第三章 透明な隔たり
週末、リュシアンは都市圏の外縁にあるユーカリ街区へと出かけていた。
学苑の講義が休みに入ると、学生の何人かは気晴らしに市街へと足を運ぶ。
街は、セレス・ノードの近接区域として整備されているとはいえ、一般市民の生活圏と学術圏のあいだには目に見えない障壁があった。
ラファエルとミラ、そしてリュシアンの三人は、カフェに立ち寄ったあと、小さな技術展示ホールへ入った。
展示内容は「共生型都市設計とエリディアン建築原理の応用」と銘打たれた一般向けプログラムで、意匠や構造の共鳴性を示す模型が並んでいる。
だが――その場の空気は、どこか緊張していた。
展示スペースの一角に、ティス・エラがいた。
教師というより研究者の顔で、何人かの来訪者に静かに解説していた。
服装は学苑内と変わらない落ち着いたグレー。だが、その瞳の奥には、星雲のような光彩が浮かび、異質さを否応なく感じさせた。
リュシアンは立ち止まって耳を傾けた。
ミラはリュシアンの肩に少し顔を寄せ、声を落とした。
「あれ……ティス先生、でしょ?」
「うん……でも、なんでここに?」
「たぶん、学苑と連携してる都市設計チームの一員として呼ばれてるんだと思う」
彼女は丁寧な口調で、建築構造と共鳴調整材の関係について説明していた。
訪問者の一人が、やや詰め寄るような声を上げた。
「つまり、あなたたちの“共鳴”とやらが、わたしたちの街の安定を保証するってことですか? それ、どこまで信用していい話なんですかね」
口調は穏やかだったが、背後にあるのは疑念だった。
ティスは、怯まずに答えた。
「共鳴は、自然と構造の間の応答関係です。わたしたちは、それを強制しません。ただ、共にあるための設計に配慮しています」
その答えは丁寧で、正確だった。だが、訪問者の顔には納得の色はなかった。
「言葉の問題じゃなくてね。“存在そのもの”が馴染むかどうかなんですよ、こういうのは」
ミラは小さく息を吐き、顔をわずかに傾けた。
「……ああいうの、まだあるんだね」
「あるよ」
ラファエルが短く答えた。
「エリディアンが何かを“しようとする”ときに、それを“していいか”どうかって話が、いつも混ざる。それが人間側の本音だろうな」
ティスは、何も返さなかった。ただ、淡く光る目を閉じるようにして、わずかにうなずいた。
リュシアンは動けなかった。
自分の中にある憧れと敬意が、目の前の光景によって、少しだけ揺らいでいるのを感じた。
——この人は、こういう目で見られ続けているのか。
教室では、講義では、あれほど明晰で、魅力的だった彼女が、いまこの空間では「見られる対象」になっている。それは、静かな暴力のようだった。
「帰ろうか」
ラファエルが言った。
「……うん」
リュシアンの視線は、もう一度だけティスの横顔をとらえた。
こちらに視線を向けることはなかったが、その頬に、ごくわずかな緊張の痕跡がよぎったように見えた。
展示の光に包まれながら、ティス・エラの姿は徐々に遠ざかっていったようだった。
◇◇◇
週明けの講義室。論理学特別講座の開始前、教室内はざわついていた。
数人の学生が席の周囲に集まり、小さな輪になって話している。
「ニュース見たよ。“異星講師、都市構造に関与”って見出しだった」
リュシアンは、その言葉に微かな違和感を覚えた。
展示会で語っていたティスは、誰かに何かを“押しつける”ような存在ではなかった。
けれど、いま話されている彼女は、どこか「近づきにくいもの」というニュアンスだ。
「怖くはないけど……まあ、ちょっと距離あるよな」
「ほら、あの目。あれが“見てる”って思うと、なんか……」
リュシアンは、言葉にできないまま、後方の席でその会話を聞いていた。
誰もティス・エラを悪く言っているわけではなかった。だが、話の端々に、「自分たちとは違う」という無意識の境界線が引かれているのが、ありありと感じられた。
講義が始まり、ティスが教壇に立った。
いつもと変わらぬ声で、前回の内容を要約する。問いを投げかけ、学生たちに考えさせる。論理の構造、前提の捉え方、暗黙の選択肢――。
だが、教室の反応は明らかに以前より鈍くなっていた。
発言は減り、視線は逸れ、空気はやや硬直していた。
ティスはそれに反応を見せなかった。
無理に場を盛り上げようとすることもなく、静かに、淡々と講義を進めていった。
リュシアンは、内心で動揺していた。
先週までは、彼女の問いかけに誰もが目を輝かせていた。
今は、答えることを避けるように下を向いている。
それは恐れではなかった。ただの「ずれ」だった。
けれど、そのずれが、確かに亀裂として広がっている。
講義後、リュシアンは教室に残り、声をかけようとした。だが、そのとき別の学生が先にティスに近づいていた。
「先生。先日の展示会の件……ちょっと話してもいいですか?」
ティスは応じた。二人は短く何かを話し、彼女は穏やかに頷いていた。
内容は聞こえなかったが、声の抑揚に微かな苛立ちが混じっていた。
「教師という立場なら、公共の場での発言には注意を払うべきだと思います」
リュシアンはその言葉だけを、はっきりと聞いた。
ティスは沈黙のまま、ひとたびまぶたを閉じた。再び目を開いたとき、その声は落ち着いていた。
「わたしの言葉が、あなたの安心を妨げたのであれば、申し訳ありません」
謝罪ではなく、あくまで関係を損なわないための配慮だった。だが、相手の学生は納得した様子もなく、そのまま早足で講義室を出ていった。
リュシアンはようやく歩み寄ろうとしたが、ティスがこちらを見る前に、自分の足も止まってしまった。
彼は、そのまま立ち尽くしていた。
声をかけるべきだった。けれど、何を言えばいいのか分からなかった。
その夜、リュシアンはノートにこう書いた。
「傷は、ぶつかってできるものだけじゃない」
「沈黙のなかにこそ、亀裂は生まれる」
書き終えたあと、彼はページを破ることもせず、そっとノートを閉じた。
それはまだ、誰にも見せてはいけない言葉だった。
◇◇◇
翌日の午後、リュシアンは構内の自習ラウンジで論理学の課題に取り組んでいた。空間は静かで、隣のテーブルには誰もいない。
目の前の端末には、ティス・エラの配布資料が映し出されていた。
「複数の前提が並列に存在する場合、どの構造が“妥当”とされるかは、文脈と選好の重ね合わせによって決定される」――そう記されている。
彼は、その言葉の背後に、講義中の彼女の姿を思い浮かべていた。
誰かが手を挙げ、あるいは誰も手を挙げなかったとき、ティス・エラは決して否定的な視線を向けることはなかった。
だが、あの眼差しには、いつもどこか遠くを見るような距離があった。
その距離こそが「他者」としての輪郭を、彼女自身に刻んでいた。
ラファエルが向かいの椅子に荷物を置いて座った。
「……進んでるか?」
「うん、まあ。なんとか」
「講義、あれから行ったか?」
「行った」
「先生、変わらなかった?」
「……変わらない。あの人は、最初からあのままだよ」
ラファエルは、端末を開きながら言った。
「俺さ、あの目がちょっと苦手なんだ。別に怖いとかじゃない。でも、何を見てるのか分からない時がある。たまに、自分が“映されてる”感じになる」
リュシアンはその言葉に引っかかった。
「……映されてる?」
「うん。こっちが見てるつもりなのに、逆に“見られてる”って気になる。自分の内側を、静かに調べられてるみたいな」
リュシアンはその言葉を聞いて、昨日の教室の場面を思い出していた。
ティスに何も言えなかった自分。
「謝罪します」と言った彼女の目の奥に、何が揺れていたのか、彼は最後まで見きれなかった。
「……もしかしてさ」
リュシアンはゆっくりと言葉を探しながら言った。
「“見えすぎる”ってことが、信頼を遠ざけることもあるのかな」
「どういう意味?」
「彼女は、何も隠さない。でも、それって人間にとっては、時に“正直すぎる”ってことになるのかも。距離感を計るって、たぶん曖昧さを許すことでもあるから」
ラファエルは少し黙り、やがて頷いた。
「……おまえ、最近そういうこと、よく考えるな」
「自分がどこに立ってるか、気になってるからかも」
「進路の話?」
「それもあるけど、それだけじゃない。もっと、立場のこと。人間として、学苑の学生として、そして……エリディアンと共にいるっていうことについて」
そのとき、ラウンジの奥の扉が開いた。
ティス・エラが入ってきた。
誰かとの短い面談のためらしく、管理端末にアクセスして手続きをしている。
彼女は、ふとこちらに視線を向けた。
ほんの一瞬、だが確かにリュシアンと目が合った。
その目には、何の圧力もなかった。
ただ、そこに在ることを知らせる光のようなものだった。
リュシアンは、視線を逸らさなかった。
自分が「見ている」ということを、相手に渡してしまうことが、いまは大切に思えた。
数分後、ティスは何も言わず、静かに扉の奥へと消えていった。
その背中を見送りながら、リュシアンは思った。
——境界を越えるのは、いつだって言葉じゃない。
——それは、見ることから始まる。正面から、ただ在ることを受け止めること。
彼の視線は、静かに、自分の内側へと戻っていった。
◇◇◇
週の終わり、論理学特別講座の補講が告知された。
講義の本体ではなく「対話型補足セッション」という名目だったが、内容は予測不能だった。出席は自由。場所は通常の教室ではなく、小講義室の一角に設けられた円形の対話スペース。
リュシアンは開始時間より少し早く、そこへ向かった。
部屋にはすでに数人の生徒がいて、私語はほとんどなかった。
ティス・エラはすでに中央に座っていた。今日の彼女は、講義のときよりも服装が柔らかく、色味もやや明るい。けれど、それ以上に印象が違ったのは、目の奥の光が「静」ではなく、かすかに「動」を感じさせることだった。
誰かが質問を口火に切った。
「先生、あの……前の展示会のとき、何か感じたことはありますか?」
その問いは、慎重に選ばれた語だった。
だが、そこには確かに、“あの場にいたあなた”という文脈が込められていた。
ティスは答えを急がなかった。
長い沈黙のあと、静かに話し始めた。
「わたしたちは、“自分がどう見られているか”を、視線の構造から推測します。けれど、それはいつも正確ではありません。ときに“見られていない”ときこそ、最も強く見られていると感じることがあります」
部屋の空気が、少し揺れたように感じた。
「わたしが、あの場で感じたのは、“間”でした。言葉の間、感情の間、そして判断が保留されている空間の広がり。そこには拒絶も、受容もなく、ただ“様子を見る”という構えがありました」
「……それは、怖かったですか?」
別の生徒が小さく問うた。
ティスは答える前に、少しだけ表情を動かした。
それは“間”を作るためではなく、ほんのわずかに感情の痕跡を映す反応のように見えた。
「はい、少し」
その言葉が、講義では決して聞かれなかった色を帯びていた。
明確に、“わたし”という言葉がそこにあった。
「“わたし”として怖さを覚えたのは、この姿がただの“外形的な表現”として受け取られてしまうのでは、という感覚でした。
本来の意図や内面があっても、それが届かず、形だけで判断されてしまうとき、
わたしという存在の全体は、自分自身の内側からも、次第に意味を失っていきます。
それは、存在の中心が空白化していく感覚――“再帰的な喪失”とも呼べるものです」
「再帰的な喪失……?」
リュシアンが、思わず復唱した。
ティスは彼を見た。
「存在しているはずの自己が、他者の認識によって“消去”されていくこと。それは、わたしたちにとっても痛みです。たとえ非言語の知性であっても、“見られない”ということは、内的な崩壊に近い現象を引き起こします」
しばらく誰も何も言わなかった。
その言葉の重さは、静かに全員の中に沈んでいった。
リュシアンは、自分の中に引っかかっていた感情――あの日、何も言えずに教室を出た自分の視線――が、ようやく意味を持ったような気がした。
見ていたつもりで、見ていなかった。
あの沈黙こそが、ティス・エラに「空白」を返していたのだ。
彼は手を挙げた。
「じゃあ、僕たちは、あなたの“構造”をどう扱えばいいんですか?」
ティスは、ふと目を細めた。それは笑みに似ていた。
「扱おうとしなくていいのです。見ようとするだけで、十分です。構造の複雑さは、見ることを始める意志によって、自ら意味を持ち始めます」
やがて講義が終わると、生徒たちは静かに席を立ち始めた。
リュシアンは最後までその場に残っていた。
ティス・エラは退出する直前、彼にだけ、小さく告げた。
「あなたの視線は、いま、前より柔らかくなりました。……ありがとう」
リュシアンは返事をしなかった。
だが、そのひと言は、沈黙の奥に静かに染み込んでいた。
そしてその夜、彼の思考の底に、ティス・エラの姿が静かに沈んでいた。 それは“講師”ではなく、ただそこに在る存在として。