え、今更? 手遅れに決まってるじゃないですか
「そういえば今日うちに訪ねてきた人がいるってさっきジャックから聞いたけど、友人かい?」
「いえ、以前お話したでしょう? アレです」
「……あぁ、アレか」
夫であるアシュトンに、妻であるアリシアは思わず苦虫を嚙み潰したような顔をしてこたえた。茶会や夜会でこんな顔をしていたら淑女としてあり得ない、と言われそうな表情だ。「い゛ーっ」と言い出しそうなその表情を見て、アシュトンもまたすぐに思い当たる節があったのか「あー、あれねうんうん成程」みたいなしたり顔をして頷いた。
アリシアはかつてネリシュリア子爵家の令嬢であった。
アシュトンはバリシアン伯爵家の跡継ぎであった。
この二人、貴族によくある政略結婚……ではなく珍しくも恋愛結婚である。アシュトンはアリシアと年が離れているけれど、それでも貴族の中ではまだそこまで年の差があると囁かれるほどでもない。
アリシアには元々別の婚約者がいた。
それが先程この家に訪れてきた人物――グウェン・セルゲイト男爵だ。
グウェンが訪れた時、アシュトンは丁度出かけていたので彼と直接会ってはいないが、彼の事は妻であるアリシアから聞いていた。アリシアはグウェンと二人きりになったわけでもなく、その場には執事であるジャックがいたので浮気の心配もしていない。他にも部屋の外に控えていたメイドたちだっていたのだ、万一グウェンがアリシアを陥れようとしたとしても、この家の使用人たちの目撃証言はたんまりとある。
家の中に招き入れこそすれど、それだって精々がちょっとした客人をもてなすための部屋だけだし、それ以外の――それこそアシュトンやアリシアの私室には招いてさえいない。
使用人たちは万一の事を考えてグウェンが何かをした、もしくはしようとした場合にすぐ対応できるように控えていたに過ぎない。
家の中に入れてやる必要性があっただろうか、とアシュトンは思うものの、一応こちらにも貴族としての体裁だとかがある。いくら相手が事前連絡もなしに突然やってきたとしても、だ。
そもそも、男爵家の人間が伯爵家にそういう事ができるという点でどうなんだろうかとも思えるのだが。本来ならばわざわざ家の中に招いてやる義理も何もないのだ。本来ならば。
「それで、もう十年以上昔に婚約破棄をした相手に今更何の用だったんだい?」
「それがとても馬鹿馬鹿しいお話でしたわ。今更、えぇ、本当に今更やり直せないか、ですって。わたくし思わず鼻で嗤ってしまいましたわ」
アリシアの言い方は憤慨しているというよりは心底呆れたといったものだ。まぁそりゃあそうだろう。
別れて一月だとか三か月だとかならまぁ、気の迷いだったんだとか言い縋る者もいるにはいるが、既に十年以上前の話だ。
かつて若く美しかったアリシアは今は若さこそ失いつつあるものの、それでも年月を積み重ねた若さという言葉では言い表せない美しさがある。アリシアが生来からもつ美しさと、あとはアシュトンと積み重ねてきたもの。そういったものが内側から滲み出ていると言うべきか。
若かったアリシアは勿論可愛くて素敵でそりゃあもう今でも目を閉じればあの頃の姿なんて簡単に思い浮かべられるけれど、今のアリシアだって年齢とともに得た落ち着きだとか、しっとりとした魅力がある。何より、時折若かったころのように茶目っ気のある笑顔なんて浮かべた時には最高にキュートだ。普段上品に笑う表情も勿論アシュトンからすればとても素敵だよと称賛するのは当たり前。
アシュトンからすればアリシアの喜怒哀楽の感情全てが素晴らしいものだし、正直何やっても惚れる以外の選択肢がない。アシュトンはアリシアに出会ったその日から今日まで、いや、これから先も毎日彼女に恋をしている。それくらいには惚れていた。
アシュトンのアリシアに対する溺愛っぷりは正直社交界でもそれなりに話題になっている。婚約破棄された傷物令嬢を妻にするなんてとんだ物好きだな、なんていう嘲笑まじりの噂すら、アシュトンにとってはむしろそんな風に言ってくれてありがとう。そうやって君たちが彼女に何も手出しをしないからこそ僕は彼女と結ばれる事ができたんだ! あぁ、なんて素晴らしいんだろう。こんな素晴らしい女性、本当だったら僕なんて見向きもされないに違いなかったからね。などと自分を卑下しつつも盛大に惚気る始末だ。
アリシアからすれば、アシュトンが自分を卑下する意味がわからない。
だってこんな素敵な人なのに。最初は同情か何かで妻に迎えてくれたのだとすら思っていたのだ。
実際蓋を開けてみればお互いがお互いにもうこの人以外に伴侶はいないと断言できるくらいの熱愛っぷりだった。政略結婚とは縁遠すぎて恋とか愛とかそういう話に飢えてる者たちにはこの二人の存在は眩しいやら毒のように思えるやらで、正直色んな意味で刺激が強い。
きっと二人が年老いてしわくちゃになってもお互いがお互いを愛し合っていくのだろうな、と周囲で見ていてわかる程だ。燃えるような愛はなくとも、穏やかな愛は確かにそこにある。
「それで、また来るのかい。彼は」
「いえ、流石にもう来ないでしょう。流石にこれ以上の醜聞を自ら、というわけにはいかないでしょうし」
「そうか。残念だなぁ」
「会いたかったのですか? もしかして」
「え? だって彼が婚約破棄をしてくれたから、こうして僕はアリシアと結婚できたんだ。君がいてくれる。それだけで毎日がとても幸せなんだ。
そしてその幸せを運んできてくれたのは、彼が君との婚約を破棄したからだ。つまり今の幸せには彼もわずかながら関わっているんだよ。お礼の一つくらいは伝えておくべきじゃないか」
「まぁ、もしそんな事になればグウェンは申し訳なさ過ぎて首を吊りかねないので勘弁してあげてくださいまし。俺のおかげで幸せになれたのならばその分の恩返しをしろ、だなんて図々しくも言える程の度胸もありませんのよ、彼」
アシュトンの言い方がこれまた嫌味たっぷりなものであったならまだしも、どちらかといえばこれは純粋な善意九割といったところだった。そこにちょっとした当てつけ一割といった配合だろうか。グウェンとて一応貴族であるのだから、社交辞令から始まりお互いに謙遜と尊敬を織り交ぜた嫌味の応酬なんてのはよくある話と割り切る事もできるだろう。だが、相手が本心から本当にそう言っている、というのを理解してしまえばきっとグウェンは発狂するのではなかろうか。
これが遠回しにでもきみは見る目がなかったねぇ、そのおかげで僕はこーんなにも素敵なお嫁さんを手に入れる事ができたよやったー☆
みたいな感じであればまだ、まだ負け惜しみの一つくらいは言えたかもしれない。
でも本気で君のおかげで僕は幸せになれたようなものだよ。感謝している。ありがとう。と純粋な感情をぶつけられてみろ。負け惜しみとかここで言ったら完全に本当の負け犬に成り下がるだけではないか。だがしかしここで「そうだろうそうだろう、お前の幸せは俺の上に成り立ってるんだ。感謝したまえはっはっは」とか言うにしたって、道化が過ぎる。どちらにしても惨めさに自分が打ちひしがれるやつ。あまりにも虚しい。
どう足掻いても自分の見る目がありませんでした、と言っているわけなのだから、まぁそりゃそうなるだろうなという話なわけだ。
「夜会でも見かけた事がないから、会える時に会っておきたかったんだけどなぁ」
別にアシュトン本人はグウェンに対して何を思っているわけでもない。恐ろしい事に本当に会って単純にお礼を言おうと思っている。だがもしそんな事をされようものなら、グウェンは貴族としていい笑いものだ。
「まぁ、そんな事を言われてしまえば本当に惨めな気持ちになりかねないのでやめて差し上げたら? 羽虫の羽だけをちぎって捨てるような真似、わたくしはお勧めいたしませんわ」
グウェンの事を思って、というよりはアリシアとしてもわざわざアシュトンがグウェンに関わる時間を少しでもとるくらいならいっそ自分を構え、という意味で放った言葉であったが……彼女も大概である。かつて婚約者だった男を例えであっても羽虫扱い。いやまぁ、捨てられたからこそそうなったのかもしれないが。
アリシアとグウェンは最初から婚約者であった、というよりは、元は家が近くお互いに関わる事が多い――いわゆる幼馴染であった。幼い頃は特になんのしがらみもなく関わっていられた。もとより家の位もそこまで離れているわけではなかったので、しがらみがあったとしても大した問題ではなかったのだ。
幼い頃からずっと一緒にいるうちに、これまたよくある子供同士の「大きくなったら結婚する」とかいうやりとり。両家の両親はそれらを微笑ましく見守っていた。
ある程度成長してからは性別の違いで疎遠になる事もあるが、この二人はそういう事にはならなかった。
成長してもお互いが一番身近な異性である事にかわりはなかったし、夫婦というよりはもう兄と妹のような家族的な関係に近いものがあったけれど、それでも確かに二人の間に好意は存在していた。
そうして本格的に二人は婚約者となった。小さなころの約束は決して子供の戯言とはならず、本当のものになるはずだったのだ。
二人が結婚すれば、両家の繋がりもより強固になる。
グウェンの妹でもあるアネットはこれからは本当のお姉さまになるのね! とむしろ婚約した本人たちより大はしゃぎだった。アリシアの兄グレオも微笑ましく見守っていた。
少なくとも、この時点ではアリシアは幸せだった。
その幸せに翳りが見えるようになったのは、それから間もなくだ。
まずグウェンの父が仕事で別の街へ馬車で移動しているところへ盗賊団が襲い掛かった。生き残りも勿論いたが、その中にグウェンの父はいなかった。かろうじて一命をとりとめた使用人の話では、怨恨の線は薄いと判断されたがそれだけだ。
死んだ父が帰ってくるわけでもない。
グウェンが後を継ぐまでまだ猶予があるかと思われたが、そうもいかなくなった。
アリシアは悲しみに暮れるグウェン一家に寄り添おうと決めていた。だが、今まで二人の婚約に賛成していたはずのグウェンの母の態度がここからおかしくなった。
あからさまに嫌な事を言われたわけではない。けれども、言葉の端々に棘を感じるようになった。アリシアだってこの頃にはすでにデビュタントを済ませていた。だからこそ、それくらいなら気にするようなものではないとわかってはいた。いたのだが、それでも今までそういった悪意を向けるような事のなかった相手から向けられたそれは、アリシア本人も思わぬ程にダメージを受けていたらしい。
アネットの態度は変わらなかったので、アリシアがグウェンの家に何か迷惑をかけた、とかではなさそうだったが母には何か失礼をしてしまったのかもしれない。
けれど、心当たりもなくグウェンに相談してみても彼も何も知らないようだった。
原因がわからないけれど、何故だか嫌われているような気がする、という部分だけがハッキリと感じ取れる状況。何を言っても、何をやっても好転する気配のない現状にアリシアも流石に少しばかり心が滅入りかけていた。
そんなある日、アリシアはグウェンの母からやんわりと婚約を白紙に戻せないか、と話をされた。
どうして。何故。わたくしに何か至らぬ点が……? あったとしてそれに気付けなかった至らなさに申し訳なく思いつつも、アリシアはグウェンの事を愛していた。少なくとも、この時はまだ彼の事は愛していたのだ。幼い頃からずっと一緒だった彼と、きっとこの先も人生を共に歩んでいくのだろうと信じて疑ってすらいなかった。
だというのに、ここで彼の母からの婚約の白紙という提案。
グウェンは知っているのだろうか。知っているのなら、何故言わなかったのか。
そんな不安は勿論あった。けれど、彼の母は緩く首を振った。
「まだ息子には話していないのだけれど。セルゲイト家の遠縁にね、莫大な資産を持っている家があるの。その家には娘がいる。グウェンはその家の娘のうちのいずれかと結婚させたいのよ」
ショックがなかったか、と言われれば嘘になる。
確かにグウェンの父が死んでから、セルゲイト家は少しばかり落ち目になっていた。グウェンが次の当主だとしても、それでも至らぬ点は沢山ある。
馬車で移動していた際に襲われ、同乗していた使用人数名も亡くなっていたし、失った使用人の分を新たに追加しようにも、その頃にはセルゲイト家の資産状況は中々に厳しいものになっていた。アリシアが嫁ぐ際には持参金を勿論用意するけれど、正式に結婚するのはもう少し先の話だったし結婚を早める程の理由はなかった。
グウェンの母はこのままではこの家は没落してしまうだろうと思っていた。セルゲイト家が手掛けていた事業に関してはほとんどグウェンの父がやっていて母はノータッチだった。グウェンが後を継いだとしても今までのようにはいかないだろう。それ含めてアリシアが支えたとしても、それでもたかが知れている。
勿論、自分や息子のこれからの事を心配していたが、それでも更に心配だったのは娘であるアネットだ。没落してしまえば、彼女の今後はどうなる。貴族令嬢として育ててきたまだ幼い少女が、没落していきなり市井で暮らせるだろうか。アネットは気立ての良い子だ。例え周囲が貴族ではなく平民ばかりになったとしても、きっとうまくやっていけるとは思う。けれど、上手くやっていけたとして幸せになれるかまではわからない。
上手い具合に貴族に見初められて貴族の生活を取り戻せるかもしれないし、そうならないかもしれない。平民として一生を終えるかもしれないし、その暮らしは案外楽しかった、なんて感じに終わるかもしれない。
可能性は無数にある。けれど、グウェンの母は生まれてから今の今までずっと貴族であったため、平民の暮らしというものにあまり良い印象がなかった。精一杯生きている平民たちによって領地が成り立っているのは勿論理解しているつもりだ。
けれど、だからといってでは自分たちもその平民の中に交じれるか、というのは別の話だったのだ。
アリシアもグウェンの母のそういった苦悩は薄っすらとであったが感じ取っていた。今までとは違う暮らしに不安に思う気持ちはわからなくもない。
アリシアの場合は住んでいる家を出てグウェンの家に嫁入りするだけではあったが、それでも今までとは違う暮らしになる。今までのようには暮らせない、という部分に若干の不安がないわけではなかったのだ。
とはいえ、それを口に出したりはしなかった。
きっと口に出してしまえばグウェンの母にはそんなものと比べないで! と叱責されたかもしれない。
今までの彼女であったならそんな事はなかっただろうけれど、今は家そのものが不安定な状態だ。精神的にも不安定になるのは仕方のない事なのかもしれない。アリシアだってある日突然父が亡くなって、家が没落するかもしれないなんて事になれば――きっとグウェンの母のように毎日が不安になってどうにかしなければと気ばかりが焦り、余裕なんて一切なくなってしまうかもしれないのだ。
けれど、だからといってグウェンとの婚約を無かったことにするのはアリシアでも受け入れ難かった。家に関してはうちから多少の援助ができないだろうか、なんて考えて、援助ができなかったとしてもそれでも、アリシアは自分でもできる限り支えていこうと思っていたのだ。
家が没落しそうだからさくっと別れて他に行く、という事は考えられなかった。いや、想像すらしていなかった。グウェンの母に婚約白紙の話を持ち出されて、そういう可能性もあるのか、とは思ったけれどしかしそれを自分が、と考えるとどうにもピンとこなかった。
グウェンは一体どう考えているのだろう。
そう思ったアリシアは彼と話をするべく彼の元へ向かった。
そしてそこで、グウェンは既にその家の娘との結婚を前向きに考えているという事実を知ったのだ。
それは酷い裏切りだった。
グウェンなら辛い状況であっても共に困難に立ち向かっていけると信じていた。けれど、グウェンはそうではなかったのだ。
家が没落するかもしれない、というのはグウェンもまた考えていた未来の一つだ。けれど、遠縁の娘とやらと結婚すれば財産は今以上に手に入る。そうなれば没落の危機は免れる。
アリシアとそのまま結婚しても、子爵家の財産などたかが知れているし、その家の持参金などもっとたかが知れている。言い方は悪いが雀の涙程度しかない金でどうにかなるとも思えない。それなら、最初から確実な方を選ぶとグウェンはアリシアに向かって告げたのだ。
そして白紙に同意してくれないのであれば、婚約は破棄するとグウェンは告げた。
この時アリシアにとって不幸だったのは、グウェンと話をするべく彼の所へ向かった先に、彼の友人たちがいた事だ。
その話を聞いていた友人たちはその話を広め、結果としてアリシアは婚約を白紙にするのではなく破棄された令嬢として噂話が広まってしまったのだ。
明らかにセルゲイト家に非があるだろう状況なのに、噂はアリシアにとって不利な方へと傾いた。
家が危険な状況になっているのに助ける事もせずしがみつく惨めな令嬢。
支える事もできず邪魔をするしか能のない娘。
そんな、悪意がたっぷり含まれた噂だった。
これにはアリシアの家族も勿論怒り心頭という状態だったのだが、ここでセルゲイト家を怒り任せに潰すように仕組んだとして、その悪評は余計に広まる一方になってしまう。
この一件で当然二人の婚約は無かったことになった。
そして、ネリシュリア家とセルゲイト家はこれ以降一切の関わりを断つ事となった。
まぁ当然の結果だろう。金をロクに持っていない家と関わりたくない没落寸前の家と、その家に侮辱された家。これで仲良くやっていこうなんてなるはずもない。
その後は悪評混じりの噂のせいで新たな婚約者を探すのも苦労していたアリシアだが、ある時嫌々ながらも参加したパーティーで後の夫となるアシュトンと出会い、アリシアは彼の妻となった。
最初のうちはお互いに歩み寄るのも手探り状態だったが、やがてお互いに相手の事を理解するようになってくるとそれはもう見ている側が最初からこの二人はずっと昔からこんな関係だったのではないか、と思える程に仲睦まじくなっていたのだ。
そこから先は、彼女について回っていた悪い噂も少しずつではあったが減っていった。
そもそもアリシアは別に無能な娘ではない。
むしろ家が危機的な状況になっていたとしても、それでも支えるつもりであったのだ。
そのためにできる事はなんでもやろうという思いすらあった。
もっとも、それらの思いは見事に踏みにじられてしまったわけだが。
けれどもアシュトンの妻として社交界に出るようになってからは、そういった悪い噂も徐々に払拭されるようになってきた。
一瞬で巡った悪い噂は、消えるまでに数年かかってしまったけれど。
その頃にはもうアリシアの中でその噂なんてどうでもよかったのだ。
何故ならその頃にはもう自分を支え愛してくれる夫がいたし、あの噂が事実ではないと信じてくれる友人もできた。更には子も生まれた――となれば、いつまでも過去にこだわっている暇なんてアリシアにはとっくになかったのだ。
あぁ、そういえばありましたねそんな噂。
そういって笑い飛ばせるくらいには、その頃にはどうでもよいものになってしまっていた。
そして、自分を捨てたグウェンの存在もその頃にはとっくにアリシアの中には存在していなかったのだ。
「――それに、夜会などには参加できないのではないでしょうか。彼の家、本当に危なくなって爵位を返上するって話が出ているようですし」
一度くらいは会っておきたかったな、なんて言っている夫にそう伝える。夜会で中々見かけないから、と言っていたが、そもそも訪れたグウェンの話が本当だったのなら夜会になど出られるはずもない。
「えっ、そうなのかい? でも、わざわざ君との婚約を無かったことにしてまでその、財産があるとかいう家の娘と結婚したんだろう?」
「それが……していないようなのです」
「えぇ……? 一体またどうして」
仮に結婚できなかったとして、ではそれならもっと早くにアリシアとの復縁を望んだのではないだろうか。だがグウェンが訪れたのは間違いなく今日の話だ。
彼女にとって悪い噂にしかならない話が広まって、それがようやく下火になって、それから更に年月が経過している。
アシュトンとアリシアの間にもうけた子供はまだデビュタントに出るような年齢ではないが、それだってもうそろそろだ。
やり直さないか、俺たち……なんて言いにくるにはあまりにも遅すぎる。
アシュトンがそう思うのも当然の話だ。
「本当に、彼はやり直さないか、って言いに来ただけかい?」
「あぁ、何か裏があるのでは、と思われるのも無理はありません。ですが本当にそれだけですのよ。同じ部屋に控えていたジャックも間違いなく聞いておりますわ」
そうアリシアが言ったとしても、簡単に納得できなくて当然だろう。アリシアがアシュトンの立場でもそうなる。だからこそアリシアは、彼が来てから出ていくまでの間の話をする事にした。アリシアが言わなくともジャックから報告されるとはわかっているけれど、やはりアリシアの口から聞いた方がいいだろうと思ったのだ。
――最初、訪れた貴族がグウェンであるという事にすぐには気付けなかった。
それどころか訪れる家を間違えているのでは、と思った程だ。
放っておいてもジャックやそれ以外の使用人が上手い事追い返すだろうと思ったのだが、彼の口からアリシアの名が出た事でそっと様子を窺っていたアリシアはようやく彼の存在を思い出したのだ。
覗き見するなんてはしたないと思いながらも、どこかで見たような気がする男だったので気になったのだ。どこで見たのかが思い出せず、もうちょっと見ていたら思い出せるかしら……? なんて思っていた矢先の事だったので思い出した直後は「随分と変わり果ててしまって、まぁ!」というのが率直な感想だった。
本当に変わり果てるという言葉がピッタリだったのだ。
かろうじて貴族であるというのがわかる程度の身だしなみは整えてあったが、それだって平民が精一杯貴族の振りをしていると言い切ってしまえそうなもので。
それにあれからもう十年以上が経過しているのだ。お互いに年をとった。かつての面影が残っていなかったとしてもおかしくはない。
アリシアがグウェンであると気付いてから、彼は懐かしそうにどこか遠くを見るような表情をしていた。かつての思い出にでも浸っていたのかもしれない。
アリシアからすれば、そのすっかり変わり果てた男を見ても懐かしいとは思わなかったのだが。
むしろ何故今ここに? という気分でいっぱいだった。
あれから一切お互いに関わらなかった。そもそもアリシアは嫁いだのでかつての家に行っても会えるはずはない。仮にグウェンが訪れたとしても家を継いだ兄に追い返されていたに違いないのだ。アリシアの嫁ぎ先を丁寧に教えるような間柄ですらなくなってしまっている。
とはいえ、アリシアの行方は探そうと思えば探せない事もなかったはずだ。何せ今は大分大人しくなったものの、かつての悪い噂は僅かばかりに残っていただろうから。そういった噂を知っている者に聞けば、バリシアン家に嫁いだ事を知るのは容易い。
今更一体何の用だろう。
アリシアが疑問に思うのも無理はなかった。
正直家の中に招き入れたくなんてなかったのだけれど、だからといって家の外で話をするのも憚られた。
大声でわけのわからない事をまき散らされれば、また無駄にいらぬ噂を立てられかねない。アリシア本人にだけそういった噂が纏わりつくならまだしも、夫や子供たちにまで被害が及ぶならこちらもただでは済まさない――!! 以前は打つ手もなくやり込められた形になってしまったが、次はそう簡単にいくと思うな! なんて少々ガラ悪く思いつつも、アリシアは執事であるジャックへ簡単に事情を説明し、普段客をもてなす部屋へと案内した。
とはいえ、その部屋も客としてそこまで重要じゃない相手用だ。丁重に扱うべき相手の時は違う部屋に案内している。
ある意味この屋敷の中で一番質素な部屋とも言えるのだが、それでもそこにいたグウェンは浮いていた。
一応貴族とわかるような服装ではある。けれど、それでも何だか随分とみすぼらしく見えてしまったのだ。
この屋敷の中の、特に長く付き合うつもりもないような相手を案内する部屋にいてなお、部屋よりも彼の方が浮いていた。こうしてみるとこの部屋って随分上等なものなんだなぁ、なんてどこか場違いな感想さえ浮かんでしまうほどに。
部屋に案内されたグウェンは、ジャックが持ってきたお茶を美味しそうに飲んでいた。一緒に出されていた茶菓子もパクパクと口に運んでいく。
以前の彼はこういった物はあまり好んでいなかったようだけれど、味の好みが変わったのかしら……などとアリシアは思っていたが、しかし味わって食べているようにも思えない。まるでただ空腹を満たそうとしているかのような……いや、まさか。流石にそれは……
というか、この時点でアリシアはさっさと用件を済ませてほしいとすら思い始めていた。
かつては確かに愛していたはずの人だ。若い頃は彼と生涯共に歩むつもりですらいた。
とはいえ、アシュトンと出会った今となってはあの頃のわたくしは若かったわねぇ……という感想しか出てこないが。
正直今のグウェンを見ても何とも思わなかった。
昔はもっとキラキラしていたような気もするのだけれど。あれももしかしたら若さゆえのフィルターだったのかもしれない。
自分から話しかけるのも躊躇われて、アリシアは黙ってグウェンが用件を告げるのを待った。
何かあったとしても背後に控えているジャックがどうにかしてくれるだろうと思っていたのもあってか、意外と気楽に待ち構えていた。その割に室内の空気は重々しく感じられてしまったが。
紅茶と茶菓子を食べ終えたグウェンは、やや名残惜しそうな目をしていたもののそこでようやく本題に入ったのだ。
アリシアとの婚約を無かったことにした後。
母の言葉に従って彼は遠縁であるというとある家の娘と結婚するべくその家へ向かったらしい。
確かにその家に娘はいた。
いた、のだがその娘たち、三姉妹であったがその誰もがその時点でグウェンの年齢よりもはるかに上であった。
アリシアとアシュトンも年齢がそこそこ離れているが、それでもまだ政略結婚する際の年の差貴族ならまだ常識の範囲内、といった程度だ。
当時のグウェンは社交界デビューを終え、ようやく父の跡を継いで家の当主を名乗る事ができるようになったばかりであった。十代後半、まだ二十歳にもなっていない。
けれど、その家の娘たちの年齢はその時点で長姉が四十代後半、末の妹も四十代だ。正直、グウェンの母親よりも年上であった。
家のための金が欲しかったとはいえ、流石にそこまでは考えていなかったのだろう。
それでも、ここまで来て引き返すわけにはと思ったのか、ともあれこの中の誰かと結婚すれば……と考えたらしい。
だが無理であった。
金持ちの娘、という言葉から想像していたものとあまりにもかけ離れていたのも確かだ。
娘という言葉、そして結婚という単語からグウェンは無意識のうちにその娘たちは自分とそう変わらない年齢だろうと思っていたのだ。
更にはこの時、グウェンはアリシアを捨てたばかり。
アリシアの事は嫌いではなかったけれど、それでも長年一緒にいすぎた。将来の妻というよりはもう一人増えた妹、くらいにしか見れなかったのだ。
家族同然に過ごしてきた。けれど、それが結果としてアリシアの存在を軽んじる事にも繋がってしまった。
要するに少しばかり飽きていた。だからこそ、そんな時に舞い込んできた他の娘との結婚という言葉にふらっといってしまったのかもしれない。
もし、もしもあの時父が死なず、家が傾くような心配もないままであったのならば。
きっとこんな事にはならずアリシアと結婚していたに違いない。
そんな風に後悔しても後の祭りであった。
自分の母親よりも年上の女との結婚。
金目当てであるこちらがとやかく言える事ではないが、それにしたって酷い話だ。
グウェンが貴族として致命的な何かをやらかして結婚相手がマトモにいない、というのであればこういった年の差結婚で無理矢理にでも婚姻させる、というのはあったかもしれない。実際過去にそういった貴族の話はいくつか存在している。
傷物になってしまった令嬢が、実の父や祖父と同じような年齢の貴族の男のところへ後妻に入るようなものだ。だが、女の場合はそういった先でしか受け入れ先がない事が多いが、男の場合はそうでもない。だというのにそういった状況になった、というのはつまり余程の話であるという事だ。
グウェンにそんなつもりはなかったとしても、他の貴族たちは間違いなくそう受け取る話だった。
グウェンの母もまた、遠縁の金を持っている家の話は聞いていた。そして未婚の娘がいるという話も。
しかしそれだけだったのだ。
それ以外の事は詳しく知らなかった。知っていたなら流石にこんな話持ち込むはずがなかった。
貴族として没落寸前の家。それを立て直すには金がいる。だが、結婚相手が自分よりも年上の女だなんて、そんなのと自分の息子を結婚させようなどとは流石に思っていなかったのだ。
それでもここまで来た以上引き返すわけにもいかず、グウェンは三人の姉妹の中から誰かと結婚せねばならない……と必死に思っていたのだが。
無理だった。
年齢差だけではない。
三姉妹は見た目も性格も最悪だった。
若い頃は社交界にそれなりに出ていたらしいが、いかんせん性格が悪すぎて他の貴族たちに相手にされず遠巻きにされ、そこで癇癪を起こして家に引きこもるようになった。外に出る事がなくなると家の中で好き勝手に生活を始め、楽しみは商人を招いての買い物か食べる事。
特に誰かと会うわけでもないために、食事制限なんてものはこれっぽっちも気にせずに好きなものを好きなだけ食べるようになり、そして家の中であまり動かない生活をしていれば当然太る。
若い頃はそれでも代謝が良かったのかそうでもなかったはずの体型は、しかし彼女たちの年齢が三十代に突入したあたりから徐々に増えはじめ四十代になったころにはもうちょっとやそっと動いたくらいじゃ減る気配もないほどにぶくぶくと肥え太っていた。
外に出ないためか肌は白いが、肉がたるみまるで昔物語で見た魔物のようだ、とグウェンは思ってしまった。
これと、結婚する?
誰が?
自分が??
そう認識した途端、眩暈がした。
想像していたのはアリシアよりも美しく、そして財を持つ女性であった。
だが実際はどうだ。
確かに金はある。あるにはある、が……それも彼女たちの両親が残した莫大な遺産であり、それらは現在進行形で姉妹たちが食いつぶしている。
グウェンは軽率にアリシアを捨てる程度には愚かであったが、この女たちのいずれかと結婚した場合の今後を見通す事が出来ない程馬鹿ではなかった。
結婚したとして、間違いなく次は自分が食いつぶされる。
夫として、というよりは使用人のようなものとして。単純にこの家の財産を少しでも長持ちさせるための労働力として。
実際女たちはグウェンを前にしてそうのたまったのだ。
男爵家の男と結婚だなんてあり得ない。けど、どうしてもというのならせめて役に立ちなさい。
それくらいしか価値がないのだから。
それ以外にも聞くに堪えない言葉を放たれ、グウェンは早々にこの話は無かったことに、と告げて逃げるようにその場を後にしたのだ。幸い、館の外に出てしまえば姉妹たちは追ってくるような事はなかった。そもそもあれだけぶよぶよとした肉がついていれば、走って追いかけるのも至難の業だろう。ドレスからちらりと見えた足は、とんでもないくらいに太かった。履いていたのがヒールのあるものだったのもあって、確実に追ってはこない。そう判断したからこその脱走だった。
結婚せずに逃げ帰ってきたグウェンを、最初母は何事かと責めたようだが三姉妹の実態を聞いて流石に驚いた。知っていてそんな場所に送りこんでいたのであれば親子の縁を切る事も辞さない、と思ったグウェンだったが母も噂程度にしか知らなかったらしく、そこは大いに謝られた。
だがしかし、ここでグウェン達親子は困り果てる事になってしまった。
結婚相手がいない。
新たに探そうにも、大抵の令嬢には既に婚約者がいる。現時点で婚約者がいないと確定している令嬢は、あの悪夢のような三姉妹と婚約破棄したアリシアだけだ。
この時にグウェンは流石に後悔したのだ。こうなるのならアリシアとの婚約はやめるべきではなかった。今改めて彼女とやりなおそうという話を持ちかけるにしても、それは彼女の家族が許さないだろう。
婚約破棄をした令嬢をやはりもらい受ける事にした、というのも外聞があまりよろしくない。話の運び方次第では美談に仕立て上げる事もできるかもしれないが、グウェンたちの現在の状況からそれは難しい。
であればアリシアに近づくのは得策ではない。悪評が流れているアリシアには悪いが、下手に動けば今度はそれらの悪評が一気にこちらに傾く。そうなってしまっては没落は確定だ。
しかし、アリシアとそのかつての婚約者という事でグウェンの事もそれなりに知られていたので、新たな婚約者というのは中々見つかるものではなかった。
爵位が上で財産もある令嬢がいれば飛びつきたいくらい切羽詰まっていたけれど、そんな令嬢は大体既に誰かとの婚約が決まっている。
爵位が下であれば探せばいるだろう。けれど、そんな令嬢を迎え入れても家の財政がよくなるでもない。それどころか相手の家と一緒に一気に共倒れだ。
貴族でなくとも、金を持っている商人だとかそこら辺にいい相手がいないか、と探してみたがそういった相手はグウェンを選ばなかった。当然だろう。見るからに負債しかなさそうな家に入って自分の財産を減らす真似、商人がするはずもない。
一度は損をしてもその後大きく取り返せる算段でもあればまだしも、そういったものもないのだ。
悪あがきのように父が遺していった事業に取り掛かりどうにか多少食いつなげる程度には稼ぎはあったが、家はどんどん傾く一方。
そして、その頃には妹のアネットが家を出た。
ある日忽然と姿を消したのだ。
手紙を一通置いて。
内容としては縁を切らせてもらうというものだった。
アネットはアリシアにとてもよく懐いていた。彼女が将来自分の本当の姉になるのだと信じ、そしてそれを待ち望んでいたというのにそれらを台無しにした母と兄への恨み言。家の事を考えた結果、愛より金をとった、というのはまだいい。だがしかし結局兄はあの三姉妹の誰とも結婚する事なく、逃げ帰ってきたのだ。
アネットは怒り、失望し、そして見捨てる事にした。
グウェンが三姉妹の誰かと金目当ての結婚でも本当にしていれば、まだアネットだってそこまでするつもりはなかった。貴族としての務めを果たすために、そうするしかなかったのだと考えて納得するつもりでいた。
しかし実際はどうだ。
アリシアに悪評おっかぶせて婚約破棄までしておいて、結局結婚もせずに戻ってきただけ。家の事業は傾く一方。それでどうしようと今更のように悩むだけ。
アネットはまさか自分の兄と母がそこまで愚かだったとは思ってもいなかったのだ。
今までは父がいたからこそそういった部分が目につかなかったのだと気づいて、自分の見る目の無さに落ち込みもした。
同時にもうあの二人を信用できなくもなっていた。
今はまだ家をどうにかするためにどうしようと頭を悩ませている状態だが、そもそも金目当てで結婚するために婚約破棄までするような身内だ。それが失敗して、次にどう出るかなんてアネットでも想像がつく。
つまり、アネットをどこか金持ちの男に嫁入りさせる、という事だ。
自分は失敗して結婚しないまま戻って来ておいて、しかし自分にはそれを許さないだろうともアネットは考えた。想像がつく。もう後がないとか言ってこっちに全部おっかぶせてくるだろうというのが簡単に想像できてしまった。
冗談ではない。
アネットにはまだ婚約者などいなかったけれど、好きな相手はいた。それは使用人の一人。見習いのような立場であったけれど一生懸命仕事を覚えて早く一人前になろうとしている、見ているだけで心が弾むような、こそばゆくなるような、そんな存在。身分を考えれば勿論彼とどうこうなるのはあり得ない。けれど、アネットはその思いを大事に育てていた。
だがここにきてそんな彼とも離れ、どこの誰とも知れぬ父よりも年上、下手をすれば祖父のような年齢の相手に嫁がされるかもしれない、という考えは大きな衝撃だった。
正直家にしがみつくより潔く没落してしまえばいい、とすら思っていた。
アネットはダメ元で見習いの少年に告白し、彼は彼で驚きながらもそれを受け入れ――結果、駆け落ちする事になった。
探さないでください。もっとも、探すために費やす資金などもないでしょうけれど。
というとても嫌味溢れる一文の下に、自分が懸念したあれこれを書き連ねてアネットは家を出たのだ。
自分がどこか、酷い相手のところに無理矢理嫁がされるかもしれないという考えを抱いていた、というその文に、そこまでは考えていなかった母は大いに取り乱した。そこまでするつもりはなかった。だが、娘にはそう思われてすらいなかったのだ、というのを知って、母は取り乱した後、一気に年を取ったように老け込んでしまった。
この時点で爵位を返上していれば、良かったのかもしれない。けれどこの状態の母を平民にするのは、精神的にトドメを刺す事になるのではないか、と思って結局グウェンはその選択を選ぶ事ができなかった。
どうにかして働いて領地経営を行っていたものの、グウェンには父ほどの才覚はなかったのか常に経営状況はギリギリだった。
没落寸前だというのに未だにしぶとく貴族にしがみついている――そんな風に嘲笑されるようになった。それがたまたま出た社交の場で、ロクに関わりのない貴族であればまだしもそう言い出したのはよりにもよってかつての友人たちであった。いや、もう向こうは友人だとすら思っていないのだろう。領地の事でいっぱいいっぱいだったけれど、そういや最近は全然連絡も取らなくなってしまっていた。だからこそ、だろうか。
気付けばその頃にはもう頼れる人物なんてもの、グウェンの周囲には誰もいなくなっていた。
一体自分は何をやっているんだろう。
長い年月が経過して、そうして残されたのは年々傾いてそろそろ領民が暴動でも起こすのではないかという領地と、陰でコソコソどころか隠す様子もなく嘲笑される現状。老いた母。
気付けば思い描いていた未来からは随分とかけ離れてしまっている。
一体何が悪かったのだろう。
金に目が眩んだ事だろうか。
それともあの時我慢して三姉妹の誰かと結婚しなかったことだろうか。
はたまた、さっさと爵位を返上しなかった事だろうか。
アリシアとの婚約を破棄した事だろうか。
過去に対して悔いているうちに、そこでふと思い出したのだ。
アリシアというかつての最愛だった存在を。
もし、もしアリシアと結婚していたのであれば。
きっとアリシアならば自分を支えてくれただろう。
今はどこにいるかもわからないアネットだが、アリシアが戻ってくれば何かの拍子にひょっこり帰ってくるのではあるまいか……
そんな風に考えていくうちに、アリシアさえいれば何もかもが上手くいくのではないか、と思い始めてしまっていた。
彼女が今どこでどうしているのかをグウェンは知らなかった。
知ろうとも思わなかったしそもそもそんな余裕もなかったのだ。
けれども彼女の存在を思い出してからは、とにかく彼女が戻ってくれば何もかもが上手くいくような気がしてしまって。
今更彼女の家には顔を出せない。いや、家に行こうと思えば行ける。何せ隣の領地だ。ちっぽけなうちの領地と比べて向こうは順風満帆に見えるし、そのせいで領民の不満が余計に溜まっている。ここから出て他の土地へ移り住む者も増えつつあった……
彼女の生家へ行ったとして、彼女の家族が教えてくれるはずもない。もしかしたら同情して教えてくれるかもしれない、とどこまでも自分に甘い事を考えてしまったが、恐らくそれはないだろう。そうであったらいいとは思うが、彼女の家族がそこまで甘いとは思えない。グウェンとアリシアなら、彼女の家族だ。当然アリシアの味方なのだから、グウェンに教える可能性は限りなくゼロだと考えるべきだ。
そう思ったからこそ、グウェンは他の伝手を使いどうにか調べる事にした。
知ったのはほとんど偶然だった。
商人とのなんて事のない会話の中で、本当に偶然知る事になった。
そうなってしまえばいてもたってもいられなくなって――
そうして、グウェンは何の連絡もなく突拍子もないままにアリシアの嫁ぎ先であったバリシアン家へとやって来たのだ。
お互いに年を取った。だが、久しぶりに見たアリシアはそんな年を取ったという事実をあまり感じさせる事もなく美しいままだった。いや、自分が草臥れたからこそ余計にそう見えるのだろうか。
ともあれ、最近はめっきり口にする事もなくなってしまった嗜好品である紅茶や茶菓子を出されたので、ついついそちらを堪能してしまったが、グウェンは彼女に告げたのだ。
俺たち、やり直せないか――と。
だがそれに対する返答は――
今更何を言っていらっしゃるの? もう手遅れですよ。
グウェンだって薄々気付いてはいたはずだ。
けれどまだ、それでもまだ望みはあるのだと信じていたかった。
アリシアならばきっとまだ、自分を愛してくれているのだと。
だがアリシアの返答はあまりにも当たり前のものだ。
婚約を無かったことにした直後であれば、まぁ、元に戻れたと思う。一時の気の迷いだった、と言ってしまえば済む話だ。けれどもあれから何年経っていると思っているのだ。
あれからアリシアはアシュトンと出会い結婚し、既に子も生まれている。生まれたばかりではない、デビュタントを控えたもうじき成人として扱われるような年齢の子だ。それも二人。
アシュトンと出会う前ならば、紆余曲折あったけれど元鞘に戻りました、で良かったかもしれない。
だが既にアリシアの中ではグウェンは過去の存在なのだ。
グウェンの事が好きだった若かりし頃の自分はもういない。
今のアリシアはアシュトンの妻であり、二人の子の母でもあるのだ。
夫も子も愛している。
それらを捨てて過去のものとなってしまった相手のところへなど、行くはずがない。
そもそもアリシアは物ではないのだ。
かつて捨てた存在が、いつまでも捨てた場所にあるなんて何故思うのだろう。
ゴミとして捨てた物だってすぐに引き返せばまだ拾い直せるけれど、それだってやがては回収されてしかるべき場所で処分されるというのに。
元々ほとんどグウェンに対する感情なんて残っていなかった。婚約を破棄され更には自分にとって悪い噂が流れた時点でグウェンに対してあったはずの好意はほぼ残っていなかった。きっと今頃お金持ちの娘と結婚して傾いた家をどうにかしているに違いないと思っていた。
今のアリシアならばそれを調べようと思えば簡単にできたのだが、あえてそれはしなかった。
そうする必要を感じなかったというのもあるが、そこまでしたくないという思いもあった。
知ろうとするその時間も、知ってしまった後の事も、なんというかグウェンに関する事でわざわざ時間を消費したくないと思ってしまったからだ。
関わらない。
関わりたくない。
関わろうとも思わない。
それが、アリシアのグウェンに対する思いだった。
今も尚アリシアに対する悪い噂を振りまいているようであれば、どうなっていたかはわからない。だがその場合はアシュトンが手を打っていただろうとも思う。
一時期さも事実のように語られていた悪い噂は今ではもうほとんどない。そういえばそんな噂もありましたわね、なんて大抵の者はもうその話に見向きもしない。アシュトンと共に社交の場に出るアリシアを見ていれば、噂が本当かそうでないかなんてやがてはわかるからだ。真偽不明であればまだしも、ハッキリとわかりきった嘘の話で盛り上がるのは一部の品性が劣った者だけだ。大抵はそれよりももっと有益な話をする。
噂にあったような女ではない、と少なくとも自分の周囲にいる者たちにはわかってもらえたので、もうアリシアはグウェンに関する件は終わったものだと見なしていたのだ。
アリシアにとっては何もかもが終わった話。
だから今更過去の思い出だったものがやって来ても――
精々がちょっとした感傷に浸るだけだ。縋ろうなどと思うはずもない。
グウェンの事が好きだった過去。あの時は確かにキラキラと世界が輝いて見えていた気がする。
けれどもそれは既に遠い日の思い出だ。
そして今、アリシアは充分すぎる程に幸せだった。
だというのにわざわざ過去の思い出に縋るはずもない。
アリシアがグウェンに告げたのは、彼女の心情というよりは単なる事実でしかなかった。
けれどもその事実こそが、グウェンを打ちのめしてしまったらしい。
そこで更に追い縋ろうにも、その場にいたのは二人だけではない。執事であるジャックもいたし、部屋の外では他の使用人たちも控えていた。下手な事をすればすぐさま行動に移る者たちがいるという時点で、グウェンにできる事なんてほとんどなかったのだ。
すごすごと出ていったグウェンの背中。
それが、アリシアが最後に見た彼の姿であった。
グウェンが訪れてから出ていくまでの一連の話を聞いて、確かにそれならもうここに彼が来る事はないだろうなとアシュトンは理解した。厚かましくもこれから先何度も訪れるようなら、もしかしたら優しいアリシアは絆されるかもしれない。とはいえそれは野良犬に向ける同情心程度のものだろうけれど。だが、それでもアシュトンからすればいい気分はしない。アリシアが自分を捨てるとは思っていないが、それとこれとは話が別だ。
あまりにも目に余るようであれば没落寸前とはいえあの家にトドメを刺さねばなるまい、とアシュトンは穏やかな笑みを浮かべアリシアの話を聞きながらそう考えていた。パッと見お人好しが服を着ているように見える彼でも、それでも貴族なのだ。自分を脅かすかもしれない存在をいつまでもそのままにしておくつもりはなかった。
とはいえ、アリシアの話を聞く限りグウェンはもうこちらに関わってはこないだろう。関われば関わっただけ、己の惨めさを突き付けられる事になる。それに、没落寸前の男爵家が伯爵家相手に下手な事をすれば、どうなるかなんて考えるまでもなくわかるだろう。それすらわからなくなるほどに落ちぶれてしまえば、あとは適切に処分するだけだ。
アリシアは関わるつもりもないようだったが、アシュトンは違う。
彼は妻にも内緒で密かにグウェンの事を調べていた。
グウェンの母が言った遠縁の金持ちの娘というのも勿論調べた。
確かに金を持ってはいるが、親が遺したものであってあの三姉妹にそれらを運用する能力はない。あと数年は今の生活レベルを落とさず生活できるだろうけれど、たった数年だ。今のままでいけばむしろ老後はその日食べる物にも困るだろうとアシュトンは思っている。
それに、三姉妹の親が亡くなった事で既にあの娘たちは貴族ですらない。あの家は一代限りの爵位を賜ったに過ぎなかったので。誰か一人、グウェンと結婚し嫁入りしていればその娘だけは男爵家の人間を名乗れただろうけれど、金目当てに婿入りしようとしていたのであれば、もし結婚していたならばグウェンは平民になっていたはずだ。
そうなれば男爵家は他に跡を継ぐ者がいなければ当然取り潰し。当時はまだアネットがいたが、その彼女も既に家を出て遠い地にいる。
こちらもアシュトンは調べた結果居場所を突き止めているが、彼女はどうやら平民として案外たくましく生活しているようだ。貴族に返り咲こうとは思ってもいないようなので、遠からずセルゲイト家は消滅するだろう。
グウェンが今はまだどうにか足掻いているものの、それだって限界ギリギリだ。
恐らくは近日中に彼は爵位を返すのだろうと思われる。
正直貴族だといっても今の生活は限りなく平民のようなものだ。平民になったとして、彼の生活が大きく変化する事はないとアシュトンは予想する。いやむしろ現状を維持しようとしても緩やかに下がっていくのが目に見えていた。
行動力はそれなりにあるくせに決断力がない、というのがグウェンに対するアシュトンの感想だった。
母の言葉に従って金目当てでアリシアとの婚約を無かったことにしたくせに、肝心の娘との結婚は結局しないまま。その時点でアリシアに復縁を迫ればもしかしたら叶ったかもしれないが、彼とその友人が振りまいた悪評が原因で接触する機会を得られず。いや、その時点でそれでも誠心誠意謝罪をすれば優しいアリシアならば許した事だろう。だが彼は保身に走った。
彼が父から突然継ぐ形となった事業だって、似たようなものだ。
決断するべき場面で迷い、ずるずると様子見として時間をかけているうちにどんどん状況は悪くなる一方だったのだから。
そうしていざ行動に移した時には大体手遅れ。
アリシアに関しても、事業に関しても。
セルゲイト家がかろうじて所持している小さな領地は爵位を返還した時点で恐らくはすぐ近くのネリシュリア家が手に入れるだろう。ネリシュリア家の現当主、アリシアの兄グレオ。
アリシアには内緒だが彼にはアシュトンが調べた情報の半分を流してある。
それらを上手く使ってくれるだろうとアシュトンは信じている。彼は、グウェンと違って優秀な男だ。
数日後、新聞にてセルゲイト家が爵位を返還したという記事を見て――あまりにも予想通りだったなとアシュトンは鼻を鳴らした。アリシアにこの件を知らせるべきか悩んだが――結局のところ彼はそれを知らせなかった。
何せ二人の子のデビュタントが近い。妻は今二人のドレスをどうするか、楽しそうに二人と話し合っている。そんなところにこんな話題は水を差すだけだ。
だからこそアシュトンは新聞を丁寧に折りたたみ、処分しろとばかりに控えていた使用人へ手渡した。
そうして何食わぬ顔で自分もまた妻たちの会話に交ざるのだ。
その後のグウェンに関して知る者は、少なくともバリシアン家の中には誰もいなかったのである。
何故ならもう終わった話なので。