第五章 揺れる共鳴
月曜の朝。
リュシアン・モレルは目覚めと同時に端末を開いた。そこには、ひとつの通知が表示されていた。
〈ARC適応基礎課程 推薦通知〉
〈仮登録完了 → 登録受付待ち:3日以内に意思確認〉
〈推薦者:ミレイユ・セラン〉
表示された文字列に目を落とした瞬間、体がわずかにこわばった。
わかっていたことだった。もしかしたら、もう来るだろうと準備もしていた。
それでも、実際に「現実」が画面に現れたとき、心の奥がざわめいた。
推薦者の名は、予想通りだった。
論理学の主任講師であり、研究コースの導線を築いてきた人物。だが彼女は、以前からリュシアンの感受性に注目していた。
講義の中での問いかけ、資料の読み込み方、そして何よりも――沈黙の質。
ミレイユは、沈黙を「感度」と捉えることができる数少ない教育者だった。
リュシアンの指は、「受ける」か「断る」かの選択肢にすぐには動かなかった。
彼はベッドの端に腰を下ろし、画面を見つめ続けた。しばらくのあいだ、体も思考も止まっていた。
──推薦は、他者からの“信頼”だ。
──だがそれに応えるには、自分の声を、はっきりと定めなければならない。
午前の講義は手につかなかった。
自習室でも、目の前の文字が音のない図形のようにしか見えなかった。
昼休み、ラファエルが彼の席にやってきた。
「来たな、例のやつ」
リュシアンは小さく頷いた。
「セラン先生だ。予想通りだった」
「それで、どうすんの?」
「……まだ、決めてない」
「断る理由、あるか?」
その言葉は、責める調子ではなかった。ただ、率直だった。
「いや……逆に言えば、“なぜ行きたいのか”を自分の中ではっきりさせきれていないんだ」
ラファエルはうなずく。しばらく沈黙が流れ、やがて静かに口を開いた。
「俺だったら、断る。共鳴訓練は、自分の中に曖昧さを残したままだと、きっと潰される。選ぶなら、本気で選ぶしかない」
リュシアンは、返す言葉が見つからなかった。
確信と呼べるものは、まだ自分の中に見つからなかった。けれど、ひとつだけはっきりしていたことがある。
──あのとき、ティス・エラの目が自分を見たこと。
──そして、自分がそれを「見返す」ことを、初めて選んだこと。
それは、思考でも理屈でもなく、手触りに近い記憶だった。
午後、彼は構内の歩道をひとり歩いていた。
空は高く晴れ渡り、建物の間に風が抜けていく。
そのとき、端末に一通の短いメッセージが届いた。
〈講義後、少しお時間をいただけますか — ティス・エラ〉
彼女から直接メッセージが届くのは、初めてだった。
リュシアンは、深く息を吸い込み、返信した。
〈はい〉
その一語を送信したとき、自分の奥底で、かすかな音が弾けた気がした。それはきっと、何かが揺れ動いた証だった。
◇◇◇
講義が終わったあと、リュシアンはティス・エラの指定した場所――演習棟の中庭に向かった。
普段は学生の往来もある場所だが、この時間帯は人も少なく、光合成ユニットの静かな振動音が、空気の底に淡く響いている。
ティスは、ガラス温室の縁に立っていた。
振動に敏感な樹種の葉にそっと手をかけ、構造を観察していたようだったが、リュシアンの気配に気づくと、そっと手を下ろして振り返った。
「来てくれて、ありがとう」
彼女は、いつもの穏やかな声でそう言った。
「……連絡をもらって、少し驚きました」
「そうですね。こちらから言葉を向けることには、注意が必要ですから」
ティスの言葉は、どこか慎重で、同時にどこまでも開かれていた。
「推薦通知、来たのですね?」
「はい。基礎課程。セラン先生からです」
ティスはゆっくりと歩き出し、隣に立つよう促した。
二人はしばらく並んで、温室を囲む細い遊歩道を静かに歩いた。
「あなたの迷いは、“進むかどうか”ではなく、“自分にその資格があるのか”という問いなのだと、私は思いました」
リュシアンは、はっとした。
それは誰にも言っていなかった心の奥――ラファエルにも言えなかった、最も曖昧な不安だった。
「ぼくは……信じるより先に疑ってしまいます。共鳴も、アークも、それに飛び込むだけの理由をまだ見つけきれていません」
ティスは立ち止まり、温室のガラス越しに差し込む光を見つめながら答えた。
「確信とは、常に“行動の後”に訪れるものです。私たちエリディアンには、もともと“信じる”という構造が備わっていませんでした。でも、人間と関わるなかで、“躊躇いを含む意志”こそが、深い共鳴を生むのだと気づいたのです」
「躊躇い……」
「迷いは、あなたが感じ取る力の証です。何も傷つかずに飛び込めることが、強さとは限りません。“正しいとは言い切れなくても、なお進もうとする”——その揺らぎの中にこそ、私たちは人間的な対話の核心を見てきたのです」
リュシアンは、ほんの少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
「ぼくは、あなたを見て、揺れている自分が弱いんだと思っていました。あなたがいつも静かで、何か確かなものに支えられているように見えたから……」
ティスはそっと微笑んだ。その表情は、いつかの講義で見た硬質な「論理の顔」ではなかった。
「わたしは構造としては“静か”に見えるかもしれません。けれど、揺らぎがないわけではありません。
人間の前に立つたび、どんな言葉を選べばいいか迷います。自分という存在のかたちが、そこにふさわしいかどうか、今もずっと問い続けています」
「……それでも、あなたは立っている」
「ええ。あなたが、私のことをちゃんと見てくれたからです」
その言葉に、リュシアンは目を見開いた。
ティスは静かに続けた。
「名を呼ぶことは、存在を認めること。
あなたがわたしの“在り方”を認めようとしたように、わたしも、あなたの“選ばなさ”すら見届けようと思います」
風が、温室の側壁をすり抜けていった。
葉の揺れる音が、まるで共鳴のように二人の間を包んだ。
「ありがとう」
リュシアンは、絞り出すように言った。
「選ぶかどうかは、まだわからない。でも、あなたの言葉は……今のぼくにとって、とても大きな支えになりました」
ティスは深く頷いた。
そして、一歩下がりながら、再びリュシアンの名を呼んだ。
「リュシアン」
その名は、確認でも呼びかけでもなく、ただそこに在るということの証として響いた。
リュシアンは目を閉じ、そして、小さく答えた。
「はい」
◇◇◇
推薦通知の確認期限は、あと一日だった。
月曜から続く思考の波は、ようやく少しだけ穏やかになっていた。
リュシアンは、夜の自習棟の窓際でひとり座っていた。
端末の画面には、推薦通知の詳細と「応答入力フォーム」が開かれている。
選択肢は、明確にふたつ。
〈受諾〉か〈辞退〉か。
だが、その一行に至るまでの道のりは、決して単純ではなかった。
むしろ、何度も自分に問いかけてきたからこそ、今この選択肢は、ただの入力ではなく、“応答”としての意味を持っていた。
ふと、ティス・エラの言葉が蘇る。
「確信は、“行動の後”にしか現れないものです」
ラファエルは言った。
「選ぶなら、本気で選べ」
自分自身の声も、あの日の記憶も、ジュールの沈黙も、すべてが遠くで重なっている。
リュシアンは、入力フォームの下にある自由記述欄に指をかけた。
書くことは義務ではなかった。けれど、彼は言葉を残すことを選んだ。
――揺れています。
――けれど、この揺れをそのまま抱えて、一歩踏み出したいと、今のぼくは思います。
入力を終えると、深く息を吸い込んだ。
そして、画面右下のボタンに視線を落とす。
〈受諾〉
軽いクリック音と共に、回答が送信された。
一瞬、何も変わらない。画面も、周囲の空気も、相変わらず静かなままだ。
けれど、リュシアンは感じていた。
内側に、ひとつの線が確かに引かれたことを。
「選ぶ」という行為は、無数の「選ばなかった」可能性を背負うことでもある。
だが今は、その重さすらも、自分のものとして受け止められる気がしていた。
窓の外を見ると、星が滲むように光っていた。
共鳴訓練は、まだ始まっていない。
だが、心のどこかでは、すでにその入り口に触れている。
「……これで、いい」
言葉にしたのは、自分のためだけだった。
けれどその声は、誰かに届いているような気がした。
そしてリュシアンは、立ち上がり、部屋の灯を落とした。
夜は静かだった。
だが、静けさの奥には、次に向かうべき音が、かすかに鳴り始めていた。
◇◇◇
アーク適応基礎課程の導入セッションは、学苑の南端に位置する第7訓練棟で行われた。
ここは通常の講義棟とは一線を画し、建築全体が異なる目的のもとに設計されていた。外観は滑らかな曲面で覆われ、どこか現実の外にあるように見えた。
重力調整ユニットが埋め込まれているせいか、入口に立っただけで、わずかに空間の圧力が違って感じられた。
リュシアンは、他の選抜学生たちと一緒に施設に足を踏み入れた。
構内は無音ではないが、音が反響しないように緻密に調整されている。
足音さえ、何かに吸い込まれるように消えていった。
「ようこそ、アーク適応課程へ」
導入を担当したのは、ナリス・ヴェロー教官。
人間だが、かつて複数の共鳴系プロジェクトを統括し、今は訓練設計を行っている人物だ。
「ここで君たちが学ぶのは“技術”ではない。
動作の正確性や身体能力は初期条件でしかない。
私たちが問うのは、“変化の中で、何を守り、何を捨てるか”という感性だ」
講義は短く、簡潔だった。
だが、その一語一語が、訓練空間に重たく沈んでいく。
初日は、環境への身体適応テストが行われた。
重力の変化に対する反射、振動環境での思考演算の応答速度、共鳴場に近似した模擬干渉空間での判断実験――。
リュシアンは、自分の内側で「なにかが静かに剥がれていく」感覚を覚えていた。
それは不安ではなかった。むしろ、曖昧だった自分の輪郭が、環境の中で少しずつかたちを取り戻していく感覚だった。
休憩時間。ブースの照明が少し落ちると、リュシアンは静かに端末を取り出し、一通のメッセージを打ち始めた。
〈初日を終えました。まだ何も分かっていませんが、それでも、ここに立っています — リュシアン〉
返信はなかった。だが、それは最初から望んでいなかった。
この言葉は、届くだけで十分だった。
目を閉じると、訓練空間の余韻がまだ身体に残っていた。
その揺れの奥に、確かに“今ここにいる”という実感があった。
初めて、“今という時間”に自分が確かに属していると感じた。
外の光はもう傾いていた。
天窓には、傾きかけた宵の光が静かに映り込んでいた。
リュシアンは、その光のなかに、一つの答えを感じていた。
──意味があるのは、過去の選択ではない。
──それを今日も明日も選び直そうとする、意志そのものだ。
そして彼は、明日もまたここへ来ることを、自分自身に約束した。