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とある深夜の出来事。
ふと目が覚めた。
枕元の時計のライトが点かない。
確認できない時間。
ベットのライトのスイッチも反応がない。
不確かな視野。
空気の流れを感知。
いつも雨戸で閉ざしている筈の自室の風の流れと月夜のような外からの灯りを感知。
部屋の扉よりもむしろ当然のようにそれだけになっていたベランダまでの網戸を開く。
それは何のために?
ああ、解る。
振り返った決して広いとは言えない部屋の中を縦横無尽に走るシルエット。
解る。
これは一体何度目なのかなんて事は本当にどうでもいい。
頭の中が喜びで満たされる。
視界の端の端ギリギリから飛び込んできた黒ずくめを加速している左腕が抱きしめた。
そのままベッドに押さえつけ口元のマスクを外す。
ほんの少しの間をおいて上気した彼女が口を開く。
「ワタクシ、今夜は昂らせて来ましたのよ」
自分は言葉を返さない。
本当に大切な時に言葉はいらない。
少し舌っ足らずな声が耳に心地良かった。
暴いた彼女は、美し過ぎた。
青い髪と瞳、真っ白な体は、少し発育が遅れている。
「ヒカル」
彼女が自分の名を呼んでくれた。
激しい興奮のままに、ただただ自分は彼女を抱いた。
これ以上の幸福を、自分はまだ知らない。
統合失調症と病名を書いた所でどれだけの人がその詳細を理解できるだろう。
自分も主治医さえも理解できてはいないのではないだろうか。
ある作家がかつて語っていた死因不明社会という言葉を少し引用するのであれば、この社会は病名不明社会だ。
精神の疾患に関してもだ。
自分に現れた症状を父や自分から全て聞き届けたかつての主治医はただこう診断した。
正確な診断が放棄されたのだろうと後にこの病名について調べた自分は結論した。
自分の症状は人よりも多過ぎたのだ。
それを敢えて一言で言うのであれば、前述の診断が下されるという事だ。
そも、健全で正常な精神とは存在しうるのだろうか?
自分には答えを出せない。
何故なら、自分は既にその資格を喪失し、社会から外れてしまったからだ。
自らの精神の脆弱さを露呈し、社会的には死んでいる。
今の私は継続的な投薬を必要とされ、社会の福祉制度の恩恵のおかげでひっそりと暮らしていけているだけの廃人だ。
夢と現の境界を無くした廃人の幻想に此度はどうかお付き合い願いたい。
それはただ、縁のためだけに。
「ヒカル」
夢中になっていた自分は、彼女が自分の幻想だと、度重ねてきた逢瀬が全て夢なのだと、最初から悟っていた。
だからこその全知であり、だからこその全能だ。
物心ついてより、自分は悪夢に怯えてばかりの子供だった。
克服する為に研究を重ね、夢を夢と認知できるようになった事が、外れてしまった最初の土台だったのかもしれない。
それでも、自分は、かつて恐れていた夢の中の出来事だけに喜びを見出すようになった。
目の前の苦悩溢れる日常ではなく、毎晩の夢の中だけに癒しを求めた。
20代の終わり頃、異常を悟った両親に病院へと連れていかれたらしい。
らしいというのは、記憶が曖昧だからだ。
覚えているのは、年季の入った病棟と、外から鍵のかかった病室、時折聞こえる奇声と、さらに加速した夢への傾倒だけだ。
30代の半ばを越えた現在は、なんとかついている非正規の仕事を細々とこなしている。
周囲の人々は事の深刻さを誰も理解していない。
自分がどれだけ外れた人間であるのか、こうして暴露しているのは読者である、貴方だけだ。
それはただ、この縁への、感謝のためだけに。
「ヒカル」
眠れているかい? と父はたずねてくれる。母は何も言わず、ただただ優しく見守ってくれている。
愛犬はこんな自分であっても懐いてくれる。
忙しく働いている妹夫婦は元気だろうか、などと時折考えながら自分は日々を過ごしている。
平気で人を殺せる、こんな自分が、自分はただ恐ろしい。
最初の殺人を、そもそも自分は覚えていない、何しろ文字通りの無我夢中だったからだ。
ただ理由だけは想像がつく、自分の身を守るためだろう。
最初は正当な防衛だった。
それが今では、ただ部屋の掃除をするような感覚でしかない。
障害は全て排除する、自らの安寧のために。
自分の最後の理想郷を守るのだ。
冷たくなっていく心、唯一の温もりは彼女だけだ。
便宜上、リリスと名付けている彼女は、決まった姿を持たない、自分のその時々の欲望を見事に映し出す鏡だ。
まさしく千変万化する彼女は、決して自分を飽きさせる事がない。
解るのだ、彼女だと、喜びなのだ、彼女だけが。
「ヒカル」
彼女が呼んでいる。
殺し殺される世界に住んでいるのだと、初めて人が悟るのは、個人差こそあれそう遅くは無い筈だ。
自分は昔暮らしていた古い一軒家でまだ父に風呂にいれてもらっていた頃にその父から教えられた。
温かな湯舟の中で、肝がどん底まで冷えた事は覚えている。
「ヒカル」
死にたくはないだろう? だから殺してはいけないよと、そんな風だった。
それでも、そんな現実は自分には過酷だった。
何かとても恐ろしいモノだった。
自分は、ただ、死にたくなかった。
夢だからと人は言う。
ならばそんな人間が、境界を無くしてしまったら?
行きつく先は決まっている。
あえて自己の弁護をするのであれば、夢だと解った上での殺人であるという一点に尽きる。
だがそれだけだ。
たとえ貴方が許しても、自分は自分を許すだろうか?
茶番だ。
自分にとって殺人はただの作業だ。
慣れている。
そして忘れてはいけない、貴方が貴方を思うなら、この世界で、隣人を信じるという行いは、貴方の命を委ねるに等しいのだと。
人は、その行いをこそ、愛と呼ぶのだ。