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涙物語  作者: 氷見山流々


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3/9

野を駆ける騎士

 天使だなどと宣っていたが、どういうことなのだろうか。あの少女は杯から涙を奪った罪人ではなかったのか。奴らの目的はなんだ。杯を手にし、記憶を取り戻すなどと言っていたが、それだけが目的ではないはず。涙の杯が乾いたのはあの少女が涙を盗んだから。涙の奪還が使命であったはずが、逆に簒奪者に荷担してしまうことになった。

 頭の整理がままならない中、シャイナが駆ける。ハーヴェルへの裏切りに後ろめたさがあった。だが、それは真なる使命を果たすために必要な代償である。杯を手に入れ、少女の記憶とやらを取り戻させたら即座にその身柄を聖下に引き渡し、自らの過ち、聖下への反逆行為をその膝元で懺悔して自裁しよう。赤らみ始めた空の方へと走りながら、それだけを決心した。

 視認できないが、体には鎖が絡みついている感覚があった。だけでなく、内側、あらゆる臓物さえも、鎖で押さえつけられているように感じた。奴らの意に背くことをすれば、この鎖が引き絞られて、無惨な肉片となることは想像に難くない。今は奴らに従い、ギアソンという者のいるウェンダーに行く他なかった。

 ウェンダーはファルダより東、聖王都モースズへと向かう道から北へと外れた街道の行き当たりにある。シャイナは人目を避けながら、各地を巡る涙の騎士として培ってきた土地勘に頼って、孤独に旅した。村や町に寄らなかったのは、野犬と思われて駆除されることを嫌ったからだが、それともう一つ、己の誇りとして、このような醜態を晒したくないという思いが少なからず生じていた。同僚に涙の簒奪者だと誹られても、何も感じなかったのに、犬に身をやつすと、己の存在そのものが恥のように感じてしまった。

 だが、その孤独の旅も過酷だった。飢えを凌ぐためには獣を狩るしかなかった。初め、魚が潜む小川に鼻先を突っ込んで捕らえようとするが躱されてしまい、悪戦苦闘しながらも小魚を口の中に含んだ時には既に夕暮れが訪れていた。空腹が治まらず、木の幹に傷を付けて流れ出た樹液を必死に舐めていると、屈辱に体が震えた。小鳥やウサギを狩るにも辛酸を嘗めさせられ、逃げる度に挑発するように振り向いてくる彼らに苛立った。漸く狩ったウサギを食らう時、毛も剥かず、腸も取り除かず、焼くこともせずに抵抗を覚えたが、命を繋ぐために仕方なく貪った。恐る恐る肉を噛みちぎるこの姿はあまりにも無様なものだろうと他人事のように思うことで、惨めさを紛らわせた。

 人ではないものとなり、持っていた力の全てを失い、シャイナは今まで感じたことのないほどの怒りと悔しさを感じた。耐え切れなくなった夜は、喉が張り裂けんばかりに叫喚した。このまま獣のように生き永らえなくてはならないのか。この生き方に慣れたら、心さえも獣と化してしまう。水面に映る己の顔は見知ったそれとは違う。だが、日に日にその犬の面に違和感を覚えなくなった。

 なんと弱いことだろう。犬になってから感じたのは人で会った時、涙の騎士であった時の頑強さだ。どうしてあれほどに他人を気にせず、己の役目を全うし続けられたのか。そうか、分かった。強かったのだ、事実として。杯から得た奇跡の力、教皇からの格別の信頼。持ちうる者が限られるそれらを持ち、恐れるものなどなかったのだ。それを失い、己の弱さに気付いた。ましてや、教皇からの信は己から手放したのだ。教皇を裏切り、涙の簒奪者に従って杯を奪おうとしている。心が摩耗するのは自業自得であろう。

 しかし、それを自覚できたから、シャイナは弱さに沈み切らなかった。失ったものも、手放したものも、まだ僅かに残っている。必ずや使命を成し遂げる。最期に待つ死を悔いのないものとするために、今は泥にも血にも塗れてやろう。それでも、野性になど屈服しない。忘れるな。私は涙の騎士シャイナ。聖下の御心のままに悪を裁つ剣だ。

 心に覚悟を刻んだシャイナは、弱さに吠えることはなくなった。ひと月かけてウェンダーに辿り着き、小高い丘の上から町を一望した。ウェンダーはモースタイン聖王国の中でも発展の際立つ町であり、司教座のある大きな教会を中心に据え、水色に統一された切妻屋根の家々が町を囲う城壁の中で犇めいている。教会に次いで大きい建物は領主館で、三日月形に作られた五階建ての館の前に豪奢な噴水が置かれ、その周りを庭師によって綺麗に整えられた庭園が囲っていた。

 教会と領主館の前方には扇状に道々が伸びていて、教会と領主館を繋ぐ道はひと際大きい通りとなり、様々な店が立ち並んで賑わっているのが遠目からでも分かる。大通りから視線を滑らせていき、教会の後ろに隠れるようにして潜む角張った平たい建物を見透かそうとする。あれは涙の騎士たちの駐在所で、シャイナも何度か訪れたことがある。このウェンダー自体は治安も良く、周辺もけちな追い剥ぎがいる程度で涙の騎士が出張るほどでもない。現領主は齢五十を越えているが勤勉で柔軟な思考を持ち、驕ることのない良き為政者であると、たびたび耳にしていた。

 恐れを抱く理由が一切ない平穏な町なのだが、今のシャイナには緊張感を持って侵入しなければならない地となっていた。ギアソンという人物を何の手掛かりもないまま探すとなると、この町は広すぎるし雑多であった。憲兵や涙の騎士に見つかれば、捕らえられてしまう可能性があり、そうなった時に首に掛けた手紙を取られて目的を果たせなくなる。なるべく誰にも見つからず、この広い町の中から顔すらしらないギアソンという一人物を見つけなければならない。一応、ある程度の容姿の情報は貰っていたが、それだけでは確信に至れる人物を絞り出すのは難しいと感じていた。加えて、信用に足る、とレイサリスは言ったが、その容姿を想像するに、不安を抱かせてくれる人物しか作り出せなかった。

 逡巡していても仕方なく、ウェンダーへと侵入することにした。町に入るには四方にある門を潜らなければならない。そこには憲兵が立ち、入る者、出ていく者を入念に検めている。 町に入っていく荷車に潜んで、と考えてはならないようだ。故に正面からの侵入は諦めた。

 そうなると壁を越えていくしかないのだが、当然、壁には返しが付いていて登り切れないし、歩廊には見張りもいる。そもそも犬が壁を登るなど不可能な話だった。侵入するには、やはり門を潜るしかない。ならば、あれこれ策を練らずに強引に突っ切るのが上策か。

 正面突破するなら誰かの検問に乗じた方が隙を突ける。町の構造は以前来たことがあるといってもうろ覚えだったが、大きな通りを使わずに小路をあちこち駆け抜ければ憲兵を撒けるだろう。幸い、犬になってから身軽になり、人であった時よりも速く走れるようになったので、逃げ切れる自信はあった。

 丁度、荷馬車に大量の荷物を載せた男たちが門に向かっていた。ぴったりと尾行し、荷馬車の影に隠れながら、門へと近付いていく。大きな荷車だったので、門の前まで気付かれずにやり過ごせた。

 憲兵が立ち塞がり、荷馬車の持ち主の男と言葉を交わす。二、三事務的な会話をした後、旧知の仲なのか、談笑を始めた。願ってもない隙が出来た。シャイナは躊躇わずに、荷馬車の影から飛び出し、一目散に町の中へと駆けだした。

 憲兵の罵声が背後から聞こえてきた。行き交う人々も目を丸くしてシャイナを見下ろす。細い路地を駆けて、家と家の小さな隙間を抜けて、出来るだけ、町の中心へと向かうようにしながら、あちこちを駆け抜けた。追う声がなくなり、人もいない暗い路地へと差し掛かった所でシャイナは走るのをやめた。振りむくも追手の姿はない。とりあえず、侵入は成功したと見て良いだろう。問題はこの後だ。どうやってギアソンを探すか。

 犬であるから、通りすがりの人に尋ねることも出来ない。表に出て堂々と探すことも、憲兵に見つかることを考えれば不可能だ。こそこそと誰にも気付かれずに情報を集めるしかないが、町の広さを考えると途方もない作業になる。

 ギアソンはレイサリスのいた村では教師を務めていたらしい。ならば、学校へと行けば見つかるか。或いは、知者らしく図書館にいるかもしれない。ある程度の目星を付けて、シャイナは自分が覚えている限りの記憶で、学校と図書館がある場所へ向かった。

 人のいない裏道を使いながら、行ったり来たりを繰り返して、町の中心にあるウェンダー唯一の学校へと辿り着いた。貴族や豪商たちの子息が通う学校で目に付くのは、老若男女問わず、身なりが整った清潔な人だけで、みすぼらしい、と見積もっているギアソンらしき人物の姿は見当たらなかった。空が赤くなり始めると、出入りする人が疎らになったので、シャイナは諦めて学校から離れた。物影に隠れながら、路地へと入ろうとしていると、通りすがりに話し声が聞こえた。

「野犬が入ってきたって聞いた?」

「ええ、勿論。さっきもその話をしてきたところ。白くて大きい犬なんですってね。怖いわねえ、そんなのが何処かにいるんでしょ? 襲われたらたまったもんじゃないわ」

「本当にそう。早く、兵士さんたちが見つけて捕まえてくれるといいんだけど……」

 シャイナはそれだけ聞いて、素早く路地の奥へと逃げ込んだ。やはり諦められてはいないようだ。ギアソンを見つけるのに時間を掛けると、その分、憲兵からの追跡は手数が増えて厳しくなってくるだろう。悠長に構えてはいられない。既に疲労困憊であったが、立ち止まらず、警戒を怠らず、次にギアソンがいそうな図書館へと行くことにした。図書館に着く頃には日は地平に沈み、滲んだ赤と置き去りにされた青が空に残るだけになっていた。

 暗くはなっていたが、人の顔、姿形はまだ視認できた。もう閉館の時間らしく、出ていく人ばかりだったが、入口の脇にある花壇の陰に身を潜めて、その人ひとりひとりを観察した。しかし、此処でもギアソンと思しき人物は見つけられなかった。夜が訪れ、誰も出てこなくなってからも暫く待っていたが、無意味だった。シャイナは尻尾を項垂れさせて、とぼとぼと路地に入っていった。

 それから寝ずの日々を繰り返して、憲兵に怯えながらギアソンの捜索、またギアソンに繋がる情報を聞けないかと様々な場所で盗み聞きを行ったが、成果は上げられなかった。ウェンダーに来てから狩りも出来ていないので空腹だった。心底耐え難い恥辱だが、飼い犬や猫への餌を掠めとるしか腹を満たす手段はない。シャイナの頭にその選択が生まれると、もう他の方法は思い付かなかった。数日歩き回っていたので、何処に犬猫が住んでいるのかは把握していた。その中で一番近く、人があまり来ない場所を目指して路地を進んでいると、道の端に器に盛られた生肉を見つけた。

 シャイナは訝しがる余裕すらなかったので、それに飛びついた。噛み応えのある肉にむしゃぶりつき、血の一滴すら残さずに平らげた。満腹になると強烈な眠気が襲い、何日も眠っていなかったせいもあって、あっという間に眠りに落ちてしまった。

 シャイナの背後に一人の少女が立った。腰まで伸びた黒い髪を揺らしながら、昏睡するシャイナの脚を縄で縛り、何処かへと引き摺っていった。



 レイサリスはずっと、深い森の聖域にいた。外に出ることを許されずに、ほとんどの時間を其処で暮らすか弱い生き物たちと過ごした。

 ニーヴはレイサリスのために聖域の外から食料を取ってきたり、こっそりとレイサリスの村の様子を窺いに行ってくれたりした。たまに遠出をしているらしく、帰りが遅いこともあったが、小鳥やリスが肩や腕に乗って構ってくれるので、寂しさを紛らわすことができた。

 それでも日に日に、村へ帰りたいという気持ちは強くなっていた。両親や村の人たちを心配させているだろう。他者への思いやりが一番にあったが、その内側では両親と会いたいという気持ちが膨れあがっていた。まだ七歳に満たない子供なのだから、親と離れ離れになれば、寂しくなるのは当然ではあった。そうした気持ちは天使という超常的な存在とかけ離れているなと感じながらも、それでも冷静に客観視できてしまっているために、やはり人ではないのだと再認識させられていた。

 遂には自分の気持ちを抑えられず、ニーヴに村へと戻って事情を説明したいと言ったが、彼は頷いてはくれなかった。

「外は危険です。またあの騎士のような輩が現れるやもしれませんから、この地で隠れているのが賢明なんです」

「この、聖域という場所が安全である保証があるの?」

「聖域は天界の離れ小島のような場所。普通の人間は認識できず、入ってくることも出来ません。唯一の例外は、天使に所縁ある者、あの騎士のように奇跡の力を持つ者ですが、それでも聖域を認識するのは困難でしょう。此処は神様と天使たちのための場所なのですから」

 レイサリスは大樹の根元に置いたシャイナの装備一式に目を遣った。奇跡の力。それは涙の騎士に与えられた特別な力のことを指す。その力は、涙の杯から与えられるという話だが、いったいその涙の杯という物はなんなのだろうか。それを手に入れなくてはならない理由も未だに分からない。だが、涙と冠された杯と、涙を流せる自分が、無関係ではないことだけは確かだと思った。

「ただ涙を流せるというだけなのに、損なことばかりね」

 思えば、両親も村の人たちも今までずっと過剰なまでに庇ってくれていたのだ。それがレイサリスの自由を制限していたことだと気付けたのは、出会って間もなく、信頼関係も築き切ってないニーヴが過保護に接してくれたおかげかもしれない。しかし今はそうした気遣いは欲しくなかった。ただただ、両親に会って無事であることを伝えたい。あわよくば、また二人の傍で暮らしたいとすら思った。天使である自覚を失いかけていたところに、ニーヴが頬を叩いて目を覚まさせるかのように強かな言葉を発した。

「涙の価値を計れるのは天使様だけなんです。涙を流せる貴方だけが涙を厭うことが出来て、愛することが出来る。涙がどのような意味を持つか、どういった感情を運んでくるのか。それを既知のものとして語れるのは、天使様だけなんです」

 レイサリスは胸の奥の空虚を感じながら、伏し目がちに呟いた。

「ずるいことを言ってしまったのね。ごめんなさい」

「謝らないでください。俺はただ理解してほしかっただけです。天使様は特別な御方。貴方様が失われることは、地上にとっても天界にとっても大きな損失になるんです」

「ニーヴが私のことを大切に思ってくれていることは、分かってるつもり。もう我儘は言わないわ」

 ただ心の甘えだけが原因であったならば気休めになるのだろう。だが、ニーヴが突きつけた事実、人ではなく天使である、ということがレイサリスの人としての心を砕いた。涙を計れるのは私だけ。それを意識せずに軽率に言葉にしていたと思うと、己の愚かさに悲しみを感じてしまう。

 レイサリスは覚束ない足取りで大樹の横に突き立つ剣の方へと歩いていった。そのシャイナの剣の真下には、彼が乗っていた馬の亡骸が埋まっている。レイサリスが白詰草で作った小さな花冠が添えられていて、その前で膝を折った。堪えきれず、溢れそうな悲しみを何処へ落とそうかと考えた時に、この墓が真っ先に思いついた。せめて誰かのために、この涙を。浅はかかもしれないが、これが涙を軽視していたことへの償いとしたい。そう思っていた。

 頬を伝った一滴の涙は朝露のごとく花冠に落ちた。ただそれだけで何も起こらない。レイサリスの悲しみだけを、その涙は宿らせている。しかし、その悲しみは名もなき獣の墓標に意味を齎した。

「もし、貴方に天使としての力がお戻りになられていれば、その涙でその獣の魂をお救いになられたでしょう」

「私が知る以上の価値が生まれると?」

「貴方は涙を司る天使なのですから」

 レイサリスは涙を拭い、背後のニーヴに振り返った。

「あら、ニーヴったら、自分のことは自力で思い出せって言ってたのに、教えてくれるの? 私が涙を司る天使って」

「この程度でしたら、影響はないと判断しました。それにおよそ見当は付いていたでしょう? 貴方だけが涙を流せるのですから」

 ニーヴの言う通りで、涙に関係する天使なのだろうというのは、知恵を働かせなくとも予想は付いていた。だから、その小さな答え合わせよりも、ニーヴが何も話してくれないわけではないことに、レイサリスは興味を見出した。

「影響がないことなら、ニーヴも教えてくれることがあるのね。じゃあ、天界ってどんなところか教えて。それと神様ってどんな御方なのかも。あっ、それと他の天使のことも知りたいわ」

 先程まで悲しみにくれていたのに、今はもう天の世界への興味で好奇心に満ちていた。それこそ、年相応の子供のようにニーヴにせがむので、ニーヴは当惑で言葉を失ってしまったが、なんとか催促される前に口を開いた。

「まず天界は、この聖域のように常に光に満ちて、そこに生きるものたちも活気に満ちています。それと人間が城や町を作るように、神様や天使が治める場所がありますね。神様については俺もよく知らないんで、何もお答えできません。天使はとにかくたくさんいます。皆、色々な役割を神様から与えられています」

「神様から役割を貰っているのに、神様のことを知らないの? どんな御姿なのかも?」

「神様に見えて役割を頂くわけではないので。あまり、神様のことを詮索しないでください。天使にとって神とは絶対の主。それは貴方から見てもそう。いらぬ好奇心は不敬を疑われるやもしれませんから」

「残念だけど、そう言われてしまったら何も言えないわ。こんな些細なことで天罰なんて貰いたくないものね」

「些細、ではないのですが。まあ、とにかくやめましょう。俺から話せることももう、あまりないですし、今度は天使様が地上について教えてください」

 レイサリスは少し首を傾いで疑問を口にした。

「天使なら神様と同じで、地上の全てを天界から眺めているものと思っていたのだけれど、知らないものなのね」

「天界はあまり地上に関与しないんです。無頓着、というのでしょうか。地上は神様によって創造されたものですけれど、創った後はあまり干渉せずにいたらしく、それが今の今まで続いて、未知の世界になってしまいました。かといって、地上を放置しているのではなく、そこに生きるものたちのために、役割を持つ天使たちもいますが、彼らも地上に降りるわけではないので知る由もなく……可笑しい話ですが、見ず知らずの地のために彼らはその役割を全うしているということです」

 人々は神に何度も祈りを捧げるのに、それすらも届いていないのかもしれないと思うと、熱心な信徒たちに同情してしまう。レイサリスは辺邑な村で生きてきたし、加えてまだ幼かったため、そうした宗教に飲まれずに済み、神に気に掛けてもらえていないと知っても落ち込むことはなかった。

 ニーヴが一度、レイサリスの顔を窺うようにして視線を下ろした。刹那の間、無言で見つめ合ったが、それを沈黙と認識する前に再びニーヴが口を開いた。

「貴方を守る身でありながら無知であること、申し訳なく思っています。そして無礼を承知で、もう一度お尋ねします。どうかこの人間が支配する地について、俺が知るべきことを教えてください。お願いいたします、天使様」

「そんな畏まらなくても平気よ。私の知っている範疇で良ければ教えてあげるから。上手じゃなくても許してね。私はギアソン先生じゃないんですもの。さあ、何が知りたいの?」

「御言葉に甘えさせていただきます。まずは、そのギアソンという人物が何者なのかを聞きたいです」

 どんな難しいことを尋ねられるのかと身構えていたが、とても簡単な質問が来たので、レイサリスは難なく答えた。

「前にも話したけど、私たちの村に来てくれていた先生よ。と言っても、教師が本業なのではなくて、歴史の研究が本当のお仕事みたい。集めた資料とか研究結果をまとめるのに静かなところを探してたらしくて、私たちの村はお誂え向きだったみたい。子供たちに勉強を教えることを条件に村に留まることを許されたの。それから三年間、お仕事の方が終わるまで私たちの先生をしてくれてた。先生がいなくなって本当に寂しかったけど、故郷に帰るというので、いつか其方に宛てて手紙を書く約束をしてたの。それがまさか、自分が天使だったっていう嘘みたいなことを告げる手紙になるなんて思いもしなかったけれど。信用できる根拠を示すのは難しいけど、先生と過ごした三年で私の心はとても豊かになったから、曖昧で、ニーヴからしたら理解しがたいことであっても、知識を広げて思考することの大切さを教えてくれた先生は信用に足る人だと断言できるわ」

「ギアソンの故郷、ウェンダーというのは?」

 レイサリスは草のない柔らかい地面に指で簡単な地図を描いた。

「これがモースタイン聖王国の地図。私たちの今いる森はこの国の西にあるの。此処から少し北東にフォルダがあって、フォルダから更に北よりに東へ行くとウェンダーに辿り着くわ。私も行ったわけではないから、どんなところかは先生の印象でしか知らないのだけれど、とにかく人も家も多くて落ち着かないんですって。先生のお家は町の中心から離れてて、人通りもない裏道の先にあるらしいのだけれど、それでも静かな場所ではないから、心が疲れて休まる時はないと仰っていたわ。それから……」

 地図の上に二つ、名前を付け足した。ウェンダーから南東へ下り、そこに『モースズ』。モースズより少し東に『ポーポネート大聖堂』。その後、思い出す時間を置いてから、ポーポネート大聖堂の周りを線で囲い、加えて『罪の荒れ地』と書いた。

「此処が涙教の始まりの地、罪の荒れ地。その真ん中に涙の杯が安置されているポーポネート大聖堂があるわ。この地は神の罰が落ちた地と言われていて、その影響で大地が死に、緑が枯れてしまったらしいの。わざわざ、その荒れ地に聖堂を建てたのは、人々が失ったものの大きさ、つまり大地の命と人間の涙を忘れないようにするためで、教皇はその聖堂に一人籠って、神に祈り、罪の懺悔をしていると言われているわ」

「罪、か……」

 ニーヴはそう言ったきり、眉根を寄せるだけで無言になった。小鳥の囀りと穏やかな風が草木をくすぐる音だけがはっきりと聞こえる。レイサリスはその呟きの真意を聞き返そうとも思ったが、その顔から微かに覗く迫力に怖気づいてしまい、ニーヴが再び何かを言うのを待つことしか出来なかった。

「我々は人間のことなど気にもかけていないのに、彼らは天に都合の良い希望を見て、縋りつく。憐れな生き物ですが、彼らを救えるのも我々だけなのかもしれない。天使様が全てを思い出したなら、それも叶うような気がします」

「みんなを救うのが私の、涙の天使の役割?」

「どうでしょう」

 ニーヴはそうはぐらかして、口元に小さな笑みを浮かべた。

「それよりも、もっと地上のことを教えてください。知りたいことはたくさんあります」

「ええ、勿論。いくらでも教えてあげる。時間はあるんですもの。ただ此処で待っているだけなんだから」

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