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涙物語  作者: 氷見山流々


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襲撃者

 外の世界は今頃、春の盛りを過ぎて緑が深まる時季だろう。この聖域に変化はなく、光を齎す空を支える巨木に小さな命たちが絡みつき、寄り添い、肩に乗り、青く澄んだ池には翆玉色の水草と藻が揺蕩って、日の光で貴い輝きを得ていた。

 シャイナはまだ戻ってこない。ひと月が経ち、レイサリスは不安を感じていたが、ニーヴも焦っているような素振りを見せるようになった。元々お喋りだったわけではないが、口数は減り、外界に出る回数も時間も増えていた。

 レイサリスはシャイナの安否を憂い、ニーヴがいない間は天へと祈りを捧げていた。神様、どうかシャイナを御導きください。彼に立ちはだかる困難、禍を取り除いてください。天使であった私の願いをお聞き届けください、と。一心に祈っても、神からの返答はない。前にニーヴが言っていた、神は地上に無頓着ということ。人の祈りなど神の耳に入らないと承知した上でも祈らずにはいられない。無力な自分に出来ることは、これしかないからだ。人は何かに縋る時、最終的に傍にいる人ではなく、天という認識すらできない場所に座する神に頼る。そうすることでしか不安を紛らわせる方法がないのだ。神や天使というものが存在すると実感しているレイサリスだったが、祈りの意味は気休め程度のものでしかないと悟っていた。天佑神助は起こりえない。ましてや私は天使だ。天使は救われるのではなく、救う存在であるはずだろう。

 幾度目かの祈りを終えた後、この行いが無意味だと気付いて立ち上がった。ちょうどニーヴが帰ってきたので、労いの言葉を掛ける前に、己の意思を伝えた。

「ウェンダーに行きましょう。シャイナを助けに」

 どうせ断られるだろうと思い、説得する覚悟を持っていたが、ニーヴの返答は意外なものだった。

「そうしたほうが良いかもしれません」

 肩透かしにあったレイサリスは言葉を失って、ぽかんとした表情で人の姿に戻ったニーヴを仰ぎ見ることしかできなかった。ニーヴは不思議そうに首を傾げたが、そのまま言葉を続けた。

「最近、村のあたりから森の近くまで武装した人間を見かけます。シャイナに似た格好なので、あれが涙の騎士という輩なのでしょう。新たな追っ手が来ることは想定していましたが、かなりの手練れがいます。此処が見つかるのは時間の問題でしょう。それならば、ウェンダーへ行き、シャイナたちと合流する方が安全かと思います。私の脚ならば、二日で辿り着くかと」

 レイサリスは体から血の気が引いていくのを感じた。涙の騎士が近くまで来ている。それも徒党を組み、強者が混じっているという。さっきまでシャイナを助けようと息巻いていたのに、自身に危機が訪れる事態になろうとは思っても見なかったことだった。シャイナへの心配だけだった心の中に、自分に向けられる敵意への恐怖が入り込んで動揺した。

「人目に付かない行路でウェンダーに向かいましょう。シャイナに付けた私の力の残滓を追えば、迷うことはありません。捜索の手が森の奥まで伸びる前に発ちましょう。覚悟が出来たのなら、今すぐにでも」

 持て余していた覚悟を使う機会が出来た。レイサリスは何度も頷いて、聖域を出る意思があることを示した。

「では、行きましょう。道中は獣になってしまうため、意思疎通は出来なくなりますが、お許しください」

 ニーヴはそう言って、獣の姿に変身した。その瞬間、聖域と外界を隔てる闇の中から何かが飛んできて、ニーヴの胴に突き刺さった。巨木で微睡んでいた鳥たちが悲鳴を上げながら飛び立っていく。枝が騒がしく撓り、丸みを帯びた葉が一斉にひらひらと降ってきた。

 二ーブの胴を貫いたのは矢だった。鏃は濁った黄金色をしていて、淡く発光している。その中に鮮やかな赤が混じり、重たい滴となって落ちていく。ニーヴは鼻筋に皺を寄せ、牙を剥いて、矢が放たれた方を睨む。闇の緞帳を潜って入ってきたのは、シャイナと同じ装備をした三人の男たちだった。

「この娘が涙の簒奪者でしょうか?」

 水晶のように透き通った弓を持つ細身の男が、逞しい口髭の男に尋ねた。

「そうでなければ、このような奇怪な場所で斯様な化け物と一緒にはおらぬ。ゲネック、あの娘を捕らえよ」

 ゲネックと呼ばれたもう一人の男は、掌をレイサリスに向けた。すると、そこから銀の鎖が吐き出されるようにして現れて、蛇のようにうねりながらレイサリスに飛んできた。

 呆然としていたレイサリスは鎖が直前に迫ってきても、声すら上げられなかった。しかし、あわやというところでニーヴが鎖を弾き、レイサリスを咥えて駆けだした。

 地面に垂れ落ちていた鎖が息を吹き返して、ニーヴを追う。尾の先にまで触れたが、その前にニーヴが聖域を脱して消えていった。細身の男は弓を構えるが、口髭の男が制した。

「必要ない。あれだけ血を流しているのだ。追うのは容易い。外して娘に当たってしまう方が問題だ。ラーガの腕を疑っているわけではないがな」

 そう言いながら、巨木の傍に突き刺さる剣と装備に近付いていく。胸当てを拾い上げ、胸元の宝石を凝視する。

「団長、それは?」

 ラーガとゲネックが背後から覗く。ラーガに団長と呼ばれた男は口元を歪めて、じっと薄青の宝石を睨み続けた。



 ニーヴは疾走した。荒い息には血が混じり、それがレイサリスに滴ってくる。暗闇の森を抜けて、星空の下に眠る草原に出ても、ニーヴの脚は止まらない。息は早まり、脚は鈍っていたが走り続けていき、月が背後に回ったくらいになってから止まった。

 レイサリスを下ろし、頭を巡らせて矢を引き抜く。抜いた側から血が溢れ出したので、レイサリスは慌てて傷口を塞ごうとしたが、ニーヴは前脚でレイサリスを押し戻した。

「駄目よ。こんなに血を流しているのだから、止めなきゃ死んじゃうわ」

 ニーヴは喉の奥から細い息を漏らしていた。だが、断固として止血を拒む姿勢を見せた。レイサリスの再三の説得には応じず、鼻の頭で彼女を優しく押す。それを何度も繰り返されて、レイサリスはその行動の意味を理解した。

「一人で逃げろというの? それじゃあ、ニーヴはどうするの?」

 ニーヴは何も答えない。獣の姿では、彼からの言葉は受け取れない。行け、という合図だけしかレイサリスには伝わらなかった。

「貴方を置いてなんかいけない。それに私ひとりでウェンダーになんて……」

 ニーヴから返ってくるものは変わらなかった。鼻で優しくレイサリスの体を押すだけだ。加えて、今度はレイサリスから視線を外して、その背後へと顔を向けた。レイサリスもその視線を追って振り返る。

 遠くに小さな灯りが見える。人の住む場所なのだろうか。ニーヴは其処に行け、と伝えたいのだろう。それならばニーヴも一緒に行こう、と言おうとしたが、向き直った刹那にニーヴは灯りのする方向とは異なる方へと駆け出していた。レイサリスが追いかける間もなく、ニーヴは夜の闇に紛れて消えた。

「ウェンダーで会いましょう! 待ってるから!」

 闇の中に向かってレイサリスは叫んだ。返事はなかったが、従者であるならば、主人の命令を蔑ろにはしないはずだと願った。

 孤独がどっと押し寄せてきた。夜が体の内側に入って、心を蝕もうとしている。それに屈して倒れそうになったが、ニーヴが伝えてくれたことが支えになった。

 進むしかない。それがニーヴに報いること。儚い灯を目指してレイサリスは歩き始めた。一歩一歩と進む度にニーヴの無事を祈った。それが無意味であると分かっていながら、夜空を天界に見立てて、何処かで煌めく神を探し出そうとしていた。

 星が消え失せ、東の彼方が明るみだした頃、追っていた灯の下に辿り着いた。集落でもあるのかと期待していたのだが、粗末な天幕が一つあるだけで、その前に置かれた焚き火の傍で男が両足を抱えこみながら居眠りをしていた。

 火は暫く薪を足していないらしく、今にも消えてしまいそうだった。男は体を左右に揺らして倒れそうになるが、完全に眠っていないのか寸前で元の位置に戻ってはまた揺れるのを繰り返している。それっぽっちの意識しか残っていない所為か、レイサリスが近くに来ても反応はしなかった。恐る恐る声を掛けるも目を覚ます様子はない。もう一度、声を掛けてみると、別の場所から反応があった。天幕から獣のような怒鳴り声が聞こえてきて、レイサリスはたじろぎ、男は飛び上がった。

「なんのための見張りだ、馬鹿野郎!」

「はい、すいません! 起きてます、起きてます!」

 凄みのある声の主は女だった。男と女はそれほど歳が変わらないようで二十代くらいに見えたが、男の口振りと態度が女との主従関係を表していた。

 その女は天幕から這い出てきて、一番に男の頭を叩いた。男は平謝りを続けるが、女はそれを無視してレイサリスを眠たげな眼で見下ろした。

「なんだ、迷子か? それとも孤児? 生憎あたしたちもひもじい身でね、何も恵んでやれないよ」

 そう言いながら男の傍らに落ちていた土塊のような芋を拾い、それを丈夫そうな枝に刺して焚き火に突っ込んだ。

「ザン、水を持ってこい」

 男は裏返った声で返事をして、天幕の中に駆け込んだ。ひと呼吸の間もなく男は戻ってきて、水の入った革袋を女に渡した。しかし、女は男の頬を叩き、芋の刺さった枝でレイサリスを指した。

「あっちに決まってんだろ」

「すいません。お、お嬢ちゃん、お水をどうぞ」

 ぎこちない笑みを浮かべながら男は水を差しだしてきた。前歯が一本だけ欠けていて気になったが、レイサリスは両手の上に革袋を置いてもらった。

「ありがとうございます。ザン、さん?」

「そう、それが俺の名前。そんで、ムーフェ」

 ザンは女に指先を向けてそう言った。レイサリスはムーフェの方にも礼を言ったが、彼女はそれを拒むように掌を見せた。

「あーあー、そういうのはいらねえんだ。まったく、ガキなんか助けたって金になんねえんだがな。それで、なんでこんなとこに一人でいるんだ?」

 レイサリスは真実を話すか悩んだ。自分が涙を流せる天使で、涙の騎士に襲われてしまい、守ってくれていた獣の姿の天使が傷を負った上に離れ離れになってしまった、などと言っても妄言としか捉えられないだろう。それにムーフェたちが信用できる人間であるかは分からない。真実を話したことで捕まり、涙の騎士の下へ連れていかれてしまったら終わりだ。悩みに悩んだ挙句、嘘はなく、真実からは遠い言葉で経緯を語ることにした。

「人に追われているんです。友達と一緒に逃げてきたんですけど、途中で別れることになってしまいました。ウェンダーに行けば知り合いがいるので、どうにかなると思うのですが、私ひとりでは到底そこには……着の身着のままで来てしまったので、お金も食べ物もなくて困っています」

 ムーフェはじっとレイサリスを見つめた。疑われていると感じ、視線を逸らしたくなったが、嘘ではないことを示すために恐怖を飲んで見つめ返した。

「随分としっかりと喋り方だ。あたしがガキの頃なんか、なんも考えてない、支離滅裂な言葉しか出なかったが、お嬢ちゃんはいい育てられ方をしているんだな。名前は?」

「レイサリスです。レイシーと呼んでいただければ」

「それじゃあレイシー、ひとつ確かめさせてくれ。お前は涙教を信じるか?」

 ムーフェの瞳の奥に鈍く光る刃が見えたような気がした。その質問の意図も計れぬまま、有無を言わせぬ脅しに屈して即答した。

「いいえ。私が育った村は涙教とは無縁だったので、人には生まれながらに罪があるとか、それを償うために善を尽くして悪を滅さなくてはならないとか、涙を取り戻すための信仰なんて少しも気にしたことがありません」

 ムーフェの瞳から刃が消えた。同時に目尻を下げて、大きく口を歪めて笑みを作った。

「いいねえ、気に入った。特別にあたしらがウェンダーまで送り届けてやろう。ただ、報酬は請求させてもらうぜ。そのウェンダーにいるっていう知り合いからな」

 ギアソンに申し訳ない気持ちを抱きながらも、レイサリスはそれを承諾した。ムーフェは焚き火から芋を引き上げてレイサリスに渡そうとする。枝先から素手で芋を受け取ろうとしたので、器用に回転させて持ち手を向けてくれた。

「年中金なしだが、傭兵としての腕は誰にも負けねえから安心しな。野盗からも追っ手からも守ってやる。行き先がウェンダーとなれば長旅になるが、人のいるとこには寄り道できねえからな。なんせ、あたしたちはお尋ね者だ。この背中には涙教に仇為す大罪人、って札が貼られてんのさ」

 ムーフェは誇らしげに胸を張った。レイサリスは驚いたものの、涙教に仇為す大罪人という言葉に親近感を抱いた。怖がられることを想定していたのか、ムーフェがレイサリスの顔を窺うが、そうした表情ではなくて呆気に取られているように見えたので、それを疑問として口に出してきた。

「怖気づかないとは肝が据わってるな。言っちまえば、そこらの賊と変わんねえんだぞ?」

「私も同じようなものなのです」

 レイサリスは次の言葉を逡巡したが、思い切って真実を話すことにした。

「先程は言葉を濁しましたが、実は涙の騎士に追われているんです。彼らは私を涙教の神器から涙を奪った者として裁くつもりなんです」

「涙を奪った?」

「私自身に奪った自覚はありません。ただ、涙が流せるんです」

 話を信じてもらうために目に意識を集中させながら、ニーヴを想った。彼の安否が感情を揺さぶり、体の奥から込み上げてくる。途端に目の周りが熱くなり、じわじわと瞳に涙が溜まっていった。温かさを持ったそれは、目から溢れて頬を伝っていく。その有り様をムーフェとザンは唖然と眺めていた。

「嘘だろ。涙を流せる奴がいるなんて」

「俺も初めて見た。すげえ」

 これ以上、泣いてしまうと悲しみに支配されると思い、レイサリスは瞼を強く閉じて涙を堰き止めた。暫くして悲しみに打ち勝ち、残った涙を手の甲で拭いながら目を開いた。

「自分でもどうして涙が流せるのか分からなかったんです。でも、それを知っている人、いえ、天使が現れました。その天使曰く、私は涙を司る天使なのだと。その自覚なんて微塵もないんですけど、誰も流せない涙を流せるのだから、そうなんだろうということで受け入れました」

 ムーフェは額に手を当てて、何処とも定まらぬ目で遠くの方を見る。ザンは口をぽかんと開けるだけだった。

「えーっと、お前は人間じゃなくて天使なんだって? 涙を流せる? それで涙教に追われている? おいおい、寝起きの頭で理解しきれる話じゃないぞ」

「突拍子もないことをお話していることを承知しています。どうか、この涙を証明としていただければ」

 涙の滴が残った手の甲をムーフェの胸の前に持っていった。ムーフェはレイサリスの顔を窺いながら、指で慎重に掬った。それに目を近付けて、繁々と観察する。

「あったかいな。葉っぱに付く朝露とは違う。これが涙……」

 観察の間に涙は肌に染み込んでいったのか乾いたのか、朝日に煌めく痕を残して消えていった。ムーフェはその痕をじっと見つめたままだった。

「二言はない。お前が天使であろうと、ウェンダーには連れていってやる。ザン、出発の準備だ、急げ。どうせ長い旅になる。道中でお前のことを知っていけばいい。準備が出来るまでにそいつ、食い終わっておけよ」

 ムーフェは焚き火を豪快に足で踏み消し、ザンと共に天幕の方へと向かった。レイサリスは体から緊張が抜けていくのを感じた。その場にぺたりと座り込み、安堵の溜め息をそのまま芋に吹きかけた。

 印象だけなら、彼らは悪い人でないと言える。食料と水をくれて、此方の願いまで聞き入れてくれたのだから。もう頼れる人は近くにいない。ひ弱な自分には清い出会いでしか先へ進むことが出来ない。余計な心配をしても、それを覆す力もない。故に、ムーフェとザンが印象通りの善人であることを信じるしかなかった。

 ムーフェたちはさっさと天幕の片付けを終えてしまい、荷物も纏めて発つ準備が整った。ザンが背負った膨れ切った荷物袋の他には、ムーフェが弓を背負っているのと、二人の腰に剣が下げられているくらいで、軽装に見えた。ザンが外套をレイサリスに着させて、当然に丈は合わず引き摺る形になったが、ウェンダーへの旅が始まった。芋を食べきっていないレイサリスは歩きながら小さな口で少しずつ食べていった。

 ムーフェとザンの足取りに迷いはなかった。道らしい道もなく、目標らしきものもない野原なのに、彼らはウェンダーが見えているかのようにして進んでいく。そうして立ち止まることなく進み続けると、地平の先に疎林が見えてきた。日はちょうど真上に昇ってきた頃だ。

「もう少し辛抱してな。あの森の中で今日は休むから」

 ザンは相変わらず笑顔がぎこちなかった。彼は笑みを作るのが下手だということをレイサリスは察した。そう思うと、その笑みに違和感を覚えなくなった。

「お二人はウェンダーに行ったことがあるのですか?」

 ザンへの話しかけやすさが芽生えてきたので、思っていたことを口にして聞いてみた。

「あの町にはお得意様がいるんだ」

 そう言った後、ムーフェが割り込むようにして続きを言う。

「汚れ仕事はお偉いさんから請けることが多い。と言っても、あたしが気に入る仕事しかやんないけどね。だけど単純さ。とにかく涙教の奴らに一泡吹かせてやりたいって思いしかないんだから」

 踏み込んで良いものか躊躇いがあったが、ここで逃したら聞く機会は来ないだろうと思い、レイサリスは聞いた。

「涙教の方々と何か因縁があるのですか?」

「大ありさ。あたしとザンは奴らに故郷を焼かれたんだ」

 ムーフェは前方の疎林を真っすぐ見据えながら、滔々と語り始めた。

「ガキだった頃の話だ。此処からもっと北の、高くもないくせに登るのが大変な山の麓にあたしらの村はあった。とても小さな村だったから、みんな仲が良くて、互いに助け合いながら生きていた。平和で不自由のない、のんびりとした生活に満足していた。ちょうどあたしはやんちゃ盛りでね。ザンを連れて村の近くにある森へ遊びに行った。大人たちには内緒で村を抜け出したから、帰ったら怒られるだろうな、なんて考えていたんだが杞憂だった。遊び疲れて森を脱したあたしらの目の前には炎の海が広がっていた。村を覆う炎に怯えて森へ逃げ帰ることしかできず、火が治まってから戻ってみたが、そこにあたしらの故郷はなかった。家は焦げて跡形もなくなり、村の人たちもみんな……誰一人として生き残っていなかった。あたしは森へ戻る間際に人影を見ていた。鎧を着て剣を帯びた連中、それが涙教の騎士であると知ったのはもっと後だったがな。奴らに村を燃やされた。大切な人たちを殺された。その恨みだけであたしとザンは今まで生きてきて、復讐するために罪人にまで落ちぶれたというわけだ」

 レイサリスはムーフェの背中に哀れみの眼差しを向けるしかできなかった。ムーフェとザンの苦痛の全てを理解はしてあげられない。こんな幼子の慰めの言葉など気休めにもならないだろう。だから、黙してムーフェの話に込められた悲しみに同情する以外にしてあげられることはなかった。

「あたしは涙教を知った時から信用なんてしていない。あれがどうして正義面してこの大陸を牛耳っているのか不思議でならない。レイシーのおかげで確信できた。悪を滅して、涙を取り戻すなんて嘘だ。自分の都合のいいように世界を掌握しておきたいがために、教皇が宣った詭弁なんだ。現に涙はレイシーにある。それも神様の御使いなんだろ? お前さんの中に真実があると、あたしは思いたいね」

 振り返ったムーフェに、レイサリスは小さく頷いた。ムーフェたちの村を襲ったという涙の騎士。彼らに正義があるとは思えず、同時に教皇への不信感は強くなっていく。自分を簒奪者に仕立て上げようとする教皇の狙いが己の保身にあるならば、許されることではない。だが、涙の杯が乾いたことと自分が涙を流せることの因果関係については不明瞭で、そこに隠された事実を教皇から問い質さなければ、教皇の思惑を知ることは出来ないだろうと思った。

 疎林の入り口に到達したのは夕方だった。そのまま暗くなるまで奥へと入り、少し開けた場所に着くと、そこに天幕を広げた。追っ手を警戒して、煙と炎が目立たないように熾火を灯りにした。乾いた魚の肉が今晩の食事になった。聖域にいた時、ニーヴは肉を持ってこなかったので、久しぶりに食べることになった。少し硬く、噛みちぎるのに苦労したが、懐かしさを感じる味に声を漏らした。

「なんだか懐かしさすら感じてしまうわ」

 それに驚いたムーフェに、聖域での生活とニーヴのこと、加えて此処までの顚末を簡潔に話した。ムーフェもザンも驚嘆し、まじまじとレイサリスを見た。

「天使に仕える天使なんてのがいるのか。それもでっけえ狼とはな。俄には信じられないが、本当にいるんだろうな」

「ニーヴさんは、ご主人様を守るために囮になったんだろうな。騎士たちは間違いなくニーヴさんを追ってるはずだ。矢を貰って血塗れなんだろ? そうなりゃ、血痕は残るんだから、奴らは馬鹿正直にそれを追うだろうよ。甲斐甲斐しいねえ」

 ニーヴがより一層、心配になってしまった。気を落とし、首を垂れるレイサリスにムーフェは気付いて、ザンの頭を叩く。

「馬鹿野郎が。少しは気を使った言葉を吐け。大丈夫だ、レイシー。ニーヴは死にやしない。お前を守るのがそいつの使命なんだろ? だったら、関係ないとこで野垂れ死にする腹積もりはないはずだ。ウェンダーに着きさえすりゃ、また会えるさ。必ずな」

「ありがとうございます」

 ムーフェはレイサリスの頭をごしごしと撫でた。柔らかさよりも硬さを感じる手だったが、その温もりは優しいものだった。その優しさに浸っていたのだが、突如、手が頭から離れた。ムーフェの顔を覗くと、鋭い眼差しで周囲を見渡していた。

「何か来てるな。追っ手とは思えないが」

 ザンは剣を鞘から抜いて、残照に見える繁茂した草木を凝視していた。

「気配の殺し方からして人間ですね。ただ、訓練された奴じゃないみたいだ。かなり分かりやすい」

「野盗か。なら敵じゃない。レイシー、危ないから動くなよ」

 ムーフェも剣を抜くと、そのまま地面に突き刺し、弓に持ち替えて矢を番えた。レイサリスの目には人影など見えないが、ムーフェは狙いを定めて矢を放った。

 風を切る音の後、悲鳴が遠くから聞こえ、ざわざわと木々が騒ぎ始めた。途端に藪の中から野盗らしき輩たちが現れて、レイサリスたちを囲うようにして襲い掛かってきた。ムーフェは弓を放り投げて、突き刺した剣を引き抜いた。そのまま、間近に迫っていた男を斬り払い、斬られて蹲ったその男の背中を踏み台にして、別の男に飛び蹴りを浴びせた。蹴り倒した後、顎にも蹴りを入れて昏倒させると、すぐさま身を翻して新たな敵を迎え撃つ。ムーフェは鮮やかな剣戟を披露し、次々に野盗を斬り伏せていった。ザンもまた苦もない様子で野盗を倒していく。二人のおかげで、レイサリスを襲う者は一人も出てこず、呆気に取られている内に戦いが終わった。

 ムーフェは悶え苦しむ野盗の一人に近付いた。切っ先を突きつけて、低い声で言う。

「殺さないだけ温情があると思えよ。怪我人連れて、さっさと消えろ。また襲ってくるようなら、容赦はしない」

 野盗は呻きながら、何度も頷いた。それを見ると剣を納め、野盗の服をむんずと掴んで引っ張り上げて、無理矢理立ち上がらせた。

「五つ数えるうちに撤収しろ。一つ、二つ……」

 軽傷だった野盗の数人も急いで立ち上がり、仲間を担いで逃げていった。辺りには彼らの残した剣がいくつか落ちていた。ムーフェとザンは周囲を見渡し、ぶつぶつと文句を吐いた。

「落とすんなら、もっと金目のもんを落とせよな」

「そんなもん持ってるなら野盗なんてやってませんよ。それにしても、こんななまくらで挑んでくるとは舐められたもんだ。ほら、どれも刃こぼれが酷いですよ」

「使えそうな剣すらないのかよ。こりゃ、矢一本分損しただけか。待て、こいつは使えるぞ」

 ムーフェは人差し指程度の長さしか刃のない短剣を拾い、まじまじと見た。

「それならレイシーに持たせられますね」

「馬鹿。訓練もしてないガキに刃物を持たせるわけねえだろ。そろそろ新しいナイフが欲しいと思ってたところなんだ」

 目ぼしいものがそれきりだと分かると、ザンは野盗がまた襲ってこないように見回りへと向かい、ムーフェは片付けを終えた後に、その間に熾火の前で座らせていたレイサリスの隣に座った。既に夜が訪れ、辺りは闇に満ちていた。

「悪いな、ちょっと慌ただしくなっちまった。でも、もう安全だ。今夜はザンが寝ずの番をしてくれるから、怖いもんはない」

 レイサリスは先程起きた戦いを今一度、思い出した。ムーフェもザンも流麗な立ち回りを見せて、まるで踊りを見ているようだった。その姿とそれが齎した結果から、二人が並々ならない実力者であることが知れて、旅の不安が一つ消えた。しかも、無益な殺生を避けて戦いを終わらせた手腕もレイサリスにとって好ましいと思えるものだった。

「お二人とも、とても優しいんですね」

「雇い主を守るのは当然のことだ。それが子供だっていうなら尚更な」

「いえ、そうではなく、襲ってきた人たちを帰してあげたではないですか。それに優しさを感じたのです」

 ムーフェは苦笑いを浮かべながら顔の前で手を振って見せた。

「優しくはないさ。ちゃんと傷付けてるんだから。まあでも、分かっちまうんだ。あいつらも、あたしと同じだって。拠り所をなくして、生きていくために足掻かなくちゃならない状況に陥ったんだ。それで選んだ生き方が、人の道から外れすぎているか、ちょっとで済んでいるかの差でしかない。自分でちょっと、なんていうのはおこがましいかもしれないけど、あたしは自分の生き方を間違っていると思ってはいないから。あいつらもこれに懲りて、ましな道を選んでくれるといいんだけどね」

 彼らには野盗にまで落ちぶれた理由がある。それはきっとムーフェとザンが味わったものに近しいものかもしれない。この世の残酷さを感じずにはいられない。レイサリスは胸の奥にある空虚を強く認識した。以前よりも感覚を生かしていられるように思えたが、やはり空虚はレイサリスの思いを呑み潰したまま応答してくれない。この空虚と自分の感情は結びついているような気がするのに、そこに眠る何かには近付けない。もどかしさを覚える前に、ムーフェと話すことに努めた。

「ムーフェさんの思いを、彼らが感じ取ってくれればいいですね」

「思いだなんて大層なもんは込めてないさ。込めたのは、力だけだ」

 ムーフェは拳骨を作り得意そうな笑みを浮かべる。レイサリスもそれに釣られて慎ましく笑った。それからムーフェが経験してきた旅での話を続けてくれて、レイサリスはそれを聞いている内に眠りに落ちていた。

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