第一章 メタンの湖の底から来た講師
午後の光が、実験棟Eブロックの大窓から静かに差し込んでいた。
セレス・ノード研究アカデミー──地球圏に設置された最先端の量子演算中枢である「セレス・ノード」に付属するこの施設は、次代の研究者、技術者、そして宇宙航行士を志す若者たちの訓練と教育の場である。
リュシアン・モレルもその一人であり、前方スクリーンに映し出された
量子干渉図の変化を丹念にノートへ写し取りながら、講義の終わりを待っていた。
そのとき、校内放送が唐突に響いた。
構内に漂っていた眠気とざわめきが、ぴたりと止まる。
「本日より、論理学特別講座に新任の助教が着任されます。エリディアン技術応用部門よりの推薦に基づき、協定枠での招聘となります。受講予定の生徒は、講義棟S室にて16時より初回講義を受講してください」
教室のあちこちから小さな声が漏れた。
「エリディアンに教わるのか」
「なぜ論理学なんだ」
「人間の言葉、ちゃんと通じんのかよ」
リュシアンは目の前の画面から視線を外した。
ノートに書きかけた数式が中途半端なまま、脳裏の思考が切り替わるのを感じた。
エリディアン。人類がかつてタイタンの湖底で出会った、半透明の知性体。共鳴というリズムと位相で成り立つ文化体系を持ち、人類と接触してからは「光の道具」と呼ばれる変換装置によって言語表現を獲得した。
今や多くのエリディアンが地球圏の研究や事業に関わるようになっていたが、アカデミーの教育課程に実際に参加する例はまだ限られている。ましてや、講師として講壇に立つとなると、それだけで注目の的だった。
「ティス・エラ、だっけ?」
斜め後ろの席で、同級生のラファエルが呟いた。
「聞いたことある。ソリテーションって、ほら、あの……ハーモナ」
「違う、ハーモナは投影型だ。ソリテーションはソラニスの方だ」
「つまり、自律型ってことか?」
リュシアンは問うた。
「らしいな。共鳴ノードなしでも単独行動できるって。人間みたいなもんじゃないか、って話だけど……」
そうは言っても、彼らは「異なる存在」だった。
たしかに、ソリテーションは人間のような姿を持っている。だがそれは形態の話であって、意識の構造はまるで違う。エリディアンの根底にある「共鳴」は、人間の個と個の関係とは別のものだ。
リュシアンは目を伏せ、ノートの余白に鉛筆でひとつの問いを書いた。
――なぜ「論理学」なのだろう?
講義が終わると、教室を出る生徒たちは口々に感想を漏らしながら、廊下へ歩き出した。
リュシアンは、その流れに乗りつつも、どこか意識が他所にあるまま、歩を進めていた。
あと一時間。新しい何かが始まる気がする。
そう思うと、胸の奥に小さな熱のようなものが生まれた。
それは期待なのか、それとも不安なのか、自分でもまだ分からなかった。
◇◇◇
講義棟S室は、アカデミーでも特に設備の整った講義室だった。
階段状の座席と、湾曲したスクリーン。音響反響を抑えた壁材。通常は国際ゲストや外部機関との合同セミナーなどに使われる空間だ。
その場所に、リュシアン・モレルは初めて「生徒」として足を踏み入れていた。
開講五分前。座席はすでに七割方埋まっている。
誰もが手元の端末を操作したり、小声で話したりしながら、新任の助教の登場を待っていた。落ち着かない空気は、緊張というより、興味が勝っているようだった。
リュシアンは中段の席に腰を下ろしていた。
講義そのものよりも、どんな「問い」が投げかけられるのかを見てみたかった。
16時ちょうど。
照明がやや落とされ、講師側のドアが音もなく開いた。
そこに立っていたのは、人間の姿をした、しかし「人間ではない」と即座に分かる存在だった。
ティス・エラ。
身体の輪郭はすっきりとしていて、研究者によくある簡素なグレーの衣服を身につけていた。銀色の髪は肩に届かない長さで、全体に動きの少ない印象だが、どこか滑らかで、妙に実在感がなかった。
だが、最も印象的だったのはその瞳だった。
深くはない。しかし、吸い込まれそうな奥行きがあった。
まるで微細な星雲が静かに渦を巻いているかのように、焦点の内側で光の揺らぎが見えた。虹彩の一部は常にわずかに変化しており、それが「何かが背後にいる」ことを感じさせた。
彼女は、ただそこに立ったまま、すぐには話し始めなかった。
そして、静かに一歩前に出た。
「この講義は、あなたがたの“推論”に関するものです。わたしは、それを“道筋の観測”と呼ぶことがあります。名は、ティス・エラ。わたしは、人類とエリディアンの協定に基づいてこの場に立っています。今日から三十二回、この講義を通して、あなたがたに一つの視点を提示します」
声は、透明で、しっかりとした響きのある発音だった。
端末による翻訳ではない。これは肉声だ。ラファエルはソリテーションの認識を間違っているのだ。確かに本人が話しているのだが、それは「発している」と言ったほうが正確だった。言葉に感情の揺らぎはないが、語調にはしっかりとした意志が含まれていた。
スクリーンに映像が映し出された。
単純な直線と、それに交差する複数の直線。その交差点の一つが赤く塗られる。
「あなたはこの交差点で、右に曲がる選択をしました。なぜでしょうか?」
ティスは問いかけた。
生徒たちは顔を見合わせた。
「安全だったから?」
「標識がそう指示していたから?」
「いや、選ばされたんだろ、最初から」
「わたしは、“存在しないもの”を否定できるのはなぜかと、皆さんに問いたい。存在しないとは、観測が不可能であるということです。けれど、論理の中では、それを排除できます。なぜでしょうか?」
ざわめきが、再び空気を満たした。
リュシアンは、気づいたときには手を挙げていた。
彼自身、なぜそうしたのか、分からなかった。ただ、その問いには答えるべき理由がある気がしたのだ。
ティスは、ゆっくりと視線を向けた。
その目の奥の、星のような揺らぎが、リュシアンの中の何かを映し返すようだった。
「発言を、どうぞ」
リュシアンは立ち上がり、口を開いた。
「論理は、現実じゃなくても成立するから……だと思います。存在しない何かを排除すること自体が、言葉の枠組みの中で可能だから」
ティスは少しだけ頷いた。感情を示したというより、観測結果を記録するような仕草だった。
「ありがとうございます。あなたの名は?」
「リュシアン・モレルです」
「覚えました」
そう言った瞬間、講義室の空気が変わった。
ティス・エラは、確かに一人ひとりを見ている。理解ではなく、記憶として。
そして、リュシアンはこの日、自分がただの観察者ではなく、問いを投げかけられた存在であることを、強く意識することになった。
◇◇◇
講義が終わると、教室のあちこちからざわめきが起きた。
「すげえな、あの質問」「あれって哲学の話だよな?」「でも、分かる気もした」――口々に漏れる感想は、困惑と興味が混じったものだった。
リュシアンは席を立ち、講義室の出口へ向かおうとした。
だが、扉に手をかける前、後方から名前を呼ばれた。
「モレルさん」
振り向くと、ティス・エラが講壇を降りた場所に立っていた。
目は真正面ではなく、少し斜め下を見ているようだった。だが、リュシアンが応えた瞬間、確かに視線が合ったと感じた。
「あなたの視線には、探しているものがありました。今日の講義中、そう見えました」
言葉はまっすぐだった。だが、どこか一線を引いたような慎重さがあった。
リュシアンは一瞬、返す言葉を探した。だがすぐに、相手の真意を受け止めるように頷き、言った。
「……ありがとうございます。気づいてくれて」
「論理は、感情に似ています」
ティスはそれだけ言うと、壁際の講義端末に軽く手をかざした。何かの操作をしているようだったが、その動きには迷いがなく、指先のわずかな動きがリズムを刻んでいるのが見えた。
「それは……どういう意味ですか?」
リュシアンは気づけば口を開いていた。問いが浮かぶ前に、反射的に声が出た。
ティスは目線をリュシアンに向け、短くうなずいた。
「どちらも、内的な前提から導かれます。論理も、感情も、構造と期待の繰り返しの中にあります」
それだけ言うと、彼女は再び端末に向き直った。
今度は明確に、会話を閉じた合図だった。
リュシアンは口を開きかけたが、ティスの様子からそれ以上は望まれていないことを察し、代わりに静かに言った。
「じゃあ、また」
それだけ残して、彼は部屋をあとにした。
廊下に出てから振り返ると、ティスの姿はもう見えなかった。
友人のラファエルが待っていた。
「話しかけられてたな。あの助教、どうだった?」
「……分からない。けど、言ってた」
「何を?」
「論理は、感情に似てるって」
ラファエルは眉をひそめたが、深くは聞いてこなかった。
リュシアンもそれ以上言葉にできなかった。言葉にすれば、何かがこぼれ落ちてしまう気がした。
その夜、寮の自室に戻ったリュシアンは、端末のメモアプリを開き、こう打ち込んだ。
「論理は、感情に似ている」
— 前提と、繰り返しと、期待。
打ち終えてしばらく画面を眺め、保存もせずにそのまま閉じた。
胸の奥には、何かに触れたような感触だけが、静かに残っていた。
◇◇◇
まだ時間は少し早かったが、夜の寮は静かだった。
最後の講義の内容が重かったのか、それとも誰もが少し考え込んでいるのか。食堂でも大声を出すものはおらず、談笑も控えめだった。
リュシアンは、食後の廊下でラファエルと並んで歩いていた。無言のまま何歩か進んでから、ラファエルがぽつりと口を開く。
「……どうも、あれは落ち着かないな」
「ティスのこと?」
「ああ、あのエリディアン。 でも、あの感じ……なんていうか、静かすぎるんだよ。話してるのに、話してないみたいでさ」
リュシアンはすぐに返事をせず、数歩歩いてから口を開いた。
「でも、伝わってくるものはあったよ」
「言葉は通じてる。でも……何か伝わってきたのか? おまえ、ほんとにそう思ったのか?」
少し棘のある言い方だった。リュシアンは否定も肯定もせず、ただ「たぶん」とだけ言った。
廊下の窓から、夜の街灯の光が差し込んでいる。
遠くに見えるセレス・ノードの建物は、あたかも空に浮かぶ知性の島のようだった。
「変なんだよな」
ラファエルがぽつりと言う。
「何が?」
「なんで“論理学”なんだ? エリディアンって、そもそも言語を使わないんだろ? 振動と光で情報を共有してる種族が、どうして“論理”なんか教えられるんだよ。そんなの、こっち側のやり方じゃないか」
リュシアンは黙った。
それは確かに、講義前に彼自身も抱いていた疑問だった。だが、ティスの話し方や、目の奥の静かなゆらぎを思い出すと、「違う」と言い切ることもできなかった。
「あの人……いや、あのエリディアンは、たぶん本気でこっちの考え方を学ぼうとしてる」
リュシアンは思わずそう言った。
「……なんか、ちぐはぐだよな」
ラファエルは苦笑して言った。
「向こうはこっちに合わせようとしてるのに、こっちはそれをちゃんと受け止められてるのか、ってさ」
その言葉は、意外にもリュシアンの胸に残った。
あの講義、ほんとはこっちが答えを返す番だったんじゃないか。
ティスは、わかりやすく話してくれていた。人間の知覚に合わせて、丁寧に言葉を選んでいた。
ボールは、もうこちらの手にあった。
けれど、自分たちは──そのボールを受け止めたふりをして、じっと眺めていただけなのかもしれない。
部屋に戻ると、リュシアンは机に向かい、ノートを開いた。今日の講義のメモを見返す。
交差点の図。存在しないもの。排除できる理由。
その下に、自分の答えが書かれている。
「論理は、言葉の枠組みの中で可能になる」
そして、下に追加された短い言葉。
「でも、言葉がなければどうなる?」
エリディアンには、もともと“言葉”がなかった。
それでも、彼らは世界を理解し、調和を築いてきた。
もし論理が言語に依存しないのだとしたら、それは「存在」そのものから始まるのだろうか。思考のリズム、選択の位相、そして“期待”――。
彼はペンを置き、窓の外を見つめた。
セレス・ノードの光の下に、小さく人影が見えた気がしたが、それが誰かは分からなかった。
リュシアンの視線は、その先にある空へと向かった。
光の届かない領域。だが、そこにも確かに何かがある。
誰かが、何かを見ている。その思いだけが、静かに胸に残った。