蛇足、または真の結末
そんな風に食事も摂らず、泣き疲れて呆然としていた私の部屋に、またもレックスが乱入してきたのは三日後のこと。
「おはよう、レイチェル。餓死したいのでなければ、いい加減に食事をしなさい。消化のいいものばかりにしてもらったから、拒否は受け付けないよ」
「…………」
のろのろと体を起こした私が、生気というものの抜けきった顔でレックスを見ると、彼は器用に片眉を上げたが何かを言うこともなく、メイドが配膳した自分用の食事を順調に片付けにかかっていた。
……いつもの私なら、彼のそんな態度に「自分の部屋か食堂で食べなさいよ! どうしてわざわざここで食べるのよ!」くらいのことは言えただろう。けれど今は、どこからもそんな気力が湧かない。……絶望した、というのはこういうことなのだろう。
ベッドに座ったままの私の目の前に手際よく用意されたのは、美味しそうな匂いの野菜スープ。
仕方なくスプーンを手に取るものの、全く食は進まない。そんな私だったけれど……はあ、と露骨に大きな溜め息が聞こえてきて顔を上げる。
見れば、レックスがあからさまに呆れた顔でこちらを見てきていた。
「レイチェル。今までの君のバイタリティはどこに行ったんだ? 王太子殿下を始めとした貴公子の方々に愛されるなんていう、子供じみた夢からようやく覚めただけなのに、今にも死にそうに見える。いくら何でも、絶望しすぎにもほどがあるんじゃないのか」
「っ……! あ、あなたに何が分かるわけ……!? 私はこれまでの十年間ずっと、必死になって目指してきたことが台無しになったばかりなのよ。そのことに、少しくらい絶望したっていいじゃない……! どうせ私は、あなたや伯父様たちにも見捨てられる立場なんだから……そのまま放っておいてよ……」
自分のせいだとは言え、三日もろくに何も食べていないので声に力が入らない。
誰よりレックスにはそんな姿を見せたくなんてないのに、消えそうになっている自分の姿に理不尽にも腹を立ててしまう。
けれどレックスの態度も口調も、何ら変わらないままこう返された。
「放っておいても立ち直るならそうするが、君はどう見てもそうじゃないだろう。昨日までは『ゲーム』の、今は悲劇のヒロインとして、種類は違うがヒロインのまま振る舞っているだけだ。……年長者から言わせてもらうと、君はまだ十六歳だろう? まだまだ人生はこれからで、社交界から締め出されるような取り返しのつかない間違いを犯したわけでもないのに、そこまで絶望し続ける理由がどこにあるんだ?」
「……え……?」
耳を疑った。
今更何を言っているんだろう、この男は。この前はあれだけ、容赦なくこちらをこき下ろしてきたくせに……
「だ、だって……あなた、言ってたじゃない。結婚相手は私が自力で見つけろって……つまりそれは、あなたや伯父様たちのツテで結婚相手を見繕ってくれたりはしないってことでしょ……!?」
「そうしてほしいのかい? 君の学園卒業まではまだ二年もあって、自力で相手を探す余裕は十分あるのに」
……私の目は点になった。
レックスはくいっと眼鏡の位置を直して言う。
「いいかい? 確かに僕は君のしたことを色々咎めたけれどね。君は少なくとも、『ゲーム』で楽しませてきた皆様の婚約者がたには、僕にぶつけたような無礼な言葉は一切発していないだろう? だからこそ我が家には、慰謝料等のお咎めは何も発生していない。ここまでは分かるね?」
「……う、うん。でも……」
「だから君の学園での立場は、以前と変わらず『期間限定の『ゲーム』の相手として、貴公子の皆様を上手く楽しませた女生徒』のままなんだよ。言い換えれば、『入学してからの僅か一年で、王族や高位貴族の皆様へのコネを上手いこと作り上げた有能な令嬢』ということでもある。そんな君ならば当然、優秀な花嫁候補として、婚約者のいない令息たちからは引く手あまただと思わないか?」
「……そ、そうなの? そういうことになるの……!?」
今まではただ『ゲームのヒロイン』として頑張っていただけなのに、第三者からはそんな風に見えるなんて考えもしなかった。
そんな私に、レックスは肩をすくめてこう言った。
「勿論、殿下たち━━君が言うところの『ヒーロー』の皆様目当てで躍起になっていた三日前までの君なら、見捨てる可能性もそれなりにあったけれど。この世界の常識をようやく弁えた今の君なら、聞く耳を持ってくれるようになっただろう? 物事の見方は一つだけじゃないということを、しっかり教えて実感してもらうのも家族の務めだからね」
言われて考える。
確かにレックスの言う通りだ。昨日までの私は、『乙女ゲームのヒロインとしての見方』しかできていないしするつもりもなかった。それこそがこの世界において絶対の真実であり真理なのだと、信じ込んで疑うことすらなかったのだから。
けれどそれを完膚なきまでに破壊され、粉砕されて埋め立てられて……思い込みに過ぎなかった『真実』が消え去り、ぱあっと視界が明るく開けた気がした。
……そうか。ここは確かに現実で、ゲームと同じようにはいかないけど……だからって、悪いことばかりじゃないんだ。
「私の努力は……周りにも認められてるのね。思ってたのとは違う形だけど……」
「偶然と言えなくはないけれどね。君がぎりぎりフォロー可能な段階で踏みとどまれていたのが大きい。今後の立場を固めるなら、色恋の絡まない友人もしっかり作ることだよ。『モブ』だなんて馬鹿にしないで。その男女問わない『モブ』たちは、その気になればいつでも君を破滅させることができるかもしれないんだから」
「う……はい。気をつけます……」
とは言え、友人を作るのはかなりハードルが高い。だって今までは、逆ハールートを目指すために学園内のあらゆる時間を攻略対象たちに注ぎ込んでいたから……もともと友達なんていらないと思っていた上に作る余裕もなかった。
私の困った様子を察したのか、レックスはさらりとこう言った。
「君のクラスに、僕の母方の従妹ライラが在籍している。もともと君を気にかけてくれるよう頼んであったから、改めて話をつけておくよ」
……言われてみれば、一人でいた時に何かと声をかけてきた眼鏡の子がいた気がする。同じクラスに攻略対象がいなかったこともあって、授業でどうしてもペアになる必要が生じた時は、素直に彼女と一緒にいたけど……あの子がライラだったんだろうか。言われてみればレックスに似てる気がする。主に眼鏡が。
言動については、彼みたいに余計な小言……と私が思っていたものは彼女からは何もなかったから、今まで繋がりには気づかなかったけれど。
「……でも私、そのライラには嫌われてるんじゃないかな……ちゃんと話したことないし、私と一緒にいたことで変な目で見られてたかもしれないし」
「お、そこに気を遣えるようになったか。偉い偉い」
「……子供じゃないんですけど?」
まあ、言われても仕方がない前科があるのは否定できないのが悔しい。何より十六歳は前世でも今世でも子供だ。
それでもレックスによると、ライラは人間観察と珍獣観察が趣味なので問題はないとのことだった。……珍獣って誰のことよ!?
そんなこんなで食事を終えたらしい彼は、席を立ちながら「食べ終わって少し休んだら、執務室に来るといい。君宛に持ち込まれた釣書がたくさんあるから」と告げて部屋を出ていった。
残された私は、呆然としながらもスープを口に運んで味わう。
「……美味しい」
自然と理解できてしまった。こんな私でも、どんな形であれ気にしてくれる人が身近にいるということ。
「ちゃんとお礼言わないと……レックスにも、家のみんなにも、ライラにも」
いつ以来かも分からない、心からの微笑みを唇が刻む。
「……もう私は、ヒロインじゃない……ヒロインじゃなくていいんだね」
すうっと重荷が下りた気がした。
顔を上げ、サイドテーブルの上にある鏡を見る。
そこに映っている顔は、記憶よりも痩せてしまったけれど、初めて見るくらい晴れ晴れとしていて━━私は満面の笑みを浮かべた。
「こんにちは、私。改めて、これからよろしくね」
ヒロインの役目を終えることがゲームのトゥルーエンド、というオチでした。たまにはこんなのもいいかと。
思いっきり誤解していたとは言え、レイチェルが付き合わされてた『ゲーム』も文字通りお遊びではあれど、ちゃんとやり遂げた以上は相応の報酬や評価があってしかるべきだと思います。時間と労力を嫌というほどつぎ込んだわけですしね。
ちなみに現状、レイチェルとレックスには恋愛感情はありません。少なくとも明確なものは。
レックスに婚約者や恋人はいないので、将来的に芽生える可能性はゼロじゃありませんが、今のところ双方その気はなし。ライラによれば「レイチェルの手綱を握れるのはレックス兄様くらいよね」だそうですけど、彼女も積極的に二人をくっつけるつもりは皆無。まあ進展するにしてもレイチェルの卒業以降でしょう。
それより前にいい相手を見つけてもよし、見つからずどこかに就職して仕事に生きるもよし。レイチェルの人生はこれからです。