番犬と呼ばれた騎士が、捨てられた私を攫いに来た
その夜、私の名前は誰の口にも上らなかった。
「エルナ・ハーヴェル。お前との婚約は、本日をもって破棄する」
春の夜会の、中央。
吊り下がった燭台の光の下で、フィリップ・ローエン公爵令息は高らかにそう言った。彼の隣には、可憐に頬を染めた伯爵令嬢が寄り添っている。広間に集った百を超す貴族たちは、誰一人として驚かなかった。みな、もう知っていたのだ。今夜ここで何が起きるかを。知らなかったのは、たぶん、私だけ。
「理由を、お伺いしても?」
私は紅茶のカップを置く程度の静けさで、そう尋ねた。声が震えなかったことだけ、自分を褒めてやりたいと思った。
「理由など、お前を見ればわかるだろう」
フィリップは鼻で笑った。
「地味で、面白みがなく、夜会でも壁の染みのように立っているだけ。お前と過ごす三年は、退屈そのものだった。気の利いた話の一つもできず、ただ俯いて、影のように私の後ろにいるだけ。あれを婚約者と呼ぶには、いささか無理があったというものだ」
くすくす、と扇の陰から笑いが漏れた。
私は、何も言わなかった。言い返す言葉はいくらでもあったけれど、それを口にしたところで、この場の誰一人、私の側には立たないことを、知っていたから。三年。私が、彼の機嫌を損ねぬよう、目立たぬよう、息を殺して過ごした三年。それを「退屈」の一言で畳まれるのは、いっそ清々しいほどだった。
「──ああ、そうだ」
フィリップは、ふと思いついたように後ろを振り返る。
広間の隅。柱の陰。そこに、一人の騎士が直立していた。黒髪を短く刈り、無表情で、まるで石像のように身じろぎもしない男。私の生家が雇った護衛騎士で、名を、ヴァイスといった。
「お前には、あれがお似合いだ。番犬がな」
どっと、笑いが起きた。
番犬。
誰が言い出したのか、社交界で彼はそう呼ばれていた。戦災孤児の拾われ者。出自も知れぬ、ただ命令に従うだけの犬。そういう侮蔑が、その二文字には込められている。物を言わず、感情も見せず、命じられるまま壁際に立っているその姿を、貴族たちは陰でそう嗤っていた。
「物言わぬ番犬と、壁の染み。お似合いの夫婦になるんじゃないか?」
もう一度、笑い声。
扇の陰で、誰かがくすくすと笑っている。私の側に立つ者は、一人もいなかった。婚約者だった男も、長年付き合いのあったはずの令嬢たちも、みな一様に、私から半歩、距離を取っている。まるで、不運が伝染するとでもいうように。
……そう。
これが、私の十九年だ。
誰の目にも映らず、誰の口にも上らず、壁の染みのように生きて、染みのように消えていく。そういう人生なのだと、もうずいぶん前から知っていた。母が亡くなってから、屋敷の誰も私を見なくなった。父は仕事に忙しく、義母は私を厄介者と見て、社交界では存在しないも同然。だから、見られないことには、慣れていた。慣れていた、はずだった。
ただ──広間の隅で、その騎士の手が、ほんのわずかに握り込まれたのを、私は見た。
石像のように動かないはずの男の、骨ばった右手。手の甲に、火傷の引き攣れたような、古い傷痕がある。その傷だらけの手が、私が嗤われた瞬間、きつく、握り込まれた。
なぜ、と思う暇もなかった。
私はスカートの裾を軽く持ち上げ、ごく丁寧に礼をした。
「フィリップ様。婚約の解消、承知いたしました」
顔を上げる。
「では、私はもう、失礼いたします」
背を向けて、歩き出す。
長い、長い広間だった。誰も、私を呼び止めなかった。靴音だけが、やけに高く響く。あと十歩で、扉。あと五歩。あと──
「では、私がお連れします」
低い声が、広間を裂いた。
足を止めて、振り返る。
柱の陰から、番犬が──ヴァイスが、ゆっくりと歩み出るところだった。
◇◇◇
広間が、しんと静まり返った。
石像のように動かなかった男が、初めて動いた。その一事だけで、百の貴族の視線が彼に集まる。ヴァイスは長身を傾けることもなく、まっすぐに私の前まで歩いてきて、片膝をついた。床に膝をつくその所作の、あまりの自然さ。まるで、この瞬間のために何年も練習してきたかのような、迷いのなさだった。
「エルナお嬢様。お帰りの馬車のご用意がございません。私がお送りいたします」
「ヴァイス、貴様」
フィリップが顔を歪めた。
「誰が口を開いていいと言った。犬は犬らしく、黙って繋がれていろ」
ヴァイスは答えなかった。
ただ、立ち上がり、私のほうへ手を差し出す。骨ばった、大きな手だった。剣だこのある、傷だらけの手。その手の甲に、あの古い火傷の痕が、燭台の光に照らされて見えた。
「……お手を」
その声に、不思議な力があった。
私は、ほとんど無意識に、その手に自分の手を重ねていた。途端、ぐっと引かれる。気づけば私は、彼の腕に抱え上げられていた。横抱き。いわゆる、お姫様抱っこというやつ。
「な──」
「失礼します」
ヴァイスは私を抱えたまま、広間を大股に横切った。誰も、止められなかった。番犬と侮られていた男が放つ、それは紛れもない、騎士の威圧だった。彼の腕は岩のように揺るがず、その胸は驚くほど広く、規則正しい心臓の音が、抱えられた私の頬に伝わってくる。速い。彼の鼓動は、その無表情とは裏腹に、ひどく速かった。
扉の前で、彼は一度だけ振り返る。
「ローエン様。一つだけ、申し上げます」
静かな声だった。
「あなたは今夜、ご自分が何を手放したのか、いずれお知りになるでしょう」
それだけ言って、彼は扉を蹴り開けた。
夜風が、頬を撫でた。背後で、ざわめきが広がっていくのが聞こえた。けれど、それはもう、別の世界の音のようだった。
◇◇◇
厩舎から引き出した一頭の馬に、ヴァイスは私を乗せ、自分も後ろにまたがった。手綱を取る腕が、ごく自然に私の腰を抱く。馬は夜の街道へ駆け出した。蹄の音と、風の音だけ。背中に、彼の体温がある。
しばらくして、私はようやく、声を取り戻した。
「ヴァイス」
「はい」
「これは、誘拐よ。あなた、自分が何をしているかわかっているの」
「はい」
「お父様の許可は」
「いただいておりません」
「……正気?」
「いいえ」
即答だった。
私は思わず、振り返って彼の顔を見上げた。月明かりの下、その横顔は、相変わらずの無表情。けれど、ほんのわずか、耳のあたりが赤い気がした。
「正気では、ありませんでした」
彼は前を見たまま、続けた。
「あなたが、あの男に番犬と並べて笑われた瞬間──気づけば、足が動いておりました。考えるより、先に。三年間、ただ壁際に立って、お側を見守ることだけが、私の務めでした。手を出すことも、口を挟むことも、許されぬ立場です。それは、わかっておりました。わかっていて、なお──足が、止まりませんでした」
「……どうして」
風が、強く吹いた。
ヴァイスは答えなかった。代わりに、片手で手綱を握り直し、空いた手で自分のマントの留め具を外した。そして、何も言わずに、そのマントを私の肩にかけた。夜気で冷えていた肩に、ずしりとした重みと、彼の残した温もりが広がる。
「冷えます」
それだけ。
それ以上、彼は何も言わなかった。私の「どうして」は、夜風に溶けて消えた。
マントは、彼の体温で、まだ温かかった。古びた、何度も繕った跡のある、けれど丁寧に手入れされたマントだった。鼻先に、彼の匂いがした。雨上がりの土のような、剣の油のような、不思議と安心する匂い。私は気づけば、その襟元を、両手で握りしめていた。
……おかしな人。
私は、肩にかかったマントを、そっと握った。番犬と呼ばれた男。物言わぬ男。なのに、その沈黙のほうが、フィリップの百の言葉より、ずっと雄弁に思えた。冷えます、というたった四文字に、なぜこんなにも、胸が締めつけられるのだろう。
なぜ、助けたの。
その問いの答えを、私はまだ、知らない。
馬は、夜を駆けていく。私の腰を支える腕は、一度も、緩むことはなかった。
◇◇◇
夜通し馬を走らせ、夜が白む頃、私たちは街道沿いの小さな宿に入った。
ヴァイスは私を一室に休ませ、自分は扉の外で番をすると言った。私が「中にいればいいでしょう。あなたも疲れたでしょう」と言うと、彼は耳まで赤くなって「いけません」と言下に断った。番犬のくせに、妙なところで律儀な男だと思った。私が眠るまでの間、扉の向こうから、ときおり身じろぎする気配だけが伝わってきた。彼は一睡もせず、夜が明けるまで、そこに立っていたらしい。
翌朝、改めて馬に乗り、私たちは旅を続けた。行き先は、北。私の母方の祖母が暮らす、辺境の領地だという。そこなら、ローエン公爵家の手も、しばらくは届かない。すべて、ヴァイスが一晩で考えたことらしかった。彼は道中の宿も、馬の替えも、追っ手を撒く道筋も、何もかも、すでに頭の中に描いていた。まるで、ずっと前から、この日のための準備をしていたかのように。
昼。木陰で休憩を取ったとき、私はヴァイスの手に、あの古い傷を改めて見た。右の手の甲。火傷のような、引き攣れた痕。彼が水筒を差し出す拍子に、袖がずれて、それがはっきりと見えたのだ。
「その傷、どうしたの」
ヴァイスは、さりげなくその手を引っ込めた。視線が、ほんの一瞬、私から逸れる。
「昔のものです。お気になさらず」
「昔って、いつ」
「……覚えておりません」
嘘だ、と思った。
人を見抜く目。私に唯一備わった、能力でも何でもない、ただの性分。母が亡くなってから、誰にも頼れず、人の顔色ばかり読んで生きてきた、その果てに身についた目。その目が告げていた。この男は、覚えている。覚えているのに、言わないだけだ。
それに──その傷を、私はどこかで見た気がした。
火傷のような、古い痕。引き攣れた、皮膚。記憶の、ずっと奥のほう。手を伸ばせば届きそうで、届かない場所。それに、彼の仕草。私が何かを問うたびに、わずかに視線を逸らす、あの癖。短く「はい」とだけ返す、その相槌の落とし方。どれもこれも、初めて会ったはずの男なのに、なぜか、懐かしい。
「ねえ、ヴァイス。私たち、前に会ったことが──」
「お嬢様」
彼は、私の言葉を遮った。
「日が傾く前に、次の村まで進みたく存じます。お急ぎを」
はぐらかされた。
わかっていて、私は引いた。けれど、胸の奥に、小さな棘のように、その既視感が刺さって残った。
この傷を、私は知っている。
いつか、どこかで──。
◇◇◇
その夜は、村に入れず、森の中で野営することになった。
ヴァイスは手際よく火を熾し、私のために毛布を敷いた。携帯食の硬いパンを火で炙り、湯を沸かし、薬草を浮かべた白湯を差し出す。甲斐甲斐しく世話を焼く、その手つきに、迷いがない。番犬と呼ばれた男は、驚くほど、人の世話が上手かった。
「あなた、こういうの、慣れているのね」
「騎士団では、新入りが雑事をすべて引き受けますから」
「拾われ者だから?」
言ってしまってから、しまったと思った。
けれど、ヴァイスは気を悪くした風もなく、火を見つめたまま、小さく頷いた。
「はい。私は、戦で焼けた村の、生き残りでした。名も、歳も、わからぬまま、王都を流れ歩き──やがて騎士団に拾われ、犬のように働いて、今に至ります」
「……ごめんなさい。立ち入ったことを」
「いいえ」
彼は、ふっと、ごくわずかに口元を緩めた。私が初めて見る、その表情だった。火明かりに照らされたその顔は、いつもの石像とはまるで違って、ひどく、人間らしかった。
「拾っていただけたから、私は人になれました。それで、十分です」
火が、ぱちりと爆ぜた。
やがて私は、敷かれた毛布に横になった。長い旅の疲れで、瞼が重い。ヴァイスは火の番をすると言って、少し離れた場所に座っている。私は目を閉じ、眠ったふりをした。けれど、眠れなかった。彼の古傷のことが、頭から離れなくて。あの傷を、私はどこで見たのだろう。あの仕草を、あの声を、私はどこで──。
どれくらい、そうしていただろう。
火の爆ぜる音に混じって、ごく小さな声が、聞こえた。
「……やっと」
ヴァイスの声だった。
私が眠ったと、思っているのだろう。彼は、独り言のように、ほとんど吐息のように、続けた。
「やっと、お守りできる」
胸が、詰まった。
やっと。──やっと、とは、いつからのことだろう。昨日や今日の話ではない。その一言には、もっと長い、ずっと長い時間が、滲んでいた。何年も。あるいは、もっと。三年の護衛の間、ただの一度も砕けた口をきかなかったこの男が、火のそばで、ただ一人、こぼした言葉。
布の擦れる、かすかな音がした。
薄目を開けて、見る。ヴァイスが、自分の上着を脱いで、眠る私の肩にそっと掛けようとしているところだった。マントの上に、さらに上着を。彼自身は、シャツ一枚で、夜の寒さの中に座るというのに。彼の手が、私を起こさぬよう、ひどく慎重に、布の端を整えていく。その指先の、優しさといったら。
私は、目を閉じたまま、動けなかった。
眠ったふりを、続けるしかなかった。だって、もし今、目を開けてしまったら。この人は、また、何も言わなくなってしまう気がしたから。掛けてくれた上着を、脱げと言われてしまう気がしたから。
番犬と呼ばれた男が、火のそばで、ただ一人、私を見ている。
その夜、私は、生まれて初めて、誰かに見守られて眠った。彼の上着は、マントよりもっと、温かかった。
◇◇◇
翌日の昼過ぎ、私たちはようやく、祖母の領地に辿り着いた。
北の辺境。小さな、けれど穏やかな土地だった。祖母はとうに亡くなっていたが、母の代から仕えていた老夫婦が屋敷を守っており、母の娘である私を、涙ながらに迎え入れてくれた。久しぶりに、私は「お帰りなさいませ」と言われた。誰かに帰る場所を用意してもらえたのは、本当に、久しぶりのことだった。
その日から、奇妙に穏やかな日々が始まった。
ヴァイスは、護衛であることをやめなかった。けれど、ここには守るべき夜会も、侮蔑も、何もない。手持ち無沙汰になった彼は、いつのまにか、屋敷の雑事を手伝うようになっていた。薪を割り、壊れた柵を直し、老夫婦の重い荷を運ぶ。番犬と呼ばれた男は、辺境の暮らしの中で、誰よりもよく働いた。
ある夕暮れ、私は中庭で、彼が黙々と薪を割るのを眺めていた。
「ヴァイス。少し、休んだら?」
「いえ。あと少しで終わります」
「……ねえ。王都に、帰りたくはないの。あなたには、騎士団も、お仲間も、いるのでしょう」
斧を振り下ろす手が、止まった。
彼は、薪を割る台に斧を立てかけ、ゆっくりとこちらを向いた。汗の滲んだ額を、無造作に拭う。
「私の務めは、お嬢様をお守りすることです。あなたがここにいる限り、私はここにおります」
「務め、ね」
「……はい」
また、視線が逸れた。あの癖だ。
私は、なんだか、笑ってしまった。この男は、本当に、嘘が下手だ。務め、なんて。そんな言葉で隠せるほど、彼の不器用は、薄っぺらくなかった。
その夜、夕食の席で、私は老夫婦に頼んで、ヴァイスの分の食事も、同じ食卓に並べてもらった。彼は「使用人が主と同じ卓につくなど」と固辞したけれど、私が「あなたは私の騎士でしょう。命令よ」と言うと、ひどく困った顔をして、結局、いちばん端の席に、背筋を伸ばして座った。
慣れない手つきで、けれど丁寧に、彼はスープを口に運ぶ。ふと、その手の甲の古傷が、蝋燭の光に照らされた。引き攣れた、火傷の痕。
──ああ。
その瞬間、記憶の、ずっと奥のほうで、何かが、かちりと音を立てた。
手の甲の、火傷。雨上がりの、裏通り。痩せた、子供。
届きそうで、届かなかった記憶が、もうあと一歩のところまで、近づいていた。
◇◇◇
翌朝、私は意を決して、小川のほとりで馬に水を飲ませる彼に、向き直った。
「ヴァイス。正直に、おっしゃい」
「……何を、でしょう」
「あなたは、いつから私を見ていたの」
ヴァイスの肩が、わずかに揺れた。
彼は、しばらく黙っていた。小川のせせらぎだけが、二人の間に流れた。やがて、彼は、観念したように、ゆっくりと右手を上げた。あの、古傷のある手を。
「この傷を、覚えていらっしゃいますか」
「……いいえ。でも、見た気がするの。ずっと昔に」
「七年前です」
彼は、静かに語り始めた。
「戦で村を焼かれ、両親も名も失って、行く当てもなく、王都の裏通りをさまよっていた子供がおりました。誰からも犬猫のように扱われ、石を投げられ、自分でも、自分は人ではなく、ただの獣なのだと、そう思い込んでいた子供です。手の甲のこの傷も、その頃、火の中から逃げる際に負ったものでした」
火傷の手を、彼は見つめている。
「ある日、その子供は、貴族の馬車の前に倒れました。腹が減って、もう、動けなかったのです。御者は、汚らわしいと鞭を振り上げました。けれど──馬車から降りてきた、小さなお嬢様が、それを止めたのです」
胸が、波打った。
「お嬢様は、私の前にしゃがみ込んで、こうおっしゃいました」
ヴァイスは、顔を上げた。
その黒い瞳が、まっすぐに私を射た。
「『あなたは番犬じゃない。人よ』──そして、こうも。『お名前は? 教えて』と」
──ああ。
記憶の、ずっと奥の扉が、音を立てて開いた。
七年前。私が、まだ十二の頃。母が亡くなって、間もない頃。
雨上がりの裏通りで、倒れていた、痩せた子供。御者が鞭を振り上げて、私は思わず馬車から飛び降りて、その子をかばった。手の甲に、焼けた痕のある子供。私はその子に、名前を尋ねた。けれど、返事は、なかった。その子はただ、信じられないものを見るような目で、私を見つめていた。やがて衛兵が来て、その子は連れて行かれて──それきり、私はその子のことを、忘れていた。
忘れて、いた。
誰の目にも映らない自分の人生を嘆くばかりで、自分がたった一度、誰かの人生を照らしたことを、すっかり、忘れていた。
「あの一言で」
ヴァイスの声が、わずかに掠れた。
「私は、人になれたのです。犬ではなく、人として、生きてみようと思えた。あの日から、あなたの言葉だけを胸に、生きてまいりました。それから私は、騎士になりました。あなたをお守りできる場所まで、なんとしても辿り着くために。ハーヴェル家の護衛の口に潜り込むまで──七年、かかりました」
「……七年」
「報われなくて、よいと思っておりました。ただ、お側で、お守りできれば。あなたが、別の誰かと幸せになられるのを、見届けられれば。それで、十分だと。あなたは私を覚えていなくとも、私が、あなたを覚えている。それだけで、よかったのです」
彼は、片膝をついた。あの夜会と同じ姿勢で。けれど、今度は、差し出す手が、震えていた。
「ですが──あの夜、あなたが番犬と並べて笑われたとき。私は、初めて、十分ではないと思いました。あなたを、あんな場所に置いてはおけないと。たとえ、許されぬ無礼者と罵られても」
私は、その震える手を、見下ろした。
誰の目にも映らないと思っていた、私の十九年。壁の染みのように、消えていくのだと思っていた。
けれど、たった一人。
ずっと、私を見ていた人が、いた。私が忘れてしまった一日を、七年も、抱え続けた人が。
私は、ゆっくりと、手を伸ばした。
生まれて初めて、自分から、誰かに。
震える彼の手に、私の手を、重ねた。
◇◇◇
それから、しばらくして。
ローエン公爵家のことが、風の噂に乗って、辺境にまで届いた。
私を雇っていたハーヴェル家の護衛は、ヴァイス一人ではなかった。彼の背後には、彼を拾い育てた騎士団長その人がいた。そして騎士団長は、養い子であるヴァイスが「許されぬ無礼者」として裁かれかけたと知るや、淡々と、ローエン公爵家への騎士団の警護契約を、すべて打ち切ったのだという。
ローエン公爵家は、武門ではない。その威光は、雇い入れた騎士団の武力に支えられていた。それが、ある日、静かに消えた。警護のない夜会には盗人が忍び込み、後ろ盾を失った縁談は次々と白紙に戻り、フィリップに寄り添っていたはずの令嬢も、いつのまにか姿を消したという。
彼は今ごろ、知っただろうか。
あの夜、自分が何を手放したのかを。
けれど、それは、もう私には関係のないこと。
遠い国の、誰かの噂話。私は、噂を運んできた手紙を畳み、暖炉にくべた。それだけだった。溜飲を下げる必要すら、なかった。怒りも、勝ち誇る気持ちも、湧いてこなかった。
私の隣には、もう、見守ってくれる人がいるのだから。
それ以上のものを、私はもう、誰にも、求めていなかった。
◇◇◇
その日の夕暮れ。
私は、庭の木陰で繕い物をするヴァイスの隣に、腰を下ろした。彼は、ほつれた自分のマントを──あの夜、私の肩にかけてくれた、古いマントを、針と糸で繕っていた。
「ヴァイス」
「はい」
「一つ、聞いてもいい?」
「何なりと」
「あなた、あの七年間──私のこと、見ていて、苦しくなかったの。私が、フィリップ様と歩いているのを、見ているのは」
ヴァイスの手が、止まった。
彼は、針を置き、少し困ったように、視線を泳がせた。あの夜会で石像のように動かなかった男が、今は、こんなにも人間らしい顔をする。
「……苦しくない、と申し上げれば、嘘になります」
正直な人だ、と思った。
「あなたが、私の知らない誰かに微笑むのを見るのは、何度経験しても、慣れませんでした。胸の奥が、錆びついたように、痛みました。ですが──それ以上に、あなたが、生きて、そこにいてくださる。笑っていてくださる。それだけで、私の七年は、報われておりました」
私は、彼の横顔を見つめた。
夕日が、その古傷を照らしている。七年前、私が触れた、焼けた手の甲を。今となっては、その傷さえ、愛おしい。
「……覚えていないわ」
私は、言った。
「あの日のあなたのこと、ごめんなさい、本当は、ほとんど覚えていなかったの。あなたがあんなに大切に抱えてきた七年を、私は、忘れてしまっていた。私を見ていてくれた人がいたことにも、今ごろ、やっと気づいたくらい」
ヴァイスが、何かを言いかけた。気にするな、とでも言おうとしたのだろう。
けれど、私は、それより先に、続けた。
「でも──これからは、私が、あなたを見るから」
ヴァイスの目が、見開かれた。
「あなたが私を見ていてくれた、その何倍も。これからは、私が、あなたを見る。あなたが笑った日も、困った顔をした日も、嘘が下手で視線を逸らした日も、ぜんぶ。番犬なんて、二度と呼ばせない。あなたは、私の騎士で、私の──」
最後の一語は、少し、恥ずかしくて、声にならなかった。
けれど、伝わったのだと思う。
ヴァイスの顔が、見る間に、赤く染まっていったから。耳の先まで、首筋まで、夕日のせいでは説明のつかないほど、真っ赤に。あの夜会で誰も止められなかった威圧の騎士が、繕い物の針を握ったまま、固まって、何も言えなくなっている。口を開きかけては閉じ、また開きかけては、結局、何も言えずに、うつむいてしまう。
私は、思わず、笑ってしまった。
「……番犬のくせに、可愛いのね」
ヴァイスは、とうとう両手で顔を覆って、うつむいてしまった。
その大きな背中が、夕日の中で、ほんの少し、震えている。繕いかけのマントが、彼の膝から、はらりと滑り落ちた。
壁の染みと、番犬。
誰の目にも映らなかった二人が、今、互いだけを、見ている。
これから先のことは、まだ、何もわからない。
でも、それでいい。
私たちには、見られなかった分の時間を、これから一緒に、取り戻していく未来があるのだから。
私は、滑り落ちたマントを拾い上げ、彼の隣で、続きを繕い始めた。
針を動かす私の手元を、指の隙間から、彼がそっと見ているのに、気づかないふりをして。
【作者から読者様へお願いがあります】
少しでも、
「面白い!」
「続きが気になる!」
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