涙の簒奪者
千年前、天に住まう神は人間たちが繰り返す非道な行いに怒り、彼らから涙を奪った。悲しくとも嬉しくとも涙を流せず、人間が他の生き物と一線を画す要素でもある豊かな感情の一部を削り取られてしまった。
人々は涙を取り戻すために神に祈った。しかし、涙なき祈りは神に届かなかった。それから人々は贖罪の日々が続くことになる。涙教と呼ばれる組織が生まれ、世に蔓延る悪を裁き、穢れなき世を作って神に許しを請うこととした。その願いを果たすため、教皇であるハーヴェルは神から与えられたという天使の涙が湧き続ける杯によって、清く強い心を持つ者に力を与えて騎士とした。騎士は常人ならざる奇跡の力を行使して邪悪を滅ぼし、世を清めていった。
それが千年。涙の騎士は生まれては消えて、悪もまた消えては生まれ、終わりのない戦いが続いていた。だが、遂に涙の騎士は生まれなくなってしまった。
シャイナという騎士が誕生してすぐに涙の杯は枯れて空となった。七年の歳月を経ても杯から涙が湧くことはなく、志願する者はいても、それを叶えることが出来なくなってしまった。涙の杯が乾いたことは秘匿されていたが、どこからか漏れてしまい、涙の騎士たちの間でシャイナが涙の全てを奪ったのだと噂されるようになった。教皇の寵愛を独占しようという欲望で杯に眠る涙を飲み干したのだ、と。陰口を叩かれ、近寄る者もなく、シャイナは孤独を友として、涙の騎士としての責務を果たし続けた。己に向けられる疑念の眼差しなど、気にしようとも思わなかった。
シャイナは神など信じていなかった。人が生まれながらに背負う罪を償う気持ちも、涙を取り返したいという思いもなかった。ただハーヴェルに報いたいという一心で涙の騎士になり、その後も思いは変わらずに刃を振るってきた。記憶にすらないほどに幼い頃、シャイナは生まれ故郷と家族を失った。近辺に根城を持つ賊たちが結託し、町一つを滅ぼしたという。ハーヴェルは涙の騎士団を伴って賊を討伐したが、助け出せたのは瓦礫の中に埋もれていた赤子のシャイナだけだった。
シャイナは親と故郷を失ったことを恨んではいなかった。騎士団がもう少し早く駆け付けてくれれば、何も失わずに済んだかもしれない、という思いも湧かなかった。なにせ親の顔も故郷の風景も覚えていないから、その事実があろうとも悲しみようがなかった。それに孤児となってからも、何一つ不自由のない生活を送ることが出来ていた。ひとえに、この孤児を愛してくれたのが教皇その人だったから幸福でいられた。
教皇が与えた多大な愛が結果として、妬みと嫉みを土壌に悪意の果実を実らせたと言える。その果実は枝が支えきれずに大きく撓るほどに豊かに実り、いよいよ教皇にまで不信の眼差しが向きかかった頃、ある報せがシャイナに届いた。
──ファルダより西の果てに涙の簒奪者を見つけたり。
簡素なその書状は教皇ハーヴェルの名で締めくくられていた。それに従い、シャイナは西にあるファルダへと向かった。そこは大陸を統べる涙教発祥の地モースタイン聖王国の最西端の地であり、深い森林地帯に寄り添った穏やかな地帯だった。
ファルダの地より南、都市を繋ぐ大きな街道から西に外れた、馬車の轍だけで道としているそれを、シャイナは赤茶色の髪を靡かせながら馬で駆けて、平凡で小さな村を二つ越えた後、更に頼りなくなる道を進む。春の陽気を吸って郁々と茂る草地には遮るものはなく、遠くに見える西の森とその奥に連綿と横たわる巨大な山脈が見えるだけだった。その森のほうへと向かっていき、太陽が森へ飲まれ始めようとした時分に、集落を見つけた。
シャイナは集落の入り口で馬から降りて、家々を見回した。通過してきた村よりはしっかりとした木造の家づくりをしていて、規模も大きく、暮らしている人々が多いようだった。畑も大きく、大量の羊とそれを監視する犬たちの姿も見える。井戸も掘られていて、不自由のない生活が送れているように感じられる。その証拠に、広場では子供たちが集って他愛のない遊びをしていた。
その子供たちの群れの中にいた少女の一人に目を奪われた。透き通るような白い肌。肩まで伸びた黄金の髪。妙に大人っぽく見える長い睫毛。それに隠れるようにして水色の瞳が夕日の赤を反射させて輝いていた。
その瑞々しい瞳を見て、彼女が涙の簒奪者であることを確信した。シャイナは忌避の眼差しを向けてくる村人たちの間を抜けて、広場へと進む。遊び回っていた子供たちは、近付いてきた甲冑の男が目の前に来ると、ぴたりと動きを止めて呆然と見上げた。
友達と鮮やかな光沢を含んだ石を並べて見せあっていた少女も、男に気付き顔を上げた。白銀の鎧の胸元には薄青の宝石が嵌め込まれていて、少女はそれを一瞥した後にシャイナの瞳を見つめた。
「何事ですかな、騎士様」
シャイナと少女の間におどおどとした態度の男が割って入ってきた。更に女も少女の方へと駆け付けて、庇うようにして抱きしめた。その二人の容姿から、少女の両親であることは容易に推察できた。周囲から刺さる様な視線も向けられている。村全体が、シャイナを警戒していた。シャイナは父親を一瞥するだけして、少女へと視線を戻す。
「その娘は涙を流せるようだな」
「はて、なんのことでしょう? レイシーは皆と変わらない、普通の娘です」
「この村に立ち寄った行商人が、その娘の瞳が潤むのを目撃したらしい。今や絵画でしか見れない涙を、透き通るような美しさを持つ少女が目に溜めて欠伸をしていた、と」
「なにをまさか……ただの噂話、信じるほどのものでしょうかね」
父親は声を震わせ、母親は娘を抱く腕を強張らせた。確かに教団に齎されたその話は噂の域を出ないものであったが、シャイナはもう疑ってはいなかった。少女こそが聖杯から涙を奪った罪人である。それを、様子を窺う村の者全員に聞き取れるように声を張って告げた。
「待ってください。レイシーが涙など流せるはずもないのです。それに涙を流せることが、どうして罪になるというのです?」
「くどい。私は涙の騎士。世界の浄化のために悪を滅し、罪人を裁く使命がある。罪人を庇い立てするのなら、貴様も同罪と見做すことになる」
「そんなの納得できません。どうかお待ちください、騎士様」
シャイナは苛立ち混じりに腰に帯びた剣を抜こうとする。鞘から刃が現れたと同時に、幼い声が響いた。
「やめて。あなたの言う通りにするから、誰も傷付けないで」
小鳥の囀りのような、心地良い音色を伴ったその声はレイシーと呼ばれた少女が発した。シャイナは思わず剣を鞘に戻し、そのまま硬直してしまった。レイシーは母親の腕からするりと抜け出して、シャイナに近寄ってきた。腰ほどの位置から見上げてきたその顔には恐れも怒りもなかった。
「私を殺して満足するのなら、どうぞ殺してちょうだい。でもみんなのいる前ではやめてほしい。それだけが私の望みよ」
か弱い少女が持つべきでない異常な落ち着きを見せられて、シャイナは内心動揺した。それを顔に出さないように奥歯を噛み締めて、こんな小娘に負けまいという気概で落ち着きを取り戻してから口を開いた。
「安心するが良い。涙の簒奪者である貴様を裁くのはハーヴェル聖下だ」
レイシーはほんの少し口角を上げて深く頷いた。それから振り返り、顔面蒼白となっている両親の下へ駆け寄り、小さな体でそれぞれに抱き着いた。
「やっぱり私は許されてはならない存在だったみたい。ここまで育ててくれてありがとう。みんなも、ありがとう」
両親もレイシーの遊び友達も、眉尻を下げて、悲しそうな表情を見せた。ただ一人、レイシーだけは瞳を潤ませて、何度も目を瞬かせた。あれが涙。千年前に人間が失ったもの。結局それは目から零れることはなかったが、初めて見る奇異な現象に胸の奥がざわめき、シャイナは見惚れてしまった。
こうして誰もが心を揺さぶられている中でレイシーだけは立ち直り、シャイナの下へと戻った。既に涙は消えて、潤いだけが残った瞳と萎れた表情だけで悲嘆を表していた。
「連れて行ってくれるのでしょう?」
そう言われてから、シャイナは我に返った。抵抗の様子もない子供を連行することに今更ながら良心の呵責が芽生えて捕縛を躊躇った。だが、それを払拭したのは教皇への忠誠心と簒奪者への憎悪だった。
こいつのせいで自分が涙の簒奪者だといういらぬ疑いをかけられ、聖下を貶めようとする輩が現れるようになった。悪は増殖し、正義の使徒は徐々に減っていく。そうした現状を終わらせ、涙の騎士を再び誕生させる。杯が乾いてからの聖下の心労を思えば、涙を取り戻すことに迷いを覚える必要はない。シャイナはそう心で唱えて、レイシーの細腕を強引に掴んだ。その時だった。
村の外れから牧羊犬たちのけたたましい吠え声が聞こえてきた。それに気を逸らす間もなく、音もなく何処からか駆けてきた巨大な黒い獣がシャイナに突撃してきた。獣はシャイナを押し倒すと素早く身を翻して、レイシーを咥えて村の外へと逃走した。シャイナはすぐに起き上がり、走って追いつけないと判断するや、獣が逃げた方向とは反対に走り、村の端に留めた馬に飛び乗って獣を追いかけた。獣の姿はもう見えなかったが、逃げた方向は覚えていたので、そこを目指して馬を走らせた。
やがて地面を抉った大きな足跡が見つかり、それが西にある森へと向かっていることが分かった。いつの間にか日は完全に落ち切り、空は夜の闇に覆われ始めた。シャイナは灯りを灯す手間すら厭い、夜目を頼りに馬を走らせ続けた。あの獣がなんなのか、その姿形を観察する暇はなかった。はっきりとしているのは、獣がレイシーを攫っていったことのみ。レイシーのみを標的にし、捕らえると即座に逃げるという知能の高さが気に掛かる。目的も正体も分からないが、尋常ではない相手だというのは確かだ。手綱を握る手に力が入る。暗黒を湛える森が目の前に迫ってきた。シャイナは馬を急き立てて、未知の森の中へと侵入した。
涙が流れることは普通ではない。だから、涙を流してはいけない。レイサリスは物心ついてから、泣くのを我慢し続けた。転んで痛い思いをしても、友達と些細なことで喧嘩しても、大好きだった牧羊犬のマギが死んでも、レイサリスは涙を溢さなかった。悲しみに襲われて涙を堪える度に、自分が普通の人間ではないことに気付かされた。涙が理由ではなく、根本で違うのだと。同年代の友達とも、大人たちとも、両親とも、かけ離れた存在なのだと。
生まれた瞬間に涙したレイサリスに両親は驚いたが、それだけだった。彼女は愛されて育ち、村の人々もレイサリスを抵抗なく受け入れた。涙を流す少女の存在が今まで村の外に漏れなかったのは、彼らがレイサリスを外部の者から遠ざけて守ってくれていたからだ。レイサリスは己が異端な存在であることを理解しながらも、周囲に害を及ぼすものだとは思っていなかった。崇拝されるようなものでもなく、ただの子供として成長できるように計らってくれていたからだろうと思った。
だから涙の騎士が現れて簒奪者だと告げられた時、罪の意識が芽生えた。自分を守ってくれた皆を裏切ってしまった。裁かれるべきものをそれとは知らずに匿っていた彼らに死をもって謝るべきだと。邪悪な存在から解き放たれたら、彼らはもっと健やかで穏やかな生活を得られるはずだ。
レイサリスが罪を認め、己の身を騎士に差し出した途端、彼女の見ていた景色が一回転した。釣られるようにして宙に浮いたかと思うと、村の人たちや家々が残像となり流れていった。荒波のように打つ風に気持ち悪さを覚えた。生暖かい息が後頭部に掛かるが、顔を其方に向けられる余裕はなかった。何かよく分からない生き物になされるがままになり、夜が訪れ、暗い森へと連れていかれ、そこから木々の間をぐわんぐわんと揺さぶられながら進み、唐突に揺れが治まった。
月光すら入る余地のない鬱蒼とした樹冠のせいでレイサリスは闇しか見ることが出来なかった。獣が静かにレイサリスを降ろしたものの、何も見えないレイサリスは、おろおろとしながら、獣の方を見上げた。獣は影としてしか見えなかったが、その後ろにきらりと何かが光った。始めは星の光のような微かな煌めきだったが、次第に強くなり、日が齎してくれるような温かい光が射しこんできた。光によって獣の姿が露わになった。黒く艶のある毛並み、鋭い爪を持った四本の脚、大きな尾と尖った耳、そして長い鼻面に牙が並んだ口。見た目は狼のようだが、その大きさは馬より一回り大きいくらいあり、このような生物をレイサリスは見たことがないのは当然、聞いたことすらもなかった。
獣は金色の瞳でレイサリスを見つめた。レイサリスもその瞳の美しさに魅入られて見つめ返した。なんとなくマギを思い出し、愛おしさが押し寄せてきて獣の首に手を回す。しかし、獣は緩やかに首を引いた。いや、引いたのではない。頭が持ち上がり、形が変わっていった。頭だけでなく胴体も起き上がって、後ろ脚だけで体を支える格好になり、体が凝縮されたように縮まっていく。体を覆っていた黒い毛は体内に引っ込み、浅黒い肌が見え始めると、レイサリスは獣が人間に変身したと分かった。腰に蓑のような獣の毛を残し、背の高い半裸の男が金色の瞳でレイサリスを見下ろした。
「手荒な真似をしてしまい、すみません」
ぼそぼそと小さな声で男はそう言った。レイサリスは驚きに言葉を失いながら、ペタペタと男の体を触った。
「どうなされましたか?」
声の割には表情豊かに、男は困った顔を作った。尾のように長い黒髪にレイサリスが指を通すと、その表情は照れたものに変わった。
「天使様、どうかおやめください。なんだか、変な気分になります」
「天使様?」
男は跪き、レイサリスに視線の高さを合わせた。
「はい。貴方は天使様です。俺は天界より貴方をお迎えに上がった天使です」
自分が天使だと告げられても、驚きはなかった。寧ろ、皆と違う、異質な存在だと感じていた理由がそれにあるのではと思い、納得できた。
「貴方も天使なの?」
「天使ですけど、貴方に仕える天使です。天使様は俺の御主人様なんです」
「知らなかった。天使ってみんな神様に仕えてるってギアソン先生が仰ってたのに。貴方は違うのね。えっと、お名前は?」
「ニーヴとお呼びください、天使様」
「分かったわ、ニーヴね。ニーヴ、私はレイサリスよ。みんなからはレイシーって呼ばれてるわ」
ニーヴはゆっくりと首を横に振った。
「それは天使様の真の名ではございません。天使様は思い出さなければならないのです。自分の名も、その役目も。でなければ、天界にお帰りになれないのです」
思い当たることが何一つない。このレイサリスという名は両親が名付けたもので、それ以外に名前はなく、役目というものも見当が付かない。ただ、それに関係していると思われるのは、自分が涙を流せること。ギアソン先生から教わった歴史に、遥か昔に人間が罪を犯してしまい、そのせいで涙を奪われてしまったというものがある。自分が天使であるならば、その歴史の話と何か関係があるのでないかと思った。そして、自分が罪人であることを思い出した。涙の簒奪者。騎士が言ったその言葉を不意に口にした。
「天使様、貴方は簒奪者などではありません」
耳聡いニーヴはその小さな呟きを即座に否定した。
「戯言を真に受けてはなりません。天使様は決して簒奪者などではないんです。あれは天使様を貶めようとして嘯いているに過ぎません」
「それじゃあ、私の役目ってなに? 涙を奪っていないのなら、どうして私は泣けるの? 私が人間じゃなくて天使だから?」
「俺の口から何もお伝えできません。ただ、貴方は一度死んで、その身を人のものとして蘇りました。まだ貴方は人間の子供でしかありませんが、己の名前と成すべきことを思い出せば、本当の天使様に戻られる。それを他者から聞いたんじゃ、意味がないんです」
「難しいことを言うのね。何も分からないのに、どうやって思い出せというの? そもそも忘れた自覚すらないのに」
それに、もし思い出せたとしても天界に戻ろうとは思わなかった。両親や村の人たちと離れ離れになりたくはない。罪人として裁かれるのを回避できればの話だが。そう、置いてきた問題はまだ何も解決していないのだ。
「あの涙教の騎士、追いかけてきてるんじゃないかしら」
「奴にそれだけの執念と力があれば、そうでしょう。まあ、なければ困るんですが」
「どういう意味?」
「来たら分かります。俺は奴を誘き出しにいくので、聖域から出ないで待っててください。夜の森は危ないですから」
そう言うとニーヴはたちまち獣の姿に戻り、光の外、木々が密集した闇の中へと消えていった。そうして一人になって漸くレイサリスは周囲に目を向けた。月の光が射しこむ開けた地。それを大きな木々が囲み、地面は苔の絨毯が敷かれ、近くには小さな池がある。透き通った池の中には小魚が住まい、濁りのない緑色をした藻を食んでいる。その池の傍らには周囲の木々より遥かに巨大な木が一本立っていた。逞しい幹には草や蔓、藻が張り付き、円やかな入口を持つ洞からはリスが顔を覗かせている。枝には鳥たちが止まり、夜であるはずなのに、ぺらぺらとお喋りを楽しんでいる。月光は繁茂した梢を貫き、温かな光を煌めかせて大樹に浴びせている。
ニーヴは聖域だと言っていた。夜を覆す場所であることしか分からなかったが、この異質な光景は却って自分に似合っているなと思い、レイサリスは苔の絨毯に横たわって、静かに目を閉じた。
微睡み始めてから、そう時は経たずにニーヴは戻ってきた。駆け抜けるようにして闇から現れると、すぐ後ろから騎士も入ってきた。騎乗している白い馬には切り裂かれたかのような生傷がいくつも出来ていたが、それを意に介した様子もなく、騎士に従って巨狼のニーヴを追いかける。ニーヴは彼らを嘲笑うかのようにぐるぐると聖域を駆け回っていたが、レイサリスに気付いた騎士が、目標を切り替えてレイサリスの方へと馬を向けた。すると、それまでただ戯れを楽しんでいたかのようだったニーヴが身を翻し、大きな跳躍をして馬の喉元に噛みついた。馬は押し倒されたものの、騎士は間一髪で難を逃れ、ニーヴと間合いを取った。
鳥たちが大きな音を立てて一斉に飛び立った。リスも洞の中に引っ込んでいく。苔の絨毯に赤黒い血が広がっていき、白馬は身動ぎもせず虚ろな目で死んでいった。ニーヴは絶命した馬を跨いで、血塗れの牙を剥きながら騎士の方へと進んでいく。レイサリスは馬の死に衝撃を受けて血を見まいと目を両手で覆った。その、ほんの少しの間に雌雄は決した。
騎士が右手で空を払うと、その掌から銀の鎖が生えてきて、鞭のように撓りながらニーヴへと伸びていった。ニーヴは向かってきたその鎖を避けるでもなく弾くでもなく、正面から受けた。右の耳辺りに当たると、そこから強い光が放たれ始めた。聖域は一瞬にして眩い光に満たされた。
その光が手を貫いて瞼にまで届いた。目を閉じていても眩んでしまい、それが鎮まってから、レイサリスは両手を下ろし、瞼をゆっくりと開けてニーヴを探した。ニーヴは見ていない間に人間の姿に変わっていた。口元には血がたっぷりと付いていて、レイサリスはぎょっとしたが、それ以上にニーヴが見下ろすものに気を取られた。騎士が付けていた胸当てや籠手、衣服外套が着用していたものが来ていた本人が溶けて消えたかのように綺麗に残り、その傍らに大きな白い犬、と言っても獣の姿のニーヴには劣るほどだが、がぐったりと倒れていた。艶のある毛並み、つんと立った大きな耳、芯のある尾、立派な体躯と勇ましくも愛らしい顔付き。つぶらな赤茶色の瞳が開くと同時に慌てたように飛び起きる。牙を剥いて威嚇するようにニーヴを見上げていたが、徐々に表情は変わり、ぽかんと口を開けるだけになった。
「状況を飲み込めていないだろうから説明してやろう。貴様は愚かにも天使に向かって奇跡の力を使った。奇跡そのものを宿す天使に人間が操る奇跡など敵うはずもない。天使を罰せる力を貴様は持っていないということだ。そして、その不敬は即ち悪である。奇跡の力を弾き返すことで貴様を罰した。聖なる銀鎖は束縛の力。自由を奪う力。貴様のそれは大した威力しか出せないようだったから、俺の力を加えて返してやった」
ニーヴは口を手の甲で拭い、レイサリスの方へと顔を向けた。
「御見苦しいところを見せて申し訳ありません。出来ることならば、外で事を終わらせたかったのですが、地上では俺の本来の力が出せないのです。この聖域は天界に近しい地。俺がこうやって元の姿に戻れるくらいには力を取り戻せる場所でもあります。こいつを手駒にするには、此処でやり合うしかなかったのです」
「手駒?」
レイサリスが疑問を口にすると、犬が会話に割って入ってきた。あろうことか、人間の言葉を男の声で放った。
「私に何をした! すぐに元の姿に戻せ!」
きゃんきゃんと吠えているようにしか見えなかったし、実際にそういった鳴き声を発していたのだが、何故か人間の言葉に頭の中で変換されて聞こえた。レイサリスは不思議な感覚に戸惑ったが、それをニーヴが察して説明した。
「言葉が分からないと不便なので、俺と天使様にはこいつの言葉が分かるようにしておきました。他の人間には鳴き声しか聞こえていません」
「そうなのね。なんだか変な感じ。まるで頭の中に自分以外の誰かが住みついて話しかけてくるみたい」
「不快かと思われますが、ご辛抱ください。先程も言いましたが、こいつには俺たちの駒になってもらいます。駒が得た情報を知るには、こうするしかないんです」
ニーヴが話している間に犬が飛び掛かってきたが、犬は宙で何かに弾かれ、情けない声を上げて地面に叩きつけられた。
「主従を形成させたから抵抗は出来ない。勿論、勝手に逃げることも許されない。今は大人しくしていろ。後でお前に役割を与えてやる」
「ふざけるなよ。どんなまやかしを使ったのかは知らないが、何があろうと貴様らの言いなりにはならない。私が忠誠を誓うのはハーヴェル聖下ただ一人だ」
言葉の迫力に反した見た目にレイサリスは笑みが零れた。犬になってしまったことへの憐憫の気持ちもあってか、慰めようとして手を伸ばすも、ニーヴに止められてた。
「お気を許さずに。こいつは天使様の命を狙っていた者ですから。情けないことに俺はあまり地上に詳しくありません。なので、まずはこいつから情報を聞き出すところから始めたいと思っています」
「誰が貴様なぞに……」
苦悶の叫びがその言葉の後に続いた。頭に響くその声に、レイサリスは反射的に耳を塞ぐが、直接頭に届いているものなので無意味だった。犬は地面をのたうち回ると、舌を出し、涎を垂らしながら喘いだ。
「貴様には見えない鎖が絡みついている。俺が念じるだけで、鎖は貴様の体を千切ろうとする。容易くな。天使様もいることだ。あまり手荒なことはしたくない。貴様はただ知っていることを教えてくれればいい」
「……断る」
地に伏しながら犬は吐き捨てるように答えた。ニーヴは感情を顔に出すことなく犬を見下ろすだけだったが、何をしなくとも見えない鎖が犬を苦しめた。聞こえ続ける絶叫ともがき苦しむ犬の姿に、レイサリスは耐えられなかった。ニーヴに縋り、潤んだ目で懇願する。
「ねえ、やめて。可哀想だわ。この人に聞かなくても私がニーヴの知りたいことを教えるから解放してあげて」
「天使様の仰せのままに」
ニーヴは躊躇いを見せずにレイサリスに従って鎖を弱めた。頭の中と目の前の犬の呻く声が重なる。レイサリスは犬の前に膝を折り、頭と胴を撫でてやった。
「ごめんなさい。貴方が辛い思いをする必要はないというのに」
言葉は返ってこなかった。犬はぼんやりとした眼でレイサリスを見つめているだけだった。暫く犬を撫でてやった後、レイサリスは犬に尋ねた。
「貴方のお名前は?」
少しの間があってから、頭の中に答えが届いた。
「シャイナ」
レイサリスは微笑みと共に深く頷いた。
「ありがとう。それで充分だわ。ニーヴ、彼は涙教の騎士、名はシャイナ。私を涙の簒奪者として教皇様のところへ連行するために遣わされだけの人よ」
ニーヴは口元に手を当ててそれらしく考え込む仕草をした。金色の瞳は地面の一点を見つめ続けていた。
「その教皇という者はどうして涙が奪われたなどと思ったのでしょうか」
「それは、私が涙を流せるからじゃない? 何処かからそれを聞きつけて、シャイナを派遣したのでしょう」
「いえ、そうではなく……すみません、天使様に口答えなどして良い立場ではないのに、無礼を働いてしまいました」
「気を使わないで。私もまだ自分が天使だなんて自覚がないんだから」
「では、御言葉に甘えさせていただくことにします。涙が奪われた、と教皇が断定したことが不可解なのです。奪われたと言うからには、何処かに涙があったことになりますから」
「涙があった場所……確か涙教には涙の杯という神器があると教えてもらったことがあるわ。その杯からは滾々と液体が湧き、それを飲むことで奇跡の力を持つ涙の騎士になれるといわれているわ」
「そういうことか」
一人納得したようにニーヴは呟いた。レイサリスはニーヴの次の言葉を期待し、顔を覗き込む。
「その涙の杯が、天使様の記憶を取り戻す鍵に違いありません。それは一体どこにあるのでしょうか」
「えっと、大聖堂……ポーポネート大聖堂、だと思う。そこに安置されているんじゃなかったかしら。詳しいところまでは分からないけど」
レイサリスはちらりとシャイナの顔を見るが、シャイナは目も合わせようとせずに不貞腐れたような顔をしていた。ニーヴも場所を問い質したいのか、シャイナを睨むものの、レイサリスの言い付けを守ろうという意志が働いているらしく、歯痒そうに睨むだけだった。
「見当が付いただけ良しとしましょう。俺たちがすべきことは決まりました。涙の杯を手に入れる。そのために、この犬を使います。こればかりは天使様に口出しはさせませんよ。俺は聖域を出たら、獣の姿になってしまうのですから。あれはかなり目立ってしまうようですし、天使様を狙う輩がこいつだけとも限りませんので身を潜めておきたい。なので、こいつに代わりを担ってもらいます」
「私に杯を盗ませるつもりか。馬鹿馬鹿しい。まだ私が貴様らの言いなりになると思っているらしいな」
ニーヴは腰を落として、シャイナと同じ高さで視線を合わせた。金色の瞳と赤茶色の瞳が互いの瞳の内側を探るようにして睨み合う。
「元に戻りたくないのか? このままでは貴様は未来永劫、鎖に縛られた犬畜生のままだぞ。俺の言う通りにすれば元に戻してやる。その姿のままでは、貴様の飼い主の役には立てないだろうに」
「聖下に仇為すものを排除するのが私の役目。それが成せぬならば、生きている意味などない。殺せ。獣になったとて、涙の騎士としての矜持は残っている」
「やめて!」
ニーヴが何かしようとする前に、レイサリスは止めに掛かった。誰かが死ぬのなんて見たくはない。今も視界の端に血溜まりと馬の亡骸が見えてしまっている。それがとても辛く、悲しい。
「ニーヴ、シャイナを殺さないで。シャイナも、自分の命を諦めないで。死ってとても苦しいものなのよ。死ぬものも、死を目の当たりにするものも、苦しくて、悲しくて、寂しいの」
胸の奥がきゅっと詰まるような感覚があった。その奥底に何かがある。あると分かっているのに、何も見えてこない。暗すぎる闇が自分の思いすらも飲み込んで無にしてしまう。此処に天使としての記憶があるのか。レイサリスは初めて、自分の内側にこの小さな体以上の大きすぎる空虚があることを自覚した。
「シャイナ、無理にとは言わない。でも、私は貴方に助けてほしい。貴方のように実直で強い心を持っている人なら、こんな無茶な願いさえも難なく叶える力があるような気がするの。それに、これは貴方の主への裏切りにはならないわ。もし杯を手に入れることが出来たのなら、この身は貴方に捧げます」
「天使様!」
ニーヴが声を荒げて抗議を示したが、レイサリスは首を横に振って二言を許さなかった。ただ、真実だけが知りたかった。この空虚にぴったりと嵌まるものが何なのか。それさえ知ることが出来れば、もう満足だ。それが天使ではない、レイサリスとしての生への回答だった。
「どう? 助けてくれる?」
シャイナの顔を覗き込むと、それまでわざとらしく逸らしていた瞳と目が合った。はあ、と諦めのような溜め息が聞こえた。
返答らしい返答はなかった。だが、拒否する姿勢は見せなかった。それを答えとしてレイサリスはシャイナに微笑んだ。ニーヴもそう汲み取ったようだ。
「では、こいつをポーポネート大聖堂に向かわせましょう」
「馬鹿め。そう易々と大聖堂に侵入できると思っているのか。あそこは最も清らかで神聖な場所だ。聖下を除いて自由に出入るすることは叶わん。聖下の奇跡の力で、入れるものを制限しているのだ。人ですらない野良犬が、どうやって聖下のお許しを得ることが出来よう。今すぐ、元の姿に戻せ。涙の騎士たる私と分かれば、聖下も入れてくれるかもしれない」
「断る。貴様に人に戻られて、要らぬことをされる方が困る。犬のまま、なんとかして杯を取ってこい」
「不可能だと言っているだろう。俺の言葉が理解できないのか?」
双方とも喧嘩腰で、今にも飛び掛かりそうになっていたので、レイサリスは二人を治めるために、杯を手に入れるための方法を熟慮せずに咄嗟に口にした。
「ギアソン先生を頼ってみるのはどうかしら? 私に文字の書き方から歴史のことまで、たくさんのことを教えてくれた素晴らしい先生よ。先生なら何か良い策を思いつくはずだわ」
「何処の誰とも知らぬ者に助けを乞うのか? 信用ならん」
「信用できる人よ。少し抜けているところもあるけれど、とても博識でいらっしゃるし、紡がれた歴史を自らの目で見るために色んな所へ旅しているくらい行動力もあるの。先生は一年前に村を去ってしまったけど、故郷のウェンダーに戻ると仰ってたわ。ウェンダーに行って、先生に事情を説明すれば、杯を手に入れる方法を見つけてくれるかもしれない」
レイサリスは自分の体を弄り、書けるものがないかを探した。しかし、それに見合うものはなく、今度はシャイナの荷物を漁り始めた。止めようとする声が聞こえてくるのも構わずに脱げ落ちた鎧やら服やらを探る。紐が通った小さな筒を見つけたので、蓋を取って中を確認すると、無地の羊皮紙が包まって入っていた。続けて、小さな銀のインク壺も見つかったが、ペンは見つからなかったので細い木の枝を代用して、羊皮紙にすらすらと文字を書いていった。
シャイナも制止を諦めて羊皮紙を覗き込んだ。その後ろでニーヴは立ったまま、様子を窺っている。レイサリスは背後の二人を気にせず、黙々とギアソンへの手紙を書いた。自分が天使であること、涙教に命を狙われていること、狼になれる天使に助けてもらったこと、天使であった時の記憶を取り戻すのに涙の杯が必要なこと、そして、その手助けをギアソン先生にしてもらいたいということ。それから、シャイナのことも加えて、レイサリスの名を最後に書き記した。
手紙を筒に戻した後、シャイナの首に掛けてやった。耳の後ろ辺りを撫でてやりながら、不遜な顔付きをするその犬の目を見て言った。
「貴方も先生に会ったら、信用できる人だって分かるはずよ。橙色した羊みたいな巻き毛と大きな眼鏡をした線の細い男の人。ぼーっとしてて頼りなさそうな雰囲気の人と言えば見つけやすいかしら。その手紙、なくさずに先生に渡してね。先生と力を合わせて、涙の杯を手に入れて」
「そいつと協力するかは、私の判断で決めさせてもらう。約束を忘れるなよ。貴様は必ず聖下に引き渡すからな」
「俺たちは此処で待っているが、戻ってくるのが遅いようならば、貴様を縛り殺す。俺は貴様の命を握っている。逃げようとも、裏切ろうとも、それはただ死に近付くだけの愚かな行為だということを肝に銘じておけ」
シャイナはニーヴに一瞥をくれてから首を回らせた。抜け殻となった鎧の胸に、水色の宝石が異様な眩さを放つ月光を反射して煌めいていた。その煌めきを瞳で掴み取らんとするほどに凝視した後、暗黒の中へと駆けていった。
自分が天使である、その事実を知りさえすれば後はどうなろうと……。去来する寂しさが先程シャイナに放った言葉を否定しようとする。過るのは父と母、村の人たちの顔だった。




