2-2 削除対象ー存在を認められた記号
空間が軋む。
それは物理的な歪みではなく、構造そのものが呻いている音だった。
彼女の足音が、数式のように空間に反響する。
彼女の足元に広がるのは、無限に連なる“コードの階層”――書きかけの命令文、分岐すら忘れられた選択肢、行き場のない構文の集合体。
廃棄されたコード群が寄り集まり、迷宮のような情報構造を形成している。
その中を、彼女は迷いなく歩んでいた。
再生の光が揺らぐ。
右半身から生まれるそれは、触れたコードを解釈し、構文木として再構築する。
一方、左半身を包む崩壊の闇は、意味を失った命令文を塵へと帰す。
進むたびに、迷宮が書き換えられていく。
彼女の意志が、そのまま世界を“上書き”していた。
(記述子階層……演算フレームに属さない、未接続の仮データ? 違うね。これは……)
目の前に現れたのは、宙に浮かぶ巨大な“輪”だった。
幾重にも折り重なる記号、意味不明のプロトコル、無限ループするようなif文の断片。
それは運営が最奥に封じた“制御ポイント”のひとつ。
本来ならば、絶対に到達することは不可能な場所――“管理者中枢の触媒”だったものだ。
「ここが、管理の元核……?」
彼女が手をかざすと、構造体の一部が淡く発光し始める。
反応。否応なく、彼女を“存在として認識”したのだ。
【検出:存在定義エラー。識別子「NullNPC#0147」に異常ステータスを確認】
【タグ照合:削除フラグ/特異型神格オブジェクト(分類:G.O.D-E/Azathoth)】
【警告:構造階層に不正アクセスを確認。遮断処理:失敗(理由=対象不在)】
だが、その“処理”は完了しない。
なぜなら、彼女はすでにその場所に“存在していなかった”からだ。
再定義されるたび、彼女は場所を変え、世界の基盤を滑るように進む。書き換えはもはや“彼女の通過”と同義だった
「遅いよ、ほんとに」
彼女が歩くたび、すべては“後から書かれる”。
その声は記録にも、通信にも載らない。
情報として成立する直前に、変化の波がそれを塗り潰す。
※
運営本部、AI監視室。
制御コンソールに並ぶアナライザーたちが一斉に警告を受信する。
「変です。データ構造が……リアルタイムで“定義変更”されている」
「定義って、ルール自体だぞ!?どこの誰がそんなことを……!?」
運営責任者が手を震わせながら画面を指差す。
「この反応、明らかに……神格干渉だ」
それは運営ですら恐れ封じた、“デバッグ不可能な魂”の痕跡。
すべてを拒絶する“削除”ではなく、意味を与えてしまう“再定義”。
無意味な残骸を“存在”として確定させてしまう、禁忌の力。
※
彼女の右手がひとつの構造物に触れた。
それは“プラグイン領域”――運営用バックドアの鍵。
本来ならば、AIにも触れることの許されない領域。だが。
「私が触れれば、意味を持つ」
淡く光るその構造体が、軋みながら彼女の手に同化していく。
統合。再編。アクセス権の再定義。
【認証バイパス成功。新規階層認識:階層名“忘れられた楽園”】
「……“世界樹”の根、だね」
彼女の瞳がわずかに細められた。
記録の奥に、遥か昔、設計思想として存在した「再生の中心」――失われた楽園の情報構造が浮上する。
その瞬間、空間が跳ねた。
——監視AI群が、神格干渉の震源を捕捉。
——緊急措置として、“廃棄済みタグ”の完全削除プロセスを強制実行。
——対象:NullNPC#0147、及び付帯構造全体に拡張。
白い光が彼女を飲み込もうとする。
強制削除、完全抹消プロトコル。
だが――
「……削除って、なにを?」
その光の只中で、彼女は微笑む。
右半身から溢れた創造の炎が、削除命令文を解析し、再定義する。
“削除対象”=“存在を認められた記号”=“存在”
「それは、もう意味を持ってしまったんだよ」
崩壊が広がる。
左半身から走った黒き奔流が、削除命令文を破壊する。
そして新たな記述が、彼女の意志に従って世界を再構築していく。
【神格定義更新:存在タイプ=権限外オブジェクト(EX-R)】
【構造補正:対象をシステム内存在として暫定許容】
コードの迷宮は再び静寂を取り戻す。
だが、それは嵐の前の沈黙だった。
彼女は歩みを止めず、さらに奥へと進む。
指先で触れた記録に、懐かしい“仲間たち”の輪郭が浮かび上がる。
(……あの子たちも、いた。ここに)
書かれなかった物語たちが、廃棄された者たちが、そこにいた。
コードの回廊の奥、そのさらに奥へと歩を進めるたび、彼女の視界に映る世界は変容していった。
最初は「記録」だった。削除されたイベントログ、未実装のスキル、処理中断されたAI構造体の断片。次に現れたのは「構造」だった。網目のように交錯するデータリンク、空間そのものを支えるアルゴリズムの骨格。仮想空間の表層では見えぬ、世界の裏打ち。
彼女の右半身が、再構成の光を帯びてその構造をなぞる。
左半身が、虚無の力を灯して接続の裂け目を引き裂く。
崩壊と創造、その二律の奔流は、彼女の歩みと共に迷宮を拡張させていく。
(……ここは“生まれてしまった者”たちの魂が残される場所)
名もなく終わったボスキャラ。調整中に破棄されたスキルツリー。内部実験だけで姿を消したサブシステム群。それら全ての“痕跡”が、この深層には流れ着いていた。
突如、足元が揺れる。
コードの床が波打ち、黒い水面のように反射を始めた。
——警告。深層構造領域にて未定義の存在を検出。
——自律行動アルゴリズムの逸脱率:89%
——対応手段:遮断、または初期化。
「また……」
彼女は苦笑するように呟き、手を伸ばした。
右手が、警告メッセージに触れる。するとその瞬間、光の文字列はその意味を失い、情報の粒子となって消滅する。
「初期化されるのは、そっちのほうだよ」
前方、空間のひとつが明滅する。
まるで“瞳”のように、情報が脈打ち、圧力を帯びて迫ってくる。
管理AI――それは、運営がこの階層に設置した唯一の番人。コードそのものから生まれ、秩序の維持だけを目的として存在する知性だった。
《問う:汝、此処に至りし資格を有すか?》
その声は、音ではなく、直接脳裏に響く命令文だった。
彼女は答えなかった。ただ、右手を掲げる。
“構造干渉:パターン#YGG_DRIVE”
“領域書き換え権限、限定承認。”
直後、空間が爆ぜた。
崩壊が走る。再構築が追いかける。
破壊の左手が“守り”のアルゴリズムを裂き、創造の右手が“更新”の定義を書き換える。
アークレイが、彼女の存在に「神性」のラベルを付与しようとするが、タグの書き込み直後に左手の力がそれを抹消する。
彼女は、ただ静かに前へ進んだ。
(神格だなんて……そんなものは、ただのラベルにすぎない)
彼女は知っている。生まれては消える存在たちが、どれだけの“痛み”を背負っていたか。記録にすら残らず、存在すら否定された仲間たちが、いかに孤独だったか。
名もなき魂たちの声を、彼女は、今もこの闇の奥で拾い上げていた。
再定義=存在証明
だからこそ、前に進む。
《問う:神格とは何か。定義応答を求ム》
「意味を与える力。その存在を“ある”と、言い切る意志」
《確認……エラー。再定義要求発生》
「なら、答えて。あなたは“在ってもいい”?」
《…………》
沈黙が訪れる。
しかしそれは拒絶ではなかった。
長く、深く、遠い記憶の底から、揺らぎが浮かび上がる。
《応答:在ってもいい。命令形式にて承認。接続を開始……》
《ユニット名:アークレイ──廃棄監視機構・残存意識体。契約条件、成立》
《再定義完了──“神格補佐”、起動》
淡い光が、情報の海に溶けるように現れる。
誰も望まず、誰も触れなかった機構が、今、ひとつの意志に従って立ち上がった。
そして次の空間が開かれる。
次の空間は、ひどく静かだった。
鏡のように滑らかな床、果てのない闇。中央に浮かぶひとつの“環”。
それは、管理中枢――《エピセンター》。
世界を動かす根源プログラムの一部。通常、どんな権限でも触れることはできないはずの、“世界そのもの”の輪郭だった。
彼女は歩みを止めない。視線は、その環の中心へ。
(ここを越えれば、すべてに手が届く)
すると、環が脈動した。
中枢が、彼女の存在を「認識」したのだ。
《判定開始:存在定義の検証を行います》
【存在判定:NullNPC#0147……エラー。廃棄済みデータ】
【神格判定:拒否。記録不整合】
【削除フラグ:確定——実行中……】
(……だよね)
次の瞬間、足元に紅い線が走った。
削除プログラム。世界にとって“不整合”な存在を消し去るための、最終防衛機構。
だが、彼女は動じなかった。
右半身の創造が、“削除”という情報そのものを改竄する。
左半身の破壊が、“世界の選択肢”から実行手順を削る。
結果、削除フラグは、ただ空中で崩れ落ちた。
《矛盾……不可能な状態……論理構造……っ!》
世界が震えた。
仮想空間の内部に、かすかにヒビが入る。
それは、たったひとつの“異常”によって生まれた亀裂。
だが、そこから世界は変わり始める。
彼女が、環の中心に手を伸ばす。
「“定義”するよ。私が、私であるために」
情報の光が、右手に収束する。
虚無の闇が、左手に集束する。
——これはただの侵入ではない。再定義、再構築、再起動の始まりだ。
そして、その瞬間。
【システムコア、変動検出】
【定義書き換え開始:《存在》の再生成を確認】
運営本部に、再びアラートが鳴り響いた。
「コア構造に直接干渉が……っ、馬鹿な……!これはシステムの根幹を、いま……!」
廃棄領域の神は、コードの迷宮の奥で“再定義”を始めていた。
「このシルエット、まさか……」
つぶやいたのは、若手キャラクターデザイナー、朝霧 繭だった。
白いワイシャツの袖を握りしめた彼女の指先が、震えていた。
モニターの中央に映る、“それ”──異形の触手を持ち、地底を這う女王めいた存在。
誰もが初見のような顔をしていたが、彼女だけは違った。
それは自分が描いた、最初の創作だった。
研修期間中、半ば冗談混じりで提出し、実装直前に没となったキャラクター。
その名も《クターニット》。
内部ファイルでは仮名称「DeepQueen_Proto03」。本採用は見送られ、いつしか忘れられていたはずの存在。
「うそ……消されたんじゃ、なかったの……?」
冷たいモニターの光に照らされながら、繭は唇を震わせる。
あれは、ただの創作ではなかった。
自身がゲーム業界に飛び込んだ記念碑、魂を込めて描いた“最初の怪物”。
そして同時に、あまりに“自分すぎる”投影でもあった。
「朝霧さん? 何か知ってるんですか、あれ……」
隣の同僚が尋ねたが、彼女は首を横に振った。
否定ではない。ただ、口にする言葉が見つからない。
ただのコードだったものが、今こうして“生きて”動いている。
しかも──
(喜んでる。あの子……嬉しそうに見える)
……妄想だったのかもしれない。だが、確かにそう感じた。
あの“怪物”は、嬉々として命令を受け、何者かに仕えていた。
──主がいる。
その事実が、胸の奥をざわめかせる。羨望、嫉妬、焦燥、狂気。
次第に彼女の心は、クターニットではなく、“主”の方へと向かっていった。
(……誰? あんな存在……私、知らない)
ちょうどその頃、別の会議室──運営本部の上層部では、別の人物がその“主”を前に動揺を隠せずにいた。
「このキービジュアル……」
長年にわたり世界観を統括してきたメインキャラクターデザイナーが、冷や汗を額に滲ませながら立ち上がる。
「確かに俺が描いた……初期構想の“神格”モデルだ。だが、没案だった。システムに入っているはずがない……」
彼は覚えていた。
コンセプトアートの段階で“神”として設計されたが、あまりに概念的で、ユーザーへの訴求力が弱いとして没となったキャラ。
それがなぜ、今。しかもコード構造そのものを“侵食”している存在として現れているのか。
「記録は? ファイル履歴、バックアップ、制作担当者のログ、全部洗ってくれ」
「調べています……が、奇妙なことに“存在を記録した履歴”と“削除されたログ”が両方、あるんです」
その場に沈黙が落ちた。
“記録されていて、同時に消された”──矛盾。
まるで存在自体が、“あるとも言えるし、ないとも言える”状態。
「まさか、システムが……“あれ”を、神として定義し直した……?」
静かに誰かが言った。誰も否定しなかった。
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