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『借金地獄で夜逃げした俺、川に落ちて死に戻ったけど、何度やり直しても家族が死ぬ無理ゲーが攻略できない』  作者: 沼口ちるの


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終わりの始まり

窓ガラスを叩く雨音が、うるさいほどに響いている。 築四十年。 カビ臭い六畳間。 チカチカと点滅する蛍光灯の下で、母さんが震える手でスポーツバッグに通帳を押し込んでいた。


良太、美咲……ごめんね。本当にごめんね。


耳にタコができるほど聞いた、母さんの謝罪。 坂口良太、十八歳。 俺は何も言わずに唇を噛んだ。


責めることなんてできない。 女手一つで俺たちを育ててくれた母さんだ。 「絶対に儲かる」なんていう詐欺みたいな投資話に騙され、闇金に手を出したのも、すべては俺と妹を大学に行かせるためだった。


けれど、現実は非常だ。 借金は雪だるま式に膨れ上がった。 昨夜、黒塗りの車に乗った男たちが玄関先で言った言葉が、俺の脳裏にこびりついている。


妹さん、可愛い顔してるねぇ。


その瞬間、俺の中で何かがプツンと切れた。 夜逃げだ。 それしか、美咲を守る方法はない。


お兄ちゃん、怖い……。


部屋の隅で、美咲が俺の袖を掴んでいる。 まだ十五歳。 制服のまま震える妹の頭を、俺は力強く撫でた。


大丈夫だ。 俺が絶対に守るから。


深夜二時。 外は台風の影響で、横殴りの雨が降っている。 この嵐なら、きっと奴らの目もごまかせるはずだ。


行くぞ。


俺は玄関の鍵を開けた。 傘なんてない。 俺たち三人は、泥のような闇の中へ向かって走り出した。


__________


 


目指すのは隣町の駅だ。 電車はもうないけれど、そこで知人が手配してくれたトラックに乗せてもらう手はずになっている。


俺たちは近道を選んだ。 普段なら穏やかな川沿いの土手道。 けれど今は、増水した濁流が轟音を立てて渦巻いている。


きゃっ!


ぬかるみに足を取られ、美咲が転んだ。


美咲!


俺が駆け寄ろうとした、その時だ。 背後から強烈なヘッドライトが俺たちを貫いた。 鼓膜を揺らすエンジンの唸り声。 間違いない。あの黒塗りの車だ。


見つけたぞコラァ!!


男たちの怒号が、雨音を切り裂いて飛んでくる。


走れ! 振り返るな!


俺は叫び、美咲の手を引いて無理やり立たせた。 母さんも続く。 だが、焦りが最悪の結果を招いた。


パニックになった母さんが足を滑らせ、美咲にぶつかる。 そこは、ガードレールのない古い橋の上だった。


あっ……。


誰かの短い悲鳴。 バランスを崩した三人の体は、スローモーションのように宙に浮き……。


ドブンッ!!


冷たい衝撃。 漆黒の濁流が、俺たちを飲み込んだ。


痛い。 冷たい。 息ができない。


美咲の名を叫ぼうとして、口の中に大量の泥水が流れ込む。 薄れゆく意識の中で、俺は妹の手が離れていく感触だけを感じていた。


ああ、くそ。 死ぬのか……。 俺は、誰も守れなかったのか……。


__________

 


……た、良太! 起きなさい!


ガバッ、と俺は跳ね起きた。


心臓が早鐘を打っている。 ハァ、ハァ、ハァ……。 荒い呼吸を繰り返しながら、自分の体を確かめる。


濡れていない。 暖かい。 そこは、あの見慣れたボロアパートの六畳間だった。


蛍光灯がチカチカと点滅している。


何ぼっとしてるの、時間がないのよ!


目の前には、スポーツバッグに通帳を押し込む母さんの姿。 部屋の隅で震えている美咲。


え……?


俺は壁の時計を見た。 深夜一時五十分。


さっき、家を出る十分前だ。


夢……? いや、違う。 あの水の冷たさも、肺が焼けるような苦しさも、全部リアルだった。


お兄ちゃん? 顔色が悪いよ。


美咲が心配そうに覗き込む。 その不安げな瞳を見た瞬間、俺は吐き気を催すほどの既視感に襲われた。


まさか、戻ったのか? 死んで、時間が巻き戻ったのか?


状況を整理する間もなく、時間は無慈悲に進んでいく。


行くわよ。


母さんがバッグを持って立ち上がる。 さっきと同じセリフだ。


待って! 川沿いはダメだ!


俺は叫んだ。


あそこは増水してるし、奴らが来る。 商店街を抜けよう。


母さんは驚いた顔をしたけれど、俺の形相が凄まじかったのか、素直に頷いた。


ルート変更だ。 今度は商店街のアーケードを通る。 ここなら雨には濡れないし、車も入ってこれない。


うまくいった。 そう思った。


だが。 アーケードを抜け、交差点を渡ろうとした瞬間だった。


キキキキキッ!


耳をつんざくブレーキ音。 信号無視の大型トラックが、雨でスリップしながら突っ込んでくる。


嘘だろ……?


ドォォォォン!!


轟音。 視界が真っ赤に染まる。 コンクリートに叩きつけられた母さんの体が、ありえない方向に曲がっているのが見えた。


母さん……!


絶叫する俺の視界が、またフツリと途切れた。


__________




……た、良太! 起きなさい!


ハッとして目を開ける。


深夜一時五十分。 六畳間。 点滅する蛍光灯。


三度目だ。 俺は震える手で顔を覆った。


一度目は川で全員溺死。 二度目は母さんが事故死。


……逃げちゃダメだ。


俺は乾いた声で呟いた。


え? 何言ってるの良太、早く支度して!


逃げても死ぬんだよ! 警察に行こう、今すぐ!


俺は半狂乱で二人を説得し、交番へ向かおうとアパートを出た。


だが。 アパートの階段を降りた、その時だった。


夜逃げか? 元気な親子だなぁ。


待ち伏せしていた男たちが、そこにいた。 バットが振り下ろされる。 抵抗しようとした俺の目の前で、男が美咲の腕を掴んだ。


お兄ちゃん! 離せ!


揉み合いになる。 男がポケットからナイフを取り出すのが見えた。


やめろッ!!


俺が割って入ろうとした瞬間。 鈍い音がして、美咲の動きが止まった。 腹部から、赤い血がドクドクと溢れ出す。


あ……。


美咲が崩れ落ちる。 鮮血が雨水と混じり合い、アスファルトを赤く染めていく。


美咲ッ!!!


__________




……た、良太! 起きなさい!


四度目。 五度目。 六度目。


逃げる時間を早めたら、強盗と鉢合わせた。 家に籠城したら、放火された。 母さんを置いて二人で逃げようとしたら、罪悪感で足が止まり、結局追いつかれた。


七回、死んだ。 ある時は母さんが。 ある時は妹が。 そして必ず、最後には俺も。


深夜一時五十分。


俺は畳の上に座り込んでいた。 母さんは必死に荷造りをしている。 妹は震えている。


この光景を見るのは、もう八回目だ。


良太、靴紐結んで。 走るわよ。


母さんの背中を見つめる。 俺の目からは、もう光が消えていたと思う。


外からは、俺たちをあざ笑うかのように激しい雨音が聞こえる。 これからどんな選択をしても、誰かが死ぬ未来しか待っていない。 それを知っているのは、世界で俺だけだ。


……うん、分かった。


俺は立ち上がる。


絶望という名の泥沼。 もがけばもがくほど、深く、深く、俺たちを沈めていく。


それでも俺は、終わりのない夜へと、また一歩を踏み出すしかなかった。


__________

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