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涙物語  作者: 氷見山流々


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涙の騎士との戦い

 ニーヴの居場所をおおよそ特定し、其処へ向かうための準備に二日を要した。向かうのはムーフェ、ザンの二人とシャイナが指名された。

 シャイナとしては、ニーヴを助けたいとは一切思っていなかった。しかし、気掛かりなことがある。ニーヴを追う涙の騎士たち。彼らは何故、聖下から特命を帯びた自分に代わって、その任を負っているのか。あれは自分に与えられた極秘の任務だ。それをどうして、他の騎士にも与えられているのだろうか。

 獣に変えられ、自由を奪われてしまったので、聖下への報告は出来ていない。安否確認のためか、もしくは苦心していることを悟られて騎士が派遣されたのか。聖下の真意を知りたい。それには憎い相手を助けなければならなくとも、それを追う騎士たちに接触しなければならなかった。

 ギアソンにムーフェたちに同行してほしいと頼まれて、シャイナは嫌がる素振りを見せずに了承した。それにはレイサリスが不審を抱いた。

「あれほどニーヴを助けるのを嫌がっていたのに、どういう風の吹き回しですか?」

「奴が死んだら、この鎖がどうなったものか分からない。一生、縛られたままでも困るし、私をも道連れにしようとするかもしれない。とにかく良い方向へと傾く想像が出来ないから、助けざるを得ないということだ」

 シャイナは適当な言い分で誤魔化した。とは言っても、その全てに本音がなかったわけではない。ニーヴが死ぬことでこの身に不利益が生じるのは喜ばしくないことだ。本懐を遂げずに命が潰えることだけは避けたかった。

 ニーヴの救出にはレイサリスも志願していた。ただ、戦いになる可能性が高いために、ギアソンが丁寧にそれを説明して息巻く彼女を宥めた。

「レイサリスさんにも仕事をしてもらわなければなりません。レイサリスさんが言う彼の大きさは尋常ではありません。無事にニーヴさんを連れ帰っても、ウェンダーの中には入れられないですし、僕の家に詰め込むわけにもいきませんから。ニーヴさんを安全に保護するための場所作りを手伝ってください。お尋ね者も抱えていることですし、ウェンダーから少し離れたところに都合の良さそうな森があるので、そこに拠点を移し替えましょう」

 レイサリスは納得した様子は見せなかったが、何度も頷いてギアソンの提案を受け入れた。

「帰ってくる場所を用意するのも大事な役目ですからね。分かりました。私は私に出来ることをします。先生、私のことは天使などと思わずに、召使いか何かだと思って使ってください」

 そう言った後にムーフェとザンの方へと顔を向けた。

「どうかニーヴをお願いします」

「心配すんなよ。絶対に生きて連れ帰るから」

「おうよ、任せとけって」

 レイサリスの強張っていた口元がほんの少し緩んだ。それから振り返り、部屋の隅で体を丸めて蹲るシャイナに近付いて屈んだ。

「貴方がニーヴにも私にも良い感情を抱いていないのは分かっているわ。それでも、貴方の助けなしではニーヴを助けられないし、涙の杯を手に入れることもできない。腹に一物あるのは受け入れているから、今は、今だけは私の願いを叶えて」

 シャイナは疎ましく思いながら顔を上げてレイサリスを睨んだ。その少女の目には光が揺らめいていた。瞳の奥に何かを見つけてしまいそうな恐怖感に駆られてしまい、思わず目を背けた。

「頼まれずとも、私は私の意思でやるべきことをやるだけだ。お前に何を言われようとも、それは変わらない」

「それで構わないわ。でも、無理はしないで。まだ本調子ではないでしょう? 貴方の無事も祈ってるから」

 レイサリスが頭を撫でようとしてきたので、シャイナは首を動かしてささやかに抵抗した。嫌がる素振りを見せたのに、レイサリスの手は止まらずに頭に向かっていき、その小さな手を頭頂部から首元へと滑らせていく。ゆったりと優しい手付きに、シャイナはむず痒さを感じてしまったので、気を逸らそうと懸命にニーヴを追う涙の騎士たちについて考えた。

 三人だったとはいえ、ニーヴに致命傷を負わせるほどの手練れの騎士たち。それほどに力のある騎士には覚えがなかった。知る限り、自分に匹敵する者はいなかったはずだし、腕の立つ者なら噂になるはずだが、それすら耳に入ってきたことはない。彼らは何者なのか。その正体に、シャイナは一抹の不安を覚えていた。


 ムーフェとザン、シャイナはウェンダーを発って西へと進む。ムーフェたちが通ってきた道よりも北側から街道に沿うようにして徐々に南下する経路を取る。それから山岳に挟まれた湖沼地帯、マスクェイナへと入り、およそニーヴが到達しているだろう地点を目指す。マスクェイナはほとんどが緑に覆われ、大小様々な湖が点在する地域だ。その自然を縫うようにして街道があるが、大きな町はなく、慎ましい営みがなされている小さな村と村を繋ぐためだけに使われている。

 獣が多く、特に熊が幅を利かせていて、そのせいで大きな発展が出来ないでいた。マスクェイナの熊は他の地域の熊よりも大きく凶暴だというのは有名な話だった。マスクェイナで一番広く、深いとされる湖には珍しい魚や貝がいるのだが、それを求めてやってくる者は、まだ現れていなかった。

 ムーフェたちがウェンダーに向かった時はマスクェイナの南の山岳の反対側の麓を通ってきた。今回は素直にマスクェイナに入っていった。ニーヴはおそらくマスクェイナまで辿り着いているだろう、というのがギアソンの出した結論だ。ウェンダーを目指しつつ、身を隠すのに適した環境であるので、この辺りで涙の騎士の対処をしているはずだと語った。

 水気を帯びる土と背の高い下草に足を取られながら、一同は進み続ける。数日前に深い傷を負っていたシャイナだったが、既に傷は快癒して痛みもなくなっていた。不自然なほどの回復力に疑問を抱くのも面倒だったので、シャイナはただその恩恵に与ってムーフェたちに追従した。

 ほとんど休まず、睡眠も最低限でレイサリスを伴った旅よりも強行軍だった。それでも疲労を顔に浮かべたり、足が前に出ないといったりすることはなく、マスクェイナに着いたのもウェンダーを出発してからたったの五日しか掛からなかった。

 三者はほとんど互いを気に掛けることはしなかった。ただ自分の歩調に他人が合っているというだけの旅だと言えた。特にシャイナは、ムーフェとザンが意識的に自分を無視していることを感じ取っていた。

 彼らの人相は見知っていた。涙教に仇為す大罪人として、涙の騎士たちの間では周知の存在だった。司教邸への侵入、窃盗、幹部の殺害など数多の罪を重ねながらも、彼らを捕らえることはできていなかった。彼らが何故、涙教に固執して罪を犯すのかは不明だったが、旅立つ直前でレイサリスによって明かされた。その内容には驚愕せねばならなかった。

 涙の騎士が村を壊滅させたという。馬鹿げた話にしか思えない。ありえるはずがない。涙の騎士は、素行はどうあれ、悪を滅ぼすために選ばれた清き騎士なのだ。それが如何な理由があって、村を焼き、民を殲滅させたのか。それを事実だと認めるわけにはいかない。なにせ罪人の言うことだ。嘘で練り上げた作り話だとしてもおかしくはない。聖下に会って確かめるべき事項なのかもしれない。どうしてこうも自分の知らないことばかりが、自分の周囲に張り巡らされているのか。シャイナは吐き出せぬ苛立ちを溜めこみながら、ぬかるんだ地面を強く蹴って進む。

 泥っぽい地面に足を取られ、背の高い青草にも阻まれて、シャイナの歩みはムーフェとザンから徐々に遅れていった。彼らはそれに気付いていただろうが、シャイナなど顧みずに前進していく。獣の身であっても、涙の騎士であるシャイナは憎むべき仇敵だ。その憎悪が行動や態度から滲み出ている。目的は同じであっても、腹に抱えているものは違う。互いに利用し合っているだけであるという前提は、どちらの頭の中にもあり、そして相手もそう思っていることも双方共に理解していた。

 夜が近付きつつある中、先行していたザンが止まり、ムーフェと向かい合って何かを話していた。遅れていたシャイナだったが、辺りが静かだったのと犬らしく耳が良かったので二人の会話が聞き取れた。

「足跡がありました。二人か三人分、それも上品な、やつです。割と最近のものっぽいから、近くにいますね」

「先に涙の騎士を見つけちまったか。一人くらいならなんとかなるんだけど、三人もいるとなると流石に厳しいな。でも、奴らが此処にいるんなら、ニーヴも近くにいるってことだ。なんとか出し抜いてニーヴを助けたいな」

「騎士たちは何処に向かってんだろう。それが分かれば、先回りできそうだけど」

「先生から貰った地図があるだろ。出しな」

 二人が地図を見て意見を交わしている間に、シャイナは追いついた。ザンが言っていた足跡が気になり、先へ行こうとしたがムーフェが声だけを向けて咎めた。

「勝手なことをするな。指示があるまでお座りしてろ」

 この旅程では互いに好き勝手に行動してきたのに、初めてムーフェから指図を受けた。シャイナはそれが気に入らず、牙を微かに剥いて睨んだが、ムーフェは一瞥もせずに地図を見てザンとの意見交換へと戻っていた。

 言われた通りに腰を下ろそうなど思うはずもなかった。棘のある言葉はシャイナを更に苛立たせて、そこに反抗心も加わることになった。涙の騎士が近くにいるというなら、もうムーフェたちと共に行動する必要もないだろう。ある程度の情報収集を奴らにさせてから、単独行動へと移ろう。シャイナはムーフェとザンの足元に入り込み、真下から地図の裏を凝視して会話に聞き耳を立てた。

「足跡はこの湖の方に向いてましたね」

「近くには村も道もない。水があるし、食うもんも豊富だろうから、ニーヴとしちゃ潜伏にはうってつけなんだろう。だが、分かりやすすぎる。この程度の想定を騎士どももして、湖に行こうとしてるってわけだ」

「奴らは直進しそうですね。地形的に迂回して先回りってのは難しそうだ」

「湖のあたりまではこの鬱陶しい草が茂ってるから、気付かれずに付いていくことは出来るが……いっそ、奴らがニーヴを見つけるまで尾行を続けるか」

「ニーヴに気を取られている間に背後から襲うって寸法ですね。いいじゃないですか」

 それから少し移動し、件の足跡の所まで来た。シャイナはその靴の形を見て、確かに涙の騎士であると認めた。彼らの正体を見定めたい、と気持ちが逸っていく。それをまだ胸の内に押さえつけて、ムーフェたちの後ろから足跡を辿っていく。明るかった空は次第に赤く染まり始め、それと同時に西から巨大な雲が現れた。茜の空はそれに遮られ、濾された真紅の陽光が地上を照らした。

 日は沈み切っただろうというほどの時間が経っても残光は消えなかったが、地上までに降りてくる光は弱まり、足跡はほとんど視認できなくなった。それでもムーフェたちは足跡を見失わず、騎士たちの背後まで迫ろうと急ぎ足で、尚且つ忍び足で進んでいった。

 己の歩の感覚で湖が近いことが分かった。背の高い青草も倒されて、戻り切らずにいるものが出てくるようになった。涙の騎士の背中にも追いつこうとしている。ムーフェとザンは足を止めて、囁くようにして話し始めた。

「これ以上、距離は詰められない。奴らの歩調に合わせてゆっくり進むよ。奴らがニーヴを見つけるまでは我慢だ」

「もう暗くなってる頃合いなんですけど、なんなんですかね、この妙な空は」

 シャイナもこのような空を見た経験はない。不気味ではあるが、それが何かを齎すわけでもあるまいと、気にも留めていなかった。それよりも、好機が訪れたと感じ、ムーフェとザンの一挙手一投足を観察する。

 涙の騎士の後ろを追う足はより静かに慎重になっていた。見えにくい草の間から彼らの姿を確かめようと集中しているのが分かる。二人とも、前方にばかり気を向けていて、後方をまるで気にしていなかった。

 突如、強い向かい風が吹いてきた。一面に広がる青草が一斉に騒ぎ出す。その音に紛れて、シャイナはムーフェたちから離れた。風が吹き終わるまでに離れるだけ離れつつ、湖の方へと進んだ。

 敵の後背から奇襲を掛ける策など乗れるはずもない。正面から戦っては勝てないほどの力量の差があると認めるように感じられたし、相手は自分と同じ涙の騎士。己に比肩する者など涙の騎士にはいないという自負があったので、戦うならば、真正面からやりたいというのが本音だった。

 しかし、今は犬でしかない。己の誇りと現状を踏まえて出した答えは、まずはニーヴを救うこと。奴を助ける時に条件を突き付けてやろう。この身を人間に戻し、忌まわしい束縛を解け、と。そうして人間に戻ることが出来たならば、例え涙の騎士が三人いようとも敵ではない。力でねじ伏せた後に、詰問してやろう。涙の騎士の任、聖下の御意向、それを問い質さねば気が済まない。

 涙の騎士の足跡から大きく離れたところで、シャイナの足取りは大胆になった。野を駆ける獣となり、妨げとなる青草を穿つようにして湖の畔まで突き抜けていった。眼前に広がる赤い湖面は波一つ立てず、血を湛える玻璃のように見えた。

 此処に来て漸く、空と地上の赤を訝しく感じた。空の赤光は地上まで来ると弱まっているのに、それを照らし映す湖面はそれを余すことなく反映している。普通ではありえない光景、それも空から齎されたものであるために、確証なくとも天界からの干渉を疑わざるを得ない。ましてや、此処には天使であるニーヴがいる。赤き光と天使が結びつき、シャイナは直感的に、それでいて無意識に、湖の中へと進んでいった。脚を沈めても波は立たず、冷たさも感じない。つま先が水底から離れると、体が一気に水中に沈んでいった。我に返り、藻掻こうとしたが、脚をばたつかせても水を掻く感触はなかった。

 体が縦に回転したかと思うと抵抗もなく落下していき、周りを確かめる暇もない内に強い衝撃を受けて倒れた。目の奥がちかちかと明滅して痛みに喘いだが、伏したままにならずに体を起き上がらせた。

 視界が徐々に元に戻り、周囲を見渡す。くぐもった光に覆われた中に、崩れた石造りの建物、残骸が辺り一帯に散らばっている。人為的に破壊されたという崩れ方ではなく、長い年月をかけて自然の侵食を受けたような崩れ方をしていた。ヤモリやネズミの姿もある。見えないが、多くの生命の息吹も感じた。

 それらの気配の中に、異質なものが一つ混じっていた。頭の中でふんぞり返っているような、ふてぶてしい感覚は、己の正体を主張してくる。探らずとも、問わずとも、それが何者なのか分かる。ニーヴだ。奴が近くにいる。シャイナはその居場所すらも察知した。歪んだ石畳の道を進み、外壁だけが残る住居らしき廃墟に向かう。その影に忘れたくとも忘れられない顔を見つけた。

「無様だな」

 壁に凭れ掛かる半裸の男は瞼を僅かに開けて嘲罵に反応した。脇腹には塞がり切っていない傷の痕があり、それを庇うようにして腕を添えていた。

「天使様はご無事か?」

 痛々しいその見た目とは裏腹に、ニーヴの声色は冷静だった。それが気に入らず、シャイナは問いかけへの返答を勿体ぶった。

「どうかな。私がウェンダーを発ったのは五日前。こんな辺境にわざわざ赴いて、しかも野蛮極まる罪人と共に貴様を助けにきてやったのだ。ご主人様の安否確認を優先するのは実に殊勝だが、こうやって貴様の下に駆け付けてやったのだから、私への感謝を述べるのも忘れてもらっては困る」

「身の程を弁えろ。貴様は俺の下僕に過ぎないんだ。俺の求めに応じる以外に選択はない」

 全身を押し潰すような感覚が襲う。耐え難き痛みに、シャイナはのたうち回った。

「傷を負っているなら力を行使できないと思ったか? 生憎だが、俺はそれほどやわじゃない。絞め殺されたくなければ、素直に俺の求めに応じろ」

 見えない鎖は僅かに緩んだ。余計なことを言えばすぐにまた締め上げられる、という脅しを感じられる。シャイナは思い通りにいかないことに腹が立ったが、抵抗する手段もなかったので、嫌々ながらもレイサリスが無事であることを伝えた。

「あれは今、ウェンダーでギアソンに匿われている」

「そうか。ならば、後はあの鬱陶しい追っ手を始末するだけになった。そろそろ奴らもこの聖域を見つけるだろう。貴様にも働いてもらうぞ」

 ニーヴは重たげに腰を上げた。深手を負っている上に疲労も蓄積しているのだろう、足取りも芳しくないが、表情には一切それを見せない。弱みを見せまいという確固たる意志があるようだが、シャイナはそれを痩せ我慢と見做して嘲笑った。

「そんな体たらくで涙の騎士に勝てると? 見栄を張るのは止せ。私が奴らを追い払ってやろう。この忌まわしい鎖を解け。元の力さえあれば、私に敵う者などいない」

 ニーヴの表情が変化した。シャイナと同じ、嘲笑を顔に見せた。

「俺に膝を折った人間が勝てる、とほざいているのか? 面白い冗談だ。平時であれば、是非にその手腕を拝見させていただくところだが、今は天使様との合流を急がねばならん。もうその体にも慣れているだろう。犬らしく戦場を程よくかき乱してくれ。それで十分だ」

 安い挑発に揺さぶられるものか、とシャイナは冷静さを己の中心に据え置いて言葉を返す。

「貴様がまともに戦える状態ではないことは誰の目にも明らかだ。ご主人様に会いたいのなら、その最善は私の提案を呑むこと。それが分からぬほどに知恵が働かないか?」

「貴様の目には俺が瀕死に見えるのだろうが、生憎、順調に回復している。天使に備わる再生力は人のそれとは段違いだ。それに、この聖域の恩恵もある。聖域の中でなら、我らの奇跡は天界でのそれと遜色なく扱える。貴様を我が手足の如く隷従させられるほどに、奇跡の発現に奥行きと幅を持たせられるのだ。地の利はそれ以外にもある。ここはあと数刻ほどで崩壊すること、そして脱出口が限られていて、それを知るのはおそらく俺だけだということ。貴様の命も俺が握っているのだぞ? 此処を出て願いを叶えたいのなら、俺に従う他に選択肢はない」

「出鱈目を言う。私を駒に留めておきたくて言った方便にしか聞こえんな」

「この聖域に入る前に赤い空を見なかったか? 湖がそれを鮮明に映していなかったか? それは聖域の死の前兆、最後の足掻き。天に纏ろう力を持つ者を誘い、取り込んで延命せんという目論見だ。しかしそれも無意味なこと。聖域は存えることなどなく、崩壊して闇に溶ける。それを知らずに入り込んだ者は、気付かぬうちに道連れに遭うのみよ。信じないのなら、貴様を見捨てて俺だけ逃げるが、構わないのか?」

 交渉して自由を得たいという思いが強い分、ニーヴの言葉を真実として受け止めがたく、なんとしてもその言葉の穴を突こうと必死に思考を巡らせた。そうして長い沈黙と睨み合いを続けていると、何処からか大きな物音が聞こえてきた。シャイナとニーヴは同時に視線をその音がした方に向ける。

「来たか。一人、二人……三人目はまだか。ならば、好機だ。数が揃っていない内に痛めつけてやろう。もう迷っている暇はないぞ」

 ニーヴはそう言って、物音がした方へと走っていった。シャイナもそれを追うしかなく、鈍い足取りのニーヴの後ろについていった。

 廃墟に屯するヤモリたちが一斉に動きだして、ニーヴとシャイナの進行方向とは反対へと逃げていく。この先に誰かがいる、という気配が漂う。自分もあのように、宙に浮く感覚があった後、衝撃と共にこの聖域に入った。ニーヴの言う聖域の脱出口、それは入ってきたところを指すのだろうが、それらしきものを考えるならば上空だろうか。空と思われる天井は白くぼやけて曖昧なだけで出られそうな穴のようなものは見当たらない。真実と見做さなかった言葉が頭の中で木霊する。本当に此処が崩壊するなら、脱出する方法をニーヴが知っているなら、生き残るためにはニーヴの言いなりになるしかない。だが、彼に跪くことに抵抗がある。それを払拭しきれないままに会敵することになった。

 見慣れた装備をした男が二人。顔の一つは知っている。涙の騎士の団長ノイゼンだ。しかし、もう一人は記憶の中を探っても同じものがない、未知の騎士だ。ただし、男の手に握られているものは嫌というほど良く知っている。奇跡の力、縛する鎖、この体を縛り付けるものだ。

 二人の騎士をニーヴとシャイナは物陰から窺う。ノイゼンは鷹揚と周囲を見渡し、もう一人の騎士は鎖を片手に緊張感を滲ませていた。気付かれないように息を潜ませながら、彼らの会話に耳を欹てた。

「ラーガは何処だ?」

「見当たりません。はぐれてしまったのでしょうか?」

「もしくは入れなかったか、だ。如何せん、聖域というものに対して情報が足らない。聖下も、それほどお詳しくないようではあった。気を引き締めろ、ゲネック。いつ何時、何が起こるか分かったものじゃない」

 ラーガ、ゲネック。その名にも聞き覚えはない。名も通らぬほどの未熟な騎士か。しかし、そうとは思えない冷静で隙のない振るまいをしている。ますます疑念を覚えて、更にノイゼンの言葉が深く刺さる。ノイゼンは聖域の存在を教皇から聞いている。

 聖域という言葉自体、ニーヴに聞かされるまで聞いたことがなかった。聖典にも記録はなく、訓練生の時代にも学ばなかった。教皇とは涙の騎士になってからも話す機会は多かったのに、その存在を仄めかすようなこともなかった。ノイゼンと自分との差。奴が派遣された意味。シャイナはこれらと今までの疑念それぞれを結び付けられないほどに混乱した。

「天使が此処にいるのは間違いない。ゲネックはいないものと考えて作戦を続行する」

「了解」

 まだ整理の付いていないまま、事態は動き出した。乱雑な思考を繰り広げるシャイナの頭の中に、ニーヴの声が響いてきた。

「下らないことをごちゃごちゃと考えている場合ではない。さっさと奴らの前に出て暴れてこい」

 鮮明に聞こえたその声の所為で考えることが出来なくなった。今更、口から声を出さずに頭の中に直接言葉を届ける芸当に驚くこともなく、シャイナは陳腐な悪態を呟いて、物陰からのっそりと出ていった。

 シャイナに気付いた騎士たちは殺気を纏わせて身構えた。ゲネックは鎖を握りしめ、ノイゼンは腰に帯びた剣を抜く。シャイナも戦闘へ向けて気持ちを切り替え、彼らの動きを注視する。

「犬……だが、標的のものとは違うな」

「しかし、妙な気迫があります。奴の仲間、いや、しもべのようなものでしょうか?」

 しもべ、という言葉が溜まり切った苛立ちを爆発させた。シャイナは牙を剥き出しにしながら、助走もなしにゲネックに飛び掛かった。

 それが不意を突いたのか、またはしもべ程度と油断したのか、反撃が遅れてゲネックの右腕が犠牲になった。ノイゼンの刃が迫るのを見たシャイナは強引に右腕から牙を引き抜いて後退する。ゲネックが追い打ちを掛けようと鎖を飛ばしたが、痛む右腕では制御できずにシャイナの横に大きく逸れた。乾いた金属音に地面が擦れる音が混じりながら、ゲネックの手元に鎖が戻っていく。ノイゼンは間髪入れずに追ってきて長剣を振り回す。その形式ばった剣捌きはシャイナの良く知るもので、訓練で嫌というほど味わっていた。深く考えるまでもなく、その一振り一振りを読み切って軽快に躱した。

 人間のままなら、あの振りの後の僅かな間隙に突きを入れられる、といった状況が何度も巡ってきていたが犬である今はそう上手くはいかない。シャイナは攻勢に転じられないもどかしさを感じていたが、この膠着状態はニーヴの望むものだった。シャイナとの交戦に集中しているノイゼンに、腕の痛みに喘ぐゲネックは意識の外にあった。廃墟の瓦礫を陰にして、回り込んできたニーヴがゲネックの背後を突く。狼のような俊敏さで接近し、鋭利な爪で負傷している腕を引っ掻いた。すると傷口から血が凄まじい勢いで噴き出し、見る見るうちにゲネックは蒼白となる。最期に口から血の塊を吐くと、糸が切れたように倒れて絶命した。その音に気付いたノイゼンはシャイナをいなして振り向いた。その間に詰め寄っていたニーヴと額を合わせる形となり、二人は互いに攻撃しあい、同じように避けて距離を空けた。三者はほとんど同じ間隔を保って睨み合った。

「その姿を見るのは二度目か、巨狼よ」

 それにはニーヴは応えなかった。代わりに、シャイナの頭の中に言葉を飛ばす。

「余計なことはするなよ。崩壊が始まったら連れ出してやる」

「ノイゼンも殺すつもりか」

「今更何を言う。同士の死を見て、心が変わったか? やはり俺たちには手を貸せないと? 何度でも言おう。貴様に己の行動を決める権限はない。従わなければ、直ちに死ぬだけだ」

 涙の騎士が死のうと何も思わない。それに手を貸すことも、自分の目指すべき道にとって最善であるならばやむを得ない。仲間意識は皆無であったし、彼らが自分の知らなかったことを共有していることにも腹が立っていたので、寧ろ死んでくれた方が清々しい。

 そうした心情もニーヴには読み取られていた。シャイナが言葉を返す前に、耳に届く声を出していた。

「何ゆえ俺たちを狙う。貴様も前に現れた騎士のように、我々を簒奪者などと宣うつもりか」

「前に? ああ、シャイナのことか。あれはお前が殺してくれたのか? わざわざ埋葬までしてくれて情に篤いことだ。あれは聖下の信頼を裏切った下劣な罪人だというのに」

 何を言うか。私は死んでなどいない。聖下を裏切ることなどありえもしない。何故、そのような出鱈目を言う。そうシャイナは捲し立てるが、ノイゼンには犬が喚き散らしているようにしか聞こえていなかった。

「罪人、というのは疑問だな。貴様らと同じ武具、力を持っていた仲間ではないのか」

 鬱陶しそうにシャイナを睨んでいたノイゼンがニーヴへ視線を戻した。

「同じではない。あれの墓にあった胸当て、そこに飾られた石は偽物だ。奴め、金に目が眩み、何処かにそれを売り払ったと見える。聖下から下賜された宝石を私利私欲のために使うなどあってはならん。前代未聞の大罪を犯したのだ」

 妄言と評することしかできない。シャイナは呆れてしまい、内に秘めていた怒りも冷めてしまった。涙の騎士の長でさえも、個人に対する嫌悪を優先させて物事を都合良く作り上げていく。最早、涙の騎士という組織そのものに失望した。体が自然にノイゼンへとにじり寄っていき、戯言を続けるその背後へと静かに飛び掛かった。

 鼻先は背中に触れたが、その瞬間に振り向かれて剣の柄で殴られた。飛び掛かった勢いそのままに吹き飛んで、ノイゼンの追い打ちも続く。刃が陽炎を纏い、空を斬ると刃の形を持った炎がシャイナへと飛んでいった。

 着地できていないシャイナには炎を回避する手段がなかった。体を捻って受け流そうと試みたが、鋭利な炎は肉を斬ってから後方へと滑っていった。

 辛うじて深い傷は追わなかったが、傷口は熱を持ち、痛みを増長させた。立ち上がれないシャイナに、ノイゼンは再び炎を飛ばそうと剣を構える。殺気立つノイゼンに、ニーヴの平淡な声が向けられた。

「俺の犬を苛めないでいただきたい」

 言いながら、シャイナとノイゼンの間に入ってきた。ノイゼンは手を止めず、ニーヴに目掛けて炎の刃を飛ばしてきた。ニーヴは手本とばかりに炎を片手で払い、彼方へと逸らした。ノイゼンは怯まずに剣を振って炎を飛ばしながらニーヴに接近した。続けて放たれた炎にはニーヴも防戦一方で身動きが出来なくなり、ノイゼンの接近を許して鈍色の刃を突きつけられた。それに対して素手で立ち向かい、掌で切っ先を受ける。歪な金属音が高らかになり、ニーヴとノイゼンは反動を食らったような素振りで仰け反る。それでも同時に体勢を立て直して、剣と拳の打ち合いが始まった。

 拮抗する両者の戦いはどちらにも天秤が傾くことなく続いた。代わりに撒き散らされた炎が周囲を焦がし、躱された打撃が地面を割っていった。炎は鎮まることなく悉くを焼き、割れた地面は大きな揺れを生み出した。漸く立ち上がったシャイナの脳裏には、崩壊、という言葉が過っていた。

「程なく聖域は崩れる」

 ニーヴの声が直後に聞こえた。本人は必死に戦闘を続けていたが、その声はいつもと調子が変わらなかった。

「限界まで粘ってこの男だけを崩壊に巻き込みたいが、中々の手練れだ。合図を送る。それで、この男の後ろを突け」

「私が作ったその隙で、貴様だけ逃げるなどと考えていないだろうな?」

 そう問うと鼻で笑ったような息が聞こえ、続けて言葉が届いた。

「忠実に働いた犬には褒美をやらねばならんからな」

「減らず口を」

 そう吐き捨てながらも、シャイナは動き出していた。高く燃える炎の壁に身を潜めつつ、戦う二人に近付いていく。炎の隙間から姿を確認し、ノイゼンの背中が此方の正面に向いた瞬間、炎を突き破って突進した。

 策も技もない体当たりだったが、ノイゼンの背を捉えることが出来た。ノイゼンはつんのめって倒れそうになりながらも、体を捻じってシャイナに刃を振るった。熱を帯びた刃を牙で受け止めて、押し返そうとする。ノイゼンは腰を地面に打ち、体勢を崩していたが、剣を持つ腕の力は緩まずにシャイナを真っ二つにしようとしていた。

激しい地震が大地の悲鳴と共に起きた。ちょうどシャイナとノイゼンの間に亀裂が走り、ノイゼンの方の地面がずり落ちていく。ノイゼンはシャイナを押し込んで難を逃れようと画策するが、シャイナは加えた刃を離さずに抵抗する。しかし突然、体に巻き付いていた鎖が主張し始め、首を上げさせられて刃が口から外れ、四肢が浮いて宙へと引っ張られていく。鎖はシャイナを労わることなく、肉に食い込ませながら上へ上へと引っ張っていった。ノイゼンが縋り付く暇もない速度で上がり、ノイゼンの罵声も一気に遠のいていった。

 白い霧のようなものが視界を遮り、目下に見えるものはなくなっていく。皮膚には鎖の痛みの他に冷たさを感じる。それが水気を帯びたかと思うや、呼吸が出来なくなった。鼻と口に水が入り、慌てて吐き出すと大量の泡が浮いて濁った視界を更に不明瞭にする。鎖の感触はいつの間にか消えていた。それでも体に自由はなく、呼吸が出来ないことも相まってシャイナは恐慌状態に陥った。

 藻掻くシャイナの首の後ろに柔らかい痛みが走った。何かが掴んでいるということは分かったが、それ以上を詮索する余裕はなく、平静を取り戻した頃には水辺に引き上げられていた。薄闇が空を支配する中、びしょ濡れの巨狼が傍らで身震いして水滴を飛ばしてきた。水滴の一つで目に入り、シャイナは聞こえない舌打ちをして起き上がった。

 辺りを見回して、此処が聖域に入る前の湖の畔だということを確認した。異様な赤さのあった空はなくなり、雲一つない星空を見せていた。湖を見ると、自分たちが上がってきた証である波紋が水辺から広がっていた。

 湖面に映る細い月が波紋によって揺らいだ。形を取り戻すまで見届けたところで聞き覚えのある女の声が聞こえてきた。

「おーい。ニーヴだろ、あんたぁ」

 何者かと尋ねてきたニーヴにシャイナは無言だったが、それが答えとなったらしく、ムーフェとザンが近寄ってくるのを受け入れた。

「言葉通じてるのか? まあ、いいや。あたしらはあんたを助けにきたんだよ。レイシーに頼まれてね。それで、あんたらは湖の中にいたのか?」

 返事が出来るのは自分だけなので、シャイナは右の前脚を上げる。ムーフェはそれを一瞥してニーヴに視線を戻した。

「やっぱりそうか。涙の騎士どもも湖の中に入っていったんだ。犬っころもいなくなってるし、騎士も奇行に走るしで焦っちまってね。二人が沈んでいなくなったのを見てから、最後尾にいた一人にちょっかいをかける決断をしたんだ。そいつはなんとかやっつけたけど、残った二人は未だに上がってこない。あんたらは奴らがどうなったか知ってるか?」

 それに肯定したとて明確な答えは得られないだろうに、とぼやきながらも右脚を上げた。

「ほう。では、奴らはもう上がってこないか?」

 シャイナは億劫さを交えて同じ言葉をニーヴに投げつけた。ニーヴは逡巡することなく「聖域は崩壊した。生きている方も死んでいる方も、永遠にあの場所に囚われる」と答えた。

 それを肯定の仕草一つで返すと、ムーフェとザンは顔を見合わせた。ザンは疲労たっぷりの溜め息を吐き、その場に座り込んだ。

「ああ、疲れた。涙の騎士とやり合うのは当分ごめんだね。ニーヴさん、帰りは乗せていってくれたりはしないか?」

 ニーヴはそっぽを向きつつ、腰を下ろした。そのまま丸まって眠る体勢を取るのを見届けた後、シャイナはザンに左の前脚を差し出した。

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