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第八章 揺らぎの先に

アーク適応基礎課程も、いよいよ終盤を迎えていた。

この段階に入ると、課題は単なる反応や判断能力ではなく、「共鳴場における自他境界の維持と調整」という、より抽象的な領域へと進んでいく。


リュシアンは、訓練棟の証明光度が調整された広域演習室にいた。

壁は半透明の素材で覆われ、内部にいる者の動きは外から見えず、意識の集中が保てる設計になっている。


この日から始まるのは、最終フェーズに向けた「環境同期演習」。

小規模な仮想共鳴場のなかで、参加者同士が限定的に思考と感覚の“干渉”を経験するものだった。


初日の参加者は、リュシアン、ジュール、そしてもう一人。


「……この子が入るのか」


リュシアンは、名簿に目を落としたまま呟いた。


表示されていた名前は、「エスリン・マイア」。

研究育成コースの中でも異端と呼ばれる論理特化組の学生で、少人数制の中でもさらに孤立しているという噂の人物だった。


彼女が演習に参加することは珍しかった。

実技よりも理論設計に軸足を置く彼女が、この「身体的共鳴訓練」に出てくるのは異例だ。


部屋に入ってきたエスリンは、無言だった。

長い前髪が左目を半ば隠している。表情は読みにくいが、その佇まいはどこか拒絶を帯びていた。


教官が簡潔な説明を終えると、三人はそれぞれ指定されたポジションに立った。


床には、半透明の照明が薄く反射している。

視覚的には曖昧だが、足を踏み入れると、かすかな振動が足裏に伝わる。


「開始します」


システム音声が淡々と告げた瞬間、空間の密度が変わった。


リュシアンは、意識の奥で他者の“重み”を感じた。

ジュールの存在は、既に幾度となく共鳴を経験していたこともあり、軽く焦点を合わせるだけで互いの「境界」が整った。


問題は、エスリンだった。


彼女の存在は、最初から「硬かった」。

距離を詰めようとしても、一定の距離以上は近づけない。

空間的な距離ではない。認識の層が、閉じていた。


リュシアンは、ゆっくりと「その層の前」で立ち止まる。

無理に触れようとしない。

ただ、ここにいるということを、振動を通じて伝えようとする。


だが、エスリンは微動だにしなかった。

反応値は極端に低く、システムは〈非同期:固定域反応〉と判定した。


演習終了後、教官は記録ログの評価を口にせず、ただ言った。


「明日の組み替えまでに、ログを確認しておくように」


控室に戻ると、ジュールが椅子に深く沈んだ。


「なあ、あの子……エスリン。ずっとああなのか?」


「わからない。ぼくも初めて一緒になった」


リュシアンは答えながら、ログの数値を読み直していた。


その数値の底に、一瞬だけ現れた、不可解な揺らぎがあった。

訓練開始から数秒後、彼が位置を変えたとき、エスリンの反応値がわずかに跳ね上がっていた。


ほんの一瞬。

だが、その瞬間、彼女の内部で何かが「微かに震えた」ことは確かだった。


「……明日も同じ構成なら、少し試してみる」


その声に、使命感や熱意のようなものはなかった。

だが彼は、エスリンという沈黙と誠実に向き合うだけの“静かな覚悟”を備えていた。


それが、かつて自分が見ていた「誰かの沈黙」に対して、ようやく自ら踏み出せるようになった証だった。


◇◇◇


二日目の演習も、同じ三人で構成された。

エスリンは、開始前から黙っていた。いや、それ以上に「遮断されている」という印象をリュシアンは強く感じていた。


それは彼女自身が意図して「閉ざしている」のではなく、そもそも最初から彼女の回路が自分の外とつながるように設計されていないように感じられた。


合図が鳴ると、共鳴訓練が再び始まる。

配置も環境も、前日と同じ。


だが、リュシアンは一つだけ違う方法を選んだ。

彼は、意識の焦点を意図的に外したのである。


通常の訓練では、相手の存在をはっきりと捉え、自他の境界を調整することで、干渉の質を測る。

しかし今回は、彼は“相手に向かう”ことをせず、自分自身の知覚の境界を、少しずつ、静かに広げていった。


まるで、自分が輪郭を曖昧にしたまま「そこにいる」ことを選ぶように。

誰かを呼ぶのではなく、誰かが近づいてこられるための“余白”を場に残すように。


それは、自分を主張せずに存在するという、彼にとっても新しい試みだった。


──もし、彼女の回路が「閉じた設計」なのだとしたら、押しても入れない。

──けれど、「入ってもよい」と彼女自身が少しでも思える空間があれば、応答は生まれるかもしれない。


リュシアンの周囲の感覚場は、安定していた。

自分を規定しない。それでも崩れない。

それは彼にとって、新しい実践だった。


数分が過ぎた頃、エスリン側の反応値に微かな変動が現れた。

前日にはなかった、〈微弱位相揺れ〉。

極めて小さく、だが確かに「他者を認識しはじめた」兆しだった。


演習が終了すると、ジュールがぽつりと言った。


「なあ、なんか今日、少し空気が違ってたな」


リュシアンは、ログを確認しながらうなずいた。


「彼女の中で、何かが“揺れた”。まだ、ごく浅い層だけど……閉じていない。完全には」


ジュールは腕を組み、壁に寄りかかる。


「無理してこじ開けようとするより、ずっといいやり方だと思うよ。

君って、相手の“静けさ”と一緒にいられるやつなんだな」


その言葉に、リュシアンは少しだけ微笑んだ。


「たぶん、自分が長く沈黙してきたからだと思う」


彼はログの中の数字を見つめた。

そこには、論理や操作ではなく、確かな「変化のきざし」が記されていた。


エスリン・マイア。

彼女という閉じた回路に、初めて“微細なノイズ”が生まれた。


そのノイズは、まだ言葉ではない。

けれど、かつて自分を導いてくれた「誰かの揺らぎ」と同じ種類の響きだった。


リュシアンは、静かに思った。


──そのノイズが、やがて“応答”になる日を、焦らず、見守っていよう。


◇◇◇


午後の演習が終わったあと、リュシアンは図書室内の端末エリアにいた。

共鳴に関する旧記録の検索をしていたが、集中できず、ふと中断して水分補給に立ち上がる。


廊下を曲がった先にある簡易給水ステーションの前に、ひとつの影があった。


細身の身体。

立ち姿にどこか緊張をはらんだ沈黙。

それは、エスリンだった。


彼女は手元の携帯端末を見つめていたが、何か入力をためらっているように見えた。

液晶には共鳴ログ管理システムの画面が開いていた。


リュシアンは気配をできるだけ和らげ、彼女の背後から近づきすぎない位置に立った。


「……困ってる?」


声をかけたのではなく、問いを置くように言った。

エスリンは一瞬、肩を揺らした。だが、振り返らなかった。


沈黙が流れる。


そのまま、彼女は端末を閉じた。

そして、小さくひとことだけ言った。


「わからない」


その言葉は、予想を超えて彼の胸に届いた。


それは、知識の有無を示す返答ではない。

“感情の扱い方”に迷っているとき、人はこういう言い方をする。


「共鳴ログ……読もうとしたの?」


エスリンはわずかに頷いた。

端末を胸に抱えたまま、視線は下を向いている。


「昨日、あなたが焦点を外したとき、少しだけ……揺れた」


それが彼女の言葉だった。


「揺れたことが、こわかったの?」


「……いいえ。違う」


彼女は少し間を空けて、続けた。


「怖いのは、揺れたまま“自分が消えてしまうんじゃないか”って、そう思うこと」


その言葉に、リュシアンの胸がわずかに痛んだ。


「エスリン。君が“揺れた”ことは、君がそこにいたっていう証拠なんだと思う。

消えるんじゃなくて、“今ここにある”って、証明なんだよ」


エスリンは何も言わなかった。

だが、初めて彼女が視線を少しだけ横に向けた。

その目は直接ではないが、明らかにリュシアンの輪郭をとらえていた。


しばらくして、彼女はひとことだけ言った。


「……あなたって、ずるい」


それが非難ではないことは、声の抑揚から伝わってきた。


「どうして?」


「わたしよりずっと揺れてるくせに、ちゃんと立ってる」


リュシアンは息を詰め、そして小さく笑った。


「たぶん、揺れながら立つことしか、できなかったからだよ」


それは、彼の正直な答えだった。


エスリンはそれ以上言葉を重ねず、水を一口だけ飲むと、そのまま立ち去った。


リュシアンはその背中を見送った。


何も変わらなかったように見えるその背中に、

ほんの少しだけ“開いた回路のすき間”が見えたような気がした。


そして彼は、ふたたび歩き出した。

その小さな変化のために、自分が立ち会えたことを、どこか誇らしく感じながら。


◇◇◇


三日目の共鳴訓練。

演習室の配置は変わらない。

けれど、空間の密度が微かに違っていた。


開始前の待機時間、エスリンは自ら視線を上げてリュシアンを一瞥した。

その視線に含まれるのは、警戒でも敵意でもなかった。

“認知”——ただそれだけで、訓練の空気は変わりうる。


「今日は、構造干渉を含む変則訓練を行います」

教官の声が響く。


「互いに非干渉を基本とした上で、“干渉が生じたとき”にどう反応するか。

自他の境界がゆらぐ瞬間の在り方を、自律的に測定してください」


簡潔な説明だったが、それはこの三人にとっては十分だった。

ジュールが軽く肩を回しながら言った。


「今日の訓練は、無理に干渉し合う場面はなさそうだな」


「互いに踏み込まずに、流れをかわしていく練習だね」

リュシアンが静かに返した。


エスリンは、無言で所定の位置に立った。

けれど、その背筋には昨日までになかった柔らかさがあった。


訓練が始まる。


共鳴場が起動されると、空間の「流れ」が変わる。

それは重力でも磁場でもない、意味や意図の流体のようなもの。

個々の存在が場に置かれたとき、思考や感情が“かすかに他者へしみ出す”。


ジュールの存在は、直線的な強さと安定を持っていた。

だが彼は決して押し込まない。

その流れは、一定距離を保ちつつ“隣に並ぶ”ことができる。


エスリンは、やはり固かった。

だが、それは「拒絶」ではなく「抑制」に近い。

あの硬質な回路の中に、微細な“通気孔”が生まれ始めている。


リュシアンは、自分の領域をわずかに開き、彼女の振動と周波数を探った。

干渉の意図はない。ただ、「在ること」を重ねるだけ。


そのとき、場に小さな揺らぎが生じた。


ジュールの無言の動きに、エスリンが一瞬だけ反応した。

リュシアンはそれを見逃さなかった。

彼女は、ごく短い時間、注意の焦点を「外」に向けたのだ。


〈微弱交点反応:閾値以下・持続時間 1.3秒〉

システムが記録するにはわずかすぎる干渉。

だが、それは確かに“他者を認識し、動きに感応した”という事実だった。


訓練が終わり、静けさが戻る。

室内には、共鳴場が解かれた直後の「薄い余韻」が漂っていた。


エスリンが、出口の前で少しだけ立ち止まり、リュシアンのほうを向いた。


「……ありがとう」


それはかすかな声だったが、はっきりとした意志を持っていた。


リュシアンは一瞬、何も返せなかった。

だが、静かにうなずいた。


「こちらこそ」


言葉が応答になったかどうかはわからない。

けれど、互いに「見た」という確信だけは残った。


沈黙は、ただの無音ではない。

沈黙が交わるとき、それは対話になる。


名を呼ぶように、触れないままに、干渉する。


静かに。確かに。


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