第四章 記憶の中の声
セレス・ノード研究学苑の週半ば。講義のない時間帯。
その日、リュシアンは学苑の図書エリアにいた。
電子書架ではなく、閲覧室の隅に設けられた紙資料の棚を静かに見ていた。
そこには、数世代前の思想書や研究記録、研究者個人の手稿も含まれている。
手に取ったのは、初期の異文化理解に関する論考だった。
著者は不明、発行年も曖昧なその冊子のページをめくるうち、彼の意識は、過去へと引き戻されていった。
それは、まだ彼が十歳になる前の、ある雨の日のことだった。
モントリオール郊外の実家。外は濃い霧雨に包まれていて、窓の外の通りがにじんでいた。
家の中では、両親の声が聞こえていた。声を荒らげているわけではなかったが、語調には緊張が走っていた。
「――あの子と関わるのはやめた方がいい」
父の声だった。
「どうして? あの子が何をしたっていうの?」
母は静かに、だが揺るぎない調子で返していた。
「いや、だから……何かしたわけじゃない。けど、違うだろ。あの話し方、表情、他の子との距離。あれは普通じゃない」
その言葉を聞いた瞬間、幼いリュシアンは、胸の奥が冷たくなるのを感じた。
その“あの子”とは、近所に住んでいた少年だった。名前はジュール。いつも黙っていたが、植物に詳しくて、虫の鳴き声を聞き分けることができた。
ある日、ジュールが学校で一人、机を叩かれているのを見た。
言い返さず、ただ黙ってうつむく姿。その場にいた自分は、何も言えなかった。
先生に告げることも、助けることもできず、遠くから見ていた。
ある日、教室の隅で、ジュールが二人の男子に囲まれていた。
一人は彼の机を何度も平手で叩き、もう一人は無言で椅子を引いて距離を取らせようとしていた。
ジュールは何も言わず、うつむいたまま動かなかった。
自分は数列後ろの席から、その様子を見ていた。
声をかける勇気もなかった。先生を呼ぶこともできなかった。
ただ、目をそらして、見なかったふりをした。
その記憶が、なぜ今になって蘇るのか。
リュシアンは考えていた。
それはきっと、ティス・エラの目を通して、自分が「見られた」からだ。
彼女の目は、リュシアンがずっと言葉にできなかったことを、見抜いているようだった。
閲覧室の窓の外では、地表観測ドローンが滑空していく様子が目に入った。
それは、まるで雲の向こうから過去を見つめているように、静かで確かな動きだった。
リュシアンの視線は、閉じかけた冊子の最後の一節に引き寄せられた。
――異なるものを前にして、自分のなかに生まれる違和感は、理解の入口ではなく、過去への問いかけである――
彼は、静かにその文書を閉じた。
◇◇◇
午後、図書閲覧室を後にしたリュシアンは、講義棟の裏手にある静かな庭へと向かった。
そこは教員や研究員のみが利用する中庭で、白い砂利がきれいに敷かれている。
足音をやわらげる制振パネルが地中に埋め込まれ、周囲には低出力の無音送風装置が配置されていた。
空気はゆっくりと循環し、外界のざわめきが遮られたような静寂に包まれている。
そこに、ティス・エラの姿があった。
一本の樹の根元に腰を下ろし、何かの記録デバイスを見つめている。リュシアンの足音に気づいた彼女は、そっと目を向けた。
「モレルさん」
「……少しだけ、時間をもらえますか?」
ティスは静かに頷き、向かいのベンチを指さす。
リュシアンはそこに腰を下ろし、しばらくの間、言葉を探していた。
「昔の話です。たぶん、十歳かそこらのとき。ぼくの家の近くに、“少しだけ変わった”子がいました。
何か問題があったわけじゃない。ただ、喋るのが少しゆっくりで、目を合わせるのが苦手で。ぼくは、その子と、たまに話していました」
ティスは頷きもせず、ただ静かに聞いていた。
リュシアンは続けた。
「ある日、その子がいじめられている場面を見かけました。教室の隅で、机を叩かれていたんです。
ぼくは、ただ見ているだけでした。言葉は出ず、体も動かず、何一つできませんでした」
吐き出すように言い切ったあと、彼は静かに息を吸った。
「そのまま、何もできないまま、その子は転校していきました。ぼくは誰にも話せず、ただ心にしまい込んでいたんです。ずっと何でもなかったことにしてきました。けれど最近になって、ようやく「それが何だったのか」を考えるようになりました」
ティスは、少しだけ体の角度を変えた。
風がそよいで、葉がわずかに揺れた。
「あなたは、“何かをしたかった”のですね」
「はい。でも、何もできませんでした。ずっとそれを、『まだ子供だったから仕方ない』って、自分に言い聞かせてきたんです。でも今は、それがただの言い訳だったって分かります。ぼくは、誰かを守るどころか、ただ見ないふりをして逃げていただけでした」
ティスは小さく息を吸ったように見えた。
彼女の声は、少しだけ熱を帯びていた。
「わたしたちは、自分のことが誰かに『見られていた』という記憶を、よく覚えています。
それは、ただ視線を感じたということではありません。あのときの自分の行動や気持ちが、相手の中に残っている——そう感じたことが、ずっと記憶に残るんです。そして同じように、何もできずに見ていた側も、その沈黙を心に抱えたまま生きているのでしょう」
リュシアンは、顔を少し伏せた。
「あなたがそれを語ったとき、その沈黙は、もう“ただの過去”ではなくなります。沈黙を言葉にすることで、過去の構造が変化します」
「……でも、これを話したところで、何かが償えるわけじゃありませんよね」
ティスは、静かに首を振った。
「そうかもしれません。でも、話すことには意味があります。
あなたはご自身の過去に正面から向き合いました。それは、簡単なことではありません。
そうして少しずつ、私たちは前へ進んでいくのです」
リュシアンは、ゆっくりと顔を上げた。
「……正直に言うと、こわいんです。あのとき、何もできなかったぼくを、あなたがどう見ているのか。……臆病な人間だと思われるんじゃないかって」
ティスはすぐに答えず、そっと目を閉じた。
そして、柔らかい声で続けた。
「私は、そうは感じません。あなたが何を思い、なぜ動けなかったのか、ちゃんと伝わってきました。
そして今、それを隠さず私に話してくれたこと。それ自体が、とても勇気のいる行動です。
あなたの言葉を、私はしっかり受け止めています」
その言葉を聞いて、リュシアンは少し驚いた。
ティスの言葉は、正しさや説明を押しつけるものではなかった。
けれど、自分の気持ちがちゃんと届いた――そう思えた。
彼は静かに立ち上がった。
「話を聞いてくれて、ありがとうございました」
「こちらこそ」
ティス・エラは、ほのかに微笑んで、静かに頷いた。
その仕草には、言葉では言い表せないあたたかさがあった。
リュシアンには、それがとても人間らしく感じられた。
その姿は、何も言えずに沈黙を見ていた子供ではなく、
自分の言葉で一歩を踏み出そうとしている若者として、リュシアンの心に残った。
◇◇◇
週が明けた午後、論理学の通常講義が再開された。
前回と変わらぬ講義棟、変わらぬ配布資料、変わらぬ進行速度。
だが、リュシアンの中では、何かが確かに変わっていた。
講義の後半、ティス・エラは、学生たちに思考課題を与えた。
「仮定された複数の前提が互いに矛盾する場合、あなたはどの基準で選びますか?」
教室が沈黙した。
一つひとつの思考が、各々の中で回転している気配があったが、誰も言葉にしようとはしなかった。
ティスは、ゆっくりと教室を見渡し、言葉を発した。
「リュシアン・モレルさん。あなたはどう考えますか?」
講義の中で彼女が名をはっきり呼ぶのは、これが初めてだった。
教室の空気がわずかに張り詰め、リュシアンは思わず息を止める。
それでも、気づけば自然と立ち上がっていた。
「……どの前提を選ぶかは、自分が“何を守ろうとしているか”に左右されると思います。
ときには、正しさよりも揺らぎの中に身を置くことを選ぶかもしれない。
不確かで不安定な道ですが、それは“どちらも切り捨てない”という意志かもしれません」
ティスは微かに目を細め、静かに頷いたた。
「ありがとうございます。あなたの考えは、“共存する矛盾”に対しての一つの答えです。すぐれた思考でした」
それだけで、講義は再び流れ出した。
だが、その後もリュシアンの胸には、何かが残り続けていた。
──名を、呼ばれた。
思えば、これまでティス・エラは、学生を名で呼ぶことを極力避けていたのだろう。
個を指名することを、彼女は慎重に扱っていたのだ。
だからこそ、その一言には意味があった。
彼女は、今、彼を名で呼んだ。
名前を呼ぶという行為は、ただの識別ではない。
それは、誰かの存在を受けとめ、心に刻もうとする意思の表れである。
講義の後、リュシアンは自習のため別棟へ移動していたが、エントランスの手前でティスとすれ違った。
ティスは立ち止まり、軽く会釈しながら声をかけた。
「リュシアン」
ただその名を呼んだだけだった。
だが、その声には、問いも答えも含まれていなかった。
けれどその声音には、問いも説明も含まれていない。
それは、「あなたがここにいる」と、静かに知らせる響きだった。
リュシアンは、まっすぐ目を見て、頷いた。
「はい」
ティスはそれ以上何も言わず、歩いて行った。
いま、彼の胸には、はっきりと確かなものが残っている。
──自分は、見られている。
──見返すこともできる。
そして、名を呼ばれることで、はじめて“対話”が始まるのだと、ようやく理解した。
◇◇◇
その夜、リュシアンはノートを開いたまま、ペンを止めていた。
講義室でティス・エラに名を呼ばれたこと――あの瞬間、自分が確かに指し示された。
それは喜びでも誇りでもなく、ただ静かに胸に重くのしかかっている。
――リュシアン――
自分の名前は、ずっと“記号”のように使ってきた。
家族が呼び、教師が呼び、友人が呼ぶ。だが、その意味を深く考えたことはなかった。
けれど、あのときティスが口にした名にあった、「存在」を認識した響き。
「あなたはここにいる」と語るような声。
「あなたが何を見て、沈黙し、言葉にしようとしているのか――私はそれを見ている」と伝えているようだった。
リュシアンは、ノートに一行書いた。
――名を呼ばれることは、言葉のない問いに応えること――
ふと、過去のある場面が蘇る。
あの、黙っていた教室の隅。机を叩かれるジュールのそばで、動けなかった自分。
その時、もし自分の名前が呼ばれていたら――立ち上がれただろうか。
「モレル君」ではなく、「リュシアン」と。
名前に、命を吹き込む声で呼ばれていたなら。
だが、あのとき、誰も自分を呼ばなかった。
教師も、生徒も、そして自分自身すら。
──だからこそ、「呼ばれたこと」に意味が宿る。
沈黙は、ただ言葉がないのではない。
そこには、「まだ声にできなかった思い」が静かに潜んでいる。
そして今、ティス・エラという存在を通じて、リュシアンはその沈黙の向こうに答えを見出しつつある。
自分でもうまく説明できない気持ちに向き合って、少しずつ言葉にしていく。
それこそが、「共鳴」の本質なのかもしれない。
リュシアンは、ノートにそっと一行を書き足した。
――わたしは、沈黙に名前を与えたい――
その瞬間、胸の重さが少しだけ軽くなる。
この言葉が誰かに届く日は、まだ遠いかもしれない。
でも、今夜は、それで十分だった。
彼は静かにノートを閉じ、深く息を吸い込む。