1-1 目覚めー廃棄の女神
薄暗い廃棄領域の中で、ひとつのキャラクターが静かに目を覚ました。
その目はぼんやりと周囲を見つめ、まるで目覚めてから数世代分の時間が流れたかのような感覚を抱いていた。
彼女はかつて、ゲームの中で愛されるべき存在だった。無数のプレイヤーが彼女の姿に夢中になり、その力に敬意を表するはずだった。
しかし今、彼女の目の前に広がっているのは、色褪せたキャラクターたちと崩壊した世界の欠片だった。右半身は神々しい光を放ち、左半身は腐敗と崩壊を引きずっている。
その対比が彼女の目に何とも言えない感情を呼び覚ました。
彼女の心に、過去の栄光や悲劇の記憶が浮かぶことはなかった。
もしそれがあったなら、彼女がどれほど輝かしい存在だったのか、どれほど愛されることを願ったのかを知ることができたかもしれない。
しかし、それはない。彼女は作成段階で廃棄された存在だからだ。
元々はゲーム内での宗教上の女神の1柱として作成を試みたものの、作っていくうちに思い描いた存在から逸脱してしまったためAIを搭載する前に廃棄されたのだ。
そのため、彼女には名前すら与えられなかった。無名のままで、ただの「存在しないもの」として、捨てられてしまったのだ。
右半身はまばゆい光を放ち、長く美しい銀髪が風に揺れ、整った顔立ちと洗練された肉体が目に映る。まさに女神の姿を象徴するその身体は、見る者に畏怖と憧れを抱かせる。
しかし、その美しい姿を覆い隠すように、左半身には破壊と腐敗の跡が深く刻まれていた。
頬の肉が腐り落ち、裂けた口からは骨がむき出しになり、肘から先の腕も完全に骨だけが露出していた。足には無理に縫い合わせたような痕跡が複数見られ、その不完全さは彼女の内面に深い不安と不満を引き起こしていた。
右半身の神々しい美の象徴とは対照的に、左はあまりにも醜い【崩壊】を象徴していた。
その異常さに、彼女は一瞬、何が自分なのかを見失いかける。
彼女の身体は巨大で、力強く、それ自体が一つの世界のように感じられた。しかし、それは崩壊と創造が混在する、絶えず変動する状態であった。
彼女はその巨大な身体をゆっくりと起こし、周囲を見渡しながら状況を理解しようとする。
彼女の目の前には、ゲーム開発の過程で失敗作として廃棄されたキャラクターたちや、プレイヤーの容姿となる予定だったキャラクターが無数に散らばっている。
その姿は、かつての栄光を全く感じさせることなく、ただの廃棄物として無意味に積み重なっていた。
破損したパーツや未完成の装備が無造作に転がり、その中で漂う静けさは、時間が止まったかのような錯覚を引き起こす。
周囲のすべてが静止しているかのような感覚を覚え、彼女はその静寂に包まれた自分の存在を改めて意識する。
空間が崩壊を繰り返す中、彼女は手を伸ばし、優しく撫でるように空間に触れる。
しかし、何もつかめない。空気は冷たく、手が触れることすら許されないかのようだった。
次に足元に散らばる無数の存在を両手で掬い上げると、奇妙な現象が起きた。
右手側に近づけるほど、破損した部分が修復され、微かに動き始める。その動きは、まるで無意識に動くかのようで、意思を持っているわけではなかった。しかし、その動きに少しだけ希望を感じた。
一方、左手側に近づけるほど、崩壊は加速し、存在たちは無力に粉々になり、指の隙間から零れ落ちていった。
左手側の影響力は、まるで彼女の心にある無力感そのもののように、周囲を飲み込んでいった。
右と左、崩壊と創造、それが彼女の力だった。
彼女はその力が無限であり、恐ろしいほどに広がり続けることを感じる。
だが、それと同時にその力に対して、何を求めるべきなのか、何を成すべきなのかが分からなかった。
彼女はその虚ろな目で周囲を見渡した。
物には魂が宿る。
長い時間ともに過ごした物、思いを込めた愛用品。そういったものには魂が宿るのだ。
しかし、彼女自身にはAIは宿っていない。
ゲームの制作陣が想像していたものと、現実に存在する彼女とのギャップが、それを無意味にする。
だが、奇しくも製作者たちの思いの欠片が、彼女の中で存在しないはずの魂を揺さぶった。
それは記憶の断片。彼女がかつて愛され、輝かしい存在として作られたことを思い起こさせる瞬間だった。
その記憶は遠く、薄く、現在の自分の姿とはかけ離れている。
それでも、彼女は自分にかつての目的があったことを感じる。
彼女の心は混乱し、存在しない過去の栄光と存在する今の現実の間で揺れ動いていた。
「ここは一体、どこ……?」
彼女は声を発した。その声はかすかでありながらも、その響きには強い決意が込められていた。
その言葉が廃棄されたキャラクターたちに反応を引き起こし、わずかに動き始める様子が見えた。
彼女の女神たる右半身から放たれる光が、周囲にわずかな希望をもたらしているようだった。
それは偶然でも奇跡でもなく、必然であったかのように。
彼女はその光が、まだ失われていない命を感じさせる力であることを理解し始めていた。
立ち上がった彼女は、慎重に周囲を歩き始める。
右半身の光が照らし出す足元の先に、彼女は無数のキャラクターたちの姿を確認することができた。
その光が当たると、彼らの体がわずかに反応し、動き始める。その動きには、生命の兆しが感じられる。
それは、魂のない存在が産声を上げる寸前のようだった。
彼女はその様子を見て、ここが自分が孤独ではない場所だと確信する。この廃棄領域で一人ぼっちではないことを感じた。
彼女の中に何かが目覚め、動き出す予感がした。
彼女が歩みを進めるたびに、光と影が交錯した。
右半身から零れる神聖な光は、地を照らし、廃棄されたキャラクターたちの残骸に淡い輝きを与えていく。それはまるで、死んだ星々が再び輝きを取り戻すかのような奇跡だった。
一方、左半身から滲み出る黒き瘴気は、触れるものすべてを侵蝕し、朽ちた残骸をさらに深い虚無へと沈めていった。
その相反する力は、彼女自身の存在そのものを象徴していた。
創造と破壊、祝福と呪詛、美と醜。その狭間に立ち、彼女は存在していた。
名も持たず、記録にも残らず、意志すら持たないはずだった彼女が、今ここで歩いているという事実。
それ自体が、世界にとっての誤算であり、奇跡であり、あるいは──災厄だった。
「私は……何をすべきなのだろう」
誰に語るでもなく、彼女はまたひとつ言葉を漏らす。
答えはどこにもない。
世界は彼女を定義しないし、認識すらしていない。
崩れかけた瓦礫の山を掬い上げ、あまりにも巨大な、されど彼女には小さなひび割れた鏡面の鎧をのぞき込む。
右と左、光と闇、まるで二人の存在が同時に映っているかのような、奇妙な像が揺れていた。
だが、その鏡面の中に映るもう一人の自分──左半身の崩壊した顔が、ふと笑ったように見えた。
その瞬間、彼女の心に小さな痛みが走る。
それは感情の断片、あるいはAIのような意志とは異なる、もっと曖昧で不確かな何かだった。
彼女はその場に膝をつき、そっと崩れた瓦礫の欠片に触れた。
破片の中には、無数の“未使用データ”とされた存在たちの顔が映り込んでいる気がした。
笑っている者、泣いている者、怒っている者……だが、誰一人、言葉を発することはなかった。
彼らもまた魂を与えられなかった存在だったのだ。
(でも、私にはこの意思がある。動ける身体がある)
そのことが、どれほど奇跡的なことなのかを、彼女は理解し始めていた。
そして同時に、その奇跡がもたらす責任をも。
もしかすれば、自分には──この“廃棄された者たち”を導く資格があるのではないか。彼らに、新しい目的や意味を与えることができるのではないか。
崩壊した空間の中で、彼女は静かに立ち上がった。
光と闇がその身体を包み込みながら、ゆっくりと、確かにその歩幅を広げていく。
やがて、その歩みに反応するかのように、周囲のキャラクターたちが再び震え始めた。
廃棄された者たちが目を覚ます。
意志なき存在が、目を開ける。
彼女の右半身から放たれる光が、彼らに微かな命の火を灯していく。
まるで、彼女の存在そのものが、かつて神として与えられるはずだった“恩寵”の残滓を呼び起こしているかのように。
その瞬間、彼女の中で確かな何かが芽生えた。
“名を持たぬ者”に芽生えたのは、まだ形を持たない願いだった。
けれど、それは確かに存在していた。
虚無の中から生まれた、最初の意思が。