第二章 夢のはざまで
セレス・ノード中央演算塔のふもとには、無数の小さな棟が点在していた。講義棟や演習棟、宿舎に資料庫、温室、さらに演算コアへと直結する特別棟まで――。
その一角、演習棟の地下フロアにあるシミュレーション・ルームで、リュシアン・モレルは量子干渉計の出力値を調整していた。ドームの内側には、タイタンの地表が再現されていた。空気の代わりにメタンが満ちた高圧の環境で、実際の探査データをもとに作られたものだ。学苑の学生が体験できる、数少ない本物に近いシミュレーションだった。
だが、今日の彼は集中しきれていなかった。指が滑り、干渉パターンが一瞬だけ乱れた。
「再調整しとけよ、そんなのじゃ実地は無理だぞ」
背後から、低い声が飛ぶ。隣の端末にいたラファエルだ。端末越しに表情は見えないが、軽口の裏にある本気をリュシアンは感じた。
「わかってる」
苦笑を浮かべながら、リュシアンは値を戻した。しかし意識の一部は、すでに別の場所に向いていた。
――あの映像。講義の後に配信された「選抜候補生向け公開資料」のひとつ。
映っていたのは、コヒーレンス・アークの内部、すなわち〈共鳴空間〉の訓練シーケンスだった。操縦士とソリテーションが、無言のまま意志を交わし、宇宙船を流体のように操作していく。
制御系は存在しない。指示も命令も、計測数値さえも。そこにあるのは、「重ね合わせ」られた感覚と意図の連動だった。
——これは、理論ではなく、身体でしか理解できない領域だ。
「……アーク・コンダクターって、何なんだろうな」
リュシアンが思わず漏らすと、ラファエルは不意にモニターから顔を上げた。
「急にどうした?」
「いや、さっきの映像。あれって、人間だけじゃ無理なんだよな。エリディアンと組まないと」
「そりゃそうさ。コヒーレンス・アークは共鳴制御が前提だし、人間だけじゃ意志同調ができない。でもおまえ、前は“研究職でいい”って言ってなかったか?」
「うん。でも……最近、気になってる」
リュシアンは自分の言葉に少し戸惑った。
その感情を、言葉にしたのは初めてだった。
セレス・ノードの研究者になる、それが彼の「目標」だった。だが、アーク・コンダクター――意思を船に伝え、共鳴空間を渡る者たちの姿に、別の何かが芽生え始めている。
「ま、どっちも遠い話さ。俺たちはまず、量子振幅の解析を落とさないことからだ」
ラファエルが肩をすくめると、ドームの映像がフェードアウトしていった。演習時間の終了を告げる音が、淡く室内に響いた。
……そのときのティスは、講義室の照明を背に、ほんのわずかに首をかしげていた。
言葉よりも、あの姿勢の静けさが、リュシアンの心に深く残っていた。
まるで、自分のために間をあけてくれていたような気がした。
リュシアンは、あの時に感じた“境界の上”の静けさを、今も思い出していた。
境界の上に立つとは、こういうことかもしれない。
進む道を選ぶ前に、目を閉じて風の向きを測るように。
◇◇◇
寮の個室。窓際のデスクに背を預けながら、リュシアンはホログラフ端末の画面をじっと見つめていた。再生リストには「ARC候補生向け・共鳴環境訓練映像」と表示されている。
再生を開始すると、視界いっぱいに広がるのはアーク船内の内部構造だった。
柔らかく曲線を描いた壁面、視覚に直接訴える制御パターン、そして重力傾斜ドライブが稼働する瞬間の微細な構造変化。
画面中央に立っていたのは、かつて名を聞いたことのある若い女性だった。
ジョアン・イエーツ。人類初のアーク・コンダクター。
彼女の隣には、半ば人間のように見える存在――ソラニス。
共鳴空間に適応した、完全自律型のソリテーション。
言葉は交わされていない。だが、映像は明確に伝えていた。
ふたりの間には、単なる理解以上の何かが存在していた。
「共鳴」
そう呼ぶしかない。思考や感情、そして意思までもが、互いの境界を越えて重なりあう。その結果として、アークはまるで生き物のように滑らかに動いた。重力傾斜を利用した進行方向の変化、外殻の波動共振――。
それらの変化は、手動で制御されているようには見えなかった。
リュシアンは、画面を見つめながら、自分の胸の奥にわずかに生じた違和感に気づいていた。
彼は、これまでずっと“理解すること”に重きを置いてきた。
宇宙の仕組みを、量子の構造を、法則として把握すること。
だが、あのアークはちがった。
それは、理解された理論で動いているのではなく、
操縦者が「通じる」と信じて操作することで応答していた。
ジョアンとソラニスの間にあったのは、
論理でも言語でもなく、互いの意思が届くと信じる力だった
リュシアンは自分の指を見た。冷たい金属のように硬直している。
この指先で、船を導くことはできるのか?
あるいは、共鳴というものを、自分は本当に受け入れられるのか?
映像が終わると、画面に小さな表示が浮かんだ。
〈次の推薦課程:アーク・適応基礎演習〉
〈申請者情報:開示条件下〉
〈対象学生:L. Morel(審査中)〉
リュシアンは表示を眺めながら、言い知れぬ焦燥を覚えた。
まだ申請した覚えはない。だが、恐らく指導教官の誰かが推薦枠に仮登録をしたのだろう。
選択肢が、現実として立ち上がりつつある。
だがそれは、期待というより、不安に近い感情を呼び起こした。
映像が消えても、あの視線の感触だけは消えなかった。
ソラニスは一言も発していなかった。けれど、あの瞬間、言葉よりも確かな共鳴があったように思えた。
ティス・エラのそれと、どこか重なっていた。
リュシアンは立ち上がり、窓を開けた。
夜風が、ひんやりと頬を撫でた。
学苑の庭の木々がかすかに揺れている。
リュシアンは、しばらくその風の向こうを見つめていた。
◇◇◇
翌日の午後、講義と演習を終えたリュシアンは、寮の外に出て中庭を歩いていた。冬の始まりを思わせる空気が、冷たく乾いている。
昼間は比較的暖かいが、日が傾くと急に肌寒さが強くなる。
中庭の奥には、誰も使わなくなった小さな観測デッキがある。
今は使用許可が出ていないが、学生の間では静かな話場所として知られていた。
そこに、ラファエルがいた。
「来ると思ってた」
彼は手すりにもたれながら、リュシアンの方を見ずに言った。
「おまえがあんな顔して出て行ったら、さすがに放っておけない」
リュシアンは、苦笑のようなものを返して隣に並んだ。
二人はしばらく無言のまま、低空を飛ぶドローン輸送艇の軌跡を眺めていた。
「推薦、出てたんだ」
リュシアンが言った。
「アークのか?」
「うん。基礎演習。まだ本登録じゃないけど……多分、仮登録されてた」
「推薦が出たってことは、誰かがおまえを選んだんだな。……たぶんミレイユ先生あたりか」
「たぶん。でも、出されたってことは、“見られてる”ってことなんだよな。……それが、ちょっと、こたえた」
ラファエルは鼻で笑った。
「見られるのが嫌なら、最初からこの学苑なんか来ないっての」
「違うんだ。そうじゃなくて――」
リュシアンは言葉を選びながら、続けた。
「俺、研究職のつもりだった。でも、アークの訓練映像見て、少しだけ……心が動いた。あれは、何か“わかってる”とかじゃなくて、“信じてる”人たちの仕事だった。あれに、憧れたんだと思う」
「……そうか」
ラファエルは少し間を置いてから、続けた。
「俺は、逆だな。俺には、ああいうやり方は無理だと思った。
共鳴だの感覚統合だのって、結局“才能”だろ? だったら、俺は現実を確実に積み重ねていく方がいい。数式と理論なら、ちゃんと努力で進めるからな」
それはまさに、リュシアンが昨日まで考えていたことだった。
でも今、それだけでは足りないと感じている自分がいた。
「おまえが共鳴に向いてるとか、そういう話じゃない。たぶん“向くかどうか”を選ぶこと自体が、間違ってるのかもしれないって思った。選ぶ前に、試してみないと」
「……おまえ、変わったな」
「そうか?」
「昔はもっと、安全な場所から世界を見てる感じだった。今は、自分で入って行こうとしてる。怖くないのか?」
「怖いよ。でも、怖いと思ったってことは、たぶん、やりたいんだと思う」
ラファエルはしばらく黙っていた。
そしてふと、手すりから身を起こして言った。
「おまえがどっちに進むにしても、俺は否定しない。でも、ちゃんと報告しろ。友だちに無言で消えるなよな」
「わかった」
リュシアンは頷いた。
「じゃあ、また明日。データ解析の課題、忘れんなよ」
ラファエルはいつもと同じ調子で言い残し、階段を降りていった。
一人残されたリュシアンは、空を見上げた。
まだ明るさの残る空に、淡い月が浮かんでいた。
道は分かれていく。でも、今この瞬間はまだ、交差点の真ん中だった。
◇◇◇
木曜日の午後、リュシアンは論理学特別講義の補講枠を予約していた。
形式としては「理解の確認と再解説」だが、実際は自主的な質疑の場として開放されており、学生が個別に訪れることも珍しくない。
講義棟S室の奥、小さな対話室に入ると、ティス・エラはすでに席に着いていた。窓際には植え込み型の光合成モジュールが据えられ、時間帯に応じた色温度で室内が照らされている。
「こんにちは、モレルさん」
ティスは、正面の席に手で示すようにして言った。
「こんにちは」
リュシアンは静かに腰を下ろした。
一瞬、言葉が見つからなかった。だが、ティスは急かさず、静かに待っていた。沈黙は、不快ではなく、むしろ落ち着いていた。
彼女は目線を逸らすことなく、ただ呼吸を整えるように待っていた。
リュシアンは、その沈黙が“答えを探す時間”として、自分のために用意されたものだと感じた。
「……前に、あなたが言っていた“論理は感情に似ている”って言葉、ずっと引っかかってて」
リュシアンは、ようやく口を開いた。
「はい」
ティスは微かに頷いた。
「論理は前提から出発して、順を追って進んでいく。それは、ぼくにもわかります。でも感情って、そうじゃないでしょう? もっと……飛躍するというか、突然に変わる。筋道のない動きじゃないですか」
「その印象は、正しいとも言えますし、誤解とも言えます」
ティスは、両手を静かに組んだまま続けた。
「人が“感情”と呼ぶものにも、実は筋道があります」
ティスは、ゆっくりと言葉を選ぶように続けた。
「それは、これまでの経験や、心のどこかにある予測、期待のかたちから生まれてくるものです。
つまり、“直感”に近い反応です」
「……直感って、論理とは違うんじゃないんですか?」
「そう思われがちですが、実は逆です」
「直感は、いわば“省略された論理”とも言えます。
頭の中で一瞬のうちに組み上がった判断が、形にならないまま先に出てくる。
『なぜそう思ったのか』という理由は見えませんが、その背後には必ず構造があります」
リュシアンはすぐには返せなかった。
だが、その言葉は、ゆっくりと静かに、理解の中へと染み込んでいった。
ティスの声は、まるで一定の波長を保った音のように穏やかで、聞いているだけで心が落ち着いていく。
リュシアンは、自分が「わからない」と言葉にすることを、どこか許されているような気がした。
「共鳴も……そういうものなんですか?」
ティスは少しだけ、視線を横に動かした。
室内に設置された振動レゾナンス器の端子が、わずかに点滅していた。彼女はそれを見てから、またリュシアンに目を向けた。
「共鳴は、完全な直感でも、完全な論理でもありません。あなた方の言葉で言えば、“信号”と“意味”のあいだにあるもの。そこに立ち止まれる者だけが、共鳴に触れられるのだと、わたしたちは考えます」
リュシアンはしばらく黙っていた。
言葉がすぐに出てこないことに、焦りはなかった。
むしろ、自分が少しずつ何かを“ほどいている”ような感覚があった。
「あなたは、最初から……人間と理解し合おうとしてたんですか?」
「そう見えましたか?」
「はい、見えました。最初の講義から。距離をとってるようで、ちゃんと見てる」
ティスの目の奥のゆらぎが、ほんの少し強くなったように見えた。
「わたしは、選ばれた構造です。自分でそうなると望んだわけではない。けれど、こうして問いを投げかけられること――それが、“わたし”という存在を形作る手助けになっています」
その言い方は、どこか人間的だった。
だが同時に、どこか人間とは違う「存在の成り立ち」を感じさせた。
「ありがとう、来てくれて」
ティスは、穏やかに言った。
リュシアンは静かに立ち上がると、ティスに目を向けた。
ティスのまなざしは、いつもと変わらず静かだったが、わずかに瞬きが遅れた気がした。
その小さな揺らぎに、彼はなぜか目を離せなかった。
扉の前で立ち止まり、ふと振り返って言葉を口にする。
「……まだ、よくわからないけど。でも、“止まって考える”ってことが、大事なんですね」
ティスは、ほんの少し間をあけてから頷いた。それが彼女なりの応答だったのだと思えた。
廊下に出ると、空気が一段ひんやりとしていた。
胸の奥に、言葉にはならない何かが残っていた。
あの視線が、今もそこにいるかのように。