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番犬と呼ばれた騎士が、捨てられた私を攫いに来た

作者: 夢見叶
掲載日:2026/05/25

 その夜、私の名前は誰の口にも上らなかった。


「エルナ・ハーヴェル。お前との婚約は、本日をもって破棄する」


 春の夜会の、中央。

 吊り下がった燭台の光の下で、フィリップ・ローエン公爵令息は高らかにそう言った。彼の隣には、可憐に頬を染めた伯爵令嬢が寄り添っている。広間に集った百を超す貴族たちは、誰一人として驚かなかった。みな、もう知っていたのだ。今夜ここで何が起きるかを。知らなかったのは、たぶん、私だけ。


「理由を、お伺いしても?」


 私は紅茶のカップを置く程度の静けさで、そう尋ねた。声が震えなかったことだけ、自分を褒めてやりたいと思った。


「理由など、お前を見ればわかるだろう」


 フィリップは鼻で笑った。


「地味で、面白みがなく、夜会でも壁の染みのように立っているだけ。お前と過ごす三年は、退屈そのものだった。気の利いた話の一つもできず、ただ俯いて、影のように私の後ろにいるだけ。あれを婚約者と呼ぶには、いささか無理があったというものだ」


 くすくす、と扇の陰から笑いが漏れた。

 私は、何も言わなかった。言い返す言葉はいくらでもあったけれど、それを口にしたところで、この場の誰一人、私の側には立たないことを、知っていたから。三年。私が、彼の機嫌を損ねぬよう、目立たぬよう、息を殺して過ごした三年。それを「退屈」の一言で畳まれるのは、いっそ清々しいほどだった。


「──ああ、そうだ」


 フィリップは、ふと思いついたように後ろを振り返る。

 広間の隅。柱の陰。そこに、一人の騎士が直立していた。黒髪を短く刈り、無表情で、まるで石像のように身じろぎもしない男。私の生家が雇った護衛騎士で、名を、ヴァイスといった。


「お前には、あれがお似合いだ。番犬がな」


 どっと、笑いが起きた。


 番犬。

 誰が言い出したのか、社交界で彼はそう呼ばれていた。戦災孤児の拾われ者。出自も知れぬ、ただ命令に従うだけの犬。そういう侮蔑が、その二文字には込められている。物を言わず、感情も見せず、命じられるまま壁際に立っているその姿を、貴族たちは陰でそう嗤っていた。


「物言わぬ番犬と、壁の染み。お似合いの夫婦になるんじゃないか?」


 もう一度、笑い声。

 扇の陰で、誰かがくすくすと笑っている。私の側に立つ者は、一人もいなかった。婚約者だった男も、長年付き合いのあったはずの令嬢たちも、みな一様に、私から半歩、距離を取っている。まるで、不運が伝染するとでもいうように。


 ……そう。

 これが、私の十九年だ。

 誰の目にも映らず、誰の口にも上らず、壁の染みのように生きて、染みのように消えていく。そういう人生なのだと、もうずいぶん前から知っていた。母が亡くなってから、屋敷の誰も私を見なくなった。父は仕事に忙しく、義母は私を厄介者と見て、社交界では存在しないも同然。だから、見られないことには、慣れていた。慣れていた、はずだった。


 ただ──広間の隅で、その騎士の手が、ほんのわずかに握り込まれたのを、私は見た。

 石像のように動かないはずの男の、骨ばった右手。手の甲に、火傷の引き攣れたような、古い傷痕がある。その傷だらけの手が、私が嗤われた瞬間、きつく、握り込まれた。


 なぜ、と思う暇もなかった。

 私はスカートの裾を軽く持ち上げ、ごく丁寧に礼をした。


「フィリップ様。婚約の解消、承知いたしました」


 顔を上げる。


「では、私はもう、失礼いたします」


 背を向けて、歩き出す。

 長い、長い広間だった。誰も、私を呼び止めなかった。靴音だけが、やけに高く響く。あと十歩で、扉。あと五歩。あと──


「では、私がお連れします」


 低い声が、広間を裂いた。


 足を止めて、振り返る。

 柱の陰から、番犬が──ヴァイスが、ゆっくりと歩み出るところだった。



   ◇◇◇



 広間が、しんと静まり返った。


 石像のように動かなかった男が、初めて動いた。その一事だけで、百の貴族の視線が彼に集まる。ヴァイスは長身を傾けることもなく、まっすぐに私の前まで歩いてきて、片膝をついた。床に膝をつくその所作の、あまりの自然さ。まるで、この瞬間のために何年も練習してきたかのような、迷いのなさだった。


「エルナお嬢様。お帰りの馬車のご用意がございません。私がお送りいたします」


「ヴァイス、貴様」


 フィリップが顔を歪めた。


「誰が口を開いていいと言った。犬は犬らしく、黙って繋がれていろ」


 ヴァイスは答えなかった。

 ただ、立ち上がり、私のほうへ手を差し出す。骨ばった、大きな手だった。剣だこのある、傷だらけの手。その手の甲に、あの古い火傷の痕が、燭台の光に照らされて見えた。


「……お手を」


 その声に、不思議な力があった。

 私は、ほとんど無意識に、その手に自分の手を重ねていた。途端、ぐっと引かれる。気づけば私は、彼の腕に抱え上げられていた。横抱き。いわゆる、お姫様抱っこというやつ。


「な──」


「失礼します」


 ヴァイスは私を抱えたまま、広間を大股に横切った。誰も、止められなかった。番犬と侮られていた男が放つ、それは紛れもない、騎士の威圧だった。彼の腕は岩のように揺るがず、その胸は驚くほど広く、規則正しい心臓の音が、抱えられた私の頬に伝わってくる。速い。彼の鼓動は、その無表情とは裏腹に、ひどく速かった。


 扉の前で、彼は一度だけ振り返る。


「ローエン様。一つだけ、申し上げます」


 静かな声だった。


「あなたは今夜、ご自分が何を手放したのか、いずれお知りになるでしょう」


 それだけ言って、彼は扉を蹴り開けた。

 夜風が、頬を撫でた。背後で、ざわめきが広がっていくのが聞こえた。けれど、それはもう、別の世界の音のようだった。



   ◇◇◇



 厩舎から引き出した一頭の馬に、ヴァイスは私を乗せ、自分も後ろにまたがった。手綱を取る腕が、ごく自然に私の腰を抱く。馬は夜の街道へ駆け出した。蹄の音と、風の音だけ。背中に、彼の体温がある。


 しばらくして、私はようやく、声を取り戻した。


「ヴァイス」


「はい」


「これは、誘拐よ。あなた、自分が何をしているかわかっているの」


「はい」


「お父様の許可は」


「いただいておりません」


「……正気?」


「いいえ」


 即答だった。

 私は思わず、振り返って彼の顔を見上げた。月明かりの下、その横顔は、相変わらずの無表情。けれど、ほんのわずか、耳のあたりが赤い気がした。


「正気では、ありませんでした」


 彼は前を見たまま、続けた。


「あなたが、あの男に番犬と並べて笑われた瞬間──気づけば、足が動いておりました。考えるより、先に。三年間、ただ壁際に立って、お側を見守ることだけが、私の務めでした。手を出すことも、口を挟むことも、許されぬ立場です。それは、わかっておりました。わかっていて、なお──足が、止まりませんでした」


「……どうして」


 風が、強く吹いた。

 ヴァイスは答えなかった。代わりに、片手で手綱を握り直し、空いた手で自分のマントの留め具を外した。そして、何も言わずに、そのマントを私の肩にかけた。夜気で冷えていた肩に、ずしりとした重みと、彼の残した温もりが広がる。


「冷えます」


 それだけ。

 それ以上、彼は何も言わなかった。私の「どうして」は、夜風に溶けて消えた。

 マントは、彼の体温で、まだ温かかった。古びた、何度も繕った跡のある、けれど丁寧に手入れされたマントだった。鼻先に、彼の匂いがした。雨上がりの土のような、剣の油のような、不思議と安心する匂い。私は気づけば、その襟元を、両手で握りしめていた。


 ……おかしな人。

 私は、肩にかかったマントを、そっと握った。番犬と呼ばれた男。物言わぬ男。なのに、その沈黙のほうが、フィリップの百の言葉より、ずっと雄弁に思えた。冷えます、というたった四文字に、なぜこんなにも、胸が締めつけられるのだろう。


 なぜ、助けたの。

 その問いの答えを、私はまだ、知らない。

 馬は、夜を駆けていく。私の腰を支える腕は、一度も、緩むことはなかった。



   ◇◇◇



 夜通し馬を走らせ、夜が白む頃、私たちは街道沿いの小さな宿に入った。


 ヴァイスは私を一室に休ませ、自分は扉の外で番をすると言った。私が「中にいればいいでしょう。あなたも疲れたでしょう」と言うと、彼は耳まで赤くなって「いけません」と言下に断った。番犬のくせに、妙なところで律儀な男だと思った。私が眠るまでの間、扉の向こうから、ときおり身じろぎする気配だけが伝わってきた。彼は一睡もせず、夜が明けるまで、そこに立っていたらしい。


 翌朝、改めて馬に乗り、私たちは旅を続けた。行き先は、北。私の母方の祖母が暮らす、辺境の領地だという。そこなら、ローエン公爵家の手も、しばらくは届かない。すべて、ヴァイスが一晩で考えたことらしかった。彼は道中の宿も、馬の替えも、追っ手を撒く道筋も、何もかも、すでに頭の中に描いていた。まるで、ずっと前から、この日のための準備をしていたかのように。


 昼。木陰で休憩を取ったとき、私はヴァイスの手に、あの古い傷を改めて見た。右の手の甲。火傷のような、引き攣れた痕。彼が水筒を差し出す拍子に、袖がずれて、それがはっきりと見えたのだ。


「その傷、どうしたの」


 ヴァイスは、さりげなくその手を引っ込めた。視線が、ほんの一瞬、私から逸れる。


「昔のものです。お気になさらず」


「昔って、いつ」


「……覚えておりません」


 嘘だ、と思った。

 人を見抜く目。私に唯一備わった、能力でも何でもない、ただの性分。母が亡くなってから、誰にも頼れず、人の顔色ばかり読んで生きてきた、その果てに身についた目。その目が告げていた。この男は、覚えている。覚えているのに、言わないだけだ。


 それに──その傷を、私はどこかで見た気がした。

 火傷のような、古い痕。引き攣れた、皮膚。記憶の、ずっと奥のほう。手を伸ばせば届きそうで、届かない場所。それに、彼の仕草。私が何かを問うたびに、わずかに視線を逸らす、あの癖。短く「はい」とだけ返す、その相槌の落とし方。どれもこれも、初めて会ったはずの男なのに、なぜか、懐かしい。


「ねえ、ヴァイス。私たち、前に会ったことが──」


「お嬢様」


 彼は、私の言葉を遮った。


「日が傾く前に、次の村まで進みたく存じます。お急ぎを」


 はぐらかされた。

 わかっていて、私は引いた。けれど、胸の奥に、小さな棘のように、その既視感が刺さって残った。


 この傷を、私は知っている。

 いつか、どこかで──。



   ◇◇◇



 その夜は、村に入れず、森の中で野営することになった。


 ヴァイスは手際よく火を熾し、私のために毛布を敷いた。携帯食の硬いパンを火で炙り、湯を沸かし、薬草を浮かべた白湯を差し出す。甲斐甲斐しく世話を焼く、その手つきに、迷いがない。番犬と呼ばれた男は、驚くほど、人の世話が上手かった。


「あなた、こういうの、慣れているのね」


「騎士団では、新入りが雑事をすべて引き受けますから」


「拾われ者だから?」


 言ってしまってから、しまったと思った。

 けれど、ヴァイスは気を悪くした風もなく、火を見つめたまま、小さく頷いた。


「はい。私は、戦で焼けた村の、生き残りでした。名も、歳も、わからぬまま、王都を流れ歩き──やがて騎士団に拾われ、犬のように働いて、今に至ります」


「……ごめんなさい。立ち入ったことを」


「いいえ」


 彼は、ふっと、ごくわずかに口元を緩めた。私が初めて見る、その表情だった。火明かりに照らされたその顔は、いつもの石像とはまるで違って、ひどく、人間らしかった。


「拾っていただけたから、私は人になれました。それで、十分です」


 火が、ぱちりと爆ぜた。

 やがて私は、敷かれた毛布に横になった。長い旅の疲れで、瞼が重い。ヴァイスは火の番をすると言って、少し離れた場所に座っている。私は目を閉じ、眠ったふりをした。けれど、眠れなかった。彼の古傷のことが、頭から離れなくて。あの傷を、私はどこで見たのだろう。あの仕草を、あの声を、私はどこで──。


 どれくらい、そうしていただろう。

 火の爆ぜる音に混じって、ごく小さな声が、聞こえた。


「……やっと」


 ヴァイスの声だった。

 私が眠ったと、思っているのだろう。彼は、独り言のように、ほとんど吐息のように、続けた。


「やっと、お守りできる」


 胸が、詰まった。

 やっと。──やっと、とは、いつからのことだろう。昨日や今日の話ではない。その一言には、もっと長い、ずっと長い時間が、滲んでいた。何年も。あるいは、もっと。三年の護衛の間、ただの一度も砕けた口をきかなかったこの男が、火のそばで、ただ一人、こぼした言葉。


 布の擦れる、かすかな音がした。

 薄目を開けて、見る。ヴァイスが、自分の上着を脱いで、眠る私の肩にそっと掛けようとしているところだった。マントの上に、さらに上着を。彼自身は、シャツ一枚で、夜の寒さの中に座るというのに。彼の手が、私を起こさぬよう、ひどく慎重に、布の端を整えていく。その指先の、優しさといったら。


 私は、目を閉じたまま、動けなかった。

 眠ったふりを、続けるしかなかった。だって、もし今、目を開けてしまったら。この人は、また、何も言わなくなってしまう気がしたから。掛けてくれた上着を、脱げと言われてしまう気がしたから。


 番犬と呼ばれた男が、火のそばで、ただ一人、私を見ている。

 その夜、私は、生まれて初めて、誰かに見守られて眠った。彼の上着は、マントよりもっと、温かかった。



   ◇◇◇



 翌日の昼過ぎ、私たちはようやく、祖母の領地に辿り着いた。


 北の辺境。小さな、けれど穏やかな土地だった。祖母はとうに亡くなっていたが、母の代から仕えていた老夫婦が屋敷を守っており、母の娘である私を、涙ながらに迎え入れてくれた。久しぶりに、私は「お帰りなさいませ」と言われた。誰かに帰る場所を用意してもらえたのは、本当に、久しぶりのことだった。


 その日から、奇妙に穏やかな日々が始まった。


 ヴァイスは、護衛であることをやめなかった。けれど、ここには守るべき夜会も、侮蔑も、何もない。手持ち無沙汰になった彼は、いつのまにか、屋敷の雑事を手伝うようになっていた。薪を割り、壊れた柵を直し、老夫婦の重い荷を運ぶ。番犬と呼ばれた男は、辺境の暮らしの中で、誰よりもよく働いた。


 ある夕暮れ、私は中庭で、彼が黙々と薪を割るのを眺めていた。


「ヴァイス。少し、休んだら?」


「いえ。あと少しで終わります」


「……ねえ。王都に、帰りたくはないの。あなたには、騎士団も、お仲間も、いるのでしょう」


 斧を振り下ろす手が、止まった。

 彼は、薪を割る台に斧を立てかけ、ゆっくりとこちらを向いた。汗の滲んだ額を、無造作に拭う。


「私の務めは、お嬢様をお守りすることです。あなたがここにいる限り、私はここにおります」


「務め、ね」


「……はい」


 また、視線が逸れた。あの癖だ。

 私は、なんだか、笑ってしまった。この男は、本当に、嘘が下手だ。務め、なんて。そんな言葉で隠せるほど、彼の不器用は、薄っぺらくなかった。


 その夜、夕食の席で、私は老夫婦に頼んで、ヴァイスの分の食事も、同じ食卓に並べてもらった。彼は「使用人が主と同じ卓につくなど」と固辞したけれど、私が「あなたは私の騎士でしょう。命令よ」と言うと、ひどく困った顔をして、結局、いちばん端の席に、背筋を伸ばして座った。


 慣れない手つきで、けれど丁寧に、彼はスープを口に運ぶ。ふと、その手の甲の古傷が、蝋燭の光に照らされた。引き攣れた、火傷の痕。


 ──ああ。

 その瞬間、記憶の、ずっと奥のほうで、何かが、かちりと音を立てた。

 手の甲の、火傷。雨上がりの、裏通り。痩せた、子供。

 届きそうで、届かなかった記憶が、もうあと一歩のところまで、近づいていた。



   ◇◇◇



 翌朝、私は意を決して、小川のほとりで馬に水を飲ませる彼に、向き直った。


「ヴァイス。正直に、おっしゃい」


「……何を、でしょう」


「あなたは、いつから私を見ていたの」


 ヴァイスの肩が、わずかに揺れた。

 彼は、しばらく黙っていた。小川のせせらぎだけが、二人の間に流れた。やがて、彼は、観念したように、ゆっくりと右手を上げた。あの、古傷のある手を。


「この傷を、覚えていらっしゃいますか」


「……いいえ。でも、見た気がするの。ずっと昔に」


「七年前です」


 彼は、静かに語り始めた。


「戦で村を焼かれ、両親も名も失って、行く当てもなく、王都の裏通りをさまよっていた子供がおりました。誰からも犬猫のように扱われ、石を投げられ、自分でも、自分は人ではなく、ただの獣なのだと、そう思い込んでいた子供です。手の甲のこの傷も、その頃、火の中から逃げる際に負ったものでした」


 火傷の手を、彼は見つめている。


「ある日、その子供は、貴族の馬車の前に倒れました。腹が減って、もう、動けなかったのです。御者は、汚らわしいと鞭を振り上げました。けれど──馬車から降りてきた、小さなお嬢様が、それを止めたのです」


 胸が、波打った。


「お嬢様は、私の前にしゃがみ込んで、こうおっしゃいました」


 ヴァイスは、顔を上げた。

 その黒い瞳が、まっすぐに私を射た。


「『あなたは番犬じゃない。人よ』──そして、こうも。『お名前は? 教えて』と」


 ──ああ。

 記憶の、ずっと奥の扉が、音を立てて開いた。


 七年前。私が、まだ十二の頃。母が亡くなって、間もない頃。

 雨上がりの裏通りで、倒れていた、痩せた子供。御者が鞭を振り上げて、私は思わず馬車から飛び降りて、その子をかばった。手の甲に、焼けた痕のある子供。私はその子に、名前を尋ねた。けれど、返事は、なかった。その子はただ、信じられないものを見るような目で、私を見つめていた。やがて衛兵が来て、その子は連れて行かれて──それきり、私はその子のことを、忘れていた。


 忘れて、いた。

 誰の目にも映らない自分の人生を嘆くばかりで、自分がたった一度、誰かの人生を照らしたことを、すっかり、忘れていた。


「あの一言で」


 ヴァイスの声が、わずかに掠れた。


「私は、人になれたのです。犬ではなく、人として、生きてみようと思えた。あの日から、あなたの言葉だけを胸に、生きてまいりました。それから私は、騎士になりました。あなたをお守りできる場所まで、なんとしても辿り着くために。ハーヴェル家の護衛の口に潜り込むまで──七年、かかりました」


「……七年」


「報われなくて、よいと思っておりました。ただ、お側で、お守りできれば。あなたが、別の誰かと幸せになられるのを、見届けられれば。それで、十分だと。あなたは私を覚えていなくとも、私が、あなたを覚えている。それだけで、よかったのです」


 彼は、片膝をついた。あの夜会と同じ姿勢で。けれど、今度は、差し出す手が、震えていた。


「ですが──あの夜、あなたが番犬と並べて笑われたとき。私は、初めて、十分ではないと思いました。あなたを、あんな場所に置いてはおけないと。たとえ、許されぬ無礼者と罵られても」


 私は、その震える手を、見下ろした。

 誰の目にも映らないと思っていた、私の十九年。壁の染みのように、消えていくのだと思っていた。

 けれど、たった一人。

 ずっと、私を見ていた人が、いた。私が忘れてしまった一日を、七年も、抱え続けた人が。


 私は、ゆっくりと、手を伸ばした。

 生まれて初めて、自分から、誰かに。

 震える彼の手に、私の手を、重ねた。



   ◇◇◇



 それから、しばらくして。

 ローエン公爵家のことが、風の噂に乗って、辺境にまで届いた。


 私を雇っていたハーヴェル家の護衛は、ヴァイス一人ではなかった。彼の背後には、彼を拾い育てた騎士団長その人がいた。そして騎士団長は、養い子であるヴァイスが「許されぬ無礼者」として裁かれかけたと知るや、淡々と、ローエン公爵家への騎士団の警護契約を、すべて打ち切ったのだという。


 ローエン公爵家は、武門ではない。その威光は、雇い入れた騎士団の武力に支えられていた。それが、ある日、静かに消えた。警護のない夜会には盗人が忍び込み、後ろ盾を失った縁談は次々と白紙に戻り、フィリップに寄り添っていたはずの令嬢も、いつのまにか姿を消したという。


 彼は今ごろ、知っただろうか。

 あの夜、自分が何を手放したのかを。


 けれど、それは、もう私には関係のないこと。

 遠い国の、誰かの噂話。私は、噂を運んできた手紙を畳み、暖炉にくべた。それだけだった。溜飲を下げる必要すら、なかった。怒りも、勝ち誇る気持ちも、湧いてこなかった。


 私の隣には、もう、見守ってくれる人がいるのだから。

 それ以上のものを、私はもう、誰にも、求めていなかった。



   ◇◇◇



 その日の夕暮れ。

 私は、庭の木陰で繕い物をするヴァイスの隣に、腰を下ろした。彼は、ほつれた自分のマントを──あの夜、私の肩にかけてくれた、古いマントを、針と糸で繕っていた。


「ヴァイス」


「はい」


「一つ、聞いてもいい?」


「何なりと」


「あなた、あの七年間──私のこと、見ていて、苦しくなかったの。私が、フィリップ様と歩いているのを、見ているのは」


 ヴァイスの手が、止まった。

 彼は、針を置き、少し困ったように、視線を泳がせた。あの夜会で石像のように動かなかった男が、今は、こんなにも人間らしい顔をする。


「……苦しくない、と申し上げれば、嘘になります」


 正直な人だ、と思った。


「あなたが、私の知らない誰かに微笑むのを見るのは、何度経験しても、慣れませんでした。胸の奥が、錆びついたように、痛みました。ですが──それ以上に、あなたが、生きて、そこにいてくださる。笑っていてくださる。それだけで、私の七年は、報われておりました」


 私は、彼の横顔を見つめた。

 夕日が、その古傷を照らしている。七年前、私が触れた、焼けた手の甲を。今となっては、その傷さえ、愛おしい。


「……覚えていないわ」


 私は、言った。


「あの日のあなたのこと、ごめんなさい、本当は、ほとんど覚えていなかったの。あなたがあんなに大切に抱えてきた七年を、私は、忘れてしまっていた。私を見ていてくれた人がいたことにも、今ごろ、やっと気づいたくらい」


 ヴァイスが、何かを言いかけた。気にするな、とでも言おうとしたのだろう。

 けれど、私は、それより先に、続けた。


「でも──これからは、私が、あなたを見るから」


 ヴァイスの目が、見開かれた。


「あなたが私を見ていてくれた、その何倍も。これからは、私が、あなたを見る。あなたが笑った日も、困った顔をした日も、嘘が下手で視線を逸らした日も、ぜんぶ。番犬なんて、二度と呼ばせない。あなたは、私の騎士で、私の──」


 最後の一語は、少し、恥ずかしくて、声にならなかった。

 けれど、伝わったのだと思う。

 ヴァイスの顔が、見る間に、赤く染まっていったから。耳の先まで、首筋まで、夕日のせいでは説明のつかないほど、真っ赤に。あの夜会で誰も止められなかった威圧の騎士が、繕い物の針を握ったまま、固まって、何も言えなくなっている。口を開きかけては閉じ、また開きかけては、結局、何も言えずに、うつむいてしまう。


 私は、思わず、笑ってしまった。


「……番犬のくせに、可愛いのね」


 ヴァイスは、とうとう両手で顔を覆って、うつむいてしまった。

 その大きな背中が、夕日の中で、ほんの少し、震えている。繕いかけのマントが、彼の膝から、はらりと滑り落ちた。


 壁の染みと、番犬。

 誰の目にも映らなかった二人が、今、互いだけを、見ている。


 これから先のことは、まだ、何もわからない。

 でも、それでいい。

 私たちには、見られなかった分の時間を、これから一緒に、取り戻していく未来があるのだから。


 私は、滑り落ちたマントを拾い上げ、彼の隣で、続きを繕い始めた。

 針を動かす私の手元を、指の隙間から、彼がそっと見ているのに、気づかないふりをして。


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