺。
まぁいいか、失礼には変わりなかったんだし。俺は、女の子の足元に座ると、怪我をして血をにじませている膝小僧と膝下を見た。血は止まっているようだが、綺麗に洗った方がいいだろう。
先ずは、顎の下にタオルを当てさせて、顎の傷をペットボトルの水で洗浄してから足を洗う。
「沁みる?」
一応、聞いてみると、女の子は率直に少し顔を歪ませながら「うん」とうなづいた。ま、痛くない傷の手当なんてないからな。
「中学生?」
傷を負った足は、どうみても大人の形ではなかった。と、いっても子供っぽくもない。
大人と子供と行ったり来たりする年頃。そういう目線で見れば、確かに俺はおじさんかも知れない。
「え、あ、はい。二年生です」
足を洗ったあとで、清潔なガーゼを張れば手当は完了だ。
「ありがとうございます」
女の子…早川さんは、そう言って立ち上がった。少し引きずってはいるが、歩けそうだ。
「自転車、置いてっていいよ。ブレーキは見とくから」
ケンケンをしながら後ろをついてくる早川さんに俺はそう告げた。ま、いちごパンツのお礼だ。
「いいのですか?」
「いいよ、バイクを見るついでだし…それじゃ、自転車引いて歩けないだろ?家、どこ?」
早川さんが指さした場所は垣根の向こうに立つマンションだった。なるほど、地元の人間じゃない。
「結構、あるね。歩ける?」
「ん…大丈夫…だと…思います」
そういう早川さんの声はとても痛そうだった。時間が経つにつれ、痛みが増す。よくあることだ。
「送ってってやるよ」
駐車場に戻った俺は、そういって早川さんの足元で背中を向けてしゃがみ込んだ。
「え、でも…」
「歩けないなら、しょうがないだろ」
そう、しょうがない。それに女の子を背負うのも悪くない。
「あ、ありがとう…ございます」
早川さんは、おずおずと俺の肩に手を掛けた。
いいってことよ。人助けをすればビールも美味い。それに、パンツを見た罪悪感も帳消しになるからな。
俺は、彼女を背負って、彼女の家に向かった。
これで、話は終わるはずだった。しかし、何故か早川さんは、週末、俺の家にやってきた。
「平日に何度か来たんですけど」
紙袋を持った早川さんは、少しばかりムスッとした声だった。
「ああ、平日は学校なんだ。結構遅くなることもあるし」
俺の返事は、彼女を納得させたようで、ふわっと花のような笑顔が浮かぶ。
お、中々可愛らしい顔じゃないか。俺の顔もほころぶ。
「あの、これ、お礼です」
彼女はそう言って、持っていた紙袋を俺に差し向けた。中身はポテトチップスなどのスナック菓子。この軽さから察するに、親が持たせたというものではなく、自分で用意したのだろう。
「そりゃ、どうもご丁寧に」
俺は遠慮なく、それを受け取った。正直言うと、堅苦しく甘ったるいお菓子よりもこっちの方が嬉しい。今日のつまみが出来たというものだ。
「…あの…」
お礼を手渡しても目の前の早川さんは、動こうとはしなかった。少しだけ頬を赤くして、何か、モジモジと奥歯に物が挟まったような顔をしている。
なんだ、他に何かあるのか?
暫く、俺の前でうつむいていた早川さんだったが、意を決したように顔を上げて、瞳から強い光を放した。
なんだ、中学生からコクられても困るんだけど。
一瞬、身構える俺。
しかしそれは俺のうぬぼれというものだった。
「あのっ…ここは、ゴミ屋敷ですかっ…」
「へっ」
俺は気の抜けた声を発したあと、思わず自分の後ろを振り返った。確かに、脱ぎ捨てた服も廊下に散らばっていて綺麗とは言い難い。
しかし、ゴミ屋敷といわれるほどでもないはずだ。いや、つもりだ。
「あのっ…この間、自転車持ちに来た時、カーテンが少し開いてて、家の中が見えてたんですけどっ…あの…すごく…気になって」
なるほど、と俺は妙に納得した。自転車は、庭に置いておくからいつでも取りに来て。と言ったのは俺だ。だから、見られてても不思議じゃない。
「あー…。俺、気にしないタチだからなぁ…」
頭をボリボリと掻きながら、俺は答えた。なんだか、恥ずかしい。とても恥ずかしい。親に指摘された以上に恥ずかしい。
「あのっ…だからっ…この間のお礼にお掃除させてください」
彼女の一言は、一瞬だけ、俺から瞬き以外の動きをすべて奪ってしまった。
桜も散ったばかりのうららかな春の日。
どーしてこうなってるんだろうな…。
俺は、昼間からビール片手にポテチを摘まみながら家に奥の台所を見やった。
小さな女の子が鼻歌交じりでシンクに投げ込んであったお皿を洗っている。
その後ろ姿は、いつも立っているはずの母親とはもちろん違い、身体の線はか細く、子供っぽい。
でも、なんか、いい感じ。
「お母さん、いつ帰ってくるのですか?」
娘が欲しかったと息子相手に長年ため息を吐き続けているお袋がこんな女の子に「お母さん」なんて呼ばれてると知ったら、小躍りするだろうな…と思いつつ、俺はビールを一口飲んだ。
「んー…ひと月の船旅だからなぁ…来月の半ばあたりか?」
お袋と親父は会社から出た勤労30年の記念に出たひと月の休暇を使って、クルージングの旅に出ている。詳細は、その辺に散らかっている紙に紛れているはずだ。
「じゃあ、まだ10日も経っていない」
「そういうことになるかな」
「どうして、こう散らかっちゃうかな。信じられない」
何でかな、女のこうこう時の咎める口調ってのは、年齢共通なんだろうか。お袋といい、前にいた彼女といい。
判を押した様だ。
「でも、お蔭で綺麗になったよ」
シンクの中に放り込んであった皿はなくなり、机の上のコンビニ弁当の残骸やカップラーメンの食べ跡はゴミ袋へと入れられた。
こころなしか部屋の空気も爽やかだ。
「まだです。洗濯物もありますし、掃除機もかけたいです」
お前はお袋か、という俺のツッコミよりも早く、早川さんは俺の前で力強く腕まくりをした。その気迫に俺は思わず押された。
が、それでも洗濯は言葉だけで遠慮したいと思う。中身のほとんどは下着のはずだ。
洗いたくはないだろうし、洗われたくもない。
しかし、目の前の何かの使命に燃えた彼女は、そんなもの気にもしないらしい。「い────んです」と鼻息を荒くしながら、こともあろうに「バイクの手入れでもしてください」と家主であるはずの俺を家から追い出した。
どーしてこうなるかな。
庭に出た俺は首を傾げながら、自分の家を振り返った。
家の奥からは、掃除機の音が聞こえてくる。本当に掃除をしているらしい。
ま、いいか、天気もいいし。お言葉に甘えよう。こうして俺は、背中を丸めながら素直にバイクをいじり始めた。
そして、二時間あまり経ったあと、家に戻った俺を待っていたのは、なんと手作りカレーライスだった。
「へへ、図々しいかな、と思ったんだけど、材料もあったから、作っちゃった」
目の前の早川さんは、どこか得意げで、何故か恥ずかしそうで、恐ろしいことに何だかとっても可愛らしく見えた。
「すげーな…お前」
俺は十日ぶりに見る手作り品に目を剥いた。しかも、鍋の中のカレーは、中学生が作ったとは思えないほど美味そうだ。
聞けば、彼女の家は、母子家庭で母親が夜の仕事をしているがゆえに小学生の事から家事一般を引き受けてきたのだそうだ。
「でも、お肉なかったから、ウィンナーだけど」
早川さんは照れくさそうに笑う。まずい、可愛いぞ。
「いいよ、いいよ、すんげぇ、美味そう」
とりあえず、このまま深入りする前に俺は一足先にテーブルにつくと、彼女を誘った。
「え…いいの?私も一緒に食べても?」
「いいよ。そっちが作ったんだから」
もう一度誘うと、彼女は嬉しそうに微笑んで、俺の向かいの席に座った。
が、一言、付け加えるのを忘れなかった。
「手を洗ってきて」
はいはいはいはい、ホント、その口調、お袋そっくり。
素直に立ち上がる俺もナンだけど。
それをきっかけに、早川は、俺のうちに遊びにやってくるようになった。
ふらりと夕方に来ることもあるし、週末の時もある。
「お母さん、心配するんじゃないのか?」
男の家に娘が一人で出入りをする、親は何と思うのか気になる。
「いいの、お母さん仕事だし、ちゃんと友達の家に行くっていってあるから」
友達ね、と俺は少し苦笑いをしながら頭を掻いた。中学生を友達に持つ大学生。他人が知ったら、胡散臭い目で見られるのはこっちだ。
しかし、早川は呑気なのか、単なる子供なのかまったく気にしない。
「ねー、今日もご飯作ってあげる。何が良い?」
何が楽しいんだかエプロンまで持参だ。
「いいよ、悪いし。こっちは何とかするし」
「ダメだよー。斉藤くん、また、カップラーメンで済ませちゃうじゃん」
剥れ気味にそういった早川は、リビングの本棚からお袋の料理本を取り出すと、鼻歌を歌いながら縁側に座り込んだ。
「いいなー、斉藤くんち、縁側あって。すんごい落ち着く」
確かにマンションには、こんなものはないだろう。俺自身は珍しいとは思った事はないが、そういう人もいるかも知れないのは理解できる。
「そうか、あんまり使い道なんかないけど」
ま、日差しが入って明るいからツメを切ったりするには便利だけど。
「何か、おばあちゃんちに来たみたい」
縁側に座る早川は、実に楽しそうだ。なるほど、頻繁にここに来るのはこれ目当てか。
「おばあちゃんちは遠いのか」
「うん、県外だから…あんまり行けない。行ってもイトコとかいるからゆっくり出来ないし」
そういうもんか、と思えばそういうものかも知れない。
爺さん婆さんがいたころから、うちにおじさんたちが寄りつかなかったのも同じ理由なのかも知れない。
それぞれ事情はあるものだ。
ま、そんなことどうでもいいし、と俺は、ノートを広げた。正直言うと、今は学業が忙しい。そう、バイトも出来ないくらい。だから、早川がメシを作ってくれるっていうなら、素直に言えば、助かる。
「今日は、ハンバーグにしようかな~。うん、ハンバーグ食べてこ♪」
作るだけでなく、すっかり夕飯を食ってくつもりの早川は、縁側で楽しげな声をあげた。
変な女。俺は、鼻で笑いながら、テキストに向かった。
別に邪魔にはならないから、好きにしてくれていいけど。
そうやって、夕飯が終わり、食器の片づけも終わると早川をマンションまで送るのは、今や、常識になりつつある。
この辺は割と治安はいいのだが、夜更けてから女の子を一人で歩かせるというのは、成人としてなんだか義務ような気がするのだ。
「斉藤くんはさー、彼女とか、いないの?」
夜道を歩きながら、早川は、無邪気にズケズケとモノを言う。こんなところは子供の証拠だ。
「今はいないね」
そんな子供相手に「今は」を強調する俺もどうかしてる。
「ねぇ…男の人ってさ…好きな…」
そこまで言って、早川は、口をつぐんだ。おしゃべりな彼女にしてれば大変めずらしい。
「どうかした?」
俺は、そこをつついてみた。が、早川は口をつぐんだままだ。
「いいの、何でもない……あ、家が見えてきた。ここでいいよ、斉藤くん。ありがとう、おやすみぃ」
早川はまるで逃げるように駆けだした。初めて会った日はケンケンをしていたのに、今では気にもならないらしい。
若いなぁ…と年寄りじみたことを俺は思った。
あの気まぐれも、素直な笑みも、まっすぐな瞳も、いつのまにか失ったものだ。
あの瞳、いつまでも持っていられたら……。見ていられたら。
そうじゃなくて…。
まいったな、俺は肩をほぐすように首を振りながら後ろを振り返った。22歳の俺が14歳の早川をそんな風に思うのはどうかしてる。
でも俺は、その時、彼女を捕まえてでも早川の話を聞いてやるべきだったことを後で後悔することになった。その時ばかりじゃない。どうして俺の家に居たがるのかも聞くべきだったんだ。
ちゃんと。
その日、夕方になって降り出した雨は、だんだんと強さを増して、窓と叩きつけるようになった。
時計を見れば10時。
そろそろ勉強を切り上げるか。明日の準備もあるし。
そんなことを考えながら、部屋の窓を閉めて、ついでに玄関の戸も確かめようとした時、玄関のガラスにもたれかかる人影に気が付いた。
「早川か?」
見覚えのある小さな背中に声をかけながら、玄関の戸を開けた。確かにそこに座っていたのは、早川だった。
「ずぶ濡れじゃないか」
その姿を一目みるなり、俺は驚きの声をあげた。
初めてみる制服姿の早川は、頭から足の先までそれこそ滴が垂れそうなくらい濡れていたのだ。
「ごめん…なさい。こんな格好でダメだって思ったんだけど、でも、ここしか思いつかなくて」
蚊の羽音の方が大きいんじゃないかと思うくらいの声の大きさで、早川は俺にそう言った。その目からも滴が落ちている。
「いいから、とにかく入れよ。まってろ、今、タオルを持ってくる」
俺は急いで、洗面所に行ってバスタオルを持ってくると、早川の頭からすっぽりと被せた。
初夏も近いとはいえ、濡れた身体のままじゃ冷えすぎる。
「待てよ、シャワーの方がいいか…着替え…」
お袋のシャツでも持ってこようとした俺の手を早川は掴んだ。
冷たい…。
どれだけ雨に濡れたらこんなに冷たくなるのだろう。
「いい、このままで。斉藤くん」
「よかねぇだろ、こんな冷たい手ぇして。とにかくシャワー浴びろ。着替えは適当に持ってくるから」
俺は、自分が濡れるのも構わずに早川の身体を持ち上げると、そのまま風呂場に放り込んで、早川を指さし捲し立てた。
「いいか、洗えるものは、洗濯機に放り込んどけ。使い方は判るだろ?」
分からないわけはなかった。早川は俺のパンツも平気で洗った強者だ。
「……うん……」
小さな声で早川は返事をすると、風呂の戸をパタンと閉めた。そして、俺は、シャワーの音が出るのを確認すると、二階へと上がった。
お袋の服を中学生に着せるのは、どうかとは思うが、この際、親父や俺のよりもマシだろう。
タンスからパジャマ代わりに使っているスウェットを取り出すと、俺は、脱衣所に放り込み、それから台所で、牛乳に少しの砂糖を加えてレンジにかけた。
『牛乳くらい、飲まなきゃダメでしょ、斉藤くん』
そういって、この牛乳を冷蔵庫に入れたのは、早川だ。あんなに明るい声だったのに、打って変わったあの姿はなんだ。
「……ありがとう」
ダボダボのお袋のスウェットを着て風呂から出てきた早川の髪からは、やっぱり、滴が落ちそうだった。
「おいおい、ちゃんと拭けよ」
俺は、温めた牛乳を渡しながら、もう一度早川にタオルをかけた。
世話を焼かれるいつもと一転して、早川の髪を拭いてやっていると、早川の目から涙がポロリと落ちた。
雨にうたれただけじゃないだろうな。
いくら鈍い俺でもそれだけは判る。
暫く早川はそのままなされるがままになっていたが、やがて、口がゆっくりと開いた。
「あのさ、斉藤くんは、好きな人じゃなくても、その、エッチなことしたいタイプ?」
つかぬ話どころの話ではなかった。いきなり聞くか?そんなこと。だが、俺は真面目に答えてやろうと思った。目の前で泣いているヤツに誤魔化しなんかしたくない。
「ならないけど」
「それが普通?」
「まぁ…普通の状態なら」
「…そうか…じゃあ…あの人…普通じゃないんだ」
あの人、それは、初めて早川の口から出た身内以外の、他人だった。
「あの人?なんかされたか?」
頭を拭いていた俺の手が止まり、マグカップを持っていた早川の手に力が入った。
「うん…お母さんの恋人…今日、いきなり抱きつかれた」
早川の家が母子家庭だとは聞いていた。だから、そういう人がいても不思議じゃない。
が、それと中学生に手を出すのは話が違う。なんてことをするんだ。
「抱きつかれた、だけ?」
コクン、と早川はうなづく。よかった、それは、不幸中の幸いだ。
「うん、少し前からお母さんがいなくても来るようになったの。だから、そん時は斉藤くんちに行ったりして。でも、今日…斉藤くん、ごめん」
マグカップを持つ手は少し震えていた。
そういうことか、と俺はようやく事態を把握した。俺んちに来ていたのは逃げて来ていたのだ。
「謝ること、ないだろ?俺は好きな子じゃないと手を出さないし」
「うん」
うなづくと同時に早川の目からボタボタボタと涙が畳を叩いた。
よほどショックだったのだろう、と思うと胸にグッとくる。
「でも、お母さんには言った方がいいぞ?今日のこと」
しかし、俺の提案を早川は首を振って退けた。
「だって、お母さん、ずっと一人で頑張ってきたもの。お母さんがいいなら、いいの。でも、私は嫌」
まぁ、そういうこともあるだろう、とは思う。が、根本的な解決にはならない。そう諭すように言ったのだが、早川は首を縦には降らない。
けれども、受けた傷は相当に深そうだ。
「男の人、なんて、嫌、あんなこと、いやだ」
わからんではない。母親の恋人なら、相当な年なのだろう。そいつに抱きつかれたのだから嫌になるのもわかる。でも、男としては、見過ごしたくない言葉ではある。
「そおいうこというなよ。男だって色々いるよ。俺だって男だし」
「斉藤くんならいい。斉藤くん、なら……居心地いいもの」
顔を上げた早川の顔は少し赤くて、目が潤んで、そこから真っ直ぐに光を放っていた。
俺の目をめがけて。
「何言ってんの?早川…俺は…」
早川から放たれる光がまぶしくて俺は顔を背けた。
ダメた、相手は中学生だぞ!俺はロリコンじゃねぇ。
それを呪文のように心の中で唱える。繰り返し、繰り返し、何度も。
「だって、嫌だもの。斉藤くんじゃなきゃ、って、思ったの。だから、私……」
ココニニゲテキタノ。
真っ直ぐな瞳で早川は俺に迫る。その視線の熱さは俺の胸を焼く。
「あのね、早川」
なんとか諭そうと、目の前の顔を見た俺の視線を早川の揺れる瞳が捕えた。
握りしめていたマグカップはいつもまにか床に置かれ、早川の熱い小さな手が俺の手に重なる。
「斉藤くん」
早川が目を閉じる。長いまつげが揺れる。俺は目が離せなくなる。
初めて会った時に見た、いちごパンツと同じ色の、赤い唇。
何やってんの、相手は……。でも、逃げられない。
あとは重力の作用みたいなものだ…俺たちはお互いの唇を重ねた。
柔らかくて、暖かい、早川の小さな唇。
「よかった、斉藤くんが初めてのひとで」
唇が離れると早川は、そう言って俺に抱きついてきた。
よかねぇよ。いちごパンツ。俺をロリコンにしやがって。
これから、どんな顔して……。
これから?何かが頭に閃く。
ん?ちょっと待てよ。
「ちょっと、待て、早川」
俺は早川の華奢な肩を掴むと俺の身体から引きはがした。
「お前、どこの中学だ?」
何て馬鹿なことをしたのだろう。最初にチェックしておくべきだったのに!
当たるなよ。俺は心の中で念じる。大丈夫、俺は宝くじにだって当たったことないし、と信じる。しかし、そんな俺の願いを早川は瞬殺した。
「ええ?市立第一中学だけど?」
うわわーマジかよ!俺はなんつうことをしてしまったんだ。
「どうしたの?斉藤くん」
「おい、早川、今のキス、なし」
「やだぁ…せっかく斉藤くんにもらったファーストキスなのに。一生とっとく。絶対忘れない」
「だめなんだって!忘れて!卒業したらナンボでもしてやるから」
「何それ、安売りみたいなこと言って」
「だめなんだって」
「なんでよ」
言えるかよ、んなこと。俺は、明日から教育実習でお前の学校へ行くなんて。
生徒に手ぇ出したなんて、言えるかよ!
チクショー。いちごパンツ。この先どうやって、俺は先生面すりゃいいんだよ。
バカヤロー。
今さら言っても仕方がないことを俺は、心の中で叫んだ。
そう、俺には、素知らぬ顔で早川と接する自信なんかどこにもなかった。
それぐらい彼女の存在が、俺の中で大きくなっていたのだ。
やべぇ。
さっきまでの泣き顔とは打って変わってにこやかな早川の前で、俺は頭を垂れた。
どうなるんだ、これから。
それは、わからない。でも、多分、きっと、この女に振り回されることだけは確定だ。
これからも。
ずっと。
読んでいただけて嬉しいです。
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