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"悪役令嬢"シャーロット

さよなら、シャーロット

作者: 小娘

読みやすさよりも、トーンを重視しております。

おかえり、シャーロット。


書斎に姿を見せた彼女に、私はそう声をかけた。私はアーダコダ辺境伯バジル。シャーロットというのは、私の妻のことだ。私たちは彼女の叔父上によって引き合わされ、婚姻関係を結んだ。それは私にとって、何よりの幸福となった。後にも先にも、これ以上私が満たされる出来事など起きないだろう。


私は退屈な人間だった。偏執的に食器を集めること以外、趣味も日課もなかった。自分以外のすべてが敵だと思い込んでいた。それが父上のせいなのか、はたまた私の元々の性質なのか、判断することはできない。しかし、今となってはそれもどうだって良いことだった。シャーロットが私を変えてくれたからだ。


彼女に出会って、私は初めて愛されるということを知った。彼女は私に取り組み、導いてくれた。私は愛され、そして愛するということを学んだ。自然と顔が綻ぶ、あの感覚を味わった。何もかもが彼女の見様見真似だったが、時を経るごとに、それらは私自身の行いとなった。私は花を愛で、爽やかな空気の中を散歩することを好むようになった。外の世界に、敵も何もないのだと教えてもらった。そのすべてが、彼女のおかげだった。


そのシャーロットが、何かおかしい。何がおかしいのか、またいつからおかしいのか、私にはまるで見当がつかない。ただ、異変が起きているということだけが断言できた。


どうかなさいました?


その声に、私ははっとして思索から舞い戻った。シャーロットが心配そうにこちらを見ている。どうやら、私は彼女の顔を見つめたまま、物思いに耽ってしまったようだ。大丈夫だと答えると、彼女は私に微笑みかけ、書斎を後にした。



 書斎の時計は五時を指していた。シャーロットはエライコチャ男爵夫人の招待を受け、毎週恒例となった茶会を楽しんできたところだった。彼女は社交を好み、おかげで私もそこここで交友関係を築くことができていた。エライコチャ男爵は、その中でも最も親しい私の友人となった。


外出に気乗りしないことがなくなったとはいえ、やはり私は頻繁に屋敷を出るほうではなかった。だから、シャーロットがあちらこちらに出向くとき、私のことを気にしないでいてくれるのは有難かった。むやみに連れ回されるのも、遠慮から外出を控えられるのも、お互いのために良いことであるとは言えない。


私が書斎を出ようと立ち上がりかけたとき、シャーロットが再び戸口に姿を見せた。手に持った封筒を顔の下でかざしながら言う。


男爵から、あなたにお手紙ですわ。ついででしたから、受け取って参りましたの。


立って行ってそれを受け取ると、彼女はまじまじと私を見つめた。まるで、何か訴えかけようとでもしているかのように。それも束の間のことで、彼女はまた颯爽と歩いて行ってしまった。


手紙の内容はごく簡単なものだった。鴫を見たので、気晴らしに狩りにでも行こう、とそこには書かれていた。男爵は領地に広い森を持っており、時折こうして私を狩りに誘ってくれる。素晴らしい晩餐が振舞えるだろう、とも書き添えられていた。ああ、シャーロットが茶会に招かれたときなら、ちょうど良いに違いない。


シャーロットが茶会に招かれるのは週末だ。次の週末にでも、と返事を書き、私は召使に手紙を預けた。



 狩りは大成功だった。男爵は帰り道、上機嫌に狩りの間の出来事を振り返っていた。彼は常々満足気な男だ。不平を言うくらいなら、事実という紙面を裏返して見えなくしてしまうほうがずっとましだということを心得ていた。おかげで何事も楽観視する悪癖はあったが、私はそれを彼の欠点だと見なしたことはなかった。


袋一杯の鴫を持って男爵邸に戻ると、ちょうど茶会がお開きになったところだったのか、貴婦人たちが玄関広間に向かって来るところだった。エライコチャ男爵夫人の後ろをどこぞのご婦人―私はその名を失念した―が歩いており、二人は話が弾むほどに歩調を緩めていくようだった。広間のどこともつかぬところに、シャーロットが立っていた。客間のほうを眺めており、男爵と私が戻って来たことには気付いていないようだった。


そして彼女の視線の先に、もう一人女性がいるのが見えた。それは先日結婚式を挙げ、晴れてヤッテモタ伯爵夫人となったメアリーだった。その姿があったのは驚きだった。シャーロットと私の披露宴で一騒ぎを起こしたことや、それ以前から妻と因縁があったことを考えれば、とても共に紅茶を楽しめる関係にあるとは思えなかった。


おそらく、男爵夫人はよく事情を知らなかったのだろう。以前男爵に聞いたことには、夫人は婚約の前は遥か遠方の国で暮らしていた、ということだった。彼らの婚礼はつい数か月前だったのだから、当時あったこの辺りの噂のことを耳にする機会がなかったとしても仕方ないだろう。


そういったことを考えながら、私は妻の元へ行こうと足を踏み出した。私には、伯爵夫人がこちらに歩いてくるのが見えていた。そして、彼女がシャーロットの前を通りかかったときだった。私はこの目で見た。シャーロットが冷ややかな顔つきで、傍にあった花瓶を叩き落とすのを。その表情を、私はいつかどこかで見たような気がした。私は彼女のすぐ傍で足を止めた。


おや、どうしたんだ?


男爵が言った。彼は夫人たちと話していて、あの二人のいるほうは見ていなかったようだった。伯爵夫人が唖然とした様子でシャーロットを見つめ、シャーロットは目を丸くして砕け散った花瓶を見下ろしていた。


まあ、メアリーったら!


彼女は凛と響く声でそう言った。彼女の発した言葉の意味を、初め私は理解できなかった。彼女が花瓶を落としたということを知っていたからだ。男爵と召使が足早にこちらに向かってきた。


お怪我はございませんかな?


男爵が尋ねると、伯爵夫人はゆっくりと頷き、シャーロットは鈍く肯定の声を漏らした。男爵夫人もこちらの様子を見にやってきた。


この花瓶…お前の気に入りのものだったろう、ルシル?


男爵に言われるがままに目線を落とした男爵夫人は、何てこと、と小さく呟いた。事実、その花瓶はこの世に二つとない一級品で、申し分なく美しいものだった。この屋敷に来る度、私も喉から手が出るほど欲しいと思わずにはいられなかった。男爵夫人はそれ以上物は言わなかったが、どこか非難するような視線を伯爵夫人に投げた。


私では…


伯爵夫人は言いかけたが、言葉が続かなかった。私含め、皆が彼女を見ていた。重苦しい沈黙の後、彼女は屈服した。


申し訳ございません、男爵夫人。きっと弁償いたしますわ…


そう言われると、男爵夫人は表面的に穏やかな表情を取り戻した。何も、弁償してもらえることが嬉しかったわけではないだろう。同じ花瓶を取り戻すことなどできないのだから。むしろ、彼女は礼儀に従ったまでだったのだと思う。似た趣向を持つ私には、彼女の抱く静かな怒りがはっきりと伝わってきていた。



 何故シャーロットはあのような真似をしたのだろう?彼女が伯爵夫人に恨みを抱いていたとしても驚くにはあたらないが、ああいった陰湿なやり方でそれを晴らそうとするのは感心しない。いや、しかし、私にはそもそも彼女が復讐を企てようとするとも思えない。私を呪縛から解き放った彼女が、そのような些事に自らを穢すとは。


真意を確かめようにも、何と尋ねるべきかわからない。あれ以来、シャーロットは何事もなかったかのように穏やかだ。あるいは、私の思い違いだったのかもしれない。何か奇妙な幻覚に囚われたのではないとは、決して言い切れない。


私は男爵に倣うことにした。つまり、見て見ぬ振りをすることにしたのだ。楽観とはかくも容易く、人の心を清らかにするものだ。これで良い。仮にあれがシャーロットが良からぬことを企んだ結果だったとしても、一度の些細な過ちを咎めるのは酷だ。私など、どれほど過ちを積んできたことか…。



 まただ。今度ばかりは、私の勘違いとして片付けるわけにはいかない。私たちはさる侯爵家の舞踏会に招かれた。気は進まなかったが、シャーロットと懇意にしていた人物の誘いを断るわけにもいかなかった。そこにはエライコチャ男爵夫妻とヤッテモタ伯爵夫妻の姿もあった。あの後、両夫人の間がどうなったのか知る術はなかったが、私の目には、特に問題があるようには映らなかった。


事が起きたとき、私は一人食事を楽しんでいた。そこへ男爵がやってきて、酔ってほんのりと赤く染まった顔を笑顔で埋め尽くして、私に声をかけた。


君も寂しいものだね。少しくらい遊んだところで、罰など当たらないよ。


遊ぶなど、とんでもない。


やれやれ。どうして君と僕が上手くやれているのか、不思議でならない。


男爵はおどけて口を尖らせた。それから再び微笑み、向こうに夫人がいるから、と、私の腕を軽く引きながら移動を始めた。向かう先に、シャーロットの姿も見えた。彼女たちは主催の侯爵夫人と話し込んでいるようであった。私が近づいていくと、シャーロットは控えめな微笑をこちらに向けてきた。


私たちはしばし話をした。それは他愛のないもので、私はあまり口を開かずに彼らの言葉を聞いていた。と、見知った顔が私の視界に入って来た。伯爵夫人メアリーだった。誰かと踊った後で、少し休みに来たのだと思われた。彼女はまだまだ若く美しい女性で、結婚した今でも数名の取り巻きがいるのだった。彼らは彼女に纏わる過去の噂を知っているのだろうか。そう考えたときだった。


侯爵夫人がその場を去ろうと、慇懃に挨拶を済ませて背を向けた。伯爵夫人は盆からワインを受け取り、ちょうど侯爵夫人とすれ違おうとした。彼女はすぐ傍にいた。そのとき、シャーロットの顔つきが、何か模造品のように凍てつくのを私は見た。


そして、伯爵夫人が前につんのめった。その拍子にワインがこぼれ、侯爵夫人の夜会服に染みをつけた。私はふと足元に目を落とし、その間際に、シャーロットの足があるべき位置に戻った。踏みつけられ、ぴんと張られた伯爵夫人の夜会服の裾が、目立たぬ程度に弾むのも見えた。その瞬間は、奇妙に緩慢に時が流れたようだった。


腕と背中に当たった冷たい感覚に侯爵夫人は振り返り、男爵夫人が小さく悲鳴のようなものを上げた。シャーロットはあの日と同じように目を丸くした。


嫌だわ、メアリー!


誰もシャーロットの行いには気付いていなかった。私を除いては。事態を理解した侯爵夫人が短い金切り声を上げた。彼女は公の場であることを忘れたかのように、怒りを露わにした。


何ということをなさるの!何と言うことを!


伯爵夫人は青ざめ、当惑したように足元と周囲の面々を見回した。自身に注がれる視線に気付くと、彼女は目を白黒させながら、慌てて口を開いた。


大変申し訳ございません…な、何と申し上げたら良いのか…


一体いくらかかると思っていらっしゃるの?あなたにわかりまして?


侯爵夫人は己の装いを人一倍気にかけている、と聞いたことがあった。その声の調子は幾分か落ち着きを取り戻したようだったが、それは彼女の憤りが消えつつあることなど意味していなかった。私は心が空になるような驚愕にシャーロットを見つめたが、彼女は私を見つめ返すことなく、見慣れた微笑みを浮かべていた。そしてその隣で、男爵夫人が愕然としたような動揺に瞳を揺らしているのを、私は見た。



 手に入れたばかりの銀食器を磨きながら、私はあの舞踏会での出来事を思い返していた。シャーロットが男爵夫人や侯爵夫人の趣味を知らなかったはずはない。彼女はわざと伯爵夫人が気まずい立場に追い込まれるように仕向けたのだろう。それを悪意と呼ばずに何と呼ぼう?


銀器に鈍く映る自分の顔を眺め、私は決心した。いつまでも彼女の好きなようにさせているわけにはいかない。彼女が私に救いの手を差し伸べたのと同じように、私も彼女を暗い闇の中から引っ張り出してやらねば。それが救われた者の責務だ。


そう考えながらも、私は彼女を悪とみなすことができないでいた。何人も、恨みを抱かずにいることなどできはしない。伯爵夫人のかつての行いは、その恨みに十分値するものだと、私は思う。問題は、その発散方法かもしれない。何も、同じような不道徳を働く必要などないではないか。


私はシャーロットと一度話をすることに決めた。彼女は客間にいるはずだ。



 客間は、シャーロットの趣味で飾られていた。私はそれらの家具や装飾品を動かしたことはない。手を加えるまでもなく、その空間は他のどの屋敷の客間にも劣らず美麗だった。彼女自身、この客間をひどく気に入っており、屋敷にいるときは大抵その部屋にいた。


私が入っていくと、彼女は少し首を傾げて微笑んだ。その表情は、とても非道な真似をする女性のものには見えなかった。私は棚にもたれ、気力を削がれる前に話を切り出した。


シャーロット、何故伯爵夫人にあのような真似をしたのだ?


何ですの、今日は随分ぶっきらぼうですのね。


どうか、はぐらかさないでくれ…


私は誠意をもってそう頼んだ。彼女が、私を敵だと思うことがないように。私は何があろうと彼女の味方でいるつもりだった。彼女は私の言葉を吟味するように黙り込んだ。やがて、彼女は言った。


あなたはよくわかっていらっしゃると思っていましたわ。


私は雷に打たれたような気分になった。彼女が目に光を宿さず、冷徹なまでの面持ちで私を見たからだ。それは男爵邸や舞踏会で見たのと同じものだった。彼女は悪魔なのだろうか?ふと、そんな考えが頭をもたげた。そうでなくて、どうしてこのような美しくも恐ろしい顔つきができようか?悪を悪だとも思っていない様子は、そこに起因しているのではなかろうか?いや、馬鹿げている。愛した女性をそのように呼ぶとは。


まあ、どうかなさいました?


その声に気を取り直して彼女を見ると、あの表情は跡形もなく消えていた。しかし、私はこれ以上例の件を持ち出すことはできないと悟った。何か別のやり方を考えなくてはならない。それとなく、彼女の気を逸らす方法があるはずだ。


私が思考を巡らせていた間に、召使が客間に入ってきていたようだった。私が顔を動かして見つめると、彼は一瞬動きを止めて私を見返した。


失礼いたします、旦那様。


彼ははっきりとした口調で言った。私は自分が居合わせていることを気にしないように告げ、しばらくそこに留まり続けた。召使は掃除をしていた。そういえば、今はちょうどそういう時刻だった。人のいる割に、部屋は静まり返っていた。その沈黙を破ったのは、シャーロットだった。


あなた、それに触るなんて!


彼女は私の目の前で召使の腕を掴み、彼が手にしていた装飾本を奪い取った。彼女はそれを元あった場所に丁寧に置くと、召使に向き直り、鋭い目つきをして馘首を言い渡した。彼は困ったように私に目をやったが、私もまた圧倒されており、何も口にすることができなかった。彼がまごついているのを見て、シャーロットはぴしゃりと言い放った。


部外者でありながら、いつまでもここにいることができると思わないことね!


召使はほとんど飛び上がるようにして、慌てて客間を出て行った。私は彼女の癇癪をなだめようと努めたが、それから彼女はすっかりと押し黙ってしまい、私たちはそれ以上言葉を交わすことなくその日を終えた。



 それから数日は、何事もなく過ぎていった。シャーロットは至って幸福そうで、私は束の間、例のことなど忘れてしまった。しかし、それも私の愚かな勘違いだった。私の知らないところで、すべては進行し続けていたのだ。


男爵からの手紙が届いたとき、私はやっとのことで手に入れた遠い異国の茶器を包装から取り出していたところだった。手が離せなかったので、私はその手紙を召使に読み上げさせた。内容は晩餐の誘いだった。最近は特に招待の頻度が高まっていた。私は晩餐に行くよりも、この茶器をどうするか考えたかった。


断りの返事を出すよう言いつけようとしたとき、私は思い止まった。召使が気になることを読み上げたためだった。


ヤッテモタ伯爵夫人が大怪我をしたそうだが、聞いたかね?


もちろん、そんな話は初耳だった。屋敷で他人のことが話題に上がることは滅多になかったし、私もあまり興味を持たなかった。しかし、人物が人物だったので、私はぜひその噂の詳細を聞かねばならないと思い、必ずお伺いする、という返事を出すこととなった。



 男爵邸では、普段通りの時間が流れていた。私はあまり急かさないようにしながら、伯爵夫人の身に何が起きたのかを聞き出した。つまり、こういうことだった。


大怪我をした、というのは男爵の誇張に過ぎなかったようだ。彼女は街中を歩いているとき、馬車にはねられそうになったのだという。間一髪、大事には至らなかったが、避けた拍子に足首を挫き、迎えが来るのを地面にへたり込んだまま待つ羽目に遭った。貴婦人にしてみれば、十分に恥をかかされた出来事には違いない。


話は想像していたほど酷いものではなかった。が、男爵は別のことを匂わせた。どうも、その事故は故意に起こされたものようだ、と。というのは、その馬車に乗っていたのがあの侯爵夫人であり、彼女が例の一件を随分根に持っているらしい、という話だったからだ。侯爵夫人は権威がある分、気性も激しい人だ。私は展開が悪い方向に広がっていることを察した。


あのご婦人は、どうもあちこちで悪く言われているようだね。


男爵は満ち足りた笑顔を浮かべていた。面白がっているわけではなく、伯爵夫人のことは他人事に過ぎないからだろう。私は間を埋めるために答えた。


それは知らなかった。


昔の行いが良くなかったのだろうね。あのときも…


男爵は気詰まりしたように口を噤んだ。私とシャーロットの婚約したときのことを言っているのだ。彼が事物に対して思うところを持つのは意外だった。私も何も答えなかったが、それは言うことが見つからなかったためだ。しばらくして、彼は口元を拭いながら再び開口した。


しかし、彼女は長いこと精神を病んでいたのだろう?


私はよく知らないが。


となると、君は何も知っちゃいないことになるな。


男爵は長く、ゆっくりと声を立てて笑った。私はまたも黙っていた。有難いことに、彼には私が答えようが答えまいが、自分の調子に応じて話を進める癖があった。


僕は同情するけれどね。若気の至りという言葉もあるじゃないか。何でもかんでも後を引かれたら堪らないよ。特に僕のような人間はね。


男爵はいたずらっぽく私に目配せをした。私は微笑み返し、今度こそ言うべきことを見つけた。


彼女はまた訳が違うのでは?


何、ああして茨の社交界に戻って来たんだ。貴族たるもの、ぜひに迎え入れてやらねば。


彼はまた鷹揚に笑い、酒の杯を呷った。私はもう少し伯爵夫人について聞きたかったが、彼が大したことを知らないのだと気付き、話題を変えてしまった。



 屋敷に戻ると、どこかに出かけていたらしいシャーロットの姿があった。私は伯爵夫人のことを話そうかと思ったが、私からそのことを口にするのは何となく憚られた。どこにいたのか、と聞かれたので、私は男爵邸に行っていたのだと答えた。すると、彼女は言った。


存じ上げていたようなものですわね。ね、メアリーのことを聞いたでしょう?


馬車に轢かれそうになったとか。


ええ。なかなか滑稽なことではありませんこと?


私は絶句した。彼女はまたあの顔をしている。一歩間違えればもっと深刻なことになっていたかもしれないというのに、何故彼女は滑稽だなどと言うことができるのだろう?一体何が、彼女をそのように駆り立てるのだろう?止めなくては。是が非でも、彼女の目を覚ましてやらなくては。あなたはもっと美しい人間だったはずではないか、シャーロット。


シャーロット、私を愛しているのなら、そんな物言いはやめてくれ。


あら、どうして?あなたこそ、私を愛していらっしゃらないの?


何故だ、シャーロット?あなたはそんな人間ではなかっただろう?今ではまるで…まるで、悪魔のようだ…


理由なら、あなたもよくわかっていらっしゃると思いますけれど。


また、それか。私は内心考えた。私がわかっているなどと、よくも言ってくれたものだ。そんなこと、わかりたくもないというのに。背筋を冷たい感覚が走るのがわかった。それは恐怖だった。彼女は微笑んでいる。しかしその微笑こそ、私に恐れを抱かせるのだった。


もう、たくさんだ!


私は彼女から顔を逸らし、怒声を上げた。そんな風に声を荒げるのは初めてのことだった。彼女はまだ笑っていた。見なくても、その口の端が上がっているのがわかったのだ。私は敗北を悟った。


バジル、明日の晩、出かけましょう。ぜひ行かなくてはならないところがありますの。


私は頷く他なかった。いや、決して悪いことではない。彼女と一緒にいれば、望みを果たすこともできるかもしれない。



 私はシャーロットと共に連日出かけた。そして行く先々で、伯爵夫人の醜聞を耳にした。彼女はあちらではまた物を台無しにし、そちらでは誰かの夫を誘惑したのだと噂された。それでも彼女は社交界に顔を出し続けた。それはおそらく、彼女の誇りに係わることだったからだろう。


その頃には、シャーロット自らが伯爵夫人に手酷い仕打ちをすることはなくなっていた。彼女はただ微笑み、事の成り行きを傍観するだけだった。私にとっては、それで十分だった。確かに、引き金となったのは彼女の行動かもしれない。


しかし、今手を下しているのは彼女ではない。彼女が残酷な悪行から手を引いた、その事実こそがすべてだった。幸い、誰も彼女の行いには気付いていなかった。これで良いではないか?


伯爵夫人は気の毒だったが、私は因果応報だと思ってもいた。昔の行いが良くなかった。男爵の言った通りなのだ。何事も、すべては己に返ってくる。結局、善人は善人として死に、悪人は悪人として死ぬのだ。私の父は悪人として死んだ。死ぬ間際まで、屋敷の者におぞましい振舞をしていたからだ。最後に私たちを少しでも愛してくれたなら、彼は善人として死ぬことができたかもしれないというのに。しかし彼は悪人だったので、そんなことは夢にも思わなかった、いや、思うことができなかったに違いない。


伯爵夫人は今、悪人であり、シャーロットは善人のままだった。人からの評価がすべてだからだ。私は満足だった。そういえば、今日か明日にでも、さる巨匠の手がけた陶磁器が届けられるはずだ。私は幸福な日常が戻りつつあることを感じた。



 何たることだろう。シャーロットはいまだ恐ろしい心を持っていたのだ。せっかく善人としての顔を取り戻したというのに、それを無に帰そうというのだ。何たることだろう!


その日、私たちは屋敷で舞踏会を開いた。あまり大規模なものではなかったが、客人には伯爵夫人も含まれていた。シャーロットは、丁寧にも彼女を招くことに決めたのだった。そして、彼女は誇りを守るべく姿を現した。


伯爵夫人が到着してから、彼女の歩く辺りはわずかに静まった。誰もが声をひそめ、新しい醜聞の種に水をやっていたのだ。


私たちは客人に挨拶をして回っていた。そして、広間を歩くうちに、一人で立ち尽くしている伯爵夫人の元に辿り着いた。伯爵は、先ほど別の貴婦人と踊りを共にしていた。今では、彼女を誘う取り巻きも姿を消してしまったようであった。


私たちが近づいていくと、彼女はどこか血色の悪い顔をこちらに向けてきた。私は型どおりの挨拶をし、彼女は鈍い返事を返してきた。周囲には人がいなかった。そして、シャーロットが突然、低く囁いた。


死んでおしまいなさいな。


伯爵夫人は言葉もない様子で目を見開いた。その唇は、怒りか、悲哀かで小刻みに震えていた。シャーロットは続けざまに言った。


死んでおしまいなさい、メアリー。辛いでしょう、苦しいでしょう?楽になれますわよ。まあ、あなたが悪いのですけれどね。


シャーロットの顔つきは恐ろしかった。普段と何ら変わらぬからこそ、なおのこと恐ろしかった。私は何も言うことができなかった。彼女に、とっくに敗北していたからだ。私は彼女を正しいと認める他に選択肢を持たなかった。彼女はそれを与えなかった。


伯爵夫人は青ざめ、何か言おうと口を開き、すぐに閉ざした。よろめくようにして広間を去るその背中を、咲き誇る醜い花々が嘲笑っていた。



 それから間もなく、ヤッテモタ伯爵夫人は亡くなった。その死の詳細は、伯爵が明かそうとしなかったのでわからない。しかし、誰もが彼女自らその道を選んだとみなした。そうでなくて、伯爵が真相をひた隠す理由などなかった。


私は戦慄した。再び引き金となったのは、シャーロットの行いだった。死の知らせは、最早驚くにはあたらないが、彼女を微笑ませるばかりだった。彼女はただ、こう言った。


あら。伯爵も、せめて病気だとか嘘をおっしゃればよろしかったのに。


彼女は正真正銘、悪魔になり果てたのだ。私は大人しく負けを認めた自分の愚かさを悔やんだ。しかし、今となってはもう手遅れだった。一つだけ、確かなことがあった。私はそれを一人、口に出して呟いた。


シャーロット、あなたが悪魔なら、私はその呪縛からあなたを解き放ってやらねばならない…



 ―その日、アーダコダ辺境伯邸つきの侍女は、二発分の銃声を耳にした。急ぎ音のした客間に駆けつけると、薄く煙の立ち込めるその部屋には、自らの頭を撃ち抜いた主人の遺体があった。そしてその様を、穏やかに微笑する細君の肖像画が、自らの胸元に空いた穴に気付くことなく見下ろしていたという。

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