ギアソンとシプティア
鼻腔に悪臭が突き刺さる。なんの臭いだろうか。腐った肉、誘惑の花蜜、燻した木の皮、獣の汚物、焦げた金属、それと手折った草が放つ臭い。様々な臭いが混じり、一緒くたになって鼻を穢してくる。それに耐えられずにシャイナは飛び起きた。
やにわに頭を強く打ち、か弱い悲鳴を上げた。頭を屈めて上目遣いに天を見る。薄暗かったが、すぐ真上には黒い天井があった。どうやらそれに頭をぶつけたらしい。体の両側も異様に狭く、身動きが取れない。正面は格子で塞がり、そこから外の景色が見える。窓がなく石壁で囲われた暗い部屋、目の前には黒い釜があり、その下には熱を帯びた薪が静かに燃えている。釜からは重たく泡が弾ける音がし、のっぺりとした煙が部屋に充満していた。
この強烈な臭いは釜が出しているものだ。それを悟ることは出来たが、防ぐ手段がない。鼻を抑えようにも犬の脚ではうまくいかず、逃げ出そうにも身動きが取れない。檻に入れられたということは分かったが、どうしてそうなったのかは記憶にない。意識を取り戻す前の出来事を思い出そうとする。確か、ギアソンを探していたが、空腹に耐えられずに道端にあった肉を食ったのではなかったか。それだ。その肉を食ったら、異様な眠気に襲われて、そのまま深い眠りに落ちてしまったのだ。薬を盛られたか。しかし誰が、なんの目的で?
頭を巡らせていると、扉の軋む音が聞こえてきた。その音と共に釜の奥から何者かが入ってきた。シャイナは体を低くしながら、その人物が近付いてくるのを待った。
「よく眠れた? 可愛い騎士さん」
檻の前で屈み、そう言ったのは年若い女だ。十四、五歳くらいの幼さがある少女で、長い黒髪が床にべったりと付いていた。灯りを背後にして影を含んだ顔には意味深な笑みが浮かべられている。
シャイナは唸って反抗を示した。騎士、と確かに少女は呼んだ。漸く気付いたが、首に括っていた手紙の筒がなくなっている。恐らく、この少女に奪われ、読まれてしまったのだろう。そして、薬を盛り、此処に連れてきたのも、この少女。子供にしか見えない彼女が謀略を練り、捕縛してきた。気味の悪さと子供に出し抜かれた腹立たしさで、シャイナは怒りを露わにしていた。
一方で少女は牙を剥くシャイナを怖がる様子もなく、余裕のある笑みを保ったまま、言葉をくれた。
「噂に違わぬ狂犬ぶりだな、シャイナくん。人間だった時も、そんなふうに誰彼構わず威嚇してたんだって? 仲間の涙の騎士たちにさえ噛みついていたらしいじゃないか」
何を言うか。私は一度たりとも、威嚇などしたことはないし、涙の騎士たちなど歯牙にもかけない存在だった。あらぬ噂を真に受けおって。馬鹿馬鹿しい、と抗議したが、少女にはただ犬が喧しく吠えている様しか映っていなかった。
「野犬でもそこまで吠えないよ。やはり言葉が通じているみたいだ。手紙の内容を真実とするなら、天使も実在する、と。さて、どうやったら天使は捕まえられるかな? その前に君の体を縛る奇跡とかいう力の解明が先だけど。毛の採取は終わったけど、それで成果が得られないようなら、ねえ?」
少女は大袈裟な舌なめずりを見せた後、部屋にある棚から液体の入った小瓶を何本かと乾燥した蜥蜴のような物体、得体の知れない小さな黒い塊などを手に取り、そそくさと部屋から出ていった。
歯噛みする余裕すらなかった。憤りが声となって出てくるが、部屋に広がるだけで暗がりに消えていく。少女の企みを知る由もない。ただ、事態は悪い方向へと進んでいるのだけは間違いない。その気があるようには見えなかったが、手紙が涙の騎士に告発されでもしたら、自分の役目は終わってしまう。手紙の内容は確認できていないが、おそらく自分と天使たちとの取り引きについては書かれていないだろう。そうなると。聖下に手紙を読まれてしまったら、ただの裏切り者と見做されてしまう。その頃には見えない鎖によって処分されているだろうが、聖下に誤解されたまま死ぬのは不本意だ。
なんとしても手紙を取り返さなくてはならない。シャイナは狭い檻の中で狂ったように暴れた。怒りと不甲斐なさと己の使命が、人としての理性を排除して、全身に力を漲らせて檻を強引に破ろうとしていた。金属で出来ているらしい檻は、牙や爪や胴をぶつけてくるシャイナを散々痛めつけたが、格子は暴力に屈して壊れた。体はじんじんと痛み、爪は折れて、口は血塗れになったが、気にする暇もなく檻から飛び出て、勢いのまま部屋の扉に体当たりした。
木製の扉は脆く、簡単に突破できた。目の前には螺旋状に伸びる暗い石階段が上へと続いていた。シャイナは駆け上がり、二周した辺りで再び扉と見えた。階段を上がっている間に理性を取り戻しつつあったので、少女と出くわすことも考慮し、力尽くにならずに扉の取っ手に爪を引っ掛けてそろりと扉を開けた。
日の光が射し込み、目が眩みそうになるが、なんとか堪えて扉を抜けていく。外に出られたと思っていたが、部屋に繋がっていた。先程の部屋とは違って、明るかったが、異質であることは変わりなかった。窓辺と扉付近以外はびっしりと本棚が並び、雑然と本が詰められている。木製の床の上にも本が散らばっていて、取り分け中央にある机の周りは土嚢のように堆く、無造作に積まれていた。シャイナが入ってき扉の反対側にもう一つの扉があり、急いでいたのか、ずぼらなのか、大きく開け放たれたままになっていた。
シャイナは本を避けながら、机に向かった。もしかしたら、そこにギアソンへの手紙が置いてあるかもしれないという望みを抱いていた。椅子によじ登り、雑然とした机の上を見ると果たしてそれはあった。長らく丸めていたために癖が付いている羊皮紙が猫背のままに広げられていた。僅かに見える文字からレイサリスの署名を確かめると、前脚を伸ばして手紙を掴もうとした。
手紙の端が爪に引っ掛かり、引き寄せることが出来た。だが、咥える前に床に落ちてしまい、シャイナは慌てる間でもないのに、椅子から飛び降りた。着地場所も定めずに降りたため、運悪く本の山に飛び込む形になってしまった。ぐしゃりと雪崩れる本に体を滑らせながらも、手紙を見失う前に拾い上げられた。
ふと、目線が手紙の下にあった本に向いた。表紙には『涙と涙教』と書かれている。更に、近くには『大地創世神話』『神の奇跡と人の歴史』といった題名のものが落ちていた。少女の所有物なのだろうが、どうにも気に掛かるものを感じる。あの口振りから、神や天使に纏わる事象を調べているのは必然だと思ったが、下の部屋にあったものと少々毛色が異なっているような気がした。その違和感の答えに辿り着こうとして考えこんでしまっていると突然、頭上から穏やかな声が降ってきた。
「貴方も歴史に興味がおありで?」
シャイナは毛を逆立てて飛び退いた。そこに立つ男を仰ぎ見て、レイサリスから聞いていた人物像と重ねる。くすんだ橙色の縮れた髪の毛、重たそうに感じるほど大きい眼鏡、毒気のない弛んだ表情、華奢な腕と細長い指、外から来たのか外套で身を包んでいるが、その上からでも察するのが容易いほどに痩せている。この男がギアソンなのか。尋ねる声も出ないのに口を開いた矢先に、男がその疑問を解消させる言葉を放った。
「僕がギアソンです。遠路遥々、ご苦労様です、シャイナさん。貴方の手紙は確かに受け取りました。弟子が面倒を見ていたはずなのですが、あれはどうしましたかね」
弟子というのは、私を監禁していた少女のことか。ならば、師である貴様の差し金であの狭い檻に私を閉じ込めたというのか。シャイナは抗議を込めて吠えるも、ギアソンは穏やかな表情を崩さなかった。
「すみません。シャイナさんを寝かせておく場所があそこしかなかったものですから、狭かったでしょうが、目を覚ました時に勘違いされて何処かへ行かれてしまっては困ってしまうので、あの檻に入れさせてもらいました。何分、急なもので犬のお客人をもてなす部屋を用意できなくて……それもこれも、弟子のシプティアがいきなり貴方を連れてきたのが原因なのですけど。それで、シプティアに貴方の世話をするように言っていたのですが、この様子じゃ、あれは貴方に変なことをしたみたいですね。おーい、シプティア!」
ギアソンは開けっ放しの扉から、シプティアを呼んだ。大きくもないその声を何度か続けると、どたどたと頭上から音がして、次第に近付いてきた。そしてひょっこりと扉から先程の少女、シプティアが顔を覗かせた。
「御帰りでしたか。あっ……」
シプティアの目がシャイナへと向いた。シャイナは怒りの眼差しを返した。
「どうせ君のことだから、お客人を実験の材料にしようとしたんでしょう。勉強熱心なのは良いことですが、人道に悖る行いはやめなさいと、いつも言っていますよね。あまり度が過ぎるようでしたら、地下の物は全部片づけてしまいますよ」
声色は全く怒気がなく、表情にもそれほど険しくなっていなかったが、シプティアは萎れた蘭のように項垂れてしまい、小さい声で謝った。が、その後にぶつぶつと言葉が続く。
「でも、あたしが捕まえなきゃ、この犬は師匠のとこに来られなかったわけだし。手柄は否定されたくないなあ。なんなら、評価されたっておかしくはない気がする」
「勿論、君が作った睡眠薬は素晴らしいと思いますよ。ただ、お客人で効果を試すのは頂けない」
「結果的にそうなっただけですよ。だって町に野犬が侵入したって話でしたから、野犬になら何をしたって文句は言われないし、実験台に最適かと思ったんです。だから、その実験に関しては多めに見てほしいし、それが成功した上で師匠のお客さんも保護できたので、あたしは褒められて然るべきかと存じます」
急にシプティアは体を逸らして威張り散らす態度に豹変した。ギアソンは羊毛のような髪に手を入れて頭を掻き、溜め息を吐いた。
「そうやって開き直れるのは、シプティアの良いところでもあり、悪いところでもあります。今回は許しますが、次からは事前と事後の報告を余さずお願いします。良いですか、事前も、ですよ?」
ギアソンはそう言って、シプティアを下がらせた。シプティアが扉を無遠慮に閉めて出ていった後、ギアソンがまた溜め息を吐いた。
「変な実験に熱を上げていましてね。彼女の最近の流行なんです。医学の本を与えただけなのに、良からぬ方へと道を進めてしまって。凝り性な上に飽き性なのですが、今回はしぶとく続いてしまっていて、喜んで良いのやら悪いのやら」
そのせいで害を被ったシャイナとしては、シプティアの所業は許されるものではなかった。こうしてギアソンと邂逅できても、未だに安堵できなかったのだから。ともあれ、目的は果たして、ギアソンもレイサリスの手紙を読了している。後は、彼がどうやって涙の杯を奪取する手助けになるかを推し量るだけだ。ギアソンは机の周りで雪崩れた本を、また土嚢のように積み直した後、椅子に座ってシャイナに正対した。
「あれに気を取られ過ぎても仕方ありませんね。貴方も早く本題に入りたいでしょうし、僕も貴方に聞きたいことがありますから。とは言っても、貴方が何を言っているのは分かりませんから、簡単な応答だけ、決めてしまいましょう。是ならば右の前脚を上げて、非ならば左の前脚を上げる。これでどうでしょうか」
シャイナは右の前脚を床から少し浮かせた。意思の疎通をすることは必要だと思ったのでその提案には同意するが、まるで芸を仕込まれているかのように感じて気に食わなかったので大々的には行わなかった。しかし、それで充分にギアソンには伝わった。
「ええ、それで大丈夫です。ではまず、伺います。貴方が見てきた事実と、この手紙に書かれていること、即ちレイサリスさんが天使であり、彼女を守る天使がいるということに間違いはありませんね?」
言質を取ることに意味があるのか。手紙には署名があり、それを疑うのなら、遣わされた者の言葉を信じる材料にはできないだろうに。まあ、子供が自分を天使だなどと言うのを真に受けるのも馬鹿馬鹿しいと感じるか。そう思いながらも、シャイナは右脚を上げた。
「ふむ。天使が降臨した、と貴方はお認めになるのですね。ならば、涙の騎士として貴方は過ちを正すためにレイサリスさんに協力しているのですか?」
過ちなどない。私は聖下のために、涙の簒奪者を捕らえんとしているだけだ。その過程で、奴らに従わなければならなくなっただけのこと。左足をギアソンに向けるようにして上げる。
「成程、やはり互いに利用している関係でしたか。奇跡の力は貴方の自我を操るまではいかないようですね。どういった取り引きをしたのかは知りませんが、あの子が信じて遣わせた御方ですから、一緒に涙の杯を手に入れる方法を考えましょう。ああ、きっとその手紙がレイサリスさんの書いたもので、更に書いてあることも疑わないのか、と言いたいのでしょう。心配いりません。彼女の筆跡はよく見てましたし、あの子は嘘を吐くような子ではないことも知っています。それに、その証明の一つに貴方がいる。犬になった涙の騎士を前に、信じないとは言えません」
ギアソンは緩んで緊張感のない笑みを浮かべた。だらしない見た目をしているというのに、その口から出る言葉は賢しい。果たして、その知能で涙の杯に近付けるか。幾ばくもなかった期待がギアソンと会話したことで、シャイナの中で膨れてきていた。涙の杯さえ手に入れられれば、あの涙の簒奪者を聖下の前に跪かせられる。その光景がはっきりと輪郭を伴って脳裏に浮かぶようになった。
「ですが、涙の杯を手に入れるなんて、容易いことじゃありません。シャイナさんの方が詳しいでしょうが、あの杯はポーポネート大聖堂に保管されていて、教皇以外は出入りに制限がある。聖堂そのものが奇跡の力によって固く閉じられていて、侵入も不可能。唯一の好機は涙の騎士の叙勲の儀でしょうか。騎士候補が聖堂に入る隙を狙えば、侵入できるでしょうが、そもそも涙の杯が乾いてしまったのだから、新たな涙の騎士は生まれないのでしょう? だから、レイサリスさんを涙の簒奪者と呼んでいた。涙がないなら、騎士は生まれない。騎士が生まれないなら、杯は聖堂でただ眠るのみ。これじゃあ、僕たちも手の出しようがない」
この男に希望を抱いたの愚かだったか、と落胆しかけたが、ギアソンは続けざまにこう言った。
「でも案外、運は此方に向いているらしい。奇跡を纏った犬がいる上に、今年は涙想祭がある。貴方もご存知でしょう?」
祭事には疎いシャイナは一瞬、何のことかと思った。しかし、記憶の何処かから涙想祭の名が呼び起こされ、その祭りの意味も思い出した。涙想祭は百年に一度だけ行われる神聖な祭儀で、人々が涙を流せたことと、背負わされた罪を思い出すために行われるものだ。だが、それがどうして涙の杯と関わるのか見当が付かなかったし、ギアソンが仄めかす自分の利用価値も思いつかなかった。
「涙想祭は教皇が民の前に顔を見せる唯一の機会。聖王都モースズは教皇の姿を拝もうと王国中からやってきた信徒たちで溢れかえる。当然、警備も厳重になり、涙の騎士も駆り出されることでしょう。元々奇跡の力で守られているおかげで警備の必要があまりないポーポネート大聖堂は自然と警戒の目が薄れて、近付くのが容易になる。あとはその防備を任されている奇跡の力を突破するだけ。だから、解明する必要があるんです。天から人間に与えられたという奇跡の力の正体を」
ギアソンは本棚から古めかしい本を引っ張り出して、破れないように指先で摘まみながら、淡々とページを捲っていく。
「人類の歴史は神の降臨から始まったとされています。また、歴史の分水嶺には必ず、天からの助けがあった。それが奇跡の力と呼ばれるもの。大地に根付く生物が成しえない特異な力、現象による勝利の数々。天の差配により私たちの運命は幾度となく覆されて、その度に奇跡の力を授かった偉人、英雄が現れたとされる。その歴史書に綴られて、存在の認証もままならない、誇張のようにすら感じる伝説は千年前、人類が涙を失うと同時に現実となり、今なお連綿と続いている。どうして神から見捨てられたのに、その奇跡は地上にあるのか。そして奇跡を我が物のように振舞い、千年も生き続ける教皇ハーヴェルとは何者なのか。その答えの中心にレイサリスさんがいるなんて、興奮するじゃないですか」
ページを捲る速度に同調するようにして、ギアソンは早口になっている。眼鏡越しに本を見る瞳は大きく見開き、瞬きをしていない。ぼんやりとしている印象があったギアソンに、シャイナは初めて尋常でない異様さを感じた。
大罪を犯し、己の命を保証できない危険な戦いになぜ躊躇なく協力してくれるのか、その真の理由が分かった気がする。ギアソンは知識の探求者なのだ。だから、天使や奇跡といったものを間近に見られる好機を逃したくないし、そのためなら罪を犯すことに抵抗を持たないのだろう。狂気的な探求心がこの男の足取りを荊の中に突っ込ませ、崖から飛び降りさせ、猛獣の塒で躍らせようとする。それでも、この男は笑って死ぬだろう。おそらく、学者という生き物が必ずそうした気質を持っているのではない。知性あれば、己を律する楔を自ら打つことができよう。しかし、ギアソンにはそれがない。こいつは欲望のままに知識を貪らんとする、人の皮を被った獣だ。
シャイナはギアソンを危険人物と定めた。この計画の後、彼も処理せねば聖下に害が及ぶ。今はその知識を利用してやるが、彼が不要になる段階で殺してしまおう。駒の欠落程度なら、この鎖に締め上げられることもないはずだ。そう心に決めて、ギアソンの一挙手一投足を注視した。
「奇跡の力は教皇と涙の騎士が独占していて、調べようにも調べられませんでした。ならば何処かに涙の杯に依らない奇跡の所有者がいるかもと大陸中を旅しましたが、一向に見つからなかったので貴方はとても貴重な存在です。シプティアが好奇心に負けて貴方を調べようとした気持ちも僕には分かります。なにせ、どの本にも奇跡の力について詳しく書かれていないのですから。ただ見聞きした曖昧な知識を飛躍させるために、その構造、理論を知ることが今、重要なんです。それが解明できれば、貴方を縛る奇跡の力も解けるかもしれませんよ?」
この鬱陶しい鎖がなくなれば、天使たちに与する理由はなくなる。そんなことは明白だろうに、それを誘いの文句として使おうとは。愚弄としているのか、それとも取り引きとして成立すると考えているのか。真意はその腑抜けた顔には見えなかったが、乗っておいても損はない。シャイナはそろりと右脚を上げて了承を示した。
「貴方が自由になれる時は即ち、貴方に頼らずとも涙の杯を手に入れられる状態になったということ。貴方がもし、僕やレイサリスさんに危害を加えようとしても、それに対抗できる力が此方にある。それを忘れずにいてくれれば、助かります」
やはり侮れない男だ。だが、そのような脅しで尻込みするほどシャイナは弱くなかった。必ず、その喉元を噛みちぎってやると心に誓い、頬が緩んでいるギアソンを睨みつけた。
ギアソンは調べたいことがある、と言い残して家から去った。それから三日経ち、帰ってくる気配はない。犬である以上、健康的な犬の正しい振る舞いをしなくてはならない、などとシプティアが宣い、この間は昼を過ぎたくらいになるとウェンダーの街中を散歩させられた。外から侵入してきた野犬として見られるはずだったが、どういう根回しをしたのか、町民や衛兵はシャイナに訝し気な視線を向けるも、それだけで無関心な様を見せていた。
「あたしと師匠の日頃の行いが、君を哀れな犬に仕立て上げたのだよ。感謝しなさい、シャイナくん」
シプティアは人目を憚らずにシャイナに話しかけてきた。シャイナは只の犬を装い、不機嫌な顔を作って前だけを見る。
「柔軟な発想は外気を吸い、日の光を浴びることで得られるんだ。あたしだけじゃない、君もそのおつむが本当の犬みたいにしょぼっちくならないように、この散歩という工程は必要なわけ。それにこういう何気ない日常の中に、研究の手掛かりがあったりするんだよ」
シプティアに体毛や睫毛、爪の先端、涎、そして屈辱ながらも糞尿すら提供したが、そこから奇跡の力を引き出すことは出来なかった。人としての恥を捨てたにも関わらず、それが無意味だったとなると、シャイナの憤りは堪えがたいものとなっていた。もし、シャイナが言葉を発することができたなら、シプティアに向かって終わりのない罵声を浴びせていただろうが、所詮、犬でしかなかったので低く唸って大きく吠えることでしか発散できなかった。
研究の成果はないし、ギアソンも帰ってこないとなると、シャイナは己の選択が本当に正しかったのかを疑い、後悔すらした。このまま、奴隷のように扱われて、行き過ぎた実験の末に死ぬのではないかと思った。散歩したとて、心はこの空のようには晴れず、薄暗い雲が掛かったまま鬱々とするだけ。ぼんやりと連れられるのみで、何処に向かっているのかも知らず、興味もない。だから、涙教の教会の前に辿り着いても、シャイナは暫くの間、全く気付かず、日光を反射して輝く青い光が視界にちらついてきて遂に我に返った。
教会から一人の騎士が出てきていた。銀の胸当ての中心には薄い青の宝石が嵌められている。あれは涙の騎士。見たことのある顔だったが、名前は覚えていない。不潔な無精髭と太い眉が特徴的な中年の男としか認識していなかった。どうせ陰で私を悪く言う連中の一人に変わらないのだから、覚えておく理由もなかったが。
シプティアは前方から来る涙の騎士に向かっていった。首輪と鎖で繋がれている以上、シャイナは抗えず、また不審な態度を取りたくもなかったので、シプティアに連れられて、涙の騎士に近付いていった。騎士とすれ違って、教会に入っていくのかと思いきや、シプティアはその騎士の前に立ち塞がった。騎士は太い眉を吊り上げて、シプティアとシャイナを見下ろす。
「何用かな?」
「察しがいいな。奇跡の力を見たいんだけど」
その一言は対面の涙の騎士だけでなく、隣に従わせている犬の騎士をも唖然とさせた。
「手っ取り早く発想を循環させるにはちゃんとした涙の騎士に披露してもらって、体感を詳らかにしてもらうに限るから。ほら、無辜の民を救うのが涙の騎士の務めだろう。あたしの願いを叶えなさい」
騎士は引き攣った笑みを浮かべながら、唇を震わせた。
「すまないね、お嬢ちゃん。君のお遊びに私の崇高なる力は付き合わせられないんだ。この力は悪を罰し、人々の罪を洗い流すことだけに使うもので、見せびらかしたり、自分の欲望を満たしたりするために使っちゃいけないって決められているんだよ」
「奇跡の力に制限が掛かっているなんて記述は過去の文献の何処にも見当たらなかったが。例えば、七千六百年前には神から奇跡を授かったメデスティア帝国の皇帝が、その力で近隣諸国、反乱勢力、義弟とそれに連なる血脈の者たち、果てには諫言した側近すら鏖殺したとの記録がある。それを事実とするなら、欲望のままに力を振るったって神が怒って涙を奪ったりとかしないってことじゃないか。だから、此処でただあたしの小さな欲のために奇跡の力を行使したって、神様は貴方からなんにも奪いやしない」
師匠に負けないくらいの速さで捲し立てた。それに気圧されて、騎士は口を半開きにして細い息を漏らすだけになった。シプティアは追い打ちを掛けるように言葉を続ける。
「そういう規則があるのなら、同僚たちの目につかないところへ行こう。要は貴方が咎められなきゃいいんだから。協力してくれたら、お礼をしてやってもいい。ほら、悪い話じゃないだろう?」
なんとも高圧的な子供だ。シャイナが思うことと、目の前の涙の騎士の思いは一緒だったようで、見る見る男の顔が紅潮していく。シプティアの見下すような話し方は、涙の騎士という誇りと驕りを纏った生き物の神経を逆撫ですることしかできない。それでも男は耐えている方だろう。わなわなと口を震わせて、拳を強く握りしめるだけで、その怒りを発散させまいと堪えていた。
「君にはまだ分からないだろうけど、私は涙を授かったものとしての責任を負っているんだ。だから、何があっても君には付き合えない。色々と好奇心があるのは良いことだが、大人を困らせるのは悪いことだから、家に帰ってお母さんのお手伝いでもしてなさい」
「論理のない返答だな。子供ならそう言えば煙に巻けると思っている浅はかさが透け過ぎて呆れる。これは頼む相手を間違えたな。もう少し利口な騎士はいないものか。ああ、そういえば一人、有名な涙の騎士がいたじゃないか。確か名前はシャイナ、だったかな」
「シャイナだと?」
男はその名前に素早く食らいついた。突然、名前を呼ばれたシャイナは困惑しつつ、シプティアを仰ぎ見る。シプティアはにんまりと口元を歪めていた。
「そう、シャイナ。涙の騎士の中でも屈指の実力者だと聞いてことがある。彼なら、あたしの望みを叶えてくれそうだ。騎士殿、シャイナはこの町に来てないのかね?」
「残念だが、奴はいない。確かに奴なら、金さえ積めば言うことを聞いてくれるだろう。お嬢ちゃんが望めば、靴だって舐めるし、淫らな欲も発散させてくれるだろう」
シプティアへの怒りを少し吐き出してきたようだが、彼女は動じなかった。隣で悪態をつかれたシャイナも、陰口を言われ慣れていたので、反応はしなかった。却って冷静になれて、唐突に自分の名前を出したシプティアが何を狙っているのかを思案し、その答えに辿り着くために、二人の会話を聞き逃さないようにと形の良い三角耳をぴんと立てた。
「奴はそうやって薄汚い行いを繰り返して聖下に近付いて誑かし、おめおめと涙の騎士の座を手に入れた。それだけでなく涙の杯を……いや、とにかく、あのような穢れた涙の騎士に実力などというものはない。人に取り入る邪なる力に長け、それを駆使してその地位を得たに過ぎない。だから、聖典に反することでも奴なら喜んでするだろう」
「思っていたほど素晴らしい人ではないんだ。でも、それだけ悪い噂があるのなら、涙の騎士の座を剥奪してしまえばいいのに」
「正しく奴は裁かれるべきなのだが、その確たる証拠もない。それにこのひと月、奴の姿を誰も見ていないという。何か裏で良からぬことを企んでいるのだろう。その尻尾を掴んでやりたいのだが、我々にも成さねばならぬ責務があるのでな」
「私の目には涙の騎士はいつも暇そうに見えているけれど。ああ、それともこれから大きな仕事に行くところなのかな?」
シプティアは探るような言葉を投げかけるが、男の太い咳払いがそれを叩き落した。
「喋りすぎたな。もう良いだろう。私は急いでいるのだ」
男はシャイナの悪口を言うことで溜飲が下がったのか落ち着きを取り戻していて、シプティアを相手にするのをやめて逃げるようにして去っていった。その背中をシプティアは目で追っていたが、すぐに興味を失って教会の方へと歩き出した。
「急務があるという忙しなさは感じなかったな。体よく逃げられてしまったが、君が隠している、いや語弊があるか、言葉にして伝えられなかったことが分かった。どうやら、シャイナくんがレイサリスを捕まえるという任は誰も知らない極秘のもののようだね。それならば、彼女たちが今すぐ涙の騎士に捕まるということも心配なさそうだ。おそらく、涙を流せる少女がいる、という情報も限られた人間にしか知らされていないのだろう。君の根も葉もない噂ばかりあたしたちの耳にも入ってくるくらい、涙の騎士の情報統制力はお粗末なのだから、此処までそれが聞こえてこないとなると、涙教の上層部にしか伝えられていないと考えてよいかもしれない。おそらく情報を売った者も口封じされたかな」
己に課せられた使命を探られていたようだ。答え合わせを求めるかのようにシプティアが見下ろしてくるが、犬らしい振る舞いを心がけて道の脇にある草花を目で追って誤魔化した。
「まあ、そんなことはいいか。もう少しあの騎士から奇跡に纏わる情報を得られれば良かったが、本命はこっちだ。教会の中、涙教の関係者しか立ち入れない場所になら、あたしが欲しているものが手に入りそうだと思ったんだよ。シャイナくん、何かそれらしいものがある場所に連れてってくれない?」
それにはシャイナは答えて、シプティアをぐいぐいと引っ張っていき、教会へと伸びる道から逸れて、裏へと回っていった。其処には涙の騎士の駐在所がある。厳かな雰囲気の教会とは違い、灰色の漆喰で塗り固められた角張った建物には飾り気がなく、換気と日差しを取り入れるための窓がいくつかと、青銅で補強された木製の扉が一つあるだけで、中からは人の気配も感じられなかった。
シャイナは扉の前で腰を下ろし、開けろ、とシプティアに無言で命じた。シプティアは微塵も警戒せずに扉を開けて、二人は堂々と侵入した。内部は外装よりは幾分か鮮やかで、汚れの目立つ極採色の絨毯が出迎えてくれたほか、枯れた主を抱える花瓶や、醜い婦人が描かれた絵画、乱暴に蝋燭が立てられている銀の燭台などで、騎士が住む家の体裁を取り繕っていた。
玄関の奥と左右に廊下が続いていたが、シャイナは迷わずに真っすぐ進んでいった。ウェンダーの駐在所は数えるほどしか来ていなかったが、自分の拠点となる建物の構造はしっかりと把握していた。その不用心さも知っていて、扉に鍵が掛かっていないことからも想像に難くないが、涙の騎士は誰からの襲撃も受けることはないという驕りと、ウェンダーの治安の良さから、鍵を掛ける習慣がなくなっていた。
駐在所は騎士たちの宿舎も兼ねていて、ほとんどが彼らのための部屋になっている。鍵は掛けられるが、先の理由により施錠してある部屋はほとんどなく、侵入が自由であり、それを推奨するかのように扉が半開きになった部屋が多々あった。ただシャイナは長い廊下に並ぶ、それらの部屋には興味を示さず、奥へと突き進み、突き当たりにある部屋の前で止まった。
閉め切られた扉をシャイナは掻くように開けようとしたが、犬の力では開けられない。シプティアが代わりに開けると、僅かな隙間からシャイナは部屋の中に滑り込んでいった。それを追うようにしてシプティアも部屋に入っていった。
部屋は埃っぽくて暗い、普通の寝室だった。ベッドが少し乱れていたが、机や床には物がなく、使われていない部屋だということは一目見て分かる。シプティアはぐらつく椅子に腰を下ろし、不満げにシャイナを見下ろす。
「図書館にも置かれない秘蔵の書物とか、歴史的な遺物とかを期待していたのだが、なんだい、この殺風景な部屋は?」
シプティアの言葉には耳を貸さず、シャイナは部屋の中心あたりにある床板の隙間に爪を入れて引き剥がそうとした。シプティアは冷ややかな眼差しで、それを見ているだけだ。
この部屋はシャイナが使っていた部屋だった。涙の騎士たちから嫌厭されていたシャイナは、彼らを避けるためにどの駐在所であろうとも、誰も使わないであろう日も当たらないような奥底にある部屋を自分の領域として安寧を保っていた。ウェンダーも然り、数度しか来ていないとはいえ、己の場所を確保していて、最後に赴任したのが二年くらい前であったものの、その間も誰も使用していなかったことが窺えた。
そして、ここを己の場所とした時、シャイナは此処の床下にある物を隠した。浮いた板を牙で掴み、引き千切るようにして剥がした。その下に小さな革袋が一つある。それを咥えようとするが、いつの間にか傍にいたシプティアが掠め取っていった。
「ほう、予想外だ。面白そうなお宝があるじゃないか」
シプティアは革袋の口を開けて中に入っていたものを掌に落とした。暗がりに燦然と輝く薄青の宝石。それは涙の騎士の胸当てに付けられる宝石だった。
それはただの宝石ではない。涙の騎士となった時、教皇から賜る。その宝石は奇跡の力を増幅させる力が秘められているらしく、事実、それの付いた胸当てを装着すると体に何かが漲るのを感じ、奇跡の力が滑らかで逞しい質になった。
全ての涙の騎士はこの宝石を一つ所持し、それが嵌められた胸当てを装着することが義務付けられている。シャイナも当然、持っていたが、ある時を境に付けるのをやめて、贋物を代わりに嵌めた。何故ならば、己の力があまりにも強くなりすぎたからだ。騎士として任務をこなす内に、奇跡の力の効率の良い使い方が身に付き、奇跡の力そのものも日に日に増大なものになっていた。必要以上に力を持つと、多くのものを過分に傷付ける。そして有り余る力は過信と傲慢を生み、己の信念を食らう。このまま宝石に依存していれば、いずれ力に溺れて破滅するだろうと考えて、密かに宝石を外し、このウェンダーの一室に隠した。聖下から賜ったものを捨てることは出来ないし、預けるのに信用できる者もいない。胸当てに嵌められてなくとも体の近くにあれば力が増強されてしまうので、どうしても何処かに置いていく必要があった。そうなると長期の定住地のない涙の騎士にとって、駐在所に置いていくしかなくなる。幸いにも、涙の騎士たちからかなり煙たがられていたため、シャイナが使った部屋は気持ち悪がって誰も使わずにいてくれた。そして少し頭を使った場所に隠して、宝石はシャイナの手元から無事に離れた。上手く封印せしめた後も、任務に支障を来すことはなく、力が劣ったことに不安も感じなかった。何より、己の力だけで戦うおかげか、さらに戦う技術が洗練されて強くなっていった。自分自身の成長にも繋がったので、宝石を手放して良かったと思っていた。あの獣と会うまでは。
苦い思いを腹に閉じ込めて、シャイナはその澄んだ宝石を見つめる。シプティアは椅子に座り直し、宝石を摘まんで矯めつ眇めつ観察していた。
「これは涙の騎士が身に付けている宝石か。確かにこれが一体、何の鉱石なのかは知らなかった。これが奇跡の力と関係しているというのかな?」
是を示すために、右脚を上げた。
「悔しいが、石に関しては門外漢なので師匠に頼らざるを得ないな。しかし、たいした掘り出し物じゃないか。君の嗅覚に感謝せねばな」
シャイナは宝石があれば、この忌まわしい鎖の呪縛に打ち勝てるかもしれないと思ってシプティアに足に縋って強請るが、ただじゃれてきているという都合の良い受け取り方をされて、取り返せずに駐在所から脱した。
涙の騎士や教会の関係者には見つかることなく、ギアソン邸に帰ってきた。ぎっしりと縦長の家が並ぶ裏通りに、同じような佇まいでその家はある。見栄を張って背伸びしたかのように、屋根が鋭く斜めに立っていたが、それもほんの少しだけ高いというだけで違いは薄い。シャイナはまだギアソンの家を明確に判別できなかったが、シプティアは迷いなくその家に入った。扉を開けた途端、地下から漏れる酷い臭いが押し寄せてきたので、それでシャイナはこれがギアソンの家だと気付いた。
シャイナもシプティアも無人であることを想定していたので、ギアソンが迎えてくれたことに二人とも思わず身構えた。驚かれた当人は締まりのない笑みを浮かべながら、深い意味も含んでいなさそうな言い方でこう尋ねてきた。
「散歩に行っていたのですか?」
シプティアは曖昧な相槌を打った後に改めて、涙の騎士の駐在所に行ってきたことと、そこで薄青の宝石を手に入れたことを伝えた。実物をギアソンに手渡すと、彼は眼鏡に密着するほどに近付けて観察した。ギアソンの驚愕と好奇心の輝きが瞳に反射して輝く。シャイナは宝石を渡したことを後悔するほど、ギアソンはその小さな石に夢中になっていた。
ギアソンの眼中には宝石しかなかった。無言で立ち尽くしたまま宝石を見続け、それを待っているのに疲れたシプティアは二階に上がっていって戻ってこない。シャイナはギアソンの足元に尻を落ち着けて、ギアソンを睨み続けた。
不意にギアソンは奥の部屋へと向かった。その間も宝石から目を離さない。シャイナもそれにゆっくりとついていく。地下へと繋がる部屋に入ると、そこで漸く宝石から目を離して、本棚を眺め始めた。指で背表紙を追い、ある一つの本の前でぴたりと止まる。それを抜き出すと、ページを捲りながら机に向かっていき、書物の小高い丘を、足元を見ずに跨いで椅子に座った。
目的のページに辿り着くのは早く、本を机の上に広げてぶつぶつと聞こえない言葉を口にしながら思案していた。それからまた違う本を取りに行き、それも読み終えると別の本を、というのを何度か繰り返した。そうして机の上に本の塔が作り上げられていき、二つ目の塔が一つ目のものを越えたところで、ギアソンがシャイナの方へと顔を向けた。
「似たような鉱石に関する記述があったことを思い出したので、色々と調べていました。ですが、この石と同じであると断定できるほどの材料はなかったですし。奇跡に繋がる記述も見当たりませんでした。僕が所有する本だけじゃ、詳しいことは調べられそうにありません。図書館で探せばありそうですが、時間が掛かりそうですし、これはもう過去の文献を漁るよりも実際に試したほうが早いかもしれませんね」
ギアソンは宝石を手に取り、シャイナの顔の前に差し出した。この宝石に秘められた力が、獣に成り下がったこの身にどう影響するのだろうか。体の内側で奇跡の力が縛り付けられているのは感じていた。それをこの石が解いてくれるのか。シャイナはこれが及ぼしてくれる可能性に期待しつつ、鼻先で石に触れた。人であった時に感じた体に満ちる感覚はなかった。ただ、何かが入って来ようとしているのは感じて、それを鎖が一切の漏れなく弾き返しているような反応を示していた。
暫く試していたが結局、宝石の力はシャイナに届かなかった。シャイナは諦めて、ギアソンの手から離れた。もしやこれで解放されるのではという思いがあったため、それが叶わずに萎えてしまった。耳が自然と倒れて、尻尾も股の間に逃げ込んでいった。
「成果はありませんか。いえ、落ち込むことはありません。まだいくらでも調べられます。実験となれば、シプティアも妙案をくれるでしょうし、僕だってもっと文献を漁ってみますよ。早速、余所から本を取り寄せることにしましょう」
ギアソンは嬉々とした様子でシプティアを呼び、彼女に宝石を託して軽い足取りで出かけていった。現状を楽しんでいるふうにしか見えず、シャイナは腹立たしかったが、どれだけ憎んでも頼らざるをえないため、無意味なことを考えずに無心でシプティアに従い、地下へと降りていった。




