転換
馬島は、雨に打たれながら天を仰いだ。 屈辱と驚愕が混ざり合った、歪な笑みがその唇に浮かぶ。
死神にでも憑かれたかと思ったが、お前自身が死神だったわけか。
男はゆっくりと両手を挙げた。 それは、馬島組組長が一生で一度もしたことのない、完全な降伏のサイン……に見えた。 だが、その瞳に宿っていたのは、俺への敵意ではなく、底知れない「虚無」だった。
行け。 借金は帳消しだ。二度と俺の前に面を見せるな。
馬島が背を向けようとした、その時だ。 俺は、彼がこれまでのループで見せたことのない行動に気づいた。 彼の手首に巻かれた高級時計の裏。 そこから細いコードが伸び、彼の肌に直接縫い付けられている。
……馬島さん。それ、何だ。
俺の問いに、馬島は力なく首を振った。
坂口良太。 お前は俺を元凶だと思っているようだが、俺も、あかりも、お前の母親も……。 全員、同じ盤の上で転がされている駒に過ぎないんだよ。
馬島の言葉が、激しい雨音に混じって震える。 彼は懐から一枚の書面を取り出した。 そこには、俺の母さんが騙された投資話の真の出資者の名前と、馬島組が支払わされている「上納金」の法外な額が記されていた。
俺の背後にいるのは、ヤクザなんかじゃない。 この国の根幹を吸い尽くしている、もっと巨大な、化け物のような利権集団だ。 俺が借金を取り立てるのをやめれば、明日には俺の首が飛ぶ。 そして、あかりもな。
衝撃が走った。 三十一回。俺は馬島を殺せば、彼を倒せば終わると思っていた。 だが、彼は倒すべき壁ではなく、俺たちと同じ檻に閉じ込められた囚人に過ぎなかった。
これまでのループで、俺たちがどうしても死ぬ運命から逃げられなかった理由。 それは馬島組の追跡が厳しかったからではない。 もっと上の存在が、俺たちを「実験体」のように殺し続けていたからだ。
お父様……嘘でしょ。 あかりが車から飛び出し、父の元へ駆け寄る。
馬島は娘の肩を抱き、俺を真っ直ぐに見据えた。
坂口。お前は、普通じゃない。 俺の死さえ予見するその力があるなら、本当の地獄を叩き潰してみせろ。 この借金は、もう俺が抱えて死んでやる。
馬島は、俺に車の鍵を投げ渡した。 それはあかりの中古車ではない、彼が予備として用意していた防弾仕様のセダンだった。
行け。 東に二十キロ。古いコンテナヤードがある。 そこなら一晩は凌げるはずだ。
俺は鍵を握りしめた。 元凶だと思っていた男から託された、命のバトン。 見上げれば、遠くのビルの屋上から、俺たちを観察するような冷たい光が見えた。
……分かった。 必ず、全員で生き残ってやる。
俺は車に乗り込み、アクセルを踏み込んだ。 バックミラーの中で、雨に打たれながら立ち尽くす馬島の姿が小さくなっていく。
本当の敵は、まだ闇の中にいる。 三十二回目が来る前に、俺はこの世界の仕組みそのものを壊さなきゃならない。
__________




