第九章 連なりの感覚
アーク適応基礎課程の最終評価が翌日に迫っていた。
訓練生たちは、模擬的な共鳴演習や即時判断テスト、倫理的な行動判断などの記録を整理し、それぞれに与えられた事前コメントへの対応を行っていた。
施設全体には、普段とは違う緊張感が漂っていた。
「今、何を見られているのか」を互いに探り合うような空気感――それは、訓練初期にはまだなかった、成長の証でもあった。
リュシアンは、データ整理室の片隅でノートを開いたまま座っていた。
静かに音楽が流れるその空間で、彼は「評価」そのものより、これまでの“変化の流れ”に目を向けていた。
──自分は、どこで変わったのだろう。
そう問いながら、彼は指先で画面を遡る。
ジュールとの再会、ティスとの対話、そして、エスリンの“閉ざされた心”に少しだけ触れた時間。
「それらの出来事は、ぼくを“誰か”にしたのか?」
いや、違う。
どの瞬間にも、名を呼ぶ声があり、それに応えようとした“自分自身”がいた。
彼が深く考えるようになったきっかけの一つに、ティスのある言葉がある。──名前は、他者との関係を持つ構造の入口。
そう考えると、今の自分にはいくつもの“入口”がある気がした。
そのすべてが、世界と自分を少しずつ結びつけている。
そのとき、扉のセンサが軽く反応した。
「ここにいたんだ」
ジュールだった。
彼もまた評価前の記録を見直していたはずだが、なぜか真っ直ぐこの部屋に来たらしい。
「少し話せる?」
「もちろん」
ふたりは、窓際の二人掛けの席に移った。
外のガラス越しには、調光された空間に模擬惑星の風景が静かに浮かんでいた。
「俺たち、あのときからずいぶん変わったな」
ジュールがぽつりと漏らした。
「“あのとき”って?」
「お前が黙ってた日。……いや、俺が“怒ることすらできなかった日”かな」
リュシアンはうなずいた。
それは、もはや触れるだけで痛む記憶ではなかった。
「でも、今は、そういう日があったことに意味があると思える」
「それ、俺も。……不完全でも、続いてることが大事なんだって、最近やっと思えるようになった」
会話は、深く潜るわけでもなく、ただ浮力のようにふたりの間に流れていた。
「明日、どんな演習になると思う?」
「わからない。でも、たぶん“ひとりでは通れない課題”なんじゃないかな」
「それ、ありそうだな」
ジュールは笑いながらも、わずかに真剣な顔を見せた。
「なあ、リュシアン。……もし明日、俺が揺れても、ちょっとだけ、手、出してくれよ」
リュシアンは、笑みを浮かべた。
「わかった。君が崩れない程度に、支えるよ」
その返事のあと、ふたりの間に沈黙が生まれた。
だが、それは会話が終わったのではなく、その奥にまだ続いている気持ちの流れが、静かに二人の間に漂っていた。
ひとりで立つことと、誰かと支え合うことは矛盾ではない。
むしろ、それらが同時に存在できることが、「連なり」なのだ。
窓の外の光景が、少しずつ夜の色を帯びていく。
その中で、二つの影は交わることなく、それでも同じ方角へと静かにのびていた。
◇◇◇
評価当日。
訓練棟の第七演習区画。
ここは、床や壁の形がリアルタイムで変化し、環境も自在に切り替わる特別な訓練空間だ。
障害物の位置や光の強さ、音の反響までが調整され、複雑で予測不能な状況を作り出すことができる。
ふだんの共鳴演習よりも、ずっと実践に近い条件が設定されていた。
部屋に入ると、ジュールとエスリンが先に来ていた。
リュシアンが目を向けると、ジュールが小さく片手を上げ、エスリンはちょっとだけうなずいた。
声は交わさなくても、それで十分だった。
場に漂う空気は張り詰めていたが、不安よりも集中が支配していた。
スピーカーから、教官の落ち着いた声が響いた。
「今回の演習では、3名がひとつのチームとなって行動し、その“共鳴と判断”の流れを評価します。
個人ごとの採点はありません。チーム全体が“ひとつの構造”として、どう動けるかが見られます」
エスリンがわずかに眉を動かした。
ジュールが小さく息を吸う。
リュシアンは、静かに構えをとった。
「環境は変化型であり、明示的な目的は提示されません。
ただし、互いにどう動くか、しっかり相談しながら進めなければ、演習は続行できません」
──つまり、目標を自ら見つけ、互いに認識を共有しながら、それを遂行せよということだ。
ゆっくりと空間が変わっていく。
床が少しずつ傾き、壁の一部が透明になって迷路のような通路が見えた。
傾斜、霧、反響音、さまざまな仕掛けがあちこちに設置されていて、まるで“動く迷宮”の中に入ったようだった。
中央には、ゆっくり光を点滅させる装置が置かれていた。
それはこの空間を動かす“心臓”のような存在であり、同時に訓練生たちの行動を見守る“目”でもあった。
「開始」──教官の一言とともに、足元がかすかに震えた。
リュシアンが一歩、前へ進んだ。
手首の端末に、重力や空気の変化が次々と表示されていく。
そのデータをチームの共有画面に送信しながら、彼はすぐに最適な進路を選び出した。
「右側の通路は安定。ジュール、前方の安全確認を。エスリン、中央装置の動作ログをモニタしてくれ」
ジュールが動く。
足場のわずかな振動を読んで、バランスを維持しながら先行する。
エスリンは背後で何も言わず、装置に視線を向けていた。
だが数秒後、彼女が言った。
「周期変動、16秒ごとにリセット。9秒後、一時干渉域が通過可能」
その言葉に、ジュールが振り返った。
「つまり今動くしかないってことか?」
「そういうことだ」
リュシアンは即座に判断を下した。
「移動開始」
三人が同時に動く。
タイミングのずれは最小限。
だが、その中にあったのは、命令に従って動く感じではなく、それぞれが同じ考えを自然に持ち寄ったような“意識の重なり”だった。
空間はさらに形を変えていき、次のエリアに入る。
そこには「感情干渉装置」と呼ばれる特殊な機器が設置されていた。
ジュールの足がふと止まる。
「あ……これ、前の訓練で使ったやつだ。あのとき、気持ちが一気に――」
「ジュール」
リュシアンは静かな声で言った。
「立ち止まっても大丈夫。ちゃんと見てるから」
ジュールはゆっくりと頷いた。
そして、もう一歩踏み出した。
そのエリアを抜けると、空間の中央にあった装置が、色を変えて光り始めた。
「このコアの反応が安定すれば、演習は終わるわ」
と、エスリンが言った。
「どうすれば安定するの?」
と、リュシアン。
「三人の気持ちが、ちゃんとひとつにまとまればいい。難しく考えなくていいよ」
と、エスリンが答えた。
その言葉に、沈黙が落ちた。
自分ひとりで越えるものではない。
誰かに任せて済むことでもない。
「位置につこう」
リュシアンが言った。
三人は、コアを囲むように立った。
もう、誰も何も言わない。
それぞれが静かに心をひらいて、同じ“今”に集中した。
沈黙が、時間のなかで濃くなっていく。
しばらくすると、数値がゆっくりと上昇を始めた。
それは、三人の気持ちが自然に重なっていった証だった。
──ぼくたちは、たしかに、ここにいた。
装置の光がやさしく収まり、
「演習終了」
というアナウンスが流れた。
共鳴場が解かれ、元の静けさが戻った。
誰も言葉を発さなかった。
だが、互いの目に映っていたのは、確かな“連なり”の記憶だった。
◇◇◇
最終演習が終わって、しばらく時間が経った。
報告や記録の作業もすべて終わり、構内には穏やかな夕方の空気が流れていた。
天井にはドーム投影の夕焼けが広がり、やさしい光が廊下に影を落としている。
リュシアンは、ひとり中庭の片隅に立っていた。
演習が終わって、それぞれが自然に散っていったあと、気づけば彼はここに来ていた。
視線の先には、透明な温室ガラスに囲まれた植物群。
中にはエリディアンとの共生がもたらしたと思われる、不思議な植物が混ざっていた。
風もないのに、その葉が静かに揺れているように見えた。
「やっぱり、ここにいたか」
後ろから聞こえたのは、ジュールの声だった。
リュシアンは振り向かず、答えた。
「こういうとき、どこにいればいいのかわからなくて。……何となく来てた」
ジュールはリュシアンの隣に立った。
ふたりとも何も話さなかったが、その沈黙は不思議と心地よかった。
しばらくして、もうひとりの気配がそっと近づいてきた。
足音も立てずに、エスリンが現れた。
彼女はふたりに視線を送り、それから少し離れた場所に腰をおろした。
話さなくても、三人のあいだには同じ空気が流れていた。
誰も何かを語ろうとはしなかった。
語らないという選択が、今の三人にはもっとも似つかわしかった。
演習は終わった。
でも、何を達成したかよりも、そこに一緒にいた時間が、心に残っていた。
リュシアンは、夕空を見上げた。
明るさが少しずつ消えて、空は夜の色に染まりつつあった。
──これから自分は、どんな道を選ぶのだろう。
研究者として学びを深めるのか。
それとも、アーク・コンダクターとして外の世界へ旅立つのか。
答えは、まだ見つかっていなかった。
でも、今日の演習で一つだけはっきりしたことがある。
「誰かと一緒に何かをつくることは、ひとりぼっちの対極にあることじゃない」
むしろ、それぞれがちゃんと“自分でいること”を受け入れて、
そのうえで自然に重なるとき、
それは、ちゃんと続いていけるんだ。
ふいに、エスリンが小さくつぶやいた。
「共鳴って……思ってたより、静かなものだった」
ジュールが笑った。
「そうだな。もっと、ドーンとかビリビリくるもんだと思ってた」
「でも、静かなほうが、ちゃんと響く」
その言葉に、誰も反論しなかった。
余計な言葉を足さず、ただ「そこにいる」ことを選んだ。
それが、いま一番正しい形に思えた。
それは、言葉よりも正確な応答だった。
いつのまにか、構内の照明が夜の色に変わっていた。
夜の気配が、構内の空気をゆっくりと冷やしていくようだった。
リュシアンは、手元の端末を閉じ、ゆっくりと立ち上がった。
「そろそろ、帰ろうか」
ジュールがうなずき、エスリンも無言で立ち上がった。
三人は何も言わずに歩き出す。
歩く速さはバラバラだったけれど、
目指す場所は、同じだった。