表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
涙物語  作者: 氷見山流々


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

6/9

再会

 シャイナはシプティアの実験に付き合う日々が続いていた。ただ、これといった成果は得られず、肝心要の薄青の宝石もシャイナの封じられた力を解き放つには至らずにいた。

 似たような試行を何度も強要され、シャイナは辟易していたが、自分が何も出来ない以上、シプティアに弄ばれるしかなかった。

 ギアソンも書斎に籠るか外出するかだけで、有益な情報を得たかどうかも教えてくれなかった。シャイナは悶々とする日々を送っていたが、ある日、ギアソンが地下に下りてきて正に泥を煮詰めたような薬を飲ませられようとする寸前で声を掛けてきた。

「実験中に申し訳ない」

 そう言った後に言葉を詰まらせたのは、部屋中に充満する悪臭のせいだろう。吐き気を堪えるような素振りをした後、ギアソンは続ける。

「シャイナさんとお出掛けをしたいのですが、構いませんか?」

「この薬を試してからで良いですか?」

 シプティアはシャイナの顎をしっかりと掴み、口を開けさせて飲ませようとする。だが、ギアソンは慌ててそれを止めた。

「此方の用事が終わった後でお願いします。体調を万全にしておく必要があるので」

 シプティアは露骨に嫌がる顔をしたが、逆らわずにシャイナを解放した。あの汚物を飲まされずに済んだことで一寸の安堵を得たシャイナは、逃げるようにしてギアソンについていき、地下室を出た。そのまま家も出て、澄んだ空気を鼻一杯に吸い込むと、シャイナは心地よい陽気に当てられたせいもあってか大きな欠伸をした。夏はもう間近であるが、まだ暑さに苛烈さはなく、穏やかな熱が地下室に籠って冷え切っていた体を温めてくれた。このまま蹲りたいという思いがある一方で、久しぶりに体を動かしたい衝動もせり上がってきていた。

 散歩にでも連れていってくれるというのなら付き合ってやろうと思い、ギアソンを仰ぎ見た。

「シプティアの実験で色々と飲まされているでしょう。お体は悪くしていないですか?」

 シプティアにも温情があるらしく、鼠で試して害が及ばないか調べてから薬を投与する。なので、一時の不快感はあるが、概ね体に障りはなかった。右脚を控えめに突き上げる。

「それなら良かった。これからシャイナさんには、ちょっと頑張ってもらう必要があるので。歩きながら話しましょう」

 二人は表通りに出て、町の中心部へと歩いていった。人通りの多さや賑わいの中に大きな犬を連れた男が歩いても、誰も気にした様子は見せなかったし、ギアソンに話しかける者もいなかった。師弟揃って交友が狭いのではないかとシャイナは思うと、異様な親近感を覚えた。

 何処へ向かうのか聞かされていなかったので、道中でそれを話してくれるだろうと期待していた。行き交う人々が発する雑音が大きい中で、ギアソンはいつもと変わらない声量で話し出す。

「今から向かうのは、此処に暮らす人たちのほとんどが知らない秘密の場所です。そこで行われる娯楽というか、競技に参加していただきたいのです。野蛮なことはさせたくなかったんですけど、どうしてもこれ以上の譲歩は得られなかったのでお許しください」

 それで一体、何をさせられるのか、という疑問はあっても声にすることは出来ず、ギアソンも詳らかに話してはくれなかった。そのまま流れるようにして別の話題へと切り替わってしまった。

「それからあの宝石のことですが、色々と調べてみても未だに有力な手掛かりは得られていません。宝石商に聞いてみても、あれは涙教だけが保有する特別な石で、一般には出回らないし、産出地も隠されているとだけ。ですが、その産出地に関して気に掛かることがあります。かつて僕は歴史を知るため大陸のあちこちを旅していたのですが、その折にある鉱山に行き着きました。ここからだと北西のあたりに位置する辺境の地で、普通鉱山があるのなら、そこに町が出来て人々が生活しているはずなのに、あるのは大きな石造りの建物だけで、そこからたくさんの人が管理者と思しき人に睨まれながら鉱山の方へと向かっていました。周りには物々しく武装した人が立ち並び、警戒していたのであまり近付けなかったですし、僕の求める歴史の臭いも感じなかったので早々に退散しましたが、日記には記していたので思い出すことが出来ました。それで、モースタイン聖王国が管理している鉱山の記録と僕が見た鉱山の場所を照らし合わせたのですが、合致するものはなかったんですね」

 返答が絶対にないことを分かっているからなのか、ギアソンは喋りたいだけ喋った。息継ぎのための間があった後、また舌が回り始める。

「これは推測ですが、あの宝石は教団が秘密裏に採鉱しているのではないでしょうか。独占することが目的としても、それが隠している理由にはならないのが疑問ではありますが。公にして困ることが、あの鉱山にあるのか、それとも宝石自体がそうなのか。まあ、その宝石に関しては僕たちの手元にありますから、このまま調べていけば行き当たることになるでしょう。それに鉱山の方に秘密があったとしても、僕たちに必要な情報でない可能性が高いですから。結局、奇跡の力を暴くには宝石があればいいんです。教団の胡散臭さだけでも知っていただければと思ってお話しました。まあシャイナさんがご存知のことならば、無意味なんですけど」

 癪に障る言葉で締められたが、それに怒りを覚える心のゆとりはなかった。涙教が極秘で鉱山を所有しているなど聞いたことはない。教皇に近い立場にいたと自負しているシャイナは自分が知らされていない何かがある、という事実を突きつけられて動揺していた。聖下がやましいことを行っているなどありえない。鉱山の隠匿も、良からぬ者から宝石を守るために違いない。聖下は常に正しく、民を想い、世界の平和を望んでいる。それが成った暁には全ての人間に涙が戻ってくる。そう、涙だ。聖下は涙を取り戻そうと尽力しているではないか。そして自分に使命を与えてくださった。極秘の、誰も知らない使命。簒奪者からの涙の奪還。鉱山の隠匿もそれと変わらないではないか。聖下は不安や恐れが市井に蔓延しないよう、内々に事に当たっているのだ。

 シャイナが納得のできる答えを見つけ出した頃合いで、目的の場所に到着した。昼間だというのに騒々しく、酒臭さが漏れ出ている酒場だ。正面から入ると思いきや、裏手へと回っていき、その裏口を塞ぐ男に近付いていく。

「こっちに酒はないぞ」

 扉に凭れ掛かりながら男は言う。

「カイツブリが鱗を落としてしまって」

 ギアソンがそう言うや、男は気怠そうに横にずれて扉を開けた。扉の先はすぐに階段になっていて、地下へと続いているようだった。ギアソンはシャイナを伴い、階段を下っていく。

 ギアソンと男が合言葉を交わしたのは分かった。普通ではない場所に連れていかれることを察して、シャイナは気を引き締めた。燭台の灯だけが頼りの階段は長く、それが終わっても細い通路を進み続けて、また階段を下り、それから少し明るさの増した通路を進んでいくと、漸く開けた場所に辿り着いた。円錐状に窪んだその中心には半円状に作られた大きな檻があり、その中で二頭の犬が唸り声を上げながら噛みつきあっていた。それを檻の外側から張り付くようにして眺め、野次を飛ばしたり悲鳴を上げたりする人々がいる。その光景と広場に籠った熱気に呆然としていると、肌艶が良く身なりも綺麗に整えた長身の男が歩み寄り、声を掛けてきた。

「参加希望の御方でしょうか? お名前をお伺いしても?」

「ギアソンです。既に話は通してあるはずですが」

「ギアソン様でしたか。失礼しました。それではご案内いたします」

 男は恭しく身を翻し、程よい歩幅と速さで歩いていく。ギアソンとシャイナはそれに追従していき、檻の側に来た。ちょうど、檻には扉が付いていて、向かい側にも同様のものがある。どうやらそこから中へと入っていくらしく、シャイナは己の行く末を悟った。

「御相手方の準備がございますので、少々お待ちくださいませ」

 そう言って男は人混みの中を苦も無くするりと抜けて去っていった。ギアソンは腰を屈めてシャイナの耳元に囁く。

「もうお分かりでしょうが、シャイナさんには此処で戦ってもらいます。相手は犬ですが、どれも戦うために育てられた優秀な闘犬ですので油断しないでください。勝てそうになかったら、僕が降参の合図を出すので安心してください」

 どうして戦わなければならないのか、戦うことで何を得られるのか、ギアソンは当たり前に湧いてくるそうした疑問に答えてはくれず、宥めるようにして背中を撫でるだけだった。先程はあれだけ教団の怪しさを主張していたが、この場の怪しさも並々ならないものだ。人を疑う前に己の潔白さを示してもらわねば、説得力はないというのに。しかし却ってそれが、シャイナの不安を払拭してくれた。己の信じるものが正しいと分かれば、それに殉じるのは容易い。

 シャイナは檻の中で戦う犬たちを観察した。確かに戦うために生まれてきたのだろうことが窺える。浮き上がる筋肉、鋭利な爪牙、一歩も引かず立ち向かい続ける闘志。獣として見るなら間違いなく脅威だが、そこにない理性を思うと勝てない理由がない。あれらは獣同士で戦うことを前提とした生物でしかない。凶暴な獣がその力を振るうことで大陸を支配できるか。答えは否であることは我々人間の存在で明らかだろう。

 血塗れになった両者が揉みあうほど、見守る客たちは歓声を上げる。熱狂の災禍に眩暈がしたが、それは失望したからだ。これほどの人間たちが獣の傷付く姿を見て喜んでいる。聖下が目指す平和とは程遠い悪趣味な連中。それもよく見ると身なりの豪奢さが際立っていて、裕福な身分に見受けられる。此処まで案内した男を顧みても、ウェンダーはそうした富裕層たちが、影で怪しい闘技場を催しているということに相違ない。涙教の司教座もある地が穢れていることに憤慨し、また自分が赴任していた時に気付けなかったことにも怒りを覚えた。

 そうして自分の内側から湧き上がる感情と外側から影響されたことで覚えた興奮とでシャイナは戦いへと臨む意志を、自分では意識しない内に掻き立てられていた。体が疼き、涎も垂れて、今か今かとその時を待つ。

 先の死闘が終わり、戦い終えた犬が引きずり出されていく。開いたままの扉に、先程何処かへと消えていった男が近付いてきて、張り付いたような笑みを浮かべてシャイナを招く。

「準備が整いました。どうぞ、入場してください」

 それを言い切る前に、シャイナは檻の中へと入っていった。床は血で滑り、獣の臭いが充満している。見た目だけなら、清楚で観賞用でしかなさそうなシャイナには不釣り合いな場所だった。だが、彼の性分には適した場所であり、外から聞こえてくる野次も耳に入らないほどに、漂う戦の気配に浸っていた。

 対面の扉から、大きな犬が押し込まれるようにして入ってきた。口吻が短く、潰れた顔をしている。短毛であるために体つきははっきりと見て取れ、四肢周りには瘤のように肥大化した筋肉が付いている。しゃくれたような顎を半開きにして、低い唸り声を上げながらシャイナを窺っていた。

 闘犬の矜持に付き合うつもりはなかった。扉が閉められた瞬間から、シャイナは抑制を解き、己の暴力性を誇示するようにして相手に飛び掛かった。知略のある戦法だとはとてもではないが言えないが、その膂力と瞬発力、そして判断力に淀みはなく、迎え撃とうとする犬の爪牙を寸前で躱し、そのまま背後に回り込むと、無防備な背中にしがみついて首を噛んだ。

 犬がどれだけ暴れようとも、爪を肉に食い込ませて離さなかった。牙は首の筋肉を貫き、口の中に血が溜まっていく。涎と共に落ちていく血が犬の背中にべったりと付着し、シャイナの白い体も赤黒く染まった。

 シャイナは相手の反撃を許さぬままに戦いを終えた。相手の飼い主が、喉が張り裂けんばかりに降参を叫び、防具を固めた男たちが檻に入ってきて、シャイナと犬を引き離した。ぐったりと動かない犬は二人掛かりで檻の外へと運ばれていった。シャイナは人間が入ってきた段階で勝利を確信して彼らに従った。気を高めてくれた割には呆気なく終わったので物足りなさを感じていたが、興奮が冷めきる前に新たな犬が入ってきた。

 先程の犬とは雰囲気が異なり、落ち着いている様子だった。全身は黒く艶のある毛並みをしていて、足は太く逞しい。漆黒の瞳は毛色に紛れて視線が読みづらく、長い口吻から切れ目のように口の内側の肉と鋭利な牙が覗く。そして、その風体はシャイナよりも大きい。闘志を見せないから迫力はないが、佇まいが強者の風格を醸し出している。

 お前如きが俺に勝てるとは思うまいな? 逃げるのならば今の内だ。その犬は言葉なく、その振る舞いでシャイナに警告しているようだった。それを受け取っても、熱く滾る闘争心が冷めることはなかった。この犬の姿形があの憎き獣と重なって見える。あの時の屈辱が蘇り、心の奥底で腐らせていた誇りが赫怒を伴って昇ってきた。喉から込み上げたそれを咆哮としてぶつけ、黒犬へと突進していった。

 黒犬は怯まなかった。強者としてシャイナを迎え、その牙を避けて噛みつき返す。理性を失っていたシャイナは肩を貫かれた痛みで我に返った。黒犬の牙は骨に達し尚も深く突き刺さんとしてくる。振り解こうとも、顎の力が強く微動だにしない。またしも野蛮な獣に屈するのか。あの時、獣が噛み殺した馬のように、己も殺されるのか。

 否、同じ轍を踏むなど愚の骨頂。惨めな思いなど、あれきりで最後だ。忘れてはならぬ。己が命は聖下のために使い果たすと。その道半ばで死ぬことは許されないのだ。シャイナは黒犬を強引に引き剥がした。食い下がろうとも構わずに力いっぱいに押し飛ばしたため、肩の肉がごっそりと剥がれた。しかし痛みに悶絶することなく、黒犬に襲い掛かる。

 低い姿勢から伸びるようにして首元に入り込み、喉笛を目掛けて噛みついた。骨すらも噛み砕いて喉を貫くと、黒犬は喚くことも足掻くこともなく静かに膝を折り、絶命した。死に際に黒犬と眼差しが交わり、彼は黒い目で何かを物語った後、静かに目を閉じて己の命に幕を下ろした。

 それを慮る暇もなく、つんざく歓声に耳を嬲られた。喧しさに気分を悪くしながら退場させられ、観客が集ってくる中でギアソンに迎えられた。

「申し訳ない。酷い怪我を負わせてしまいました」

 青い顔で謝ってきたが、シャイナは気にしなかった。何人かの男が駆けつけて、ギアソンと共に奥にある洞のような部屋に連れていかれた。そこで手厚い治療をしてもらい、これ以上の悪化は防がれたが、興奮が治まったせいで徐々に痛みと熱が強くなっていくのを感じた。

 意識が朦朧としていく中、急に手当をしてくれた人たちが一斉に去り、代わって一人の男が部屋に入ってきた。小綺麗な服装と整えられた口髭だけがシャイナの目に映った。その男はギアソンと何かを話していたが、それを強い耳鳴りが遮り、次いで視界も白くぼやけていき、遂に意識は耐え切れずに再び湧き上がる歓声を最後に白い闇の中へと沈んでいった。



 視線。或いは嫉妬、或いは嫌悪、或いは畏怖。或いは欲望。向けられるそれの意味を幼くして理解していた。

 自分が特別だなどとは微塵も思っていなかった。只の孤児。親も生まれ故郷もなくし、孤児院で養われているだけの子供。唯一、他の孤児たちと異なるのは、この身が教皇ハーヴェルに掬い上げられたことと、その教皇から名を賜ったことだけ。

 シャイナは孤児院の裏、誰もいないそこで影に身を潜めてひっそりと壁を蹴った。漆喰で固められた孤児院の壁は強固で、シャイナが体重を乗せて力いっぱい蹴っても、揺らぐことはなかった。それでも何度も何度も靴の跡が薄汚い模様を作るまで蹴り続けた。

 表では他の孤児たちの賑やかな声、楽しそうな笑い声が聞こえる。駆け回り、じゃれ合う姿を想像するのは簡単だった。その輪に加わりたいと思ったことはなかった。そう思わせてくれる人間はいなかった。彼らが向ける目は冷たく、色がなかった。それで自分がどういう立場にいるのかが分かった。

 院長たち、世話をしてくれる大人は優しかった。優しすぎた。脆い陶器を扱うかのように、慎重に、恭しく、此方の顔を常に見て、必要以上の愛を流し込もうとしてきた。彼らの目は歪だった。作られた笑みは不気味だった。

 その全てに起因しているのは教皇だ。教皇は慰問という名目で度々この孤児院を訪れた。世に蔓延る悪により住む場所を失った子供たちを保護するのも涙教の役目。そして孤児たちは自立するまで全面的な支援を得られる。衣食住、教育も然り、そして極めつけは教皇御自らの慰問。多数の涙の騎士、司教を率いて現れるが、子供たちに言葉を下さり、遊びに混じったり、食事を共にしてくださったり、目線を同じにして気さくに接してくれた。孤児たちは皆、教皇の優しさに心を温められ、尊崇の念を強くしていく。同時に、シャイナを妬み、嫌う気持ちも増すのだ。

 シャイナは教皇に愛されていた。それは名を頂いたからというだけが理由ではない。慰問があると、教皇はシャイナに一番に会いに来る。動きづらそうな祭服にも拘らず駆け寄ってきて、名前を呼ぶと共に抱き上げてくれる。喜びに満ちた笑みを作りながら、元気だったか? 大きくなったな、と崩した言葉をくれる。シャイナが、はい、と言うだけでも教皇は満足そうに頷いた。その瞳にはシャイナを想う色がある。孤児院の人間たちとは違う、青く澄み、慈しみに満ちた色が。この御方の瞳にのみ、愛が宿っているのだ。

 孤独が苦痛にならなかったのは、此処に偽りと悪意しかなかったからだ。寄る辺ない日常も見晴るかす彼方に青き光があるから耐えられた。贔屓だなどと言わせておけばいい。羨むのも自由だ。価値を求めてもお前の手には渡らん。私は刃となる。あの青く眩い光を鈍らせることなく映す刃として私は生きる。

 あと十年経てば、士官学校へ入学できる。そこで己を研鑽し、涙の騎士となる。それまではこの悪意で淀んだ牢で密かに己を磨き続けよう。

 子供たちの無邪気な叫びが聞こえる。何処からか自分を呼ぶ声が聞こえる。壁を蹴る足は止まらない。強く、強く、蹴り続ける。息が切れて足を上げるのも辛くなった。それでもやめようとは思わない。声と共に力を振り絞って蹴った。すると漆喰に亀裂が入り、見る見るうちに広がっていった。軋む音と共に孤児院が崩れていく。孤児院だけではない。足元もひび割れ、大きな闇が口を開いて飲み込もうとしてくる。抗えない。暗黒は高らかに笑いながら、全てを食らった。孤児院も、孤児も、院長たちも。



 シャイナは跳ねるようにして起き上がった。激痛が走り、足に力が入らなくなって、また倒れた。横たわったのは毛布の上で、その柔らかさが痛む体を労わってくれた。痛みの原因は肩にある。真新しい包帯が巻かれている。それをじっと見ていると、上から声が降ってきた。

「起きましたか。良かった」

 安堵の声はギアソンのものだった。見慣れた部屋の隅にいることに気付き、次第に気を失う直前の記憶も蘇ってきた。あの後、どうなったのかを尋ねる口を持っていなかったが、ギアソンはそれを察して説明した。

「シャイナさんが頑張ってくれたおかげで、協力者を得ることが出来ました。今はまだ直接的な援助はありませんが、涙の杯奪取の際には必ず力になってくれるそうです。それから賞金の方も貰いまして、それで本やら薬の材料やらをたくさん買えるようになりました。本当に、シャイナさんには感謝してもしきれません。ありがとうございます」

 これでまたシプティアの実験に付き合わされる機会が増すのか、とシャイナは内心で愚痴を零した。

「お怪我の方は薬を飲んで安静にしていれば治るとのことです。あっ、薬というのはまともな薬のことですからご安心を。ですが驚きました。あれほど肉を抉られていたのに、傷はほとんど治っているんですよ。それも奇跡の力が影響してのことでしょうか」

 確かめようにも包帯が巻かれているので分からなかった。ただ、痛みははっきりと感じるので、ギアソンの言うことは俄には信じられなかった。

「あれから三日経ちました。たったの三日で治る傷ではなかったんですから。その間、貴方も全く目を覚まさなかったのでやきもきしましたが、起きてくれて本当に良かった。お腹が空いているでしょう。シプティアにご飯を持ってきてもらいますね」

 ギアソンはシャイナの頭を撫でて、部屋を出ようとした。扉に手を掛けようとするも、その前に開いてシプティアが顔を覗かせた。

「ちょうどいい。シャイナさんが起きたので、ご飯を用意してくれませんか?」

 シプティアはシャイナを一瞥して、またギアソンに視線を戻した。

「その前に、師匠にお客さんです」

「お客? 誰ですか?」

 シプティアは顔に何の表情も見せずに言った。

「女の子です。レイサリスと名乗っています」

 



 時を遡る。ウェンダーを見下ろす高台にレイサリスたちは辿り着いた。夕暮れの朱が遠ざかっていく空に対し、町に灯り出す疎らな光が地上に落ちた星を連想させた。レイサリスの初めての長旅は、人々が作り出すこの生ある光を目にすることで終わりを迎えた。

 想定よりも早く着くことが出来た、と言うのはムーフェ。人里を経由せず、ウェンダー目指して野を直進してきたからであるが、レイサリスが疲労に負けずに歩み続けたのも、早い到着の要因でもあったようだ。レイサリスは体力に自信があるわけではなかったが、ニーヴやシャイナのことが心配で足を止められなかった。眠るとき以外は彼らのことばかり考えて、疲れを感じる暇もなかった。

 ウェンダーに辿り着いたことで一つの目的を達し、少しの安堵が芽生えた。それと同時に、意識していなかった疲労がじわじわと体を侵食し始める。まだ、ギアソン先生にもシャイナにも会えていない。安心しきっては駄目だ。そう自分に言い聞かせ、疲労を紛らわすようにしてムーフェに話しかける。

「あとはギアソン先生のお家を見つけるだけです。此処まで本当にありがとうございました」

「礼はまだ早いよ。その先生さんに会わなきゃ、報酬はないんだから」

 町の方向からザンが駆け上がってきた。決して緩やかではない傾斜なのだが、ザンは全く息を切らしていなかった。

「大丈夫です。正面から入れます」

 ムーフェは頷き、レイサリスの背を軽く押した。

「さてさて、それじゃあ行くとしよう。ウェンダーは広い。目当ての家を見つけるのは、ちょっと苦労するかもな」

 レイサリスはムーフェたちと共に高台を下り、分厚い城壁に穿たれた門の前まで進んでいく。其処には門を潜る者を検める憲兵が立っている。ムーフェとザンはお尋ね者であるはず。ならば、門を潜ろうとしたら、憲兵に気付かれて捕まってしまうのではないか。そうした不安を口にしようとムーフェを仰ぎ見ると、ちょうど彼女と目が合った。そしてレイサリスの心情を見透かしたかのようにこう発した。

「平気だよ。前にも言ったろう? ウェンダーにはお得意様がいるって。その伝手がこういうとこで活きるんだ」

 ザンが先行し、憲兵に話しかけた。ムーフェとレイサリスが追いつく頃には話し合いが終わり、憲兵は門から伸びる道の遥か先を見据えるだけになった。ムーフェは憲兵には一瞥もくれずに門を潜ろうとした。篝火に照らされる憲兵の顔はむっつりとするだけで、レイサリスは凝視しても何の反応も見せなかった。その憲兵の脇を通り、いよいよウェンダーの町へと入っていく。

 門を潜った瞬間、酒気が襲い掛かってきた。犇めき合う家々から漏れる灯りが、敷き詰められた石畳を照らす。家の中から騒ぐ声が聞こえ、路上にも酩酊した人々がふらふらと歩いたり、倒れたりしている。レイサリスは強い酒の臭いで眩暈を覚えた。倒れそうになるレイサリスを、ムーフェが間一髪で支え、そのまま抱え上げた。

「済まないね。ここら辺は酒場が多いんだよ。とっとと突っ切って、ギアソンの家を探そう。おいこら、ザン! どこ入ろうとしてんだ!」

 酒場に誘われたザンをムーフェが怒鳴って諫め、歓楽街を抜けていった。閑静な通りに来た頃には夜が深まっていた。外に人がおらず、家々の灯りも落ちて静かだった。レイサリスも涼やかな空気を吸って落ち着いたので、ムーフェの腕の中から降りた。

「どうやって見つけ出すかね。聞き込みをしようにも人がいないし、そもそもあたしらの身分じゃ無理だ。お得意様を頼ろうか。いや、今の時間じゃ会えそうにないな」

 独り言ちるムーフェと周囲を見回すザンを尻目に、レイサリスは何処かから聞こえる声に耳をそばだてた。耳の奥で微かに聞こえるそれは、言葉としては聞き取れず、その音がする方向も認識させてくれない。しかし、それには空耳ではないと思わせる力が宿っていると断言できる。理屈は自分でも分からないが、この遠き声は自分に属するものだと思った。

 声を探して、レイサリスはぐるぐると辺りを回った。そして、少しだけ力の強さが増した場所を見つけると、其処から薄暗い細道へと入っていこうとした。一人で何処かへと行こうとするレイサリスをムーフェが慌てて引き止めた。

「なんだなんだ、急に。まだ酔いが醒めないか?」

「違うんです。その、声が聞こえて……」

 事情を上手く説明できなかった。しかし、ムーフェは訝しがることなく、レイサリスの頭に軽く手を置いて笑った。

「こうなりゃ、天使様が頼りだ。あたしらを報酬、じゃなくてギアソン大先生の下へ導いてくれ」

 レイサリスは黙って頷く。その間にも声を逃さないように意識を向け続けていた。道なりに進んでいけばいくほど声は言葉として聞こえるようになり、その声色も明らかになっていく。途切れ途切れだが、誰かと話しているように聞こえた。

「いえ、私などにそのような……この身は貴方様のための……そうだ、刃として生きる……真実を……」

 うわ言のように支離滅裂な言葉であったが、聞き覚えのある声だ。それが、この耳の奥に届く感覚と合わさり、声の主の正体を特定できた。シャイナの声で間違いない。しかし、この意味不明な言葉と共に魘されているような吐息も混じって聞こえてきたので、不安に襲われた。幸いにも直進するだけで声が近付いていったので迷うことはなく、焦燥感に身を任せて走っても、冷静さの欠如で失うものはなかった。

 足を止めたのは縦に長い家の前。この家の奥から聞こえてくる。絶対にこの中にいる、という確信がレイサリスにはあった。シャイナは此処にいる。振り返り、ムーフェに伝えようとすると、シャイナの声色が変わっていることに気付いた。

「またシプティアの実験に付き合わされる機会が増すのか……」

 溜め息が聞こえてきそうな声には危機感はなかった。シプティア、という名に引っ掛かりを覚えながらも、ムーフェに改めて伝える。

「此処にシャイナがいます」

「到着、だな」

 ムーフェはレイサリスを下がらせて、拳で扉を荒々しく叩いた。すると、少しの間もおかずに扉が開き、黒い髪の少女が顔を覗かせた。あまりにも髪が長く、レイサリスは地面にまで付いているその毛先に目を奪われた。

「あんたがギアソンかい?」

 ムーフェが不躾に尋ねると、少女は無言のままに一行を眺め回した。視線を一巡させた後、視線をレイサリスに向けた。瞬きすらせずに見つめてくる少女にレイサリスは怖さを感じ、気を紛らわせる意味合いも込めて自ずから正体を明かした。

「私はレイサリスと言います。此方で大きな犬を預かっていませんか? シャイナという名の白い犬です」

「成程、理解した。どうぞ、中へ。師匠を呼んでくる」

 少女がそう言って中へと招き入れてくれた。ムーフェとザンは警戒を解かず、レイサリスをいつでも庇える位置にいながら小さな客間で待った。それから間もなく、慌ただしい物音が聞こえてきたかと思うと、客間に先程の少女と一人の男が入ってきた。レイサリスはその顔を認めた瞬間、安堵と喜びを喉の奥から漏らした。

「先生、お久しぶりです」

 一年ぶりの再会にレイサリスは心が躍り、自分を天使としてでなく一人の人間として知る人に漸く出会えたことにもこの上ない喜びを覚え、はしたないと分かっていながらギアソンに抱き着いて顔を埋めた。それから一気に緊張感が解けていってしまい、止めようにも止められないほど涙が溢れてきた。ギアソンの服は濡れてしまったが、ギアソンはそれに動揺する様子もなく、レイサリスを宥めた。

 冷静さが感情に勝り、涙を止めるまで幾許か時を使って、レイサリスは顔を上げた。腫れた瞼はギアソンにとっては興味深く見えただろう。そうした驚きを表情に含ませながら、ギアソンは穏やかな笑みを浮かべた。

「よく来てくれました。長旅で疲れたでしょう。まずは休んでください。お連れの方もどうぞ、ごゆっくり」

 少女に案内されて、レイサリスは寝室へと向かった。疲れていなかったわけではないが、思う存分泣いてから、急激に疲労がやってきて眠気に襲われた。おそらくギアソンが使っているのであろう部屋に入り、ふかふかのベッドに潜り込むと、思惟の暇もなく眠りに落ちた。

 熟睡した翌朝は疲れも気怠さもなく、するするとベッドから降りられた。昨晩の客間に向かうとギアソンが丸い卓を前にして座り、書物を読んでいた。その足元では白く大きな犬が体を丸めて眠っていた。忘れるはずもない。その犬こそ役目を与えた涙の騎士、シャイナその人だ。レイサリスがシャイナに駆け寄ると、その足音でシャイナは頭を少しだけ浮かせて薄く目を開いた。

「また会ったな、簒奪者」

 初めてあった時とは違い、覇気がなく、何処か弱々しい声のように感じた。その理由は明確で、レイサリスはシャイナが怪我をしていることに気付き、彼の前に膝を折って、具合を確かめた。

「怪我をしてる……何があったの?」

「大したことではない。それより、聞いたぞ。あれが殊勝にも、お前を助けるために囮となったそうじゃないか。正に涙ぐましい、とでも言うべきか」

 どうやら、事情はムーフェとザンが話してくれているようだ。レイサリスは一瞬の逡巡をした後に小さく頷く。

「まだニーヴはこっちに着いてない?」

「あんな化け物が町に侵入したら、すぐさま私の耳に入ってくるだろう。悲鳴としてな」

「そう……じゃあ、迎えに行ってあげなくちゃ」

「それよりも、私はお前の口から真実を聞きたい。お前たちを襲ったのは、本当に涙の騎士なのか?」

「ええ、間違いないわ。奇跡の力を使ってきたし、貴方と同じような鎧を着てたから」

 それからシャイナは黙りこくってしまった。既に聞いていたことながら、今度は当事者から同じことを聞くことに何の意味があるのか、レイサリスには計れなかった。シャイナの返答を待っていたが、口を開いたのはギアソンだった。

「今、シャイナさんと会話をしていたのですか?」

 ギアソンの存在を全く忘れていたので、レイサリスはびくりと体を跳ねさせて椅子に座るギアソンを仰ぎ見た。

「は、はい。私にはシャイナの声が聞こえています。彼の声は私とニーヴにだけ聞こえるんだそうです。そういう戒めをニーヴが施しました」

「本当に、不可思議の連続だ。もうこれからの人生、何があってもこれ以上に驚かされることはないでしょうね」

 レイサリスは昨夜のことを思い出した。そういえば、脇目もふらずに先生に抱き着き、服を汚してしまった。何も言えずに寝てしまったので、謝るなら今だろうと思った。

「昨日はすみません。あんな恥ずかしい姿をお見せしてしまっただけでなく、先生の服に跡まで付けてしまいました」

「謝る事なんかありませんよ。貴方は立派な子です。私が村にお邪魔している間、一度も涙を流す素振りを見せなかったんですから。それが、まさかこの世で唯一の涙を流せる人間だったとは、想像もできなかった」

 レイサリスは俯きがちに首を横に振った。

「人間ではないんです」

「僕から見れば、レイサリスさんは小さな女の子でしかありません。ませていますが、素直で賢い女の子、というのが先生として見てきたレイサリスさんの所感です。手紙もよく書けていましたよ。そのおかげでシャイナさんを疑わずに済みましたからね」

 授業を受けている時に貰った誉め言葉を懐かしく思える言い方だった。レイサリスはその思い出が頭の中で流星のように過ぎていくのを感じ、その日々の貴重さと尊さに胸が痛んだ。もうギアソン先生の授業を受けることはない。そればかりか、両親との温かな生活や、友人と飽きることなく遊ぶ日常にも戻れない。天使として目覚めたら、私は天界へ行かなければならないのだから。己の宿命を受け入れていたはずなのに、どうしても人間として過ごしてきた日々を諦めきれていなかった。そんな我儘が許される身の上ではない。神の使いとして、役目を帯びる天使であるならば、その役目を全うしなければならない。その役目を含めて、天使としての記憶を取り戻すことを今は優先すべきで、人としての甘えは拭わなければならないのだ。レイサリスは頭を軽く振って星々を振り落として、ギアソンを真っすぐに見据えた。

「同年代の子と違っているのも、私が天使であるからなのでしょう。ですが、名ばかりの天使で、私には記憶も力もありません。私を導いてくれるニーヴがいなければ、それらを取り戻すことも出来ないでしょう。シャイナさんを受け入れてくれていることから、既に先生は私に協力してくれているのは測れます。また負担を掛けさせることになってしまいますが、どうかニーヴを探すお手伝いをしていただけないでしょうか」

「生徒が困っているのに、手を差し伸べない教師がいますか? ニーヴさんは必ず見つけ出しますよ」

「よく言うよ。捜索にはあたしらを使うくせに」

 振り向くと、ムーフェとザンが部屋の入口に立っていた。ムーフェはレイサリスと目が合うと、口元に笑みを浮かべて応えた。

「レイシーを送り届けた報酬は頂いたんだけどね。まさか、契約延長となるとは思わなんだ。まあ、金払いは良かったから、どれだけ無茶な仕事でもご要望通りに完遂してやるさ」

 ムーフェとザンはずかずかと近寄ってきて、机の上に一枚の紙を置いた。レイサリスは立ち上がってそれを覗いた。どうやら地図らしく、モースタイン聖王国全体が詳細に描かれていた。

「ムーフェさんからレイサリスさんと出会った場所を教えてもらいました。ファルダの北部、レイサリスさんの村から見ると北東にあたる地点です」

 地図の左端は森林地帯とだけ記されていて、海原のようにそれ以外の何も描かれていない。その森林地帯下部にギアソンは沿えるようにして羽ペンで一点を打ち、此処かレイサリスの村である、と示してくれた。そこから右上へとペンを宙に浮かせながら動かし、ファルダと書かれた一帯の上の方にまた点を落とした。

「およそこの辺り。此処でレイサリスさんはニーヴさんと別れたということです。此処からレイサリスさんたちは町や村落を避けながらウェンダーへと向かった」

 ムーフェはその道筋を書こうするギアソンからペンをひったくり、代わりにすらすらと書いて、得意げな顔を向けた。

「頭の中に経路はしっかり入ってる。伊達に流浪の罪人をやってないからな」

 シャイナが机の端に前脚を引っ掛けて地図を見ようとしていた。無理な体勢をしているので、レイサリスは台を与えてやろうと部屋を見回すと、シャイナから「無用だ」と窘められた。

 シャイナに構わず、ムーフェは話を続ける。

「途中で、ニーヴと思しき狼の痕跡は見つからなかった。先行してる可能性はなく、同じ道を辿ってウェンダーへ向かっているとは考えられない。ウェンダーで落ち合う、という約束を反故にしないのなら向かってきているとは思うが、手負いな上に追っ手も引き受けてくれているんだ。ウェンダーに着くのには時間は掛かるだろう」

「辿り着けない可能性の方が高いだろうに」

 ぽつりと呟くシャイナに、レイサリスは顔を向けて反応した。それに構わず、シャイナは続ける。

「その傷の程度は知らないが、追っ手が涙の騎士で、それも複数いるのならば、易々とは逃げ切れまい。ましてや簒奪者の囮を演じているなら、奴らを追わせるだけの新鮮な痕跡と適度な距離を保たなければならない。騎士たちが私に劣る雑兵であろうと奇跡の力には嘘はない。それに耐えきれるだけの余力が奴にあるか、だ」

「ニーヴは自力ではウェンダーに辿り着けない?」

 レイサリスがそう言うと、ギアソンたちの視線が彼女に向いた。

「当然だ。このまま何もしなければ、騎士たちに殺されるか、野垂れ死にするかだけだろう。もし奴が死ねば、私を縛る鎖もこの忌々しい姿からも解放されるかな?」

 くつくつと下卑た笑い声が頭の中に響き、レイサリスは顔を歪めた。シャイナがニーヴの死を望むのも彼の立場を考えれば分かる。彼は涙の騎士で教皇に仕える身。それで自分を打ち負かして屈服させた相手なのだから、憎むには充分だ。取り引きをし、その役目を負う立場となっても、彼の性根は変わらないのか。シャイナがギアソンと過ごした日々が、彼の心を此方側に傾かせる猶予とならなかったことをレイサリスは悔しく思った。

 俯いて萎れるレイサリスの様子を見て、ギアソンがその背を撫でた。

「何かシャイナさんとお話をしていらしたのですね」

 レイサリスは床を見つめながら、シャイナが語ったことを出来るだけ自分が傷付かない言葉に置き換えて伝えた。その間、シャイナは口を挟むことなく、地図を凝視していた。

「大丈夫です。ニーヴさんは死んだりしません」

 レイサリスが話し終えるや、ギアソンは開口一番にそう言った。

「シャイナさんもそれはそれは酷い怪我をしてしまったんですが、数日でほとんど塞がって、今やこんなに元気になったんです。そんな彼の主であるニーヴさんなら一層、怪我の回復力は高いはずです。何処かで力尽きるなんてありえませんよ」

 続けてムーフェも喋り出す。

「レイシーから聞いた印象でしかないが、ニーヴはとんでもない根性を持ってる野郎だと思うよ。やることはまだ残ってるのに途中で死ぬなんざ、ニーヴ自身が許さないだろうさ。奴さんは間違いなくウェンダーに向かって来てる。後は鬱陶しい追っ手をどうするかで手を焼いてんのさ。それなら、あたしらが迎えに行ってやるのが優しさってもんよ」

 ムーフェは同意を求めるようにしてザンに顔を向け、ザンはいつものぎこちない笑みをレイサリスに向けた。

「俺とムーフェがいれば、涙の騎士なんて楽勝よ。ちゃっちゃと倒して、ささっと戻ってくるから。そんで旦那、ニーヴさんが何処にいるのか見当は付くんで?」

 ギアソンはファルダに打った点を指で突いた。

「ニーヴさんがウェンダーの位置を把握しているのなら、ある程度の道筋は予測できるかもしれません」

 レイサリスはすかさず答える。

「一度、地上の地理を教えたから、ウェンダーの位置もモースタインの町々がある場所も覚えているはずです」

「おお、レイサリスさんがニーヴさんの先生なのですね。それならば安心です。となると、彼は山林の多い北から回ってくるか、道の整備がされていて人の往来が激しい東から来るかということになりますが、わざわざ衆目を浴びる危険を負わないでしょうし、現状で巨大な獣が出没したという報せも届いてませんから、北の進路を取っている可能性が高いです」

 ギアソンは指をファルダから上へと滑らせた。

「北にはいくつか山がありましたね。そのあたりで潜伏して、追っ手を引きつけながら更に北上していったと考えられないでしょうか」

 その問いかけはムーフェに向けられていた。ムーフェは地図を睨みながら、それに答えた。

「装備のない人間にはちときつい地帯だし、似たような景色も続く。追いかけるのにゃあ苦労するはずだ。ニーヴの体力がどれだけのものかは知らないが、余裕があれば撒き切ることも出来るだろう。そのまま山岳地帯を突っ切って、徐々に東へと向かえばウェンダーには着く。どうだろうねえ、この辺りを通ってくるんじゃないか?」

 ムーフェは『ダーキアス』という文字の端を含む一帯を指でぐるぐると示した。

「ここらには主要な街道もないし、大きな集落もなかったから、でかい獣が通るには適してる。ここを抜ければウェンダーまで特に危ない道もない。あとはニーヴの脚がどれだけのものか、か。レイシー、その白い御犬様がウェンダーに着くまでどれだけ掛かったか聞けるか?」

 レイサリスが問い直すまでもなく、シャイナはせせら笑いを含んだ言葉を発した。

「あの図体なら、こそこそ隠れて進まねばならぬか。私が選択した経路の方が遥かに容易かったな。それに私の俊敏さも相まって、ひと月程度でウェンダーまで辿り着いた。奴には到底、真似できまい。今も尚、山の中で騎士に怯えて震えているのではないか?」

「ひと月、と」

 レイサリスはただそれだけを伝えた。

「まあ、そんなもんか。御犬様と脚力が変わらないとして、更に涙の騎士との追いかけっこの時間も加味して現在地を絞ろう。で、そういう仕事は勿論、先生も手伝ってくれるんだよな?」

「ムーフェさんとザンさんの土地勘を活用させていただけるのならば、精確な予測が出来ます。ファルダとダーキアスを含めた、より詳細な地図を持ってきます」

 ギアソンは言いながら立ち上がり、足早に部屋を出ていった。それと入れ替わるようにして、昨日の少女が入ってきて、大仰に両腕を広げてレイサリスに近付いてきた。シャイナが嫌そうに「シプティアだ……」と呟くのを聞き逃さず、レイサリスはその少女の名が前にも彼の口から出たシプティアであることを知った。

「おお、天使様、此方にいましたか。どうか、わたくしめに清き涙を御恵みください。師匠の服に付いたあれじゃあ、ちょっと物足りないので!」

 足元に跪くシプティアに、レイサリスは後退りした。今にも縋り付きそうに腕を伸ばすので、ザンが割って入った。

「なにやってんだ。レイシーが怖がってるだろ。離れろ離れろ」

 シプティアはザンを一瞥し、その脇から顔を出してレイサリスに微笑んだ。

「天使様、お涙が欲しいんです。それがあれば、あたしの研究が捗るんです。お願いします、泣いてください」

 無神経な物言いに聞こえた。泣けと言われて泣けるものではない。涙とは感情の昂りによって生じるものだ。悲しさに泣くこともあれば、嬉しいと感じた時でも涙が込み上げてくることがある。それを自分の感情なしに、求めに応じて涙を流せと言われれば、不愉快に感じるのも致し方ないというものだ。レイサリスはシプティアへの警戒を強くし、更に後退した。

「ごめんなさい。涙は私が泣きたいという気持ちにならなければ流せないのです」

「どうも勘違いしてたな。涎を垂らすようにはいかないということか。涙には気持ち、感情が必要なのか。出そうと思って出せるものではない、そんな不便なものを何故あたしたちは失ったのだろう。泣くことになんの意味があるのか」

 シプティアの誰に聞かせるためでもない呟きを耳にしてレイサリスは勘違いに気付いた。そうだ、みんな知らないだけだ。涙がどういう感情によって生まれ、何を齎してくれるのか。それを知っているのは私だけ。涙を独占している私だけだ。悲しみは涙と共に流れて消えてくれるし、喜びは涙が大きく膨らませてくれる。そうした自分の中にある感情を外に出して、強めたり弱めたりしてくれるのが涙だ。

 シャイナが自分のことを簒奪者と呼ぶことに、得心してしまった。私だけが涙を利用し、その恩恵を与っている。他の皆は己の中の感情を燻らせたまま、吐き出すことが出来ない。私は罪深い存在なのかもしれない。皆が知らない涙の意味を当然のことのように知り、それを知らぬものを嘲笑うような素振りをしたのだから。

 レイサリスは己を恥じて、シプティアの前に自ら出た。すっかり思案に夢中になっているシプティアに声を掛けると、彼女は顔を向けてきた。知らずに言ったことを詫びたとしても、彼女には伝わらないだろう。なので、彼女の求めに応じることで謝罪としようと考えた。

「私の涙が役に立つというのなら、協力はします。すぐに涙を、というわけにはいかないので時間は掛かりますが、その間に涙とはどんなものかをお教えしたいです」

 シプティアの瞳に輝きが満ちた。大きく見開いたそれは、レイサリスの間近にまで迫ってきて、呑み込まんとする勢いと迫力があった。

「おお、感謝いたしますぞ、天使様! 涙を貰えるのならば、いつまでも待ちますよ。お食事はまだなされていないですか? ならばご用意いたしますゆえ、此方へどうぞ。食後に是非、天使様の御高説を賜りたく存じます」

 妙な言い回しにどう返せば分からずに困ったが、シプティアに連れられて部屋を後にした。ムーフェとザンはあからさまな猜疑の眼差しをシプティアに向けたが、有害ではないと判断したのか、その程度の攻撃で済ませて地図に視線を戻してあれこれと話し始めた。

 別の部屋に移り、食卓に着かされると、シプティアは予め用意していたのか、すぐに料理を運んできてくれた。柔らかい丸パン、少し冷めているトマトと豆のスープ、白身魚を焼いたもの。元々小食であった上に、聖域にいる時や旅の間もたくさん食べることがなかったので、食べきれるか不安になった。パンを指で摘まんで千切り、口に運んで何度も咀嚼して飲み込むだけでも時間は掛かったが、久しぶりに感じる食べ物の美味しさには感動した。ふわふわと柔らかいパンには感動したし、スープも冷めていたとはいえ、口の中にトマトの甘味と程よい酸味が染み渡り、豆の食感がそれを彩った。弾力のある魚は香味があって上品に感じ、食事に飽きはなかった。

 楽しみながらになった食事は、満足感を充分に得られた。対面でシプティアが笑みを作りながら見つめてきたのは気になったが、それでも彼女が料理を用意してくれたのには感謝するべきことだった。椀と皿まで片付けてくれて、また戻ってきたところで、その意を示した。

「ご馳走様でした。とても美味しかったです」

「お褒めに預かり光栄でございます」

 恭しく礼をした後、杯に水を注いでくれた。透き通った玻璃の杯に、慎ましく注がれた水が底で踊り、波を打った後に鎮まる。持ち上げたそれの向こう側で、横に伸びたシプティアの顔が歪んだ笑みを作っていた。

「今や涙の杯は乾いたというのに、貴方のそれは満ち満ちている。人々は理解もせずに涙を崇めて、罪と呼ばれる悪癖を滅ぼしつくそうとしている。千年の間、誰一人としてそれに疑問を抱かず、涙教による支配をも当然のものとして受け入れている。涙教の監視は厳しく、些細な悪事すら見逃すまいと目を光らせている。それでも平穏は確かだし、何かに脅かされることもないから、許されているのだろう。だが、異質さに気付く者もいる。あたしや師匠のように賢い者や涙教に迫害された者は彼らが善意によって大陸を掌握しているのではないと知っている。しかし強大な組織であるがために、異を唱える者はその口が開く前に消されてしまう。真実は涙教の懐に隠され、彼らの作る平穏を信じるしかない今の世は異常だ。真実を追い求める者に、この束縛は悪だ。あたしの研究だって、もっと自由にやりたいし、文献だってほしいのに、焚書されたのか何処にも見当たらない。それは師匠も同じ。知的好奇心を満たそうとするのは悪か? そうではないだろう。だのに、涙教は一切を断じて悪と見做す。彼らに不都合な事は全て罪なのだ。理不尽極まりないと思わないか?」

 シプティアは熱を帯びた言葉を浴びせてきた。レイサリスにも涙教への不信感はある。自身が受けてきたものを考えれば当然だし、ムーフェとザンが語ってくれたことからも彼らに正義を見出すことが出来ない。シプティアの熱弁も真に迫っていた。涙が誰の物でもなければ、彼女はきっと目を潤ませていただろうに、とも思った。

「君の登場はあたしにとっては天啓だ。涙教の独占する奇跡の力を、この手で再現できるかもしれない。その行為自体が彼らへの当て擦りになるし、その力を使って彼らの支配を終わりに向かわせることも出来る。己の欲望のために、天使様の涙を利用しようとするのは罪深いことかな?」

「貴方の欲望は、信念でもあるように見えます。信念は人が生きる上で持つべき糧であり、希望です。それを咎めることが出来るものはいないです。やり方さえ間違っていなければ」

 そう言うと、シプティアは高らかに笑った。

「はははっ! そうだな、その通りだ。天使にしても侮れない。君はあたしと同じく智者であろう。流石、師匠の教え子だと言うべきか。とにかく、あたしと君は対等な立場であると分かった。今までの非礼を詫びよう、朋輩よ。その上でもう一度、協力を請わせてくれ」

 シプティアは卓をぐるりと回ってきてレイサリスの横に立ち、手を差し出した。その手は火傷や傷跡が目立ち、彼女の研究への熱意を感じさせられる。レイサリスはもう、シプティアへの悪感情を払拭していた。彼女は真実の探求者なのだ。彼女の目指す先に、己の真実、記憶があるような気がした。

レイサリスは杯を下ろし、シプティアの手を両手で握った。彼女は対等な立場と言ったが、やはり違う。彼女は人で私は天使、しかも力なき天使。誰かに守ってもらわなければ生きることすらままならぬ脆弱な存在。まだ青く若い少女の手にすら、己が命を委ねなければならないほどに弱い。その弱さを自覚しているから、自ずと両の手を使って懇願する姿勢を見せてしまった。

「ご助力を請うのは私の方です。この身には得体の知れない力が潜んでいます。シプティアさんの研究でそれが明らかになるのなら、いくら涙を使っていただいても構いません」

「これは責任が重大だ。君の涙は決して無駄にはしない。まあ、あたしの天才的な頭脳があれば、その涙も奇跡の力も丸裸になってしまうのは必定だがね」

 鼻を膨らませて自信満々に言うその姿に、レイサリスは思わず吹き出してしまった。肩の力が抜けて、笑いが止まらなくなった。困惑するシプティアを尻目に笑い続ける。聖域に連れてこられてから今に至るまで緊張の日々が続いていたから、心の底から笑うことはなかった。しかし、信頼するギアソンのところに辿り着き、心強い仲間と出会って安心したのか、自制が利かなくなり、涙が出るまで笑ってしまった。レイサリスの目尻にそれが溜まるのを、シプティアは見逃さなかった。

「涙! これは幸先が良いな。そのまま、拭わないでくれよ。すぐに保管用の容器を持ってくるから」

 シプティアは大急ぎで部屋を出ていった。レイサリスも涙が出ていることには気づいていたので、拭わずに溢れさせて頬へと流した。昨夜泣いたばかりとはいえ、泣くのを我慢しなければならないほどに過酷な日々を過ごしていたので、その反動で涙もろくなってしまったようだ。じわじわと流れる涙が顎の下まで到達した所でシプティアが戻ってきた。掌に納まるくらいの大きさをした銀色の壺を持っていて、その細長い口を顎の下に差し伸ばして雫となった涙を受け取った。

 涙が止まるまで、一滴も余さずに壺の中へと貯められた。頬に残ったものさえ、匙のようなもので救い取られて小壺へと入れられた。笑いも涙も収まったレイサリスは、匙ですら取れないほどに微小な涙を手の甲で拭ってから漸く一息を吐いた。

 量で言えば、その小壺の底に薄く膜が張られる程度のものでしかないだろう。しかし、シプティアは小壺の口から中を覗き、堪えきれない笑いを鼻から漏らしていた。

「充分、充分だ。これでやりたいことは色々と試せる」

 嬉々としているシプティアに水を差すのは憚られたが、レイサリスは必要なことだと思い、一応の事実を伝えた。

「涙といっても、特別な力が宿っているわけではないんです」

「何を言う。涙そのものが特別ではないか。君は君自身を侮っているな? 涙を流せるということはそれだけで人とは違う特別な力を宿しているということなのだよ。ああ、まずはどの実験から着手しようか」

シプティアはぶつぶつと独り言を繰り返し、そのままレイサリスの存在を忘れたかのように歩き出して部屋からいなくなった。一人取り残されたレイサリスはシプティアの芯を食った言葉を噛み締めていた。

自分を侮っているなどと思ったこともなかったが、妙な腹落ちを感じる。物心つく前から両親や村の人たちから過剰なまでに守られて、ひ弱な存在だと刷り込まれていた。涙を流せることが良いことではない。それを知られてはいけない。隠し、耐え続けなければならない生き方をしてきた。だから普通の人より劣って、正常とは逆方向にいるという考えに陥り、弱さに甘えることが常であった。それが侮り、という言葉によって纏め上げられると、確かにそうなのだと思えてしまう。

涙は感情を伴う。ならば、そこに天使が持つべき奇跡のような何かが宿っていなくとも、人から見れば特別なものなのだ。私は涙の持つ意味に気付くことが出来るが、シプティアには分からない。それでも彼女は涙を特別だと断定できる。その溝を埋めたい。彼女にも涙の意味を伝えたい。弱さなどなかった。この涙を堪能していることが、己を人としての存在を強めてくれていた。

 私は人よりも贅沢な生き物だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ