涙の行方
落ち合う場所として指定されたウェンダーの町はずれの森に到着したのはニーヴを発見してから十日後のことだった。巨狼であるニーヴを連れていくにはマスクェイナに来た道は危険であったため、山道や森の中を通って慎重に進んでいった。道中で、人に遭うこともなく、危惧していた涙の騎士の新たな追っ手の気配もなかった。怪我を負っていたニーヴもシャイナも、簡単な手当てだけだったのに、ウェンダーの領内に入る頃には癒えていた。
指定された森の深部には不自然な更地があった。梢が消えた空から降る日差しは大地いっぱいに広がり、真新しい木造の家屋が中央で光を浴びていた。
上から押し潰されたように、平べったく横に広がる家屋の屋根に背の低い煙突が一つ付いている。風通しの良さそうな窓がいくつか並び、それが途切れたところに入口らしい扉があった。扉は両開きになっていて、高く幅広い作りでニーヴでも入れそうな大きさだった。
窓の枠に少女の顔が見えた。少女はニーヴたちを見つけると、何処かへと駆けだし、それから少しの間もなく、扉から飛び出してきた。
「ニーヴ!」
ニーヴも少女の方へと駆け寄った。しがみつくようにしてニーヴに抱き着く少女の目にはきらりと光るものがあった。
「良かった、無事で。怪我は平気?」
「ええ、ご覧のとおりです」
その声が聞こえたのはシャイナだけだった。傷を負っていたあたりをまさぐるレイサリスに、ニーヴは制する声を掛けるが聞こえている様子はない。聞こえないのか、と呟いたシャイナにレイサリスが反応した。
「ニーヴの言葉が分かるのね」
シャイナは渋りながらも、ニーヴに代わって怪我が治っていることを告げた。
「見ての通り、傷は塞がった。面倒なことをさせてくれる。貴様ら主従で言葉が通じないのに、どうして私にだけ奴の声が聞こえねばならんのだ」
「天使様は力がお戻りになられていないのだから当然だろう。暫くは俺の言葉を伝える役目も担ってもらうぞ」
ニーヴの救出から自分の思い描いていた状況にならなかったため、シャイナの苛立ちは増していた。喉の奥から込み上げる怒りを、今すぐにでも吐き出したいと思った。
開きっぱなしの扉からシプティアが出てきた。その後からギアソンものっそりと現れる。シプティアは一目散にニーヴへと向かっていき、ギアソンは苦い顔をしてシプティアを一瞥した後、ムーフェとザンに労いの言葉を掛けた。
「ご苦労様です。貴方たちならば成し遂げてくれると思っていましたよ。シャイナさんも、ご協力ありがとうございます」
締まりのない笑みを浮かべてシャイナの頭を撫でようとした。シャイナは頭を背けてさり気なく躱し、出来上がりつつある人の輪からそろそろと離れていった。誰もシャイナに構わなかったのは、それぞれがこの再会で得たものを確かめる必要があったからだった。それをシャイナは寝そべって遠目から眺めた。
シプティアはニーヴに近付き、好奇の眼差しで見つめた。ニーヴは訝しがったが、レイサリスが彼女を紹介すると、小さな唸りを止めた。
「彼女はシプティア。ギアソン先生のお弟子さんで、とても聡明な人よ。色々な研究をしていて、今は私たちのために、奇跡の力を解明しようとしてくれているの」
レイサリスは続けてギアソンの方に体を向ける。
「あの人がギアソン先生。どう? 私が言ったとおりの人でしょう? 此処にいる人たちはみんな、私を助けてくれる優しい人なの」
紹介されたギアソンは目配せだけして、ムーフェとの会話を続けていた。
「随分と立派な家を用意してくれたね」
「頑張りましたよ。貴方たちが帰ってくるまでに完成できて良かった」
「誰の手を借りたんだ? 此処らの木を伐って、綺麗にして、これだけの大きさの家を作るなんて、軟弱なあんたと弟子、それにレイシーが加わったって無理なのは明らかだ」
「それについての説明するのなら、中に入ったほうが早いでしょう。皆さん、お疲れでしょうし、新しい我が家でお寛ぎください」
ギアソンが皆を促して、家屋の中へと入っていく。シャイナもレイサリスに背中を叩かれてその後ろを追う。両開きの扉はニーヴもなんとか潜ることが出来た。入口は大広間となっていて、奥に通路が続いている。ただ、その通路はニーヴには狭く、この大広間に腰を落ち着けることになった。ギアソンは一人、その通路を行き、一同はギアソンが戻ってくるのを待った。その間、シプティアは興奮を抑えることなく、ニーヴの体を観察していた。味方だと分かっていても、気味悪さが勝って視線だけを合わせないようにするニーヴに、レイサリスは人見知りをして緊張しているだけだと楽観視し、シャイナは思いがけない憂さ晴らしを得てほくそ笑んだ。
程なくしてギアソンが戻ってきた。隣には白髪の男がいた。整った身なりと口髭にシャイナは既視感を覚え、ついでその人物に対する記憶が二つ、蘇った。一つ目は、地下の闘犬場でのこと。意識を失いかけていた時、ギアソンと共に現れたのがこの男だ。そしてもう一つは更に前、涙の騎士としてウェンダーに赴任していた時、彼と会っていた。覚えていられたのはこの男の肩書きがためだ。そして当然、その名も知っている。ギアソンはシャイナが想定していたものと同じ言葉で男を紹介した。
「ウェンダーの領主、デイヴン・バーキニアです」
バーキニアは不敵な笑みを浮かべて、驚いているムーフェとザンを見た。絶句するムーフェたちに、バーキニアは更に顔を崩した。
「期待通りに驚いてくれるではないか。結構結構、そうでなくては意味がない。紹介の通り、私がデイヴン・バーキニアだ」
「なぜ、ウェンダーの主がこんなところにいるんだ?」
ムーフェが絞り出すようにして尋ねると、バーキニアは機嫌良く答えた。
「端的に言えば、ギアソンに協力しているからだ。そこのシャイナ君が頑張ってくれたからね。どうも、シャイナ君。あの時は良い試合を見させてもらった」
「そういうことか。あのくだらない戦いはウェンダーの領主を味方につけるためのものだったのか。まさか領主があのような法外の場所を許し、あまつさえ己もそれを利用しようとは、なんと腐った町か」
それを聞いたレイサリスがシャイナを戒めた。
「酷い言い方をしては駄目よ。領主様はギアソン先生のお父様なんだから」
「はあ?」
シャイナだけでなく、ムーフェとザンも間の抜けた声を発した。バーキニアは芯の通った大きな声で笑った。
「つくづく良い反応をしてくれるな。その通り、ギアソンは私の末子だ」
「そんなはずがないだろ。バーキニア家の領主の子は二人、あんたの後継者で側近を務めるゴルツと、妹で外交の任に就くハルネだけだ。いや、待てよ……」
ムーフェは眉間に指を当てて、何かを思い出そうとする。しかし中々、思い当たるものが見つからないらしい。バーキニアはじれったくなったのか、自ら助け船をだした。
「二十八年前、バーキニア家に三人目の子が誕生するはずだった。しかし、その子は生まれるやいなや、息をすることなく、目も開けないままに死んでしまった、というのを聞いたことがあるようだ」
「そう、それだ! まさか、その赤子は死んでいなかった?」
「その通り。私の思いつきで死んだことにした。館の外で秘密裏に育てて、彼は貴族社会とは無縁の自由な人間になってもらった。それが奔放な歴史研究家になるとは思いもよらなかったが、そのおかげで天使と会うことが出来たのだから喜ばしいことなのだろう」
気が狂っているとしか思えない。バーキニアの血脈の一つを自ら潰して、代わりに自由人を作り上げるなど、利にならなすぎる。しかし、そのバーキニアの狂気は確かに血筋を感じる。ギアソンから時折感じていた狂気はこれから引き継がれていたのだ。
「普段は互いに干渉はしないようにしていたのだが、ギアソンから天使の話を聞き、力を貸してほしいと頼まれたので試させてもらった。結果、シャイナ君は私の期待に応えたので、ギアソンの望みを叶えることとなったわけだ。この家を作るのも私が手伝ってやったのだ。安心したまえ、これで終わりではない。君たちの目的は私の野望とも関わっている。それを達成するために協力しようじゃないか」
「その野望ってのは涙教を潰すことかい?」
ザンがいつになく剣呑な面持ちで問いかけた。
「改めて聞く必要もなかろう。君たちには今まで、そのための仕事をしてもらっていたのだから」
これにはレイサリスが反応した。漏れ出た声にムーフェが苦笑いを向けた。
「前に話したよな。ウェンダーにお得意様がいるって。そのお得意様ってのがバーキニア家ゴルツなのさ。だけどやっぱり、あんたの指示があってのものだったか」
「君たちに調べてもらった涙教の闇という闇は、彼らを断罪する証拠として充分だ。それを隠蔽していた聖王も裁かねばならない。此方の方は任せてくれたまえ。君たちの計画に則り、涙想祭で全てをひっくり返してやる。奴らに気取られてはまずいからな。それまでは陰ながら支援させてもらう」
バーキニアはギアソンに無言で頷き、帰っていこうとした。入口の真横にいるニーヴの前で立ち止まると、物珍しそうに全身を眺めた。
「君は闘犬には向かなそうだ。試合を楽しめなくなりそうだからな。まあ、それ以前に大きすぎて地下に入れないか」
愉快そうに大笑いしながら、バーキニアは出ていった。シャイナは自分が知っている領主としてのバーキニアを見たことがある。ウェンダー赴任直後、領主館へ行った際にその姿を見て挨拶も交わしたが、年を重ねていながら逞しさを漂わせる佇まいと、隙のない厳格さを感じさせる話し方をしていた。それが、奇抜で悍ましい思考を持つ狂人の姿を明らかにし、その表と裏の顔の差が恐ろしさを増長させていた。
ウェンダーに反乱の意思があると分かっても、それを告発する方法はない。ニーヴが鋭い視線を向けてきたので目を伏せた。
「お付きもなしにやってきたのか」
呟くムーフェにギアソンが答える。
「まさか。外で待ってますよ。心配は無用です。あの人のことはもう考えなくていいです。僕たちがこれから考えるべきはただ一つ。涙の杯をどうやって手に入れるかです。役者はもう揃い切りましたからね」
「役者だけじゃ足りませんよ。傭兵諸君、例の物は手に入れてきたのか?」
シプティアはムーフェに立ち、強請るようにして掌を向けた。ムーフェは腰に下げた革袋から薄青の石を摘まみ上げてそこに落とした。その輝きを見たシャイナは早足でシプティアに近付いた。
「どうしてその石を持っている?」
説明を求められていることに気付いたムーフェは、下は向かずに、同じく近付いてきたギアソンの顔を見ながら答えた。
「あんたの弟子に涙の騎士から青い石を取ってくるように頼まれてたんだ」
つまり、ムーフェとザンは涙の騎士を倒した後、胸当てから薄青の石を捥ぎ取っていたという。それを指示していたシプティアからなんとも憎らしさを感じる。
「研究材料は多いに越したことはないので。しかし、一つだけか? 騎士は三人いたのだろう?」
「残りの二人についてはそちらの犬様方に聞いてくれ。死んだようだが、詳しくは分からない」
「ではレイサリス、彼らの通訳をしてくれるか?」
そうしてレイサリスの口を介して、何が起きたのかが語られた。話し終えた後も、聖域や騎士の持つ奇跡の力などを詳しく知りたがったシプティアのために、ニーヴからシャイナ、シャイナからレイサリスへと言葉を繋げていった。シャイナはいちいち話したがらず、文句を挟んだので時間が掛かり、その日一日を要してシプティアからの質問攻めは終わった。
翌朝、朝食を終えて外で寛いでいるレイサリスと獣二匹の前に、シプティアがやってきた。からからと照る日の下で座り込むレイサリスたちはシプティアを思い思いに見上げた。
「シャイナくんがいない間に、あの石について進捗があったのだ。ニーヴ殿にそれを見ていただき、了見を得たい。よろしいかな?」
「長くならないのなら構わない」
昨日のことが堪えたらしく、ニーヴは同じ轍を踏みたくないと身構えていた。シャイナから寸分違わぬ言葉を貰い、レイサリスは欠伸を堪えながらシプティアに伝える。
「助かる。まずはこれを見ていただこう」
シプティアは薄青の石を取り出した。日の光を受けて輝きを増しているそれは、眩しさを感じるほどだった。
「これが昨日、ムーフェ殿が回収してきた青の石。どうだ、シャイナくんには見慣れたものだろう?」
「贋物は常に見えるところにあったのだがな。本物となると眺める機会もないし、興味もない」
そうぼやきながらも、右の前脚を出した。言うな、とレイサリスを制して話は進む。
「そう。ウェンダーにいる涙の騎士たちのものも、これと同じ輝きを胸元に見せている。だが、これはどうだ?」
そう言って、出したもう一つの石。それはシャイナが隠し持っていたものであるはずだが、輝き方が以前と違った。青く透明感のある石の中に、日の光を反射したものとは異なる、黄金色の輝きを秘めていた。
「これは間違いなくシャイナくんの石だ。だが、輝き方が変わった。レイサリスの涙を垂らしてみたら突然、このような輝き方をし始めたのだ。それから、全く輝きは衰えることなく、この中にあり続けている。しかし、これ以上の変化はないのでニーヴ殿と、ついでにシャイナくんの知恵を借りたいというわけだ」
レイサリスはその石の輝きを既に見ていた。シャイナたちがニーヴの捜索に向かっている間に、シプティアはその様を嬉々として見せてくれたのだ。黄金に変化した光に、美しさを感じた他、己の涙がそのような変化を齎したことに、天使として何かが目覚めたのかもしれないとも思った。ニーヴの顔を恐る恐る窺いながら、シャイナの言葉に耳を傾けた。シャイナは暫く黙っていた後に、ニーヴの言葉を伝えた。
「その石自体に覚えはない。だが、この大地の根源たる力が秘められているのは感じる。それと渇望、もしくは憧憬か。天へのそういった思いのようなものが溢れていて、気味が悪い。その涙を食らった方の石は歓喜しているのか、力を漲らせているというのは分かる。しかし、それだけだ。それが何を意味しているのか、どういうふうに影響を及ぼすのかは知らない。ただ、あの涙の騎士どもと戦ったときに、彼らの胸元にあったそれは、彼らの力に呼応し、奇跡の力を高めていたようには見えた」
シプティアはにんまりと口角を上げた。
「大地の根源……面白そうな言葉ではないか。それに感情のようなものをこれらは秘めている、と。明確な答えは得られなかったのに興味は尽きず、更に湧いてくるばかり。ニーヴ殿、この二つの石を試しに使ってみてくれないか。やはり未知の解明には実験実証は欠かせないのでね」
ニーヴは傍から見ても分かるほど嫌そうな素振りをして躊躇っていたが、シプティアは石を突き出しながら近づくと、ほんの少し後退りしながらも、それぞれを鼻先で僅かにだけ触れた。
「確かに、高まりはある。だが、己を穢されそうで触れていたくない。よくもこんなものを身に付けていられるな。俺は耐えられない。或いは、純粋たる力の持ち主でない人間だから、何も感じずに高まりだけを享受できるのか。この黄金色の方は、妙だ。高まりは其方のものと変わらないが、何か、言葉にしがたい何かがある。おかしい。まだ天使様の力はお戻りになっていないのに、涙が作用したのか? だとしても、このような石に何故?」
「効能としては変化なしか。その何かという判然としないものをもう少し詳しく知りたい。もう一度、触ってみてくれないか」
シプティアが催促するも、ニーヴは顔を背けて拒否した。シャイナは束縛から解放される力を得られるかもしれないと、ニーヴに差し向けられた黄金色の石をやにわに触った。肉球に冷たく固い感触を得たが、それ以上は何も伝わらず、躍起になってもう一方の脚で触れようとするも、シプティアに手を引っ込められた。
「そのがっつき具合で分かるぞ。何も起こらなかったのだな。ならば、君で試すことはない」
「勝手なことを言ってくれるな。まだ何も感じなかっただけだ。もう少ししっかりと触れば、何かが起こるかもしれない」
シャイナの言葉をレイサリスが伝えた。シャイナは余計な事を口走ったと後悔したが、遅かった。
「ほら、やっぱり何も起こらなかった。しかし、ニーヴ殿も嫌と申すならば、どうするか」
シプティアはそう呟いて、黄金色の石を見つめる。すると突然、それを口の中に放りこみ、喉を上げて苦しそうにしながら飲み込んだ。突拍子のない行動に、レイサリスたちは唖然としてそれを見ているだけだった。
当の本人は小さく息を吐いた後、体の中に変化を感じようとしているのか、腹を触ってみたり、胸に手を当てたりしていた。漸く事態に追いついたレイサリスが動揺をそのまま言葉にした。
「何をしているんですか。そんなものを飲んで、危ないじゃないですか」
「ふっと、浮かんできたんだ。体内に取り込んでみるのはどうか、と。どうせ二つあるのだから、一つくらいそれで失ったって構わないだろう?」
「そうではなくて、シプティアさんの身に何か良くないことが起こるかもしれないと心配しているんです」
レイサリスの語気は強くなっていた。無謀な試みに自らの命を捧げようという愚行に、怒りを感じていた。それも偏に、シプティアの身を案じてのことだ。これでシプティアが死んでしまうようであれば、怒りが悲しみに転じてしまうだろう。このようなことで涙など流したくなかった。
シプティアはそんな心配を他所に、己の変化を確かめることに集中していた。しかし結局自分では変化に気付けなかったので、ニーヴに助けを求めた。
「ニーヴ殿は私に何か変化が起きたとは感じないか?」
ニーヴはシプティアを睨むようにして見つめた。
「消えたのか、溶けてお前に馴染んだのか。とにかく、気味の悪かった感覚はなくなった。分からないな。これでお前に奇跡を扱う力が宿るなら、俺の知る範疇にない事象ということになる」
「奇跡を賜った実感はないのだが」
シプティアは文献から得たであろう知識で奇跡の行使を幾度か試みたが、何も起こらなかった。もう一度、よく調べてくると家に入ってくと、それと入れ替わりでギアソンが出てきた。シプティアを一瞥しつつ、足取りはレイサリスたちの方へと向かっている。シャイナはこれ以上の面倒を掛けられたくないと思い、そそくさとその場から離れた。ギアソンから呼び止められなかったことに安堵し、彼らの声が届かない場所でひと眠りすることにした。
「またシプティアが何かしたようですね」
レイサリスはギアソンに先程までの出来事を伝えた。ギアソンは驚いた顔をしたかと思うと、すぐに呆れたように溜め息を吐いた。
「本当にあの子は無茶をする。大丈夫です。もしシプティアに何かあったとしても、貴方たちに罪はありません。全ての責任はシプティア自身にあります」
ギアソンはそう言ってひと呼吸おいた後、シプティアのことなど忘れたかのように表情を変えて再び口を開いた。
「昨日、父から報告があったことを、レイサリスさんに伝え忘れていました。レイサリスさんの村のことです。父の密偵が村の様子を見てきたそうなので、それを」
故郷に何かあったのだろうか。レイサリスの胸に不安が過った。それが顔に出ていたのだろう。ギアソンは優しい笑みを作り、レイサリスの頭を撫でた。
「安心してください。村に変化はありません。涙の騎士が来ることもなく、いつも通りの生活を送っています。ですが、行商人を装って入った密偵に、村の人たちは皆、こう聞いてきたらしいです。レイサリスという女の子を知らないか、と。村の人たちは皆、貴方の安否を案じています。特にレイサリスさんの御両親と思しき夫婦は、縋りつくようにして尋ねてきたようですよ」
不安は形を変えて、レイサリスの胸を突いた。両親が自分を思ってくれている。村の人たちもそう。罪を着せられ、行方を晦まし、日も充分に経ってしまったのに、誰も自分を忘れずにこの身を心配してくれている。村の人たちの顔が次々と頭の中に浮かび上がってくる。村を仕切る厳格なホルブ村長。隣の家に住んでいて、仲睦まじい新婚のオック夫妻。釣り好きで、よく魚を分けてくれるバンディおじいさん。お昼寝好きのラネー。村一番の狩人イグニス。毎日一緒に遊ぶニィネ。涙を流せる私を気味悪がらずに愛してくれた、大好きなお父さん、お母さん。
レイサリスは目の奥が熱くなるのを感じた。涙を堪えようと瞼を閉じて俯く。ギアソンは頭に乗せていた手を背中に持っていき、宥めるようにして擦り、抱きしめてくれた。それが呼び水となり、レイサリスは声を上げて泣いた。会いたい。帰りたい。あの頃に戻りたい。様々な願望、今や叶わぬそれらを思い、涙が流れた。どうして私が天使なのだろう。ただの子供でありたかった。平穏な生活をしていたかった。涙なんて流せなければよかったのに、なのにこうして涙を流すと、悲しみは体の外へと消えて楽になる。寂しさも苦しみも、涙となって流れる。乱れた思考も短慮な意志も落ち着き、元に戻っていく。
私は、負っている。涙を、それそのものを負っている。自分が何者か、何をしなければならないのか。己の内に生じている空虚を埋めてからやっと、私は私に向き合えるのだ。
レイサリスは泣くのを止めて、ギアソンの胸から顔を離した。どうも最近、泣きやすくなった気がする。村にいた時は我慢が効いたのだが、今は感情に屈して涙が流れる。薄青の石を黄金に輝かせたことといい、泣きやすくなったのも天使として何かが目覚めかけている兆しなのではないかと思った。
涙想祭、涙の杯を手に入れるその時は近付いている。それまでは、まだ人として振舞い、皆の手伝いをしよう。私を助けてくれる心優しき人たちに報いよう。
シプティアの体に異常はなかったが、奇跡の力は宿ったらしい。次の日に彼女が見せたのは、掌の上で淡く光る小さな球だった。それから日に日に上手く扱えるようになっていき、光の球はシプティアの手と同じ形を取って、意志通りに指を動かし、飛び回るようになった。
「よもや本当に奇跡の力が宿るとは」
と驚きを見せたのはニーヴだ。シプティアは得意げに光で出来た手を宙でぐるぐると回した。
「成功したとは言い切れない。まだあたしでしか試していないのだからな。石はあと一つあるが、それを誰かに食わすには勿体ない。悩ましいところだ」
シャイナは石を食わせろとせがむも聞き入れてもらえず、もう一つの薄青の石は涙想祭の日まで何もなされないままとなった。
夏を越えて、暑さの残る秋に入ると、モースタイン聖王国の各地から聖王都モースズに多くの信奉者がやってくる。百年に一度のその祭には人々に涙とはどんなものか思い出させること、神に背負わされた罪を今一度認識することを目的として行われる。習わしとして、人々は涙を流す仕草をしながらモースズの町の中を練り歩く。泣くことを知らない彼らは思い思いに涙が流れる時に行う嗚咽や頬を伝う涙を拭うふりをして、神へ己の善行を告げて許しを乞い、祈る。そしてポーポネート大聖堂からおわした教皇より、信者のために救いの御言葉が贈られることとなる。生きている内に一度あるかないかの祭事であり、教皇ハーヴェルを直接見ることができる貴重な機会のために、熱心な信奉者以外にもそれほど涙教の影響を受けていない地域の人々も見物にやってくるという。実際モースズの近くまで来ると、聖王都に向かっていく人の流れは絶えなかった。中には既に泣いているような振る舞いで向かう者たちもいた。思い思いに泣くその奇妙な姿を見て、レイサリスは哀れみを感じた。
その人の流れが不意に変化した。武装した集団が道幅から大きくはみ出して列を成し、歩調を乱すことなく整然と進行していく。歩兵、騎兵、攻城兵器、破城槌、それらの向かう先は聖王都だ。打倒ハーヴェルを掲げ、旗にはウェンダーの領主、バーキニア家の紋章が徴されていた。
軍隊を構成するのはバーキニアの兵だけではなかった。ウェンダー周辺の領主の私兵も加わっているほか、教皇に味方するべき涙の騎士の姿もあった。どうやら、現在の涙教への不満と不審を抱いた司教や涙の騎士をバーキニアが唆して仲間に引き入れたらしい。それ以外にも報酬に目が眩んだ騎士も混じっているようにシャイナの目には見えていた。
掻き集めたであろう兵士の総数は千人程度。それをバーキニアの反乱と気付いたのは、モースズの町を囲う城壁にまで迫ってからだ。既に町の中には信奉者たちが犇めくほどに集い、警備に多くの兵が割かれていた。襲来の報は町に広がり、慌てふためく住民、信奉者が安全であろう王城まで逃げようとしていた。更に既に内部に侵入していたムーフェとザンがあちこちに火を放ち、更に大きな混乱を招いていった。兵たちは出動しようにも無辜の民たちで作られた沼に嵌まり、一向に城壁まで辿り着けない。焦る王都の兵たちを嘲笑うかのように、バーキニアの兵たちは城壁突破の布陣を悠然と整えていた。
モースズ周辺は戦の匂いが充満し、内部は擾乱で混沌としていた。おかげで罪の荒れ地に走る一団には誰も気付くことはなかった。レイサリスたちは涙の杯を求めてポーポネート大聖堂へと駆けていった。
ギアソン、シプティアは馬で駆け、レイサリスはニーヴに乗っていた。シャイナも己の足で彼らに並んで走る。涙の騎士となった時の記憶が蘇ってくる。その時に見た光景と変わらない、命の影すらない大地を、今度は異なる思いで走っていた。
聖下はどうして自分に涙の簒奪者を捕らえるように命じたのか。教えてくださらなかったことや、自分以外にそれを教えて任を引き継がせたことも気になる。私は貴方を、貴方だけを信じていたのに、どうして全てを任せきることなく、知るべきことも伝えずにいたのか。早くこの契約から解放され、真を問いたい。正しさに翳りがあろうと、納得できる答えさえ得られれば、貴方のために死のう。そうでなければ。
考えられたのはそこまでだった。いつの間にか大聖堂の立つ丘の下にまで来ていた。シャイナは先導し、崖の部分を切り崩して作られた螺旋の道を駆け上がっていった。登り切った先には乾いた大地の砂に侵された厳かな聖堂が眠っているかのように静寂を孕んで佇んでいた。
皆が聖堂に見惚れている中、ニーヴだけは振り返って荒れ地を眺めていた。とりとめのない呟きのように、ニーヴの思考がシャイナの頭に容易く届いた。
「この物悲しさはなんだ」
無意識に此方に言葉を飛ばしたのだろうと思えるニーヴの言葉は、シャイナの頭の中にも残らずに、次の瞬間には消えていた。シプティアが感嘆を大きな声で表して聖堂を見上げていた。
「間近で見ると厳めしさが際立つ。千年近く、これほどの巨大な建造物が朽ちることなく立ち続けるなんて、まさに奇跡が宿っているのだろう」
ギアソンは好奇心を押さえつけているのか、口元を手で覆いながら、両目を大きく見開いて聖堂を凝視していた。
「最早これは歴史の塊と言っても過言ではない。当時の建築技法、流行、形を成す材料も、千年前からそっくりそのまま残っているのですから。ですが、これの調査は全てを終えてからにしましょう」
まるで自分に言い聞かせるようにして言うと、やや急いたような足取りで聖堂の扉の前まで歩いていった。シプティアも続き、レイサリスたちも二人の後を追って扉の前に立った。
金の蔦が絡むような意匠が施された白い扉は、ニーヴさえもちっぽけに見えるくらいの大きさだった。見るからに重々しいそれを、ギアソンは試しに両手を押し付けて開けようとしたが、やはり開かなかった。
「当然ですが開きませんね。勝手に開いた、とシャイナさんは仰っていましたし、これには奇跡の力が込められているのでしょう。何に反応するかが分かれば良いのですが」
シャイナは自ずから扉の前に立ってみた。以前、自分に反応して開いたのだから、同じように開くと思ったが、そう簡単な仕掛けではなかった。扉は頑なに閉ざされたまま、シャイナを鍵として認めなかった。シャイナは尻尾を下げてとぼとぼと退いた。代わって、シプティアが扉の前に立った。
「奇跡の力が関与しているなら、こちらも奇跡の力で応えてみるべきだろう」
奇跡を使うのに慣れきっていたシプティアは光を生み出し、自分の右手と同じ形にして扉へと向かわせた。その指先が扉の表面に触れると、接触した辺りが強く発光し、扉が僅かに揺れ始めた。掌をぴったりとくっつけると、更に輝きは増し、扉も悶えるようして揺れ出した。開くことには抵抗し、耐えているようにも見えて、シプティアも光の手を強く押し当てるようにしても、開けまいと堪えた。
シプティアの体力が先に尽き、光の手は霧散してしまった。喘ぎ膝をついたシプティアは、恨めしそうに扉を睨む。
「解法は間違っていなさそうなのに」
ギアソンは扉を押してみるも、再び頑強な壁のような状態へと戻っていた。
「力尽くで開くというのなら問題はない」
今度はニーヴが扉に近付く、目でギアソンに離れるように促してから、体を扉に押し当てる。シプティアの時と同じようにニーヴと扉の間に強い光が生じると、扉はまた悶え始める。ニーヴが踏み込み、前へと進もうとすると、扉は悲鳴を上げて口を開けた。しかし、体を滑り込ませるには狭く、安定もしていない。ニーヴも踏ん張るが、それ以上に開くことはなかった。
体力が戻ったシプティアは立ち上がってニーヴに加勢した。光の手は拳を作り、勢いをつけて扉を殴った。拳がぶつかった瞬間、視界を覆うほどの白い光が放たれて、全員の目を晦ませた。レイサリスは瞼の裏に焼き付いたそれが治まるまで待ち、ゆっくりと目を開いた。
扉はニーヴでも通り抜けられるくらいに開いたまま、動きを止めていた。ニーヴは舌を出し、息を荒げながらも疲れ果てている様子はなく、もう入れる、ということを言いたそうにして、皆の顔を見ていた。
シプティアは力を使い果たしたようで、地面に倒れ伏して小さな呻き声を上げた。ギアソンはシプティアに寄り添い、水袋を彼女の口に近付けた。
「この子は僕が面倒を見ておきますので、先に入っていてください。くれぐれもご用心を忘れずに」
レイサリスはシプティアに近寄り、耳元で囁いた。
「ありがとうございます、シプティアさん」
シプティアは力なく笑った後にかすれ声で応じた。
「礼は天使の力を取り戻してからにしてくれ」
レイサリスも微笑みで返し、ギアソンには無言で頷くと、シャイナに急かされて聖堂へと入っていった。
聖堂の中へと踏み込むと、眼前には高く伸びる列柱と赤い敷物が道を作って最奥の祭壇まで続いていた。ステンドグラスが照らす祭壇の上には光を反射し輝く白銀の杯があった。
「あれが涙の杯か」
その声にレイサリスは驚いて横を見た。そこにいたのは、人の姿をしたニーヴだった。ニーヴも人の姿になっていることに気付いていなかったのか、レイサリスの視線を受けて己の体へと視線を落とした。
「聖域でもないのに元の姿に戻っている。此処はなんだ? それに臭いも酷い」
ニーヴは顔を顰めていたが、レイサリスもシャイナも、その臭いを感じなかった。それに二人とも涙の杯が気になってしまっていた。レイサリスはなんとなく嫌な気持ちを抱き、シャイナは懐かしさと苦々しい記憶に惑わされた。
異なる理由がありながら、三者ともが狼狽えていると、祭壇近くの柱の陰から祭服を男が出てきた。奢侈に過ぎる冠を戴き、純白の胸元に薄青の石を輝かせるその男は、知らずとも何者なのかを悟らせた。
「貴様、教皇だな。なぜ、此処にいる?」
ニーヴはレイサリスを庇うようにして前に出て、近付いてくるハーヴェルを睨んだ。
「憶測にすぎない。もし涙の天使がその力を取り戻し切れていないのなら、杯を奪いに来るだろうと。モースズには奇跡で作った私を遣っておいて、簒奪者が来るのを此処で待っていたのだ」
ハーヴェルはニーヴの後ろから覗くレイサリスを見つめた。
「それが涙の天使か。どうやって杯から涙を掠め取ったかは知らぬが、あれはもう私の物だ。奪われたものは返してもらおう」
異様なまでに青い瞳がレイサリスを捉え、その視線で射殺そうとするのを感じた。強い殺意にレイサリスは後退りし、ニーヴは盾となってハーヴェルの前に立ち塞がった。しかし、シャイナが更にニーヴの前に躍り出て、ハーヴェルに近付いていこうとした。
「聖下、私です、シャイナです。聖下の勅命を果たせず、このような姿での帰還をお許しください。本来であれば、死をもって償うべきなのですが、今暫しの時間をください。釈明しようなどとは思っていません。ただ、聖下にお聞きしたいことがあるのです。私に聖域についてお教えくださらなかったこと、私の後続で任に就いた騎士たちにはそれが知らされていたこと。生存し、彼らの懐にいたにもかかわらず報告を怠っていたことは私に責任があります。しかし、どうして私には情報を与えてくださらなかったのでしょうか。聖下の信頼を賜るには、何が足りなかったのでしょうか」
シャイナは声では足らずに、喚くようにして吠えていた。ハーヴェルは眉間の皺を深くして、手で払う仕草をした。すると、シャイナの横腹に衝撃が走り、それに弾かれるようにして壁へと叩きつけられた。
「この煩い犬が報告にあった狼か? あれ以来、ノイゼンたちからの報告が途絶えたが、貴様らが殺したのだな。私が目を掛けていたシャイナまで殺してくれたのだ、小娘の命だけでは済まさぬぞ」
その犬こそがシャイナなのだとレイサリスは伝えようとしたが、先にニーヴが言葉を返した。
「世に救いを齎さんとする者の振る舞いとは思えんな。それとも獣には慈悲をくれてやる必要がないと? 人間に科せられた罪を洗うために正しき行いをするのが、涙教の教えだと聞いていたのだが」
「天界の使いが何を言う。涙の天使は死んだ。いくら善行を積み、悪意を取り除こうとも涙が戻ってくることはない。涙は私の杯にだけ溜まる。その涙は力となり、教義は私への尊崇を生み、私を頂点とした世界が作り上げられる。それで地上の平穏が保たれるのならば、神も喜ぶべきだろうに」
それは違う。涙には人々を支配する意味など込められていない。力など含まれていない。そこには人の心を豊かにし、強くする温かいものだけがあるはずだ。特定の誰かに利用されるだけのものであってはならない。レイサリスはニーヴの陰から出て、ハーヴェルに言う。
「貴方は涙を軽んじている。自分が持つべき思い、それを知らずに生きることに真の幸福はないわ。世界の平穏を望むのは素晴らしいけれど、誰もが涙を流せる世界でなければ、その平穏は偽りのものでしかない。それに貴方には慈悲が欠けている。その犬こそ貴方の騎士の一人、シャイナなのですよ」
ハーヴェルの視線が僅かにシャイナの方へ向いた。シャイナはよろよろと起き上がり、声なき言葉で再び訴えた。
「ただ、この言葉だけでも届いてくれれば私の身などいくら傷付いてもかまいません。私に真実を教えてください。私に慈悲をかけてくださるのならば、それで充分です」
シャイナが言い切る前にハーヴェルは視線をレイサリスの方へと戻した。犬となってもハーヴェルならば言葉を聞き取ってくれるに違いないと思っていた。神の言葉さえ聞き取るといわれていた教皇。生きとし生けるものへの分け隔てない愛を持つ姿も、己の身に生じた痛みで砕かれて、シャイナは困惑した。四本の脚はシャイナの思いを支えきれずにがくりと折れてしまった。
「戯言で惑わせると思ったのなら間違いだ。あれがシャイナのはずがなかろう。シャイナは私が作り上げた従順なしもべ。私を絶対とし、私に依存し、私のためなら死ぬことも厭わぬまでに心を支配したのだ。ああ、本当に残念だ。たまたま生き残った赤子を利用して、最高の懐刀を作り上げようとしたのに、ノイゼンはおろか、ゲネックやラーガの域にまで辿り着けずに死ぬとは。これならば、あの村で村人共々焼け死んでいた方が互いのためだっただろうか」
「村で焼け死ぬ? まさか、シャイナは……」
レイサリスの脳裏にムーフェとザンの過去が過った。ハーヴェルは目聡くレイサリスの表情を見、隙だらけの彼女に飛び掛かってきた。重たそうな祭服を翻し、長くゆとりの多い裾から腕が伸びてくる。節くれだった指がレイサリスの鼻先を掠めそうになるが、ニーヴがレイサリスを引っ張って救った。
レイサリスを後方へと押しやったニーヴはハーヴェルの顔を狙って拳を突き出した。金属がぶつかり合うような鈍い音がしたかと思うと、ニーヴの拳が光り始め、閃光を放つと同時に弾けた。手首から先がなくなるも、ニーヴは苦悶の表情すら作らずに、冷静さを保ったままハーヴェルから離れた。顔面に拳を受けたはずのハーヴェルだったが、その痕跡すらそこにはなく、またしても腕で払う仕草をすると、ニーヴが見えない衝撃を受けて吹き飛ばされてしまった。
そのまま壁に衝突しそうになるが、上手く壁に両足を着けて難を逃れ、受けた衝撃を跳ぶ力に変えて、ハーヴェルへと突っ込んでいった。そして奇跡の力だろうか、全身に炎を纏い、巨狼の形を取り、大きく口を開けてハーヴェルを飲み込まんとした。レイサリスは凄まじい熱を感じ、目を開けていることすら出来なくなった。瞼を庇うようにして腕で塞ぎ、熱風に飛ばされないように屈んだ。熱さも風も消えていってから腕を下ろし、瞼を開いた。
焼け焦げた床の中心で、煙を上げて動かないニーヴが倒れていた。それを見下ろしているハーヴェルは祭服が燃えて、肌を露出させていた。その浅黒い皮膚の上には怪しい輝きを放つ薄青の石がいくつも埋め込まれていた。
「なんと悍ましい力を使う。だが、今の私を殺せる者はいない。たとえ天使であろうと、それは叶わない。千年もの年月で、天の介入を許さぬほどの力を得たのだ。誰も私を止められない。私の望む世界を壊せる者はいない」
ハーヴェルは肩を震わせて、低く笑う。そして、守る者のいなくなったレイサリスにゆっくりと迫った。全身に薄青の石を埋め込んだ気味の悪さと邪悪な笑みに、レイサリスは恐怖を覚え、動けなくなっていた。ただ、ハーヴェルを見上げ、その両手が首に伸びるまで何も出来なかった。
細い首に指が掛かり、徐々に力が込められていく。体は浮かされ、目線はハーヴェルと同じになった。レイサリスは痛みと苦しみで涙ぐみ、意識も遠のいていっていたが、ハーヴェルの顔だけは鮮明に視界に映っていた。
「これで涙を取り戻せる。もう一度、私のために死んでくれ」
胸の奥にある空虚なる部分が揺らいだ。視界が暗黒へと転じ、そこに幾筋もの光が流れてくる。意識は光に導かれるようにして暗黒の先へと潜っていった。
神が地上から興味をなくしてどれだけ経ったか。奇跡を授けて歴史を作った人間たちはいなくなり、見世物としても価値がなくなり、天使たちも地上を映す水瓶には近付かなくなっていた。
私もその場所を通るのは久しぶりだった。水瓶の置かれた庭は手入れもされていないのでみすぼらしく、伸び切った雑草が茂っていたので、始めは水瓶の傍らに誰かが立っていることに気付かなかった。しかし、気配を察知したのか彼は振り返り、揺れる草の合間にその瞳と目が合った。薄い黄土色の瞳に珍しさを感じ、私は何気なく彼に近付いていった。
「まだ地上を見ている天使がいるなんて。それが貴方の仕事なの?」
彼は私を見つめたまま硬直していた。もう一度、同じように尋ねると、慌てたように話し出した。
「いえ。ただ、見ていただけです。何もやることがないので、此処で暇を潰しているんです。貴方様のように、大きな使命でもいただければ、こんなこともせずに済んだでしょうが」
彼は俯きながら、水瓶へと向き直った。大きな水瓶の水面には、地上の光景が映っている。私も彼の隣に立って水瓶を覗いた。人間たちが集落を作り、生活している様が見えた。畑を耕し、獣を狩り、機を織り、子供は遊び回り、若い男女は恋をして家族となり、老いた者は死んで弔われる。彼らの営みは安穏としていて、私の望む世界を作っていた。だが、これをつまらないと思う者がいてもおかしくはないだろう。静かに、ゆったりと流れる時間に身を任せて、人間たちは其処で生きていた。
「平和とは良いものね。人々が活き活きとしている」
「ええ、本当に。羨ましいかぎりです。人間は懸命に生きている。日々を意義あるものとしている。役目のない私とは違う」
天使は神から役目を頂く。それは生まれてきた時に自ずと芽生えるものだが、彼はそれをないと言う。それを不思議に感じたのか、この平和な世界に思いを馳せる同志を得た喜びからなのか、私は彼のことが知りたくなった。それからは時間があると水瓶の庭を訪れて、共に地上を見るようになった。
彼は自分の名前以外、何も与えられなかったという。奇跡を行使する力もなく、役目もない。それに引け目を感じて皆から遠ざかっていたら、水瓶の庭に辿り着いたらしい。以来、ずっと此処に居座り、地上の営みを観察しているようだ。
「人間はどうして挫けずに生きていけるのだろう。どうして己の生きる意味を見つけ出すことが出来るのだろう」
ふと吐かれた彼の言葉に、何気なく返答をする。
「そうね。彼らはか弱く、一人では生きていけない。でも、その生を全うし、次代へと繋げられるのは、その脆弱な肉体の内に、堅く逞しい力を秘めているからかもしれない。だから、神様も人間たちに奇跡を与えた。奇跡を得た人間が、地上に何を齎すのかが気になったのでしょう。それももう過去の話だけど」
「その、肉体の内側にあるという力はなんなのでしょう。それさえあれば、私も生きる意味を見出せるようになるでしょうか」
「人間と天使では、存在意義が異なるわ。私たちは神様に従うために生み出されたのだから、人間のように己の生き様を己で決めることは出来ない。貴方にも役目があるはずなのよ。まだその時が来ていないだけで、いずれ必ず、神様に必要とされる」
彼は水瓶から顔を離し、此方を見た。目を大きく見開き、わなわなと口を震わせていた。その口から、唾と共に怒声に近い声を発した。
「貴方には役目があるから、そうやって楽観的なことが言えるのでしょう。何もない天使のことなど、分かりはしないんだ。結局、此処には私に寄り添い、理解してくれる者なんていない。貴方でさえ私を見下すのならば、私に残された救済の道は一つしかない」
水瓶の縁に掛けていた指に力が込められたかと思うと、頭から水瓶の中に飛び込んでいった。水飛沫すらなく飲み込まれていく彼を放っておくことは出来ず、後を追って水瓶の中へと入った。水面に映る地上は揺らぎ、白い靄が覆う。冷たい空気が体に張り付き、白んだ世界を落ちていく。やがて視界は開けていき、緑の大地が広がった。生命を其処彼処に感じ、彼らの活力が世界に満ちている。空を飛ぶ鳥たちが歓迎を示すように鳴いて去っていく中、天を目指すようにしてそそり立つ丘を見つけて、そこの上に着地した。
上空から見下ろすのとは異なる、見事な光景が目下に広がっていた。鮮明に見える木々の青さには濃淡があり、付ける葉の形も枝の振り方にも違いがある。草原には生き物が群れを作って草を食んで寛いでいたり、獲物を見つけて息を潜めていたりと異なる生き様が点在している。そして、山間から流れる川の近くには人間の営みがある。田畑を耕し、家畜を飼い、家々が集った小さな村を作る。其処には老いも若きも様々な人間が、思い思いの過ごし方をしている。尊き営みに思わず目を細めてしまったが、すぐに彼のことを思い出して、辺りを見回した。
彼の気配は感じ取れなかった。天使であれば持つはずの力を彼が持っていないからだろうか。見晴らしの良い丘の上からでも、彼の姿は視認できない。近くにはいるはずだと思い、ひとまずは目下にある森の中へと降りていった。
逞しく成長した大木たちの間を縫って進み、彼を探す。彼の名を叫んでも返事は返ってこなかった。代わりに、この森を支配しているであろう大きな熊が大木の陰からのっそりと現れた。
「天の使者様ですか」
重々しい声が届いた。私が頷くと、熊は静かに近付いてきた。その巨躯を覆う体毛はほとんどが艶のない白色をしていて、瞳にも光が灯っていなかった。
「まさか、お目に掛かれるとは。この大地が天から見放されてどれだけの年月が経ったことでしょうか。天使様、どうか死に行く私にお慈悲をお与えください。この世に生を受けてから多くの時が経ちました。己が生きるために、弱き獣を食らい続けてきました。この身に流れる血が、彼らの命によって保たれていると気付いた時には既に、森に生きる全てから忌み嫌われていました。私が生きるために殺していった罪なき彼らに償いたいのです」
「償うことなどありません。彼らの命は巡り、またこの大地に芽吹くことになる。貴方の命も同じように、死して後に生まれ変わるのです。命に終わりなどありません。貴方たちはお互いが支えあって命を循環させているのですから、生きるための行いに恥じたり、負い目を感じたりする必要はないのですよ。ですが、どうしても貴方が自分を許せないというのなら救いましょう」
熊は腹ばいになり、動けなくなっていた。目も閉じてしまい、呼吸もほとんどなくなっていた。最期の力を振り絞って顔を見せてくれたのだろう。それに報いるのなら、彼の望みを叶えてやらねばならない。その顔の前に跪き、鼻づらに涙を落としてやった。
「安心して眠りなさい。次に巡ってくる時、貴方は誰かのために命を尽くせるようになる。それを償いとして、役目として生きていける。いつか、また会いましょう」
その声が届いたかは分からないまま、熊は息絶えた。涙は彼の体の中へと染み込んでいき、魂を覆った後、諸共に霧散した。熊を看取り、立ち上がるや否や、背後から声が聞こえた。
「獣にさえ慈悲を与えるなんて」
振り向くと、木陰から彼が近付いてきていた。木々の根に足を取られそうになりながらも、下は向かずに私を見据えていた。
「それだけに留まらず、魂を導いてあげるとは、羨ましい。私にはそんなことしてくれなかったのに」
「貴方にも出来るかぎりのことをしてあげたいとは思っているわ。でもそれは涙の天使としてではない。友人として貴方に寄り添いたいの」
「奇跡を持たない出来損ないの私を友人と言うのですか?」
「勿論よ。立場は違うかもしれないけど、貴方も私も同じ天使で、共に地上に思いを馳せる同士でもある。それを友人と呼ばずして何と呼ぶの? 貴方が道に迷っているのなら、解決する手助けをしたい。だから、早まらないで。一度、天界に戻ってから、じっくり考えましょう」
彼の足が止まった。初めて視線が下に落ちて、顔も伺えなくなった。
「友人……」
地面に向けて彼は呟く。それを拾い上げて、返答した。
「私たちの関係はそう表現するしかないでしょう? だって、私の役目に貴方の監視なんて刻まれていないんだから」
「つくづく貴方という御方は、慈悲深い」
重たく落ちる言葉を聞きながら、彼の方へと歩いていく。それでも、彼は私を見てくれない。目の前まで来ても、俯いたままだった。その肩に触れて、慰めようとした時、突如として彼は顔を上げた。その表情を見る間もなく、首を掴まれて押し倒された。
殺意を孕んだ指が食い込み、喉を潰す。喘ぐことも出来ずに彼の顔を見る。その顔には悲壮はなく、怒りもなく、悦に満ちた表情をしていた。
「慈悲とは即ち、傲慢と甘さを掛け合わせたものだ。それ故に、貴方は破滅することになる。しかし、満足だろう? 友に慈悲を与えられるのだから」
死を告げる耳鳴りが彼の声を遮る。意識が遠のき、視界も煙る。だが、命尽きる間際、彼の顔が鮮明に映り、放った言葉も聞き取れた。
「さらばだ、ラクリエム」
淡い光が辺りを包みこんでいく。全てを覆い隠した光は闇へと転じ、感覚も意識も食らいつくした。そして残った天使としての記憶は闇に攫われて、遠く遠くへ消えていった。
レイサリスは意識が引き戻されると同時に、懐かしい力が体に漲るのを感じた。その力を少し外へと排出すると、首を掴んでいたハーヴェルの手が黄金の光に包まれて、溶けていった。
絶叫を上げて退くハーヴェルを、レイサリスはゆっくりと床に着地しながら見つめた。ハーヴェルの顔はラクリエムの記憶のものとは合致しないが、その内に宿っているものは同じだった。自分を弑した役目なき天使。その真の名は。
「オーヴァーム」
ハーヴェルは驚愕し、わなわなと唇を震わせた。
「天使としての記憶を取り戻してもなお、貴方に問わなければならないことがあるわ。どうして私を殺したの? 私を殺して力を得たかったの? そうまでして地上で王になりたかったの? 初めから、私が水瓶の庭に来た時から、私の力を手に入れようと考えていたの?」
レイサリスが手を差し出すと、祭壇にある杯が浮き上がり、その手の中に入ってきた。それに触れると、杯が何で作られているのかが分かった。そして、オーヴァームがラクリエムを殺した後に何をしたのかも。
彼はラクリエムを縊り殺し、その首を引き千切って頭を杯へと変えたのだ。さすれば杯からは奇跡を宿す涙が湧き、口にした者に力を与えることができる。しかし、涙を司る天使が死んだことで地上から涙は消えてしまった。人々から涙を奪ったのは、オーヴァームだったのだ。
「貴方こそ真の簒奪者と呼ばれるに相応しい」
「力なき者が力を求めて何が悪い? 貴様はやはり傲慢だ。地位も力も持ち、弱き者を見下す貴様に、問われる罪などない。この世界を統率しているのは私だ。私こそ絶対であり、何者も私に背くことは許されない。神なき地で、私は神となった。神から力を奪った貴様こそ、罪を負う者なのだ」
「哀れね」
殺される直前の感情と重なった。オーヴァームに首を絞められている間、彼の歪んだ笑みに怒りは抱かなかった。彼の掌からは何も感じなかった。天に属す者それぞれが持つ、特異な気が全くなかった。まさしく彼は何も持たないものであると分かり、哀れみにその身を委ねてしまった。今の彼は、その時と変わっていない。涙の力を蓄えど、何も持っていない。
最早、理解してやることはできなかった。レイサリスは目頭に指を当てて涙を一雫、拭い取った。それをハーヴェルへと投げつけると、涙から光の粒へと変わり、ハーヴェルの額を貫いた。光は血流の如くハーヴェルの全身を駆け巡り、肌に埋め込まれた薄青の石は光に触れて爆ぜていく。全ての石が砕けると光は消えて、見る見るうちにハーヴェルは干からびていき、骨に皮だけが引っ付いた貧しい姿に成り果ててしまった。
レイサリスはハーヴェルを横目にしてニーヴの下へ向かった。黒く焦げたニーヴに涙を落とすと火傷は癒えていき、意識も戻ってすくりと立ち上がった。
「思い出されたのですね」
「全ては思い出せなかったけれど、今際のことは思い出せたわ。ありがとう、ニーヴ。貴方がいなければ、私は天使の力を取り戻せなかった」
「勿体なき御言葉でございます」
ニーヴは膝を折り、頭を下げた。レイサリスはその頭を小さな掌で優しく撫で回した。
爪が床を打つ音がした。弱々しいその足音はシャイナのもので、傷付いた体でハーヴェルの下へと歩み寄っていた。
レイサリスが記憶と力を取り戻したことで、シャイナを縛る鎖は消えた。人の体に戻ってハーヴェルの前に膝を突く。生前の面影はなく、干からびた体には無数の穴が開いていた。閉じかけた瞼からは黄土色の瞳が覗き、全く知らない人間の死体のように思えた。
シャイナはどうすれば良いのか分からなかった。自分が抱くべき感情すら見えてこなかった。ハーヴェルは自分の問いかけに答えてくれなかった。正体に気付いてくれなかった。そして、過去にあった真実を仄めかすだけ仄めかして逝ってしまった。もう何も分からなかった。自分が涙の騎士としてやり遂げたことも、ハーヴェルのために騎士になろうとしたことも、全ての者を悪と見做し、ハーヴェルの瞳の奥の光だけを信じていたことも。自分の進むべき道はその光を辿ることだったのに、今のハーヴェルの瞳にはそれが映っていなかった。その面影すらもハーヴェルの体から消え去り、シャイナは自己を成していたものを完全に失った。
だから、分からなかった。考えることも出来なくなっていた。それでも体の内側で押しあがってくるものはあって、それが徐々に上昇してきて瞳から溢れ出した。とめどなく溢れるそれは頬を伝い、首を這い、体を濡らして止まらなかった。
レイサリスは静かにシャイナの傍まで来て、彼の背を撫でた。シャイナの目から流れる涙は美しかった。それが人の持つべき感情の発露。押し留められていた内なる思いを吐き出す行為。シャイナの涙には、彼が溜めていた全てが込められているように見えた。シャイナ自身が空っぽになってしまうような、濃密で儚い涙だった。
「もう、何もなくなってしまったのね」
レイサリスはそう呟くと、小さな体いっぱいにシャイナを抱きしめた。
「生きているかぎり、過酷と向き合い続けなければならないけれど、貴方はもう充分に辛さを味わってしまった。その命で幸福を得るには深すぎる傷を負った。でも生きることを諦めてほしくはない。だから、貴方に私の力をあげるわ。貴方が涙の天使となって、人々に悲しみと喜びを降り注いで。そして天から、私たち人間の営みを見ていてほしい。きっと貴方に命の尊さ、素晴らしさを届けてあげる」
体に満ちていた天使としての力を、全身を使ってシャイナに渡した。残ったのはラクリエムだった時の記憶だけで、それも微かなものだった。
天使の力を得たシャイナの体が宙に浮いた。未だ泣き止まないシャイナに、ニーヴが寄り添う。
「このような形で天界に帰ることになるとは思ってもみませんでした。涙と天使様を取り返してくれて感謝いたします。しかし、本当によろしかったのですか?」
少しずつ浮上していくシャイナとニーヴにレイサリスは笑みを向けた。
「ええ。私はやっぱり人として生きたい。お父さんやお母さん、村の皆に会えなくなるのは耐え難いから。それにやらなければならないこともある。この罪の荒れ地は、この地でラクリエムが死んだために渇いてしまったのだと思う。首を失い、涙を奪われた私の体が潤いを求めて大地から生命を吸ったのよ。それならばこの大地を元に戻す使命は私にある。どれだけの時間が掛かろうと、この地に命を芽吹かせてみせる。だから、天からちゃんと見張っててね、ニーヴ」
「分かりました。天使様と一緒に見守っています。どうか息災であられますよう。さようなら、レイサリス様」
ステンドグラスから眩い光が射し込み、レイサリスは視界を奪われた。ぼやけて見え始めた聖堂からはシャイナとニーヴの姿は消えていた。そしてハーヴェルの死体も砂のように崩れてどこからも吹き込まないはずの風に吹かれて、散っていった。ただ一人残ったレイサリスは空の杯を手にして、聖堂を後にした。




