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血縁の日々

掲載日:2026/06/05

「俺、そっちに帰ろうと思ってさ、どうだろ?」

 順一は、言葉を濁すように言った。無意識のうちに、彼の指先は、部屋の畳をむしっていた。何もかも加奈子のせいだと彼は決めつけていた。もうかれこれ彼女との同棲生活は二年以上続いていたのだ。それが加奈子に新しい彼氏が出来たことで、すべてが破局となってしまったのだから、彼に同情すべきかもしれない。とにかく、今の彼にとっては、漠然とした空虚感が大きく心を占めていた。つまり端的に言って人恋しくなった訳である。それを直情的に実家に求めた順一の気持ちも理解できた。

「今の俺のマンション、環境的に不便なんだ。そっちと違ってさ」言い訳と取られても仕方あるまい。しかし、一刻も早く実家に戻りたい。彼にとっては急務であった。

 それから電話先の母親としばらくやりとりを続けた結果、働いて実家の家計にも幾分かの援助をするという条件付きで決着がついた。それでようやく落ち着いて電話を切った順一であった。

 話がつくと、どこかで少し気分転換したくなった。少し遠出でもしてみるか?

 マンションの裏手にあるモルタル塗りの駐車場に出て、愛車に乗り込む。とりあえず海へ出るか?

 アクセルを踏み出す。

 車が疾走してくると、気分も上がってくる。音楽のMDをかける。

曲は、ヘビーメタルのヒットメドレーだ。窓の外を流れるように景色が変わっていく。流れゆく街波である。

 まだ順一のこころのどこかに、加奈子がいた。あいつのことだから、うまくやってんだろうな?そういえば、あいつの酒癖、直ったのか?べっぴんか何か知らんが、ああ昼間から息が酒臭いと、男に嫌われるぞ、と余計な心配をしているうちに、車は国道を抜けて、海岸沿いの山道に出た。この辺でいいか?

 海は穏やかだった。波もない。順一は、海辺の岩場に腰かけて、近くの自販機で買ったコーラをひといき飲んだ。うまい。喉ごしが切れる。

 碧く澄んだ海を眺めていると、こころまで洗われてくる。清々しい気分であった。出よう。帰ろう。やっぱりうちが一番なんだ。そう海に誓うと、順一は何だかここに来た甲斐があったような気がした。

 彼は、コーラを飲み干すと、空き缶を持って、海をあとにした。 彼の背中を、もの言わぬ海がジッと静かに優しく見守っていたのであった...................。


「兄ちゃん、僕のスマホ知らない?」

 弟の健人が訊いてきた。部屋で寝転がってテレビを見ていた順一は、ビックリして、

「知らんぞ、お前、無くしたのか?」

「うん、今朝まで持ってたんだけど」

「分かったよ、捜しとく。気をつけろよ?」

「ありがと」

 弟のスマホか、どうも気になる。捜してみるか?どこだろう?

 居間をウロウロしながら、あちこち探ってみた。出てくるはずもない。次は玄関だ。玄関の脇のシューズボックスの扉を開いて探っていると、母親の町子がやって来て、

「お前、お昼の惣菜類とあたしの和菓子、スーパーで買ってくるってさっき言ってじゃないか?」

「ああ、そうだった」


 スーパーは客でごった返していた。人混みをかき分けるようにして、順一は母親の注文通りに買い物を済ませると、レジに並んだ。

「あのう、すいません」

 背後から声を掛けられた。驚いて振り向くと、ひとりの女性が、 

「あたしたち、並んでるんですが?」

 気づけば、列の先頭にいた。慌てて謝り、後ろに回る。スーパーの帰りには、綺麗な女性に見とれて、スーパーのレジ袋を持ったまま電信柱にぶつかって鼻をくじいた。

「ただいま!」

 家に帰ると、玄関まで妹の淳子が迎えに来ていた。何やら怪しい気がする。

「お兄ちゃん?」

「何だよ?」

「お願い、宿題教えて?明日までなんだ」

 あつかましい奴だ。とりあえず台所へ食料品を持っていく。すると、レジ袋の中身を覗いた母親が、

「あんた、何やってんの。煎餅とか、おかき買ってきて。あたしが固いの苦手って知ってるだろ、お饅頭とか羊羹待ってたのにさあ」

 知るかよ。順一がむくれながら部屋に戻ると、淳子が座って待っている。ニコニコしている。

「すぐ終わるからさ、お願い」

「分かったよ、早くしろよ」

 数学の宿題であった。順一が苦手な分野である。知的レベルの低い家系であることは、彼自身承知していたが、改めて思い知らされて嫌な気分になった。それにしても、淳子の奴、胸がデカくなったよな。

「どこ見てんのよ、このスケベ」

「お兄ちゃん、スマホあった?」

 健人が来ていた。そうだ、そうだっけ。

「お前、どこ置いたか、憶えてないのか?」

「たぶん、居間」

 やっぱりなあ。さっぱり分からん。

 それから、何だかんだで夕食となる。その頃になって帰宅してきた父親の省一が洗面台から居間にやって来て、

「おい、洗面台の棚にスマホ置いたの誰だ」

と、持っているスマホを差し出して見せた。

「いけねえ。しまった」

と、健人がばつの悪い顔をした。

 夕食は始まったが、皆が気まずい顔をして食事をとっている。何だか順一までが嫌な思いに囚われてきた。

「おい、順一」

と、父親が順一に咎めるような口調で、

「おい、順一。母さんから訊いたんだが、お前、今月のお金、まだ家に入れてないそうだな?」

 順一は言葉につまって、

「うん、...................、ちょっと都合があって」

 それから父親は、

「そんなことだから家に帰ってくることになるんだぞ。そもそも昔からお前はー」

 そこから、父親の説教が延々と始まった。果ては、父親の昔話にまで及ぶ勢いであったのだ..........。


 深夜。二階のベランダ。

 順一はひとり、熱い缶コーヒーを飲みながら、夜空を眺めていた。星は出ていなかった。漆黒の闇である。夜風が吹いている。若干に寒いような気もした。

 どうなんだろう?

 今さらながらにして、順一は想うのである。

 この空の下、どれだけの人間がどう生きているんだろうか?

 どう生きるのが正解だなんて、ありっこない。皆がそれぞれ精一杯に暮らしてる、それでいいと想うのだ。

 では、俺はどうだろう?

 一人暮らしの頃は寂しくなって実家を求め、今こうやって実際に暮らしていると、いろいろと不満も募ってくる。結局人って、ないものねだりなんだろうか?よう分からんのだ。

 順一は缶コーヒーの熱い一口を飲んだ。

 夜空は暗いが、綺麗だった。

 でも人生は楽しい方がいいに決まってる。楽しんだもん勝ちという気もする。

 そうに決まってる。順一は缶コーヒーをぐいと飲み干すと、ひとり納得したようにベランダをあとにするのであった..................。


 それからも、同じような慌ただしい日々の繰り返しで、順一は時を過ごした。家族との暮らしに嫌気が差してきたのも正直なところではあった。それでも順一は何とか実家での暮らしに順応していった。そして、いくばくかの日々が大過なく過ぎていった。

 それからしばらくして、順一にある転機が訪れた。就職話である。

 知り合いのつてで、新しい就職口が見つかったのだ。詳しく話を聞けば、給金もなかなかに良く、処遇も悪くないという。これは順一にとってチャンスであった。

 ただ勤め先が今の実家からでは遠いというのが難である。週五日働くには少しハードな問題であった。正直、順一はどうすべきか迷った。缶コーヒーの缶と煙草の吸い殻が山積みになっていた。


「母さん、俺、家出ることにしたよ」

 すると母親は呆れたように、

「またかい?まったくお前って子は.......................」

 そこで、順一は諭すように、母親に就職話を打ち明けて理解を求めた。それで、母親も納得したらしく、

「まあ、お前のことだからお前の好きにしたらいいさ。ただフラフラした生き方だけは、もう止めておくれよ」

 そう言ってから、思慮深げに母親は、金を包んだ紙包みを順一に手渡して、

「何かの足しにでもおし。でも、身体にだけは気をつけるんだよ」

と言ってくれた。


 順一の足もとで、一匹の三毛猫が、じゃれついている。ここは、まだ新築したばかりのマンションで、居心地はよかった。

 再び一人暮らしを始めて、はやひと月が経とうとしていた。飼い猫のルルもこの部屋に慣れてきたようだ。ひとしきり、じゃれると、勝手に台所でミルクを飲んでいる。無邪気なもんだ。

 仕事の方も順調であった。良識ある同僚たちに恵まれて、順一も充実した労働にいそしむことが出来るのであった。

 この前、珍しく加奈子から電話があった。何だろうと話を聞けば、どうやら彼氏に振られたらしい。よりを戻したいのだろうが、こっちの知ったことじゃないと順一はあっさりと電話を切った。

 それにしても、ルルはよくなつく猫だ。彼のあとをついて回ってくる。可愛いが、少々暑苦しい気もする。仕方ないか。

 今日は久々の休暇日である。居間のソファに深々と埋まって、順一はジャズ音楽を楽しみながら、淹れ立てのレギュラーコーヒーを味わい、素晴らしきシングルライフをエンジョイするのであった.....................。

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